先月(6月)の2日に発表された、MBCの「大学歌謡祭(대학가요제)」(1977年~)の中止について、朝鮮日報の記事「【萬物相】大学歌謡祭」(7/14、呉太鎮(오태진)首席論説委員)は、大学歌謡際前後に出身の歌手たちと、歌謡祭の終焉を次のよう紹介している。
(本ブログ関連:"大学歌謡祭")
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・1970年代の『KBS杯争奪全国のど自慢(KBS배 쟁탈 전국노래자랑)』は土曜日の夜、人々の目を白黒テレビにくぎ付けにした。韓国初のテレビ歌謡コンテストということで、ものすごい人気だった。71年の第1回大会年末決戦のことは40年以上も前だがはっきりと覚えている。勝者は18歳のキム・ミョンヒだった。ギターを弾きながら、細かく震えるビブラートで「セノヤ セノヤ」を歌った。現在は中堅ジャズシンガー、ユン・ヒジョンとして活躍している。丸刈りの頭を毛糸の帽子で隠した高校生チョン・ヨンノクは「デュオ」というグループで出場して奨励賞を手にした。
・この番組は70年代末に一度なくなり、80年に『全国のど自慢』として復活したが、新人歌手発掘ではなく、地域の人々が集うのど自慢大会になった。77年にMBCが始めた「大学歌謡祭」に人気を奪われたためだ。そのころの大学生たちはロックバンドに夢中だった。ソウルだけでも20を超えるバンドが毎年集まり、腕を競った。大学歌謡祭は若者文化を自作曲コンテストへと導き入れ、維新体制(朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領による独裁体制)に息を詰まらせていた若者たちに熱狂的に支持された。
・初期の大学歌謡祭は歌手のイ・スマン(이수만)が司会をした。ソウル大学農学部に通う大学生のバンド「サンド・ペブルス(샌드페블즈)」にいたイ・スマンは、今やK-POP界を担う大手事務所SMエンターテインメントの会長だ。第1回大賞は、イ・スマンの4年後輩のサンド・ペブルスが「僕、どうしたら(나 어떡해)」で獲得した。このグループの1年先輩に当たるキム・チャンフンが作詞・作曲した。兄のキム・チャンワンと共に「サンウルリム(こだま)」を結成した、あのキム・チャンフンだ。釜山大学合唱団「引き潮(썰물)」の「押し寄せる波の音に(밀려오는 파도소리에)」が優勝した第2回大会も話題になった。
・第2回に準優勝に当たる金賞を受賞したのは、「曲がりくねった道(돌고 돌아가는 길)」を歌った檀国大学のノ・サヨン(노사연)だった。銀賞にはペ・チョルス率いる航空大学在学生によるバンド「滑走路」の「仮面劇」が選ばれた。だが、当時人気があったのは断然、明知大学のシム・ミンギョンだった。大学生お決まりのジーンズとTシャツではなく、きちんとした襟のある水色のワンピース姿でピアノの前に座った。歌もロックやフォークではなく、トロット(明るい歌詞やメロディーの演歌)だった。シム・ミンギョン(심민경)はピアノを弾きながら自作曲「あの時 あの人(그때 그 사람)」を情感豊かに歌った。間もなく「歌手シム・スボン(심수봉)」としてデビュー、この曲は歌謡ランキング番組を総なめにした。
・数々のスター歌手やヒット曲を生み出した大学歌謡祭が、その歴史にピリオドを打った。MBCは、「制作費がかなり掛かるのに視聴率は非常に低い。大衆と呼応できない『むなしいこだま』だった」と理由を説明した。2000年代になるとスター育成は芸能プロダクションが担うようになった。そして歌手の登竜門といえばオーディション番組に取って代わられた。昨年の大学歌謡祭の賞金は500万ウォン(約44万円)だったが、オーディション番組の賞金は5億ウォン(約4400万円)に達した。あらゆる分野間で壁が取り払われようとしている時代に、大学生という「くくり」があるのも感覚的に古かったのだろう。70-80年代に青春を過ごした世代にとってまた一つ、思い出が遠くなった。
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