今日も一日暑く、外出すれば吹き出る汗でシャツが濡れてしまい、乾かす場所を探すのに大変だった。
最近、外出のヒントをいろいろと与えてくれる親類の紹介で、今夕Bunkamuraのル・シネマに映画「クレイジーホース・パリ」(監督フレデリック・ワイズマン:Frederick Wiseman)を見に出かけた。
谷底にある渋谷の街は、暑いうえに若者たちの人混みと熱気で息苦しい・・・本当に。
上映時間まで間があるので、Bunkamuraのザ・ミュージアムで開催のロシア革命前の画家「(イリヤ・)レーピン(Илья́ Ефи́мович Ре́пин)」展を観覧する。惜しいことに、彼の代表作*のほとんどは出展されていない。せめて今回提携のトレチャコフ美術館所蔵の(まるで広角レンズで映じたような大衆のどよめきが聞こえる)ダイナミックな「クルスク県の復活大祭の十字行」が展示されていたら。
(*)「ヴォルガの舟曳き」、「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」(共にロシア美術館所蔵)
とはいえ、現物のデッサンを間近に見て、どうしてこんな筆致に描けるのだろうと感嘆するばかり。
そんな、ボルガの船曳きに代表される、ロシア革命前の苦難の時代からいきなり、現在のパリの別世界「クレイジーホース」に飛び込んだわけだ。題名のクレイジーホースは、紳士淑女や観光客の目を楽しませるパリのナイトスポットである。
正直いって、イ・ソンヒとは全くの別世界で・・・戸惑いっぱなし。
映画の中のダンサーの会話、制作者たちの議論をとらえたドキュメンタリー手法は、観客にいろいろと考えさせるのだろうが・・・残像にあるのは、おじさんとしてはダンサーのヒップ(お尻)とウェスト(腰)だけだ、やっぱり。
クレイジーホースの総支配人は、シルクド・ソレイユで12年間働いたそうで、そのあたりから、同舞台の監督をつとめたフィリップ・ドゥクフレ(Philippe Decouflé)**との縁があったのだろうか。
(**)ドゥクフレは、何と31歳の若さで、1992年のアルベールビル・オリンピックの開会式・閉会式の演出を担当している。当時の映像をYoutubeで見ると、演出にシルクド・ソレイユのイメージが重なる。
(Youtubeに登録のplaythefutureに感謝)
なお、彼に関する情報および来日の契機と関わりについて、親類からいろいろ話を聞いている。
なお、彼に関する情報および来日の契機と関わりについて、親類からいろいろ話を聞いている。
映画の前半に、ドゥクフレはおおいに持論を語っていたが、後半になるとそれがどんどん少なくなっていった。(単に編集の都合ということだけとは思えない)
ダンスの「演出」という監督者のドゥクフレと、若手の「芸術監督」のアリ・マフダビとの関係が気になる。それは、彼らの役割・仕事の分担というだけでなく、人生の立場と考え方について・・・。
ドゥクフレが、アルベール・オリンピックの開・閉会式の演出を周りから任されたときのように、若手の芸術監督に対するものがあったのではと推測したが考えすぎだろうか。現在、50歳のドゥクフレと38歳の芸術監督アリ・マフダビの間柄だ。
アートの現場と同時にいろいろな人生も垣間見えたようなドキュメンタリーだ。
(付記)
クレイジー・ホースの名から、米国のネイティブ・インディアンのオグララ・スー族の戦士で英雄である「クレイージー・ホース」(Crazy Horse、1843年~1877年)を思い出す。彼がシッティング・ブル(Sitting Bull)とともに、インディアン掃討を図る米国第7騎兵隊のカスター将軍(George Armstrong Custer)以下を、1876年6月25日にリトル・ビッグホーン(Little Bighorn)で全滅させたことは、子どもの頃に西部劇映画の洗礼をうけた者なら知らない者はいない。
(補足)
茶の間のテレビ番組でも西部劇中の騎兵隊は容赦なかった。それが道義上許されなくなると次に登場したのが、第二次大戦の戦争もの(例えば「コンバット」(Combat!、1962年~1967年))だった。そこでは、米兵の銃弾に ドイツ兵が、まるで西部劇を繰り返すように次々もんどりうって倒れた。
ちなみに、イ・ソンヒの生まれた1964年に上映された映画「シャイアン」(Cheyenne Autumn)は、時代の風潮をうけて、以前の西部劇とは違った視点で作られるようになった頃のものだ。
(本ブログ関連:"映画の記憶")