先日、NHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」で、「聖なるキツネと神秘の鳥居 ~伏見稲荷大社の不思議な世界~」をテーマにした回を視聴した。(京都の)伏見稲荷大社にある、赤い千本鳥居に始まりに、稲荷信仰について紹介された。
稲荷信仰は、農業、特に稲荷⇒稲⇒害獣であるネズミ退治につながるキツネを稲荷神の使いとするといわれる。それが、江戸時代に、大きく社数を増やし、民間・大衆の身近な信仰対象となった。番組では、当時、三越百貨店の前身である越後屋三井呉服店が三囲神社(みめぐりじんじゃ)を守護社と定めたことから、稲荷神社と商業の強い関係に触れている。
農業、商業以外にも、稲荷神社と関係深いものがある。江戸期に新田地帯だった地元にある、稲荷神社は疱瘡治癒の効用もあって、遠く川崎宿からも参詣があったという。また不思議なことに、近所のある道筋に、民家の軒先に稲荷の小さな祠が続けて点在するところがある。
(本ブログ関連:”稲荷”)
そこで、江戸時代に、なぜ稲荷神社が爆発的に広がったのか、病気(治癒)との関係はどうだったのか知りたいところ、ネットに次のような(「火事」と「疫病」に着目した)論文が掲載されているのを知った。
「稲荷信仰から見える江戸」(湯浅徳子、指導教員 山室恭子)で、平成19年(2007年)度の修士論文のようだ。大名屋敷の稲荷、廓の中の稲荷、人足寄場の稲荷など、いろいろな階層に信仰されたこと。修験の祈祷と結びついたことなど、興味深い話がある。いかに庶民のよすがとなったかを教えてくれる。
資料として、「疫病」部分について抜粋させていただきます。感謝。
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出発点
・なぜ江戸で稲荷がもてはやされ、流行り神となったのか。
背景
・日本の民俗信仰のなかでも代表的な信仰のひとつが稲荷信仰である。稲荷はさまざまな神社仏閣の中でも群をぬいて数が多い。全国の神社総数が約 8 万社あるうち、およそ 3 万社が稲荷であるという。これに個人宅の屋敷稲荷まで加えると、おびただしい数となる。稲荷信仰は江戸時代のそれも江戸という都市で突如爆発的な隆盛を見せるという特異な特徴を有する。
目的
・そこで、本研究では稲荷信仰が隆盛するに至った理由を、江戸の都市災害である「火事」と「疫病」との関連に焦点を当て、稲荷信仰から見える江戸の一特性について明らかにしていく。
まとめ
4.3 病気治癒と稲荷まとめ
・大名屋敷、廓、町中、塀の中という江戸の様々な場所にまつられる稲荷を見てきた。パターンごとに分類しつつ、具体例を検証していくことで、人々が病気治癒を期待し、真剣に信仰している様子が浮かび上がってきた。
・まず、稲荷には一般に開放されている「参詣できる稲荷」と、閉ざされた環境にある「私的な稲荷」があった。そして、私的な稲荷である大名屋敷の稲荷が「麻疹」に効験があるとされ、一般に開放された事例を確認した。それは、町人が大名屋敷という特権的空間に入ることで非日常的な荘厳さを体感し、利益を感じさせるものであった。また、大名が地方にもつ領地にあった稲荷を勧請していることから、遠路からきた稲荷ということで、ありがたみがあり、さらに切手を手に入れて平日に参詣することは他の町人と差別化をはかれ、より心願成就への期待が持てるものだった。つまり江戸の人々は信仰にプレミア感を求め、参詣のハードルが高いほど病気に効果があると信じたい心理があったのである。
・次に、廓の中にも稲荷が確認された。江戸の男女構成比の不均等という地域的特性から、吉原や、岡場所が繁盛し、梅毒等の性病が猛威をふるうことになった。廓の中でも稲荷は求められ、遊女から信仰されたのである。また、梅毒に特化した瘡守稲荷も数多く存在した。そして梅毒が皮膚に瘡を発生させることから「疱瘡」につながり、疱瘡の患者の信仰も集めた。
・大名屋敷や廓は江戸に特徴的な空間であり、そこでもまつられた稲荷は時に流行神となり信仰を集めた。そして、それらの稲荷に結びつく病気は難治なものが多かった。このような特徴的な空間にまつられた稲荷と、病気にまつわる流行神的稲荷出現の状況は、江戸人の病気治癒への強い思いが噴き出したかのような様相を呈していると言えよう。
・町中の稲荷は、人々が手軽に参詣できるため重宝されていた。ここに修験が居住する稲荷を確認した。奉行所から快く思われないのを承知で、追放された修験を神職に復帰させていた事例から、修験に信頼を寄せる町人の姿を見てとれた。修験の果たした役割は祈祷である。祈祷の病気治癒は江戸で広く受け入れられ、人々は祈祷で病苦を忍んだのである。
・最後に人足寄場という特殊な空間で稲荷を見た。「塀の中」で暮らす人足たちが稲荷を勧請することを強く望んだという事が確認された。寄場という病人が多い、劣悪な衛生環境で彼らが求めたのは、医師でも薬でもなく、ほかならぬ稲荷であった。
・なすすべのない病気に対して人々ができることといえば仏に治癒を祈ることである。江戸は医師や薬も数多くあったが、当時の医療の未発達な部分とそれを補完する神仏の効験で、人々は病気と対峙してきたのだ。医療と宗教が切り離されるのは、病中の祈祷禁止等の法律が成立する明治に入ってからである。つまり江戸時代は病気治癒のための祈祷が熱心に行われた最後の時代だったのである。
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