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2022年12月12日月曜日

狐は冬の季語

キツネ(狐)」が、冬の季語という。寒い北国に生きるキツネたちの生態が浮かんでくる。北海道に棲息する「キタキツネ」の写真集(竹田津実氏が撮影したキタキツネの親子の情愛を撮った写真)が、以前、話題になったことがある。竹田津氏は、獣医師の仕事の傍ら、北の原野でキタキツネの行動を撮影した。ちなみに鳥でいえば、愛らしい目をしたまるで白い菓子姿のような、「エナガ」の北方系亜種「シマエナガ」の写真集(小原玲氏などによる撮影)だろうか。

(本ブログ関連:”キツネ”)

さっそく「合本 俳句歳時記」(第三版、角川書店)の「狐」の項を見ると、次のように記してある。
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・・・ 十二月下旬から一月ごろに交尾し、四月ごろ三-五頭の子を産む。北海道には北狐が生息する。「きつ」は狐の古名で「ね」は美称ともいわれる。
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(参考)「日本の文化における狐」Wikipedia

他方、狐の読みについて、「来つ寝(きつね)」を源にしているという語りがある。以前のブログにも記したことだが、「日本霊異記」上巻第二話に、狐を妻として子を産ませた・・・、次に再掲する。
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古代の欽明天皇の時代に、嫁探しに出かけた男が女と巡り合い結婚する。一男をもうけたが、実は女は狐の化身であり、飼い犬に気付かれその身をあらわにしたのを見て男は、「汝と我との中に子を相生めるが故に、我は忘れじ。毎(つね)に来りて相寝よ」という。ゆえに、また来て寝ることから、妻に「来つ寝(きつね)」の名がつく。
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(本ブログ関連:”来つ寝(きつね)”)

キツネと人との関係は、人をだましたり、農業神の使いとしての稲荷信仰だけでなく、異類婚姻譚といった男と(異類としての)女との関係まで幅広い。異類婚姻には断絶といった越えられぬ悲しみさえ感じる(上記の日本霊異記にはそれを越えるものがあるが、人目を忍ぶ二人だけの秘匿した契りかもしれない)。

このブログでは素人テーマであるが、狐について、歌手イ・ソンヒの歌「狐の嫁入り(여우비)」からキツネにまつわる奇譚とかキツネの家畜化まで広く話題を渉猟している。一点深く追求するには息がないため、あちらこちらへと関心が飛んでいく。

2016年11月16日水曜日

長谷川時雨 「春宵戲語」

イ・ソンヒが歌った、テレビドラマ「僕のガールフレンドは九尾狐」のOST以来、狐にからめた話題を渉猟している。

(本ブログ関連:””、”僕のガールフレンドは九尾狐”)

長谷川 時雨(はせがわ しぐれ、1879年[明治12年]10月1日~1941年[昭和16年]8月22日)の掌編に「春宵戲語」があって、狐の伝説が縷縷綴られている。信田(しのだ)の森の<葛の葉狐の傳説>、陽光がさしていながら薄い雨が降る<狐の嫁入り>、「霊異記」の<つ寝=きつね>とその後日談、中国の金時代の<樹を伐る狐>などの伝説について、幼時の思い出を含めて随想している。

特に興味深いのは、「霊異記」の<つ寝>の後日談で、心に沁みる悲しい別れをした夫婦に残された子(岐都禰=きつね)の末裔が、なんと間逆の存在になっていて、成敗される部分を抜書きする。安易な同情心は、いずれかなわぬこと。そして自問のない正義の軽さと危うさを考えてみたくなる。歴史は正義の奪い合いかもしれない。

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■ 信田の森の<葛の葉狐伝説

■ 陽光がさしていながら薄い雨が降る<狐の嫁入り

■ 「霊異記」の<つ寝
(この伝説に後日談があり、狐に戻って去った妻との間にできた子の末裔が悪さをして懲らしめられる話しだ)

・・・そこで、この野干(≒狐)の生んだ子を岐都禰(きつね)といふ名にし、姓を狐の直(あたひ)とした。其の子が大變な力持で、走ることの疾さは鳥の飛ぶごとしとある。そして三野國(=美濃国)の狐の直らが根本はこれなりとあるが、これは諸書にも引かれてゐるであらうから かなり知られてゐるかもしれない。ただ面白いのは、この後日談があることだ

 それはこの、力者(ちからもち)の狐直(きつねのあたひ)の四世の孫にあたる、大力女の、力くらべの話で、しかも、この狐の子孫の方が、一方の、まじりなし人間種(だね)の力持ち女に負けた話なのである。わたしが子供のころ、イツチヤイツチヤ、イツチヤナ、とか唱へながら角力をした、女力者の見世ものがあつたが、どうして一三八〇年位も前の、この二女力士のすさまじさに競べやうもない。なにしろ、負けた方のが百人力といふのだから話は大きい。上野動物園のお花さんいどころではない。

 聖武天皇の御代に、三野の國 片縣(かたあがた)の郡、少川の市(まち)に住んでゐた、百人力女が、前の犬に追はれた岐都禰の末裔だが、おのが力をたのんで、往還の商人の物品を盜む。そのことをきいて憤慨したのが、尾張の國愛知郡、片輪の里の一女流力者 ・・・・ ちよつとここではさんでおくのは、前の狐女末裔は大女、この正義の女史は小女です。この小女力者、大女力者を試すのに、蛤(はまぐり)五十斛を捕つて、船に載せてゆき、少川の市に泊つた。よし來たとばかりに奪とりにいつたのが大女、昔から女でも總身に智惠がまはらなかつたと見えて、小女女史が豫備に熊の葛練りの鞭を二十段も隱し持つのを知らなかつた。

 狐氏の大女は蛤を盜つて賣らしてしまつてから、何處から來たといつた。蛤主不答。四度目にはじめて答へたが、來しかたを不知(しらず)とやつたので、狐氏の大女が、不禮者とばかり蛤小女を打つた。一つぶたせて二の手を待つて、待つてゐましたとばかりその手を捉へ、熊葛鞭(くまくずむち)でピシリとやつた。鞭に肉が附いてきたといふその勢ひで、もひとつ、もひとつ、もひとつ、十段の鞭、打つに隨つてみな肉着くといふのだから、狐氏の大女も音をあげて服也(ふくすなり)、犯也(おかせしなり)、惶也(をそるるなり)、とあやまつてしまつた。蛤小女その時昂然として、自今 此市(このまち)に強て住まば、終に打殺さん也と威(おど)したところ、狐氏大女も殺されては堪らぬと逃げたので、彼市(まち)の人總て皆悦んだといふ。

■ 中国の金の時代の<樹を伐る狐
※  岡本綺堂
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2013年4月22日月曜日

(資料)きつね

日本霊異記」上巻第二話に、狐を妻として子を産ませた話しがある。古代の欽明天皇の時代に、嫁探しに出かけた男が女と巡り合い結婚する。一男をもうけたが、実は女は狐の化身であり、飼い犬に気付かれその身をあらわにしたのを見て男は、「汝と我との中に子を相生めるが故に、我は忘れじ。毎(つね)に来りて相寝よ」といった。ゆえに、また来て寝ることから、妻に「来つ寝(きつね)」の名がつく。

上品な薄紅色の裾(すそ)を引きつつ来た妻も、やがていずこかへと去る。それを偲んだ男は、「恋は皆我が上に落ちぬ たまかぎる はろかに見えて去(い)にし 子(=あのかわいい人)ゆゑに」と歌った。これは、消え去った妻への思いを夫が歌ったものであり、人形浄瑠璃の「葛の葉」に見られるように去り行く妻が残す、「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」とは逆だ。

日本霊異記のこの説話の最後には、彼ら(人と狐であるが)二人の間の息子の名と、その一族の姓の由来について書き加えられている。「葛の葉」で残された子が安倍晴明であるように、子孫を残す意味があることに、両説話には共通性がある。狐に、そのような時間をくだる霊力があって、信仰につながるのも分かるような気がする。

(本ブログ関連:"クミホ"、"(資料)「山海経」中の九尾狐のこと"、"お稲荷さんと油揚げ"、"玄翁(げんのう)"、"九尾の狐"、"豊川稲荷東京別院散歩"、"狐の嫁入り"、"府中市郷土の森博物館")

2025年4月9日水曜日

(資料)八百比丘尼

先日(1/27)のブログに、「椿(ツバキ)」の分布と八百比丘尼の関係について、柳田国男が「雪国の春」で「(福井県)若狭の八百比丘尼(仏教の尼僧)のごとく、玉椿の枝を手に持って、諸国を巡歴したという旅人はあったのである」と述べたことを記した。

(本ブログ関連:”八百比丘尼”)

そこで、まず八百比丘尼についての思い出を記したい。八百比丘尼を初めて知ったのは、NHKのテレビドラマ「女人幻想」*(1972年)の現代劇を見てのことと思う。主演の佐藤友美(1941年10月8日~)は、八重歯が印象的な女優で、日本人にはそんな歯並びが好まれる**。それに、ちょっと擦れ声した(いわゆる妖艶さとは違う意味での)ハスキーボイスも魅力的だった。
(*)「女人幻想」(1972/02/26、22:10-23:40、番組表): テレビドラマデータベース
    ー http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-13062
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不老不死の女性八百比丘尼の伝説を下敷きに時空を越えた愛を描く。【以上、文・のよりん】突然失踪した妻の行方を捜す若い医師と、彼につきあって旅に出た作家がたどる怪奇な旅。
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(**)八重歯について、以前、韓国語の教室で、日本人の歯並びを口にした者がいた。日本人が八重歯を好む(愛らしく感じる傾向がある)のを不思議がっていたので、こんな例を伝えた・・・それは中東・北アフリカの羊市場で、買い手が商品の羊を品定めするとき、唇をめくり歯並びを確認(重視)すると。日韓の歯並びに対する視点の違いを、朝鮮の場合、高麗時代に長くモンゴルの支配下にあったからではないかと仄めかしたわけで・・・それを聞いた発言者は黙ってしまったことがあった。

さてドラマに戻ると、場所を変えて現れる或る女性を追い続ける、追慕を描いた不思議な印象を受けたが、物語の展開をつぶさに記憶に残していないのが残念。


以下、八百比丘尼に関する資料を探した

■ 鳥取短期大学研究紀要 (46), 21-38, 2002-12-01  ← 論文としての調査報告(都道府県別一覧表がある)
「八百比丘尼伝說 一 山陰を中心にその伝承の種々相を考える一」(酒井董美(ただよし))
    ー https://cygnus.repo.nii.ac.jp/record/276/files/bulletin46_03.pdf
以下「要旨」から:( )内の用語は論文内に記述のもの
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わが国には「八百比丘尼」に関する伝説が多く,27都府県にわたって存在している・・・
要旨は,漁師たちが竜宮に招かれて,人魚の肉を料理に出されるがだれも食べないたまたま一人がそれを持ち帰り,そこの娘(未婚女性)が食べたところ八百歳の長寿を得,しかも容姿は若い娘のままである娘は比丘尼(仏教への帰依)となって諸国を行脚し,植樹をしたり橋などを建立したりするが,最後は若狭の国で入定するというのが一般的な形である.本稿ではこの説話と「浦島太郎」の説話を対比(浦島伝説の方が古い)させながら,人々の長寿を願う気持ちを背景に,祖霊信仰を踏まえて成立したものであることを,民俗学の立場から考察したものである.
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上掲論文は、東大寺の二月堂で春に行なわれる「修二会(しゅにえ)」の法会の行事「お水取り」との関係を説明している。八百比丘尼が入定したという、若狭の小浜から「若水」が送られる「お水送り」に何かの象徴を感じる・・・以前数度、東大寺のお水取りに、火の粉をかぶりに行った覚えのある者にとってハッと驚く。

Youtube(登録: おどろ寺子屋)八百比丘尼の物語を名調子に要約されている。
「【怖い伝説】八百比丘尼〜人魚の肉を食い不老長寿・不老不死となった娘〜怪談朗読」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=4MKP882Bq5I

Youtube(登録: 福井県小浜市の公式チャンネル)
「八百比丘尼物語」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=m0VAkOJYW5E

百目鬼恭三郎著「奇談の時代」(朝日新聞社(出版))
① 「不死伝説」として、室町時代に記された八百歳の老尼に記録(下記、柳田国男が記す「臥雲日件録(がうんにっけんろく)」)より始まる。ただし、見世物的要素があり「ウサンくさい」としている。他に長老の人物(痴呆)を利用した例があるという。
② 同様に柳田国男も触れている、林羅山が若いときにこれに関心を持ったということに触れている(まあ、合理主義者の林羅山が興味を示したといえば、ちょっと耳を傾けたくなるわけで・・・)。

柳田国男著「雪国の春」の「若狭の八百比丘尼の物語」(「青空文庫」より)
    ー https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
① 親が手に入れた人魚の肉を娘が食ってしまい、八百比丘尼となる構図である。 
② 八百比丘尼は日本各地を巡りながらも、その終結点として若狭の地があげられる。
③ この伝承は、「発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であった」としている。

<人魚の肉>
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 前に申した若狭の八百比丘尼の物語は、・・・ 足利氏の中期に、若狭に八百比丘尼という長生の婦人ありしことは、すでに馬琴の『八犬伝』によってこれを知った人が多いが、少なくとも当時その風評は高く、ある時は京洛の地に入って衆人に帰依せられたことは、文安六年五月から六月までの、『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』や『康富記(やすとみき)』、もしくは『唐橋綱光卿記(からはしつなみつきょうき)』など、多くの日記の一致するを見れば疑うところはないのである。ただしいかにしてそのような長寿を得たかは、これらの記録には何も見えず、林道春(追補:林羅山)が父から聞いたといって、『本朝神社考』に書いたのが一番に古いが、これとても『清悦物語』の出現よりは前であった。すなわち昔この比丘尼の父、山中にして異人に逢い、招かれて隠れ里にいたる。人魚の肉を饗せられてあえて食わず、これを袖にして帰りきたるを、その女食いて長寿なりといっているのがそれである

 同じ話はまた『若狭郡県志』、『向若録』などにも出ている。この方では父は小松原という村の人で、海に釣をして異魚を獲たのを、娘だけが食べたということになっている美しい女性のいつまでも若いのを、「人魚でも食ったのか」という習いは、今でも諺のようになって残っている。基づくところかくのごとく久しいのである。・・・しかるを本人は怪しんであえて食わず、かえって無邪気なる小娘が、その恩恵をもっぱらにしたということは、話の早くからの要件であったと見えて、現に『清悦物語』でも同行者の一人がこれを持ち帰り、その女のこれを食うた者がつい近ごろまで存命であったと、不必要に問わず語りを添えているのである。『塩松勝譜(えんしょうしょうふ)』には常陸坊海尊、衣川にて老人に逢い赤魚をもらって食った。その婢女もまたこれを分ち食したとあるのは同じ話である。

 桃井塘雨(ももいとうう)の『笈埃(きゅうあい)随筆には、今浜洲崎という地に異人来り住み、一日土地の者を招いて馳走をした。人の頭をした魚を料理するのを隙見して、怖れて食う者もなかったが、ただ一人これを懐にして帰り、その妻知らずしてこれを食ったという話を載せている。これは疑いもなく寛永二年の隠岐島紀行、『沖のすさび』のまる写しであって、彼には伯耆(ほうき)弓浜の洲崎の話となっているのを、今浜洲崎と改めて若狭まで持ってきただけである。味は甘露のごとく食し終わって身とろけ死して夢のごとく、覚めて後目は遠きに精しく耳は密に聞き、胸中は明鏡のごとく顔色ことに麗わしとあって、ついに生き残ってしまったのである。七世の孫もまた老いたり、かの妻ひとり海仙となりて山水に遊行し諸国を巡歴して若狭にいたり、後に雲に乗りて隠岐の方に去れりとも記し、すなわちこの島焼火山その他の所々の追跡を説明しているのである。人の妻とある例はこれがただ一つであるが、海仙となって諸国に遊んだというのが、何か海尊仙人の口碑と因縁あるべく思われるただしこの話は九州を除くの外、ほとんど日本の全国に分布し、しかもたいていは同じ由来談を、若干の差異をもって説いているので、すなわち平泉の清悦の奇怪談が、必ずしも一人や二人の与太話よたばなしでなかったことだけは、もう十分に証明せられるのである。
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<八百比丘尼の事>
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 しからば人魚の効能と『義経記』との関係やいかん。それを考えるにはなお少しく類似の例を列挙してみなければならぬ。若狭の方面には『沖のすさび』のほぼ同じころに、貝原益軒(かいばらえきけん)の『西北紀行』があって、忠実に土地の所伝を録している。小浜の熊野山の神明社に、そのころはすでに比丘尼の木像と称するものがあり、しかもその由来記はまた別箇の趣を具えていた。昔この地方に六人の長者、おりおり集まって宝競べの会を催していたが、その一人人魚を調味して出したのを、五人の客疑って食わなかった。それから家に持ち帰って少女が食ったという段は、すべて他の例と一つである。

 佐渡では羽茂はもちの大石という村でも、八百比丘尼この地に生まると説いている。やはり異人饗応の話があり、人魚の肉によって千年の寿を得たのだが、その二百歳をさいて国主に譲り、女自身は八百歳に達した時、若狭に渡って死んだと伝えている。『播磨鑑』では私などの郷里神崎郡比延村に、この比丘尼は生まれたと主張する。これも八百になって比延川に身を投げたともいえばあるいは今一度人魚を捕りに、明石の浦へ出かけたまま帰ってこぬなどともいうのである。土佐国でも同じ人の海に入った話、その他いろいろの遺跡はあるのだが、人魚に関係せぬものはすべて省略する。『西郊余翰(さいこうよかん)』巻一に、土佐高岡郡多野郷の賀茂神社にある八百比丘尼の石塔の事を記しているが、白鳳(はくほう)十二年という大昔、この海辺に千軒の民家があった時代という。七人の漁翁が人魚を捕って刑に処せられた。七本木というのがその古跡である。村に一人の医者があって、ひそかに一切れの肉を貰い受けて、自分の娘に食わせると、すなわち後の八百比丘尼になった。三百年を経て一度帰り、この石塔を建てたともいい、あるいは死んだ後に若狭から届いてきたともいうが、人魚を食ったという証拠にはならぬのである。

 関東諸国ことに東京の周囲にも、この比丘尼の栽(う)えておいたという老木が多く、下野にも上総にもいろいろの遺跡はあるが、人魚の話はまだ聞いていない。しかも海もない美濃などにも、やはり麻木長者の娘が麻木の箸に付いた飯を、苧ヶ瀬池(おがせいけ)の魚に施した陰徳で、八百比丘尼となって若狭に往って死んだというのが同じだったらしく、さらにさかのぼって飛騨の益田郡、馬瀬の中切の次郎兵衛酒屋の話などは、山国らしい昔話に変化して今も語られる。この酒屋へおりおり一人の小僧が小さなヒョウタンを持って一斗の酒を買いに来る。疑わずに量って与えると、いくらでもそのヒョウタンへ入るのだ。試みに小僧の跡をつけて行けば、村の湯ノ淵という所までやってきて振返り、わしは竜宮の乙姫さまのお使だ。おぬしもござれと引っ張って行き、わずか三日の間款待を受けたと思ったらもうこの世では三年の年の終わりであった。帰る際に竜宮の宝でキキミミという箱を下される。耳をこれに付けていると、人間にはわからぬどんな事でも聞かれる。家に娘があってそれを不思議に思い、誰も知らぬ間にそっと開いてみると、箱の中には人魚の肉が入っていて、いかにもうまそうな香気がする。ついにその古い肉を食ってしまうと、そのお蔭で娘は八百比丘尼になった。村の氏神の雌雄杉の根もとへ、黄金の綱をこしらえて深く埋め、いよいよという場合には出して使えといって、自分は仙人になっていずれへか出て往ったというのである。ちょうど刊本の『義経記』が編纂ものなるごとく、これも地方に流れている三つ五つの物語を、端切り中をつんで冬の夜話の用に供したものらしい。

 まだいくつかの例が残っているのである。『丹州三家物語』に録するところは、ほとんど『神社考』と大差なくただ比丘尼の生地を若狭鶴崎としたのみだが、丹後には別に竹野郡乗原という部落に、旧家大久保氏の家伝というもののあることを、近ごろの『竹野郡誌』には詳述している。ある時この村へ一人の修験者が来ておって、庚申講(こうしんこう)に人々を招いた。それから先は例のごとくだが、この家の娘は比丘尼ながら、樹を栽え石を敷きいろいろと土地のためになっている紀州那賀郡丸栖村(まるすむら)の高橋氏でも、庚申講の亭主をしていると、見なれぬ美人がきて所望をして仲間に入った。その次の庚申の日には私の家へきて下さいと招かれたが、その晩土産といって紙に包んでくれたのが、例の人魚の一臠(きれ)であった帰って帯を解くときふと取落とすと、その折二、三歳の家の小娘が拾ってのみ込んでしまった云々と伝え、今もその家の子孫という某は住んでいるが、この事あって以来いつも庚申の晩には、算(かぞ)えてみると人が一人ずつ多くいるというので、とうとう庚申講は営まぬことになった。ここでもどういうわけか八百比丘尼は、末に貴志川へ身を投げて果てたと伝えている。越後の寺泊に近い野積浦の高津家にも、やはり人魚を食った八百比丘尼はこの家から出たといい、今も手植えの老松が残っている。同じく庚申講の夜山の神さまに招かれて、そんな物をもらって帰ったというのである。最後にもう一つは会津の金川寺という村でも、比丘尼はこの村の昔の住人、秦勝道の子だったという口碑がある。勝道はまた庚申講の熱心な勧進者であったが、村の流れの駒形岩の淵の畔(ほとり)において、やはり竜神の饗応を受け、その食物を食べたという点は、丹後紀伊などと似ていた。ただしこれだけは人魚でなくて九穴の貝というものであった。

 捜したらまだ何ほども例は出てくるのだろう。私が知っただけでは娘が取って食ったというのが、平泉を加えて十件あり、食物はそのただ一つのみが九穴の貝であり、さらに庚申講の晩というのが、互いに離れた土地に四つまでもある天平以前に庚申祭などがあったかと、野暮な疑問を抱くことを止めよ。庚申は要するに夜話の晩であった終夜寝ないで話をするために、村の人の集まる晩なのであるすなわち人魚を食ったという長命の女の奇蹟を、発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であったのであるその話をさも事新しく、なるべく知った人の多くおらぬような土地へ、こうして持ってこようという考えの者が、昔もあったことだけは想像せられる
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■ 日本伝承大鑑
「八百比丘尼入定洞」← 伝承の地、小浜で八百比丘についてのガイド
 ー https://japanmystery.com/fukui/ningyo.html

■ 福井県小浜市加斗コミュニティーセンター
「玉椿(八百比丘尼)」・・・ 小浜の後瀬山で入定時に詠んだとされる歌がある
「たのみなば 命のほどや ながからん いわまのしずく つきぬかぎりに」
    ー https://www1.city.obama.fukui.jp/obm/kouminkan/kato_k/profilepost/189

(参考)上掲の歌について、Geminiによる解説
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歌の意味を解きほぐす
・たのみなば: 「もし頼むとすれば」という意味で、仮定の条件を表しています。
・命のほどや: 「命の長さはどうだろうか」と、自身の寿命について問いかけています。
・ながからん: 「長く続くのだろうか」と、寿命の長さを疑問視しています。
・いわまのしずく: 岩穴から落ちる雫を比喩として用いており、生命の儚さ、無常さを表しています。
・つきぬかぎりに: 「雫が尽きるまで」という意味で、生命の終わりを暗示しています。

全体的な意味
・この歌は、八百比丘尼が長い年月を生き、多くの経験を積んだ上で、自身の命の終わりが近いことを悟り、詠んだ歌だと考えられます。
・岩穴から落ちる雫のように、自分の命もいつかは尽きるという、生命の有限性を深く認識し、そのことを静かに受け入れている様子が伺えます。
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(参考)
ところで、むかし(1980年代初期)、家族と一緒に居間のテレビで、吉永小百合主演のNHKドラマ「夢千代日記」を視聴した。当時、テレビドラマには、日本人の心象を、その経験を通じて奥深くから巻きあげるように描く。この作品について、多くの方がいまもネット上で語っている。