歌手のステータスに、公演会場の格式がある。その意味で、会場の起源を知っておくのもいいかもしれない。
韓国の歌手の場合、音響、規模などで近代的なホールが各地に造られてはいるが、コンサートを開くべき象徴的な殿堂として、ソウルの光化門広場に面する世宗文化会館大劇場があげられるだろう。現在の建物は、火災事故後、朴正熙時代に再建したものだ。
現世宗文化会館の再建については、当時の朴正煕大統領の関わりから、東洋一の規模を狙う、「公演会場というよりも、朴正熙時代の権威主義を象徴する建築物であった」という話もあるが、まずは、この会館の成立から眺めてみたい。国家記録院のホームページにその起源について次のような紹介がある。(抜粋)
世宗文化会館:文化体育観光(部)「世宗文化会館 - 韓国現代史の生き証人」
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世宗文化会館の起源
「雩南会館」
現在、世宗文化会館がある場所に会館を設立する計画を立てたのは1955年だった。「6.25」戦争(朝鮮戦争=韓国戦争)が終わった後、李承晩(1875年~1965年)誕生80周年を記念するスペースに、現在の世宗文化会館の場所に李承晩の雅号である雩南(우남)を冠した「雩南会館」の建設を計画したものである。当時、民主党は雩南会館建設の不必要性を主張し、予算執行を妨げたが、最終的に1958年上棟式を行った。
「市民会館」
しかし、設計段階から建設費総額の正確な計算をしていない状態で始まった工事は、最初からギクシャクとしていた。1950年代末、韓国の状況は、建設基礎資材を国内で生産する能力がなかったので、鉄筋からセメントまですべてを外国から輸入しなければならず、設計当時予想できなかったさまざまな施設費などがかかり、工事費は雪だるまのように増えた。この中で、1960年4月19日「4.19」革命が起こり、李承晩大統領がハワイに亡命し、1960年8月、ソウル市議会は建設中の「雩南会館」の名称を「市民会館」に変更した。
火災
市民会館は、1961年10月、延坪2,900坪、4階建の建物で完工された、当時の韓国最高・最大の規模であった。市民会館では、韓国初のミュージカル劇団「芸グリーン楽団」の創立公演をはじめ、演劇、ミュージカル、楽劇、演奏会など各種の大衆文化公演が開かれ、毎年年末にMBC-TVの「10代歌手青白戦」が開かれ話題を集めたりもした。しかし、この市民会館は1972年12月2日「10代歌手青白戦」公演中(終演後?)の舞台上、照明装置が爆発し、起きた火事で全焼して、歴史の表舞台から消えてしまった。この火災事件は、火が出た後、慌てた主催側で急いで降ろした舞台の幕に火が移り大火になっており、この事故で、当時の市民会館館長をはじめとする50人余が死亡する惨劇が起きた。
「世宗文化会館」
市民会館が燃えてなくなった2年後の1974年、ソウル市民のための文化空間の必要性が要求され、その地に戻って市民会館建物を着工した。以来、1978年2月の時点で芸術院院長だったバク・ジョンファと世宗記念事業会などの提案で、名称を「世宗文化会館」に確定した。「世宗文化会館」と命名したのは、建物が世宗路にある点と、世宗大王の業績の敬いなどを反映したものという。世宗文化会館は、着工から4年後の1978年4月14日に開館(朴正煕大統領出席)した。
(以下略)
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