ラジオが中心だった子ども時代、緑色のマジック・アイでチューニングして、スピーカーから流れる歌謡曲を聞いた。歌を聴くたび想像力がたくましくなり、イメージが膨らむ。そして耳に残る。(子どもゆえ、歌詞を全て理解していた訳ではないけれど)
「お~い」で始まる歌謡曲があった。まるで友や知人に呼びかけるような気安さがある。つい口ずさんでしまう自然さがあった。公衆の場で、大声で呼びかけることを納得できる時代だったからかも知れない。今は「お~い」と呼びかけるより、スマホで通知した方が早いのかもしれない。
■ 「船方さん」 (三波春夫、1957年(昭和32年))
歌詞「お~い、船方さん 船方さ~んよ」で始まる。浪曲から歌謡曲界へのデビューした年にリリースした第2弾目の曲だ。
彼は戦中世代であり、「22歳から26歳までの約4年間、シベリア抑留」の経験者だった。なお、帰国できたのは昭和24年(1949年)のことだった。
(Youtubeに登録の tonyfs1982bc に感謝)
(資料)「三波春夫 芸ひとすじの生涯」
紹介の人物記は、CDセット「『三波春夫の世界』鑑賞アルバム『歌藝の真髄』」(ユーキャン)より抜粋とのこと。
- https://www.u-canshop.jp/minami/episode/
■ 「お~い中村君」*(若原一郎、1958年(昭和33年))
歌詞「お~い、中村君 ちょいと待ちたまえ」で始まる。今様の時代感がある軽快な曲だ。「船方さん」と発表年度が近いことから、「お~い」という出だしは、影響があったのかもしれない。
(*)お~い中村君(昭和館デジタルアーカイブ)
ー https://search.showakan.go.jp/search/record/detail.php?id=90011075
(Youtubeに登録の sabo yobo に感謝)
常々思うことがある。戦後の日本に命をかけ、生きて後、戦後の高度成長(1955年~1973年の約20年間)を押し上げたのは、名もなき戦争経験者たちだったことを。彼らは生き残った幸運よりも、亡くなった戦友や知縁者たちに対する呵責を胸の奥にしまっていただろうと思う。そのことに、ようやく心を重ねることができるようになった気がする。