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2014年10月3日金曜日

「人イヌにあう」から

子どもが水溜りで、無邪気に遊んでいる姿は可愛らしい。水の感触もそうだが、意のままにならぬ形質も楽しくてたまならないのだろう。泥水だらけになって、しまいにその場に座り込んでも気にしない。水は、子どもが外の世界で最初に出会う、感性に直結する不思議なものかもしれない。

そんな水の面に水滴を垂らすと、初め輪郭をしっかりした輪ができて広がり、次第に薄れて無かったように水に吸収される。水紋を見ていると、まるで人の言葉のように思うことがある。水紋は、その輪があってこそ意味を持つ。水がなければ水紋がないように、人がいなければ言葉はない。水はいつまでも澄んで欲しい。水紋は美しい円弧を描いて欲しい。

動物行動の世界で、飼いイヌを通して愉快なイヌの行動を教えてくれた、動物行動学者のコンラート・ローレンツ(Konrad Lorenz、1903年~1989年)の著書に、「人イヌにあう」(小原秀雄訳、至誠堂選書)がある。この本の中で、飼いイヌ同士が吠えあうとき、居るべき場所を前提にしているという面白い例を、次のように紹介している。(元文に適宜段落付けした)
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・~私の年老いたブリイとその不倶戴天の敵、白いスピッツにかんするものである。このスピッツは緑に塗った木のかき根で仕切られ、村の通りにそって長くのびた幅の狭い庭のある家に住んでいた。この三十ヤードにわたるかき根にそって、二匹の英雄は、走って行ったりきたりしては激しく吠え、かき根の両端の折り返し点でちょっと止まっては、役にもたたない怒りのあらゆる動作と声をおたがいに投げつけるのであった。

・ある日やっかいな事態がもち上がった。かき根は修理中で、一部がそのためはずされたのだ。下手の半分がなくなっていた。さて、ブリイと私は家を出て丘を下り、川に向かった。スピッツはもちろん私たちに気づいて、庭でいちばん高い一角で、うなり、興奮のあまりふるえながら待ちかまえていた。最初に、おきまりの不動の姿勢でののしりあいがはじまった。それから二匹のイヌはそれぞれがかき根の両端で、前方に向かっていつもの早駆けをはじめた。

・ところがなんと、珍事勃発。彼らはかき根が取り払われている場所を駆け抜けてしまい、さらにののしり合戦が行なわれはずの庭の下手のはずれまできて、やっとおのれの失態に気づくしまつであった。彼らは毛を逆立て、恐ろしげにきばをむき出して、そこに立ち止まった---が、かき根はなかった。たちまち吠え声はやんだ。

・そこで、彼らはどうしただろうか? あたかも一心同体のごとく、彼らはくるりと向きを変え、横腹を接してまだ残っているかき根のところへとんでいった。そこで彼らは、まるで何ごとも起こらなかったかのように、ののしりを再会したのである。
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鉱物採集などで地方に出かけると、農家の庭先に用心のため番犬役をしっかり果たしている飼い犬がいる。一方、住宅街を飼い主に連れられて散歩する小型犬は吠えないし、番犬イメージも薄い。屋内で飼う愛玩犬が中心になっているようだ。
愛玩犬の場合、家の前を通り過ぎる他のイヌに対して、どんな反応を示しているのだろうか。