むしろ、事故で脳障害を起した患者が、言語能力に目覚め堪能になるといった話しの方が納得できる気がする。小さい頃、遊んで頭をぶつけた時、直ぐに足し算や引き算の暗算をして、頭がおかしくなってないか確認した・・・そう考えること自体、重症でない証拠だが。頭の怪我で語学の才能に目覚めるという、そんな幸運に巡り合っていたならなあとつくづく思うが、危ない賭けで・・・。
ずっと根拠ある事例に、言葉の呼び戻しという、そんな場面に遭遇した話しがある。「現代イスラエルにおけるイディッシュ語個人出版と言語学習活動」(鴨志田聡子著)に、イスラエルのイディッシュ語の集いに参加した高齢者が、幼少期にわずかに経験した忘れたはずのイディッシュ語を突然理解できるようになるという。その補注(p.150 #80)に、次のような紹介がある。
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彼らはイディッシュ語を幼少期に家庭で聞いて育ち、それ以降は聞く機会があまりなく、自分でも話すことはおろか、聞いても理解できないと思い込んでいるような人たちである。こういった人が何かのきっかけでイディッシュ語を聞いてみると、彼ら自身ですら驚くほど理解できる。筆者は初級のクラスで一緒に語学を学んだ高齢者が、読み書きや話すのは難しいのに、聞いたイデッシュ語はすべて理解し英語(彼女の第一言語)に同時通訳していたのを見たことがある。
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幼少期の経験、特に言葉は、使えばますます磨かれるが、使わなくてもいずれ出番を待っている。人間ってすごいな、素晴らしいなと感動してしまう。同書には、イスラエルで使用頻度の少なくなったイディッシュ語を家庭内で使っている家族があり、その理由を新聞に語る親の言葉を紹介している。
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なぜ私たちは子どもをイディッシュ語で育てているのでしょうか。・・・ イデッシュ語は私たちと先祖を直接つなぐので、子どもが歴史的視野と確かな文化的背景を基盤に自我を形成するのを助けます。・・・
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そう、自分たちの言葉は、自分の過去をつなぐばかりか、自分たちの先祖とも直接つながっている。時間をまたぐ文化の架け橋でもある。言葉は忘れてはならないものだ。