当時の若者は、直接知ることもない戦争の残渣をどこかに感じていた。それは消えることのない、ある意味、心の中に直接的な響きを持っていた。自分たちが、戦争という多くの犠牲の中を生き抜いた両親の子であることに気付かないはずはなかった。戦後に生まれたこと、その命が続くという自身の存在を、いずれは問わざるを得なかったのだ。
戦争を本当に知らない今の若い世代には、身内に戦争の鮮明な記憶を聞かされることは極めて少ないだろう。だから、「戦争を知らない子供たち」のような歌が生まれてくるはずもない。ある意味、必然性もないのだろう。
時に思うことがある。ひとは個人の経験の中でしか過去を語ることができない。どんなに時代のうねりが大きくても、経験はちっぽけな一つでしかない、今にいたる一つの糸でしかないことを思い知る。たとえ記憶の糸を紡ぎ合わせて時代を知ったとしても。
DVDで映画「ひまわり(I Girasoli)」(1970年日本公開)を見た。「戦争を知らない子供たち」の視点を越えることはできないが、齢を重ねて気付き、響いてくるものを感じた気がする。時代に翻弄されても、懸命に生き、そして小さくてもよい、生きるしかないのだから。生きるために幸せを求めたことを咎めることはできない。時代が運命を切り裂いたとしも、生きる価値を見出さなくては、ひとは生き続けることができないのだから。
(本ブログ関連:”ひまわり(映画)”)
大地に咲くひまわりは、陽射しをうけて黄色の花を輝かせ、ゆったりと風の動きに身をまかせる。無限に広がる畑に咲き続けるひまわりは、命を咲かせ種を残す。
(Youtubeに登録のsrbigote owariyaに感謝)
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