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2018年9月19日水曜日

回礼者から年賀郵便へ

先日、若者向け文具店を覗いたら、来年の手帳がずらりと並んでいた。気の早いもので、少し秋の風を受けて、これから先を考える気分になったのに合わせて売り出したのだろう。若者は、もう来年のスケジュールが気になっているのだろうか。

そんなことに感心しながら、別フロアにある「100円ショップ」を巡ると、店頭に来年のカレンダーが置かれていて、数がはけているように見えた。こちらは安価なので面白半分に買っているのかもしれない。

来年といえば、気が早いが、正月の年始回りの風習が思い浮かぶ。そんな、回者として伺う当り前だった行為が、やがて年賀状の郵送に変わった。岡本綺堂の掌文「年賀郵便」(青空文庫)にそのいきさつが記されているので抜書きする。
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江戸時代のことは、故老の話に聴くだけであるが、自分の眼で視(み)た明治の東京――その新年の賑(にぎわ)いを今から振返ってみると、文字通りに隔世の感がある。三ヶ日は勿論であるが、七草を過ぎ、十日を過ぎる頃までの東京は、回礼者の往来で実に賑やかなものであった。
 明治の中頃までは、年賀郵便を発送するものはなかった。恭賀新年の郵便を送る先は、主に地方の親戚知人で、府下でもよほど辺鄙な不便な所に住んでいない限りは、郵便で回礼の義理を済ませるということはなかったまして市内に住んでいる人々に対して、郵便で年頭の礼を述べるなどは、あるまじき事になっていたのであるから、総ての回礼者は下町から山の手、あるいは郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければならない。

 日清戦争は明治二十七、八年であるが、二十八年の正月は戦時という遠慮から、回礼を年賀ハガキに換える者があった。それらが例になって、年賀ハガキがだんだんに行われて来た。明治三十三年十月から私製絵ハガキが許されて、年賀ハガキに種々の意匠を加えることが出来るようになったのも、年賀郵便の流行を助けることになって、年賀を郵便に換えるのを怪まなくなった。それがまた、明治三十七、八年の日露戦争以来いよいよ激増して、松の内の各郵便局は年賀郵便の整理に忙殺され、他の郵便事務は殆ど抛擲(ほうてき)されてしまうような始末を招来したので、その混雑を防ぐために、明治三十九年の年末から年賀郵便特別扱いということを始めたのである。
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年賀状は郵便制度のおかげでできたもの。それ以前は、回者となって新年の挨拶するのが当り前で、直接顔を合わさぬなど「あるまじき事」だった。わたしの子供時代は、社宅だったせいもあって、正月に父の部下が次々年始周りに来ては、酒を飲んで酔いつぶれた。数日後、父は母から小言をいわれていた。

ところで、戦後、年賀状の枚数を誇った景気のいい時代も過ぎ、新年を家庭で祝うものになってきたころから、年賀状の手書きが億劫になったようだ。次の世代から、手作り印刷の時代に変わった。「プリントゴッコ」(80~90年代)が登場したのだ。年賀状の挨拶部分(イラストや住所)の印刷でだいぶお世話になったが、宛先を書く手間だけは残った。

そこへ新たな機器が加わった。ワープロ専用機やパソコン(マイコン、PC)のおかげで、年賀状の挨拶部分だけでなく、宛先まで印刷してくれる手間の解消(省力化)が実現したのだ。それもつかのま、インターネットが急速に普及して、今度は電子メール(パソコン通信)で挨拶を済ませる、紙に痕跡すら残らぬ時代になってしまった。時代とともに挨拶の仕方まで変わる。

そういえば、こんな話をどこかで聞いたことがある(史実は未確認だが)。ドイツのプロテスタント運動の一翼を担ったのが印刷版の聖書だったが、(多分少し時代を経過してのことだろうが)「街には一軒の印刷屋があった」という・・・まるで鍛冶屋のように。