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2011年5月7日土曜日

画像でたどる 小金井歴史散策

昨日が立夏というのにひんやりした今日、小雨降るなか地元公民館主催の「画像でたどる 小金井歴史散策」を聴講する。
以前、2008年、2009年に同公民館で催された「小金井の今昔を知ろう」に出席したが、現地を見学して廻った後に座学をするもので、午前・午後の時間を使ったヘビーなものだった。今回の「画像でたどる 小金井歴史散策」は、午前の時間に、公民館会場で講師がプロジェクターを使って、画像による密度の濃い郷土の歴史が紹介される。

講師は、小金井市文化財センター学芸員の多田哲氏で、子ども時代の思い出も入れて解説された。若い研究者でセンスがよくて、投影した画像は新旧対比を旨として、図版(地図)、風景写真、TV動画などをまじえ、例えば地図上の河川や水路に色付けしたりして、市民にも分かりやすく移動・拡大の工夫をされた。

第1回の今日のテーマは、「野川とハケ周辺」である。小金井市の野川を中心に、それに接した湧水がある崖地ハケの歴史が紹介された。内容が豊富だったのでまとめられないが、素人がホーッと思った話題を列記する。
・小金井の地名の由来にはいろいろな説がある。
  【説1】 ある名家のハケからの湧水を金泉草露と呼んだ。それが、黄金の水、黄金井となり小金井という説。
  【説2】 野川の水路が曲尺(かねじゃく)のように曲がっていたことで、金(かね)、金井となり小金井という説。
・小金井(野川)は、旧石器、縄文時代の遺跡が多いが、(不思議なことに)弥生時代のものがない。その後平安時代末から人々が住み着いたようだ。
・明治期、ハケ沿いはリゾート地であり、富豪の別荘が建てられた。記念公園や施設に残っている。
・野川は、洪水防止で治水した今のような直進の川ではなかった。以前は蛇行し、支流や洲もあった。
・野川には、ハケおよび南側(府中)の地からの湧水、多摩川上水からの分水(ハケの斜面で水車にも利用)も合わせて流れ込んだ。
・武蔵野は乏水地帯だったが、ここ(野川)だけは例外的に水に富み水田がひろがった。
・ハケ下(下野)の野川周辺は水田が多くあるため、ハケ上(上の原)の開拓地(麦畑)と比べて富んでいて、「ハケ下はいいね」といわれていた。
・養蚕、製糸も盛んに行なわれた。農家子女のための私立女学校も一時期あった。
・質屋坂は大國魂神社へ、薬師通りは武蔵国分寺へつながる。人通りの多いそれらの道が交わるところに、高札(こうさつ)が立てられた。

次回(第2回)は、5/21(土)に開催されるが、イ・ソンヒさんのコンサートを優先する。


(二歳二ヶ月になったばかりの孫が、なぜかランドセルをせがんだという知らせがあった)
★★★★★ 孫が、あどけない顔をして、売り場のランドセルを背負っている写真が届いた ★★★★★

(日田のミネラルウォーターを、孫がゴクゴクと、孫娘がミルクにしてグビグビ飲んでいるという知らせがあった)