曇り空の昼過ぎ、久し振りに都内を巡る。行き先は電車内で何となく決めた、山手線上の街、新大久保と新宿だ。どんよりした景観に気が重くて、さらにの遠出は躊躇する、ほどほどの距離である。
新大久保の駅前は相変わらずの混雑振り。メディアがいうほどもないと思いながら、<大久保通り>を進む。次第に客足の鈍さが気になり始めた。日曜日にしては、最盛期の半分、いや三分の一といったところだろうか。想像以上に変化が進んでいるようだ。冬の厳しさを感じた。
コリア・プラザのCD、書籍売り場を廻る。CD棚に、イ・ソンヒの2集リマスタリング・アルバム、最新の15集アルバム、30周年記念コンサート・ライブのCDが並んでいた。売り切りを急いでいるように見えて気になった。これ以上、新大久保にとどまることもなくて新宿に移動する。
紀伊国屋書店で、中島みゆきの歌詞集である、「中島みゆき全歌集 1975-1986」、「中島みゆき全歌集 2001-2014」(ともに朝日新聞出版)を求める。彼女の歌詞集は、以前購入の「中島みゆき最新歌詞集 1987-2003」と「中島みゆきnakajima miyuki全歌集」*(ともに朝日新聞出版)が手元にある。
(本ブログ関連:”中島みゆき”)
ちなみに、今回手にした「中島みゆき全歌集 1975-1986」は、以前購入の「中島みゆきnakajima miyuki全歌集」の新装版である。両巻末に詩人の谷川俊太郎の同じあとがき「大好きな『私』」があって、歌われる歌詞を文字で読むことについて、「歌の魅力がときにことば以上に、そのメロディやリズムや歌い手の声によっていることは誰もが知っている」ことを承知して、歌詞と詩を対比するかたちで次のような記述している。(下線は今回付記した)
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歌はことばの隠している意味と感情を増幅する。あるいは誇張すると言っていいかもしれない。だがそうすることで、歌は私たちがふだんとらえ損なっていることばの意味と感情を新しくよみがえらせてくれる。メロディとリズムに支えられたひとりの生身の歌い手の声がそれを可能にするのだ。だから活字になった歌のことばは、ある意味ではぬけがらにすぎないと言えるかもしれない。しかしまた音楽と声の助けなしにことばを読むことで、私たちは歌の肉体だけでなく、骨格とでもいうべきものを知ることができる。特にそのことばが、歌い手自身によって書かれている場合には、ひとりの歌い手の心の中にわけいることさえできるのだ。ことばと音楽と声はひとつの歌のうちで、決して分解できぬものとして存在しているのだが、書物は音楽にあふれたスタジオやコンサートホールとはまた違った静けさのうちでしか聞くこのできない隠された声、それを詩と呼んでもいいのではないだろうか。
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