1984年に登場のイ・ソンヒがデビューを飾った1980年代の韓国大衆歌謡について、DAUM掲載「韓国民族文化大百科事典」の「大衆歌謡」から「5.1980年」の項を見る。(事典の「大衆歌謡」に、70年代以前および90年代以降について解説がある)
80年代に流行した音楽ジャンルの変遷を次に載せさせていただく。当時の世相やメディアの変化についても知ることができる。(区分タイトルとして、音楽ジャンルなどを< >で追記した)
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5.1980年代
1980年代は、大きく1987年を基点に分かれて1991年頃まで持続する。 単純に説明しようとするなら初中盤はスーパースター、チョー・ヨンピルの主導が、後半はバラードの主導の中にダンスミュージックとアンダーグラウンド(=公演を中心とする音楽活動)ロックが躍進する様相を見せた。
<スタンダード・ポップとロックの結合>
・1980年代前半を通して最高のスターの座を譲らなかったチョー・ヨンピルは、一方で1980年代前半を主導する新しい作品傾向を創出して先導しつつ、他方で韓国大衆歌謡史の重要な様式を総網羅したデパート式作品世界に、多くの世代や趣向の需要者を受け入れた。1980年代式の「窓の外の女(창밖의 여자)」は、おなじみの1960年代式短調スタンダードポップの旋律を基本にして、ロックを組み合わせつつ、起承転結を破壊した分節的構成とシャウトなどロックの特性を華やかなハーモニーと旋律で包み込んだ。その結果、壮年層まで馴染む悲劇的な情調にロック的な強烈さを加えた新しい傾向を作り出したし、以後、「悲恋(비련)」、「蝋燭の火(촛불)」、「見つけられない鶯(も~いいかい、못 찾겠다 꾀꼬리)」を経て、「涙のパーティー(눈물의 파티)」、「マドヨ(마도요)」に至るまでのヒットを継続し、1980年代初中盤の主導傾向に固めていった。スタンダード・ポップの旋律にロックを結合するこの方法は、「花一輪(꽃한송이)」のキム・スチョル、「偶然に出会った君(어쩌다 마주친 그대)」の隼(はやぶさ)、「Jへ」のイ・ソンヒ、「熱愛(열애)」のユン・シネなど、この時期、ほとんどの人気歌手たちヒット曲が採用された方式であった。また、これらの主導傾向に加えて、モダンロックの「ショートヘア(단발머리)」、「あまりにも短い(너무 짧아요)」から、本格的な短調スタンダードポップの「情(정)」、トロットの「一途なタンポポよ」、「憎い、憎い、憎い(미워 미워 미워)」、「虚空(허공)」、民謡のリメイクの「恨五百年(한오백년)」に至るまで、フォークを除く韓国大衆歌謡史の全様式を網羅した作品世界を同時的に示した。したがって、チョー・ヨンピルは、10代から中高年層に至るまで、ほぼすべての世代を需要者に抱き込み、自作曲歌手でありながらも、作家主義的とはいえない大衆志向的態度を見せてくれた。
<バラード>
・一方、1988年のピョン・ジンソプの「一人になるということ(홀로 된다는 것)」のヒットから、新しい主導の様式に登板したバラードは、1980年代初中盤のイ・ヨン、チェ・ソンス、イ・グァンジョなどの人気を踏まえて様式を形成し始めた。1980年代前半期には、チョー・ヨンピル主導の中にロック的な強烈さが主導したというなら、1985年を契機に、より繊細な内面を華麗な旋律とハーモニーを歌う作品の人気が登り始めた。ついに、アンダーグラウンドといえる「愛しているので(사랑하기 때문에)」のユ・ジェハ、イ・ヨンフンが作った「私は分からないでしょう(난 모르잖아요)」、「愛が過ぎ去れば(사랑이 지나가면)」を歌ったイ・ムンセの人気を経て繊細さと華やかさが深まり、1988年ビョン・ジンソプを契機にしてバラードの典型的な姿が完成されたようだ。以後、「悲しい絵のような愛(슬픈 그림 같은 사랑)」のイ・サンウ、「最後のコンサート(마지막 콘서트)」のイ・スンチョル、「悲しい表情しないでください(슬픈 표정 하지 말아요)」のシン・ヘチョル、「別れの陰(이별의 그늘)」のユンサン、「微笑の中に映った君(미소 속에 비친 그대)」のシン・スンフンに至った。
<ダンスミュージック>
・これと共に、1984年チュ・ヒョンミの「雨降る泳東橋(비 내리는 영동교)」をきっかけに、トロット特有の非劇性が清算された新しい演歌傾向が浮上してヒョンチョルなどが人気を得て、ナミの「クルクル(빙글빙글)」を初発に始まったダンスミュージックは、「今夜(오늘밤)」のキム・ワンソン、「愛の不時着(사랑의 불시착)」のパク・ナムジョンなどによる独自の様式で場をつかんだ。
<フォーク>、<ロック>
・一方、フォークは、1980年代前半まで、ナムグン・オクブン、。ヘバラギ(向日葵)、シン・ヒョンウォンなどがときたま大衆的なヒット曲を出したが、多くはアンダーグラウンドで新しい模索をした。「木漏れ日のなかで(나뭇잎 사이로)」、「スミレ(제비꽃)」などのチョ・ドンジン、「北漢江で(북한강에서)」のチョン・テジュンが、フォーク・アンダーグラウンドの流れをリードした新鋭の「愛の日記(사랑일기)」のシン・イングァに至るまで、思索と熟視の姿勢を鋳造していった。しかし、フォークで出発した人のうち何人かは、ブルース、ロックなどに作品世界を移動させた。ついに1985年に、フォークで活動を始めたチョン・イングォンとチェ・ソンウォンが主導するロックグループのトゥルクッカ(野菊)の最初のレコードが、テレビの助けがなくても、30万枚を販売する気炎を吐きながら韓国のアンダーグラウンドとロックの時代の新しい誕生を知らせた。何よりも「それだけが私の世界(그것만이 내 세상)」、「行進(행진)」などトゥルクッカの歌は、シン・ジュンヒョンからソンゴルメ(隼)に至るまで、テレビに向かって走ってきたロックが示せなかった、ロックな世界認識と態度を示した点でより一層意味がある。
<ヘビメタル>、<ブルース>
以後、「ラジオをつけて(라디오를 켜고)」のシナウィをはじめ、プハル(復活)、白頭山などヘビメタルグループがレコードを出してアンダーグラウンドの中心を固めており、1970年代末からロックでスタートして、1980年代後半、「愛しました(사랑했어요)」、「雨のように音楽のように(비처럼 음악처럼)」などのヒット曲を出したキム・ヒョンシクがロックの新しい時代を開いていった。
一方、フォークで開始したイ・ジョンソンがオム・インホと手をつないで、ハン・ヨンエ、キム・ヒョンシクなどを糾合して作成された、新村ブルース(신촌블루스)は韓国大衆歌謡の様式の地平を広げたし、このメンバーは「誰かいない(누구 없소)」のハン・ヨンエで見られるように、各自ソロとしての地位を固めた。
<民衆歌謡>
・1987年6月市民抗争(시민항쟁)をきっかけに、大衆歌謡界の外側で(歌い)継がれたものと運動組織に依存して存在していた民衆歌謡が、大衆歌謡市場の中に進入したのも韓国大衆歌謡史全体で空前絶後の事件である。(民衆歌謡グループの)歌を探している人、ノレマウルなどは、民主化展開と共に人気を享受しながら、民衆歌謡「松の木よ、青い松の木よ(솔아 푸르른 솔아)」、「四季(사계)」、「その日が来れば(그날이 오면)」、「白頭山(백두산)」などを一般の人たちにも人気のある曲にした。
これらの存在は、この間散発的に存在していたキム・ミンギ(「朝露(아침 이슬)」)、돌(?)などの社会批判的フォーク自作曲の歌手の存在を一陣営に束ねて認識させた、以降、チョン・テチュン、キム・グァンソク、アン・チファンなど大衆歌謡圏中の民衆歌謡の流れを作っていった。これらの活動は、放送メディアで力を発揮できなかったが、レコードと公演で人気を集めながら、影響力を発揮しており、1990年代以降、大衆歌謡の表現の自由を伸長させ、ついにレコード検閲撤廃にまで進む実質的な動力となった。
<LPからカセット、ウォークマン、CD>
・1980年代にも大衆歌謡の媒体は、多くの変化を示した。すでに、1970年代半ばに定着したカセットテープは、LP(レコード)に比べて複製と持ち運びが楽なレコードとして脚光を浴びていたが、1980年代に入っては、いわゆるウォークマンと呼ばれた小型カセットプレーヤーが急激に普及した。ウォークマンのような1人機器で歌を一人で聞く文化が青少年の間で拡散しながら、1980年代後半アンダーグラウンドは、この土台の上で成長することができた。そして作品性を重視するアンダーグラウンドの需要者たちは、1980年代末に始まった高音質のコンパクトディスク時代の最も重要な需要者に浮上した。一方、テレビは本格的なカラーテレビの時代に突入して、大衆歌謡の視覚性はますます重要になり、1980年代半からのダンスミュージック旋風は、これらの媒体の変化の中で行われたものだった。
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