地元公民館で、江戸時代初めの多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説する、法政大学大学院の馬場憲一教授の第3回目講演「世襲代官と土豪的農民の郷村支配」を聴講した。
(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)
江戸時代初期、1600年代後半までの身分構成について、第1回は代官頭の大久保長安を、第2回は代官頭配下の世襲代官である十八代官(高室一族)が紹介された。今回の第3回は、世襲代官と農民の間をつなぐ土豪的農民の存在について、次のように語られた。
江戸初期までは、勘定頭(代官頭)>世襲代官(十八代官)>土豪的農民>小農民という、土地に結びつく支配構成がされていた。その後、徳川の中央集権化に伴い1600年代末に至ると、世襲代官と土豪的農民による村落支配は終焉を迎えた。
-→ 世襲代官は、吏僚代官という任地を変わる役人変わる。
-→ 土豪的農民は、村役人という名主・組頭に変わる。
(感想)
北条一族の末裔が、関東地の農村に入り農民化したという話しがある。それを出自とした、土豪的農民へと実力を蓄えたのだろうか。そして、彼らを使って支配した、世襲代官は武田家の末裔が多かったことから、中央集権化をすすめる幕府としては、過去の力を嫌ったと考えられる。
支配するものと支配されるものの間には、過去の関係が一時期温存される。早急に新しい支配体制を確立するためには、都合がよかったに違いない。けれど結局、それは喉に刺さった小骨となる。徳川幕府は、用意周到にそれらを抜き去ったのだろう。