歳とともに行動範囲がせばまって、まるで現在地を中心に同心円の輪が小さくなるようだ。この夏、語学教室が休みのため、最小の輪から抜け出せずにいる。気分一新、昼間に、一回り大きな輪にある近隣市の駅ビルまで出かけてみた。
陽射しが強く、空は明るくて心配もない。駅ビル(商業施設)を巡るだけだから、天気を気にかける必要もないけれど。巡る店といえば書店と食べ物屋ぐらい。それでも私にとっては適度な運動になる。
書店で、「江戸端唄集」(倉田喜弘編、岩波文庫)を入手。ぱらぱらとめくっていると、(編者が端唄を独自に選んだと思われる)「端唄百番」に所収の「本郷二丁目」が目についた。「八百屋お七」を素材にしたものだ。
(本ブログ関連:”端唄”)
「本郷二丁目の 八百屋の久兵衛が むすめの於七(おしち)とて 釜武がむこ入り をりもをり きらふて此の家を にげゆけば お寺は 駒込吉祥寺 こせうの吉三に ほれるとせ」
- 本郷二丁目にある八百屋久兵衛の娘「お七」は、嫌な釜屋武兵衛が婿にならんとするおりもおり、嫌って家を出て、駒込の吉祥寺へ逃げ、寺小姓の吉三に惚れる・・・その後、帰宅して、吉三に会いたい一心から放火して火あぶりに処せられる。
「端唄」から、江戸時代に、こ粋な女性が三味を持って歌う姿を想像する。いってみれば、旦那芸の延長にある習いごとを妄想してしまうけれど確信もない。
ここで気になるのは、この端唄のタイトル「本郷二丁目」についてだ。江戸端唄のタイトルに現代風な「二丁目」といった住居区分があるなんて。そこで、Wikipediaで「丁目」について、いつから使われたか調べてみたら、アッという驚き。次のように書かれていた。
「江戸時代初期に書かれた『慶長見聞集』の『本町二丁目の滝山彌次兵衛』という用例が、また『慶長江戸図』などの地図に『○丁目』の表記があり、17世紀初頭には既に『丁目』という言葉が使われていたようである。」
- どうやら、「丁目」は江戸初期から使われた区分だったようだ。
「本郷二丁目」といえば、行動範囲を広げることも兼ねて通う「イディッシュ語教室」の最寄り駅と同じ名なのだ。これも何かの縁、秋になり涼しくなったら、教室の帰りに、久兵衛の八百屋跡地でも探してみたい。物語だから見当違いかもしれないが。
ところで、駅ビル散策の帰り、空模様が怪しくなった。黒く重い雲がのしかかってきた。帰宅後、気象庁の正式用語ではない「ゲリラ豪雨」という言葉があるが、ここでは(こちらも正式用語ではないけど)「夕立」が通り過ぎたといった方が江戸気分に近いかもしれない。