「宝くじ」は、「誰かが当っている」という事実から、次は自分の番かもしれないと空想や期待をふくらませる。
銀座にある宝くじ売り場の行列は有名。一等の当り券がよく出る店であり、夢に限りなく近づける場所だ。とはいえ、当選に見合うだけ、大量に売っているからだろうけど。
どんな人たちが並んでいるのだろう。毎年、大型の宝くじのたび来ているのだろうか。大金が腐るほどあれば、私もこの列に紛れ込んでいたかもしれないけど。
「宝くじが当ったら」という話題に、何に使うか?とか、 ひと(他者)に話すか?といったものがある。昔は、鉱物採集で遠隔地に行くのに便利なキャンピングカー欲しいなんて思い描いた。ひと(他者)に話すのは危険などと思ったが、すべて妄想。そして今は、出歩く距離が縮まったせいで、宝くじ売り場に行くこともない。一等当選の夢を見ることもない。
宝くじは、落語「芝浜」のような人情のあるよい出会いをするわけじゃない。ありがたみも分からぬ大金は、結局身を持ち崩すんじゃないかと、見上げながらも止めとこうと思うのであります。