(本ブログ関連:”秋分の日”)
実は、阿久悠記念館に行ってみたかったのだ。森進一と桂銀淑が歌った、「昭和最後の秋のこと」(1997年、作詞阿久悠、作曲浜圭介)の秋を、それも昭和の秋を思い浮かべ、訪れてみたいと思っていた。
わたしたちより、もう一世代上の昭和のイメージかもしれないが、心の襞にしみ込む歌だ。繰り返される詞、「昭和最後の秋のこと」から、遠ざかった昭和をしみじみ思い返す。心にとどめる最後の秋は、「雨にうたれる彼岸花」であり、「時に晴れ間が広がって」、「山の紅葉に照りはえて」と色彩的である。四季の秋は、次の秋の循環を予兆させる。
ことばを大切にした作詞家の詞には、時代のドラマ性があった。今聞く意義を知らせた。見て聞くだけでない、歌えば自身にイメージが再生され、記憶を巻き戻すことができたのだ。
この機会に、過ぎ去った昭和の秋と出あってみたかったのだが。
わたしたちより、もう一世代上の昭和のイメージかもしれないが、心の襞にしみ込む歌だ。繰り返される詞、「昭和最後の秋のこと」から、遠ざかった昭和をしみじみ思い返す。心にとどめる最後の秋は、「雨にうたれる彼岸花」であり、「時に晴れ間が広がって」、「山の紅葉に照りはえて」と色彩的である。四季の秋は、次の秋の循環を予兆させる。
ことばを大切にした作詞家の詞には、時代のドラマ性があった。今聞く意義を知らせた。見て聞くだけでない、歌えば自身にイメージが再生され、記憶を巻き戻すことができたのだ。
この機会に、過ぎ去った昭和の秋と出あってみたかったのだが。