世の中には可笑しな話がある。先日、ある映画の上映会に出かけた途中、商店街で見かけた<たい焼き屋>の看板が「天然たいやき」と銘打っていた 。客が数人並び、まさに採れたてのたい焼きを待っていたのだ。
<出自>を天然と誇るたい焼きがあるのなら、筒井康隆の短編に、<出自>を「本家」・「元祖」と競うターザンが登場するスラップスティック・コメディがある。観光地の名産みやげ物屋に見かけるものだ。また、見世物小屋で有名な話だが、由緒正しき「義経幼少のみぎりの頭蓋骨」なんてものもある。脱皮するヘビだって、骨まで次々と残さない。
落語に、自分の死体を引き取りに行く「粗忽長屋(そこつながや)」がある。お前の死体を見つけたと知らせるやつも粗忽だが、真に受けて取りに行くのも・・・。しまいに、死体を運んでいる自分が誰だか分からなくなる。あるいは、自分の頭にできた池に最後に身を投じる「頭山(あたまやま)」もそうだ。池に沈んだのは自分なのかどうか、これも分からなくなるだろう。
まあ、こうやって話を眺めているうちはいいけれど、自分が誰か分からなくなることもあれば、自分以外、誰も分からなくなることもあるだろう。この場合はもっと切実なことだ。必死に自分を取り戻したい気持ちがよく分かる。
もしかしたら、映画「怪しい彼女」のファンタジーは、おばあちゃんが孫に輸血するとき見た一瞬の夢だったかもしれない。若いときの自分を取り戻したかったのかもしれない。
(本ブログ関連:”怪しい彼女”)