この一ヶ月、頭痛に悩ませられた。それで、知り合いのドクターに診てもらおうと出かける決心をした。ところが、そう思った瞬間、頭痛が逃げていったのだ。ドクターに経過を説明したのはいうまでもないが、なんだか不思議なことだ。
ところで話し変わって、ボブ・ディランのノーベル文学賞について、ノーベル賞授賞者側や周辺が変に騒がしい。これが、ビートルズだったら、日本で大騒ぎになったことだろう。物事って、同時代の人間よりも、1.5世代後の者が能弁になる。
でもねえ、ビートルズが来日したとき、そうでもなかった筈の連中までもが今になって、当時熱狂したというのを結構聞く。じゃあ、ボブ・ディランがノーベル文学賞受賞したことについてどうかといえば、捉えどころがなくて四苦八苦しているようだ。同じ世代も、1.5世代後の者も沈黙している。
以前、<科学革命>の論説から「パラダイムシフト」概念が流行った。それが最近聞かれない。科学分野のノーベル賞を理解するとき、今でも何となく合点がいく概念なんだけど。これも、出来事をそれらしい言葉に置き換えただけの流行語だったのかな。
ノーベル文学賞という言葉の分野について、授賞者側から、<歌(歌詞)>と<文学>を包摂する概念を提示してくれるとありがたいのだが。思うに、ボブ・ディランは、<歌>が<文学>の惑星になることを望んでいるのだろうか、いないのだろうか。関心ないようだ。
(本ブログ関連)
書籍「中島みゆき全歌集」に、(詩人)谷川俊太郎のあとがき「大好きな『私』」があって、歌われる歌詞を文字で読むことについて、「歌の魅力がときにことば以上に、そのメロディやリズムや歌い手の声によっていることは誰もが知っている」とまで語っているのだが。