子どもの頃、児童画といわれる、遠近法とは全く異なる表現が嫌だった。それは、子どもの時代に見られる独特なもので、(大人が忘れた)子どもらしい表現と絶賛されるものだ。でも、当時は見えるように描いてこそ絵ではないのかと思ったものだ。
(今の私には、児童画の伸びやかな表現が可愛らしくてたまらない・・・歳をとって気づいたが)
児童画は、運動会などを表現するとき、運動場を絵の中心に配置して、絵の上側に頭を上向きにした子どもたちを描くのに対して、絵の下側には頭を下向きにした子どもたちを描く。まるで、地球上の人々を宇宙遠くから眺めるようだ。
これは、視座が運動場の中心にあって、全て見るために頭(眼球)を回転させることからくるのだろう。つまり、視座が絵の中心に配置しながら、視線は固定しない。もし、遠くから俯瞰するように、つまり視座を鳥の目のように上空に置けば、登場人物たちの頭は、すべて上向きになるのだが。そこで、遠近法でない集団画の場合、地面を斜めにして、視座と登場人物とが等距離になるようする。一定の範囲内に、登場人物を集団に分けて配置すると、均等に描写することができる。
例えば、日本画で、屏風絵「洛中洛外図」は、集団を区分するのに雲のようなものを挟み込んでいる。また、好みの絵が多い、北方ルネッサンス絵画の場合、遠近法の表現はあるものの、説明的な要素が多いものがある。ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」に見られる宗教的な説諭、ピーター・ブリューゲルの「ネーデルラントの諺」に見られる世俗の風刺のように、解釈を一義にして見る目を動かすことになる。
(本ブログ関連:”ブリューゲル”、”北方ルネッサンス”)
これらの作品は、今でいう絵画というよりは、絵に語られる物語なのではないだろうか。作品を、見る側の立場も含めて理解しなければならないような気がする。作品には3つの立場があるように思う。作品の制作者という立場(所有者と見る者を意識する)、作品の所有者(見せる側)、見る者(見る側)。それぞれが別個であるとは限らない。また、今風の絵画鑑賞という見る側が大衆化してきた時代変遷は興味深い。・・・もしかしたら、遠近法の絵画技法は、世俗化と連動しているのかもしれないなんて考えてしまう。
絵画は最初から「絵画」ではなかったと思う。私は、仏像や仏画が美術や芸術作品として語られるのに、今も違和感を感じる。