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2025年4月21日月曜日

公園の花咲く樹々

このところ「夏日」(最高気温 25℃以上の日)が続いている(除:4/20)。きょうの昼下がり(14:30~15:30ころ)、日射しと暖かさにつられて2つの公園を巡った。下記の樹の花以外に、タンポポ(カントウタンポポ)の群落と、小川に「ダイサギ」が1羽いるのを見た。

月日(曜日)最高気温℃(時刻)
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4/17(木)    25.4
4/18(金)    26.2
4/19(土)    29.2
4/20(日)    24.8 13:46)
4/21(月)    26.0  (14:34)
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月曜日の平日ながら、2つの公園を流れる小川で、子どもたちが水遊びしている姿が見られた。かれらにとって、春と夏の区別はないようだ・・・遊びをせんとや生まれけん。何よりの驚きは、保護者の姿を見かけないことだ(確かに、この小川の水深は全く問題ないのだが)。

シャクナゲ
公園南側に、「シャクナゲ(石楠花)」の樹(丈3mほど)が立っていて、真紅で大振りの花を全体に飾っている。原産地はヒマラヤ山麓だそうだが、むしろ灼熱の乾燥地帯の方が似合っていそうな気がする・・・それほどに、情熱的な花だ。

(本ブログ関連:”シャクナゲ”)


ハナミズキ(写真左側2枚)、ヤマボウシ(右側2枚)
「サクラ」の後を追うように、「ハナミズキ(花水木)」の花(白や紅)が咲き、東京の街路樹を1位で飾っている。それに対して、「ヤマボウシ」の花(白)は身近でない。両者ともに「ミズキ属」に位置し、花は花弁でなく「総苞」である。花をアップした写真を載せたが、余りにそっくりなのに焦ってしまった(ヤマボウシの花は先が尖っている)。

(本ブログ関連:”ハナミズキ”、”ヤマボウシ”)

2025年4月20日日曜日

穀雨 2025、春の雨、葭(ヨシ)と葦(アシ)

きょうは二十四節気の「穀雨(こくう)」、春の雨は植物にとって恵みの雨で、この後の夏の日のもとですくすく成長を促す。

(本ブログ関連:”穀雨”)

4月に入っての雨は、4/1~3、4/10-11、4/13-14だけ(きょうまで約3割の降雨)で、晴れが勝っている。いい具合に雨が降ってくれているようだが、公園の小川の水位や自然観察園の池の貯水が心配。最高気温も今週末に夏日が続いていて、しばらく雨が望めないのだろうか。

春の雨
Googleの生成AI「Gemini」に、春の雨につけられる名を挙げてもらった。
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春雨(はるさめ):  しとしとと静かに降り続く春の代表的な雨です。潤いをもたらし、草木を芽吹かせる優しい雨というイメージがありますね。
菜種梅雨(なたねつゆ):  菜の花が咲く頃に降る、しとしととした長雨のことです。梅雨という言葉が入っていますが、梅雨よりも早く、3月から4月頃にみられます。
木の芽雨(きのめあめ):  草木の芽が出始める頃に降る雨です。新しい生命の息吹を感じさせる、希望に満ちた雨ですね。
催花雨(さいかう):  花を咲かせるのを促すように降る雨のことです。特に桜の開花を待ちわびる気持ちと結びつけられることが多いです。
甘雨(かんう):  草木を潤し、万物に恵みを与える、喜ばしい雨のことです。春の雨は、まさにこの甘雨という言葉がぴったりくるものが多いでしょう。
小糠雨(こぬかあめ):  非常に細かい、霧のような雨のことです。しっとりと辺りを濡らす、静かで繊細な印象を与えます。
霧雨(きりさめ): 霧のように細かい雨のことです。小糠雨と似ていますが、より空気中に漂っているようなイメージがあります。
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この他に、桜が咲くころの「花時雨(はなつゆ)」、春の長雨の「春霖(しゅんりん)」(=菜種梅雨)などがある。


七十二候
「穀雨」の期間を三つに分ける「七十二候」はつぎの通り。
・初候: 始生(よし はじめて しょうず) 水辺の葭/葦( あし)が芽を吹き始めるころ
・次候: 止出苗(しも やんで なえ いず) 霜が終わり稲の苗が健やかにそだつころ
・末候: 牡丹華(ぼたん はな さく) 牡丹の花が咲きだすころ


葭(ヨシ)と葦(アシ)
・葭/葦:  葭(ヨシ)と葦(アシ)は同じイネ科ヨシ属の多年草(ヨシはアシの音のイメージを避けて名付けられた)。水湿地の地下茎(根茎)の節からひげ根を出して次つぎ生える。葉先は垂れ、茎は中空で節がない(茎を編んで作った簾(すだれ)で、日よけ(葦簀(よしず)張り)にしたりする。また、水の浄化にもつながるため、「吉原」の地名に通じる。(「自然観察会」の会長の解説・資料などより)
・Wikipediaに、「4~5月に採取した若芽」を調理して食用にできると紹介がある。

2025年4月18日金曜日

シバザクラ

街の通りに信号機があり、その足元近くの敷地に「シバザクラ」*の薄紅紫の花が絨毯のようにびっしりと植えられていた。集合住宅の駐車場の角地であり、敷き詰める余裕があるのだろう。その場を通り過ぎて、引き返してポケットサイズのコンデジで撮った(次の3枚とも)。民家の草木の花が、いかに美しくても、カメラを取り出して撮影するのは今どきあり得ないが、今回は、場所がら大目に見ていただけるだろう。
(*)シバザクラに園芸種がいくつもあるだろうけれど、Googleの画像検索で同定した。


シバザクラについて、図鑑を見たが直接該当するものがない。Wikipediaの記載もあっさりしていて、この花の属名は「フロックス属」といい、「① キキョウナデシコ(草丈15~50cm)、② クサキョウチクトウ(草丈40–120cm)、③ シバザクラ」があり、「シバザクラのように数cm程の高さにしかならない種も多い」とある。人気の花なのに地味な扱いだ。

4月~5月、シバザクラで知られる公園でフェアやイベントが開かれるようだ。
これらのフェアやイベントは、人工的な栽培のためか、自然観察の立場でみなでうかがうことはないため、個人的に出向くしかない。それはそれで大変な・きついことで・・・。

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「【2025年】関東の芝桜の名所7選!芝桜祭り・見頃情報も」(2025/04/02)
    ー https://travel.rakuten.co.jp/mytrip/trend/shibazakura

2025年4月17日木曜日

(Gemini)ホンダのジェット機から宇宙のこと

Googleの生成AI Gemini に、ホンダのジェット機から宇宙のことまで聞いた(たずねた)。回答から、本当に夢のある、本気でやり遂げる企業だなと思った。

質問した言葉だけ記す。
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ホンダジェット機を制作した技術者は、どんな経歴の人たちですか? もともと自動車の技術者としてホンダに採用された人たちですか、それとも、航空技術に関係する会社からの転職者たちが多いですか?

ホンダがジェット機開発に興味を持ち、開発に着手したのはいつ頃からですか?

現在のホンダジェット機の開発に、日本とアメリカの技術者が参加しているようですが、日米の開発の分担はどのようになっているのでしょうか?

ホンダジェット機の販売は、国別にみるとどのような割合になっているでしょうか?

ホンダにおける、ホンダジェット機の売り上げは、現在~将来(計画)に渡って、どれくらいの規模と割合でしょうか?

(参考)「ライトビジネスジェット 市場規模・予測 2025 に 2032」(stlentyd、2025.04.02)
        ー https://pando.life/article/975457

想像ですが、ホンダが航空機事業を出発点として進化し、将来、宇宙産業に乗り出す気配はあるでしょうか?
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技術を捨てない、技術者を見捨てない企業だとつくづく感じた。

2025年4月16日水曜日

自然観察園の黄色い花

春の陽は次第に長くなって、午後3時過ぎでも鋭くまぶしい。そんな中、公園に併設の「自然観察園」へ出かけた。観察園は、4時30分に閉園するので、滞在時間はわずかだったが、それでもちらほらと来園者の姿が見えた。

今回は、春らしい陽気な黄色の花を探した。日射しが強く、ポケットサイズのコンデジカメラでは上手くいかず、黄色の花弁が真っ白に写っていたりした。できるだけ、そんな花弁をのぞいて選んだものを次に並べてみる。

ヤマブキ(写真左)、クサノオウ(写真中央)、ヤマブキソウ(写真右)
① 観察園入口に、草花の写真を地図に付した掲示板がある。その掲示板の傍に、落葉低木「ヤマブキ」の木立が黄色の花を咲かせている。
② 同じく掲示板の横に「クサノオウ」が黄色の花を密集して咲いている。
③ ヤマブキと似た花を咲かす「ヤマブキソウ」の群落がある。一面黄色の花が広がっているのは圧巻だ。


カントウタンポポ(写真左)、キジムシロ(写真右)
④ 春の黄色といえばタンポポだろう。萼片が上向きから「カントウタンポポ」と判別した。
⑤ 小さな斜面に、「キジムシロ」の黄色の花が密集して塊りになって、存在を示していた。


ちなみに、観察園の「かがみ池」の少ない水溜まりに、「カルガモ」が2羽より添うように浮かんでいた。

2025年4月15日火曜日

BIRDER 4月号、ラピスラズリ

野鳥趣味の月刊誌「BIRDER」は、毎月16日に号が新しくなる。実は 4月号の特集が「美しき青い鳥」で、購入しようと思っているうちに時が進み、明日から5月号が書店に並んでしまう。あわてて、近隣の書店に駆け込んで4月号を求めてきた次第。

① 「BIRDER」4月号の表紙は、「コルリ」が尾をぴんと立て、沢の倒木にとまっている写真だ。軽快なさえずりが聞こえてくるようだ。(撮影 大塚敏敏之)

② 特集「美しき青い鳥」の代表として、写真ページ「瑠璃三鳥」に、「オオルリ(大瑠璃、夏鳥)」、「コルリ(小瑠璃、夏鳥)」、「ルリビタキ(瑠璃鶲鶲、漂鳥)」が並び、瑠璃色の姿を堪能させる。(撮影・文  吉野俊之)
(瑠璃色の鳥といったら、「カワセミ」を見た以外にないのが残念)

(本ブログ関連:”瑠璃”)

コルリは喉から腹部にかけて白く、背の瑠璃色とのコントラストが、まるでWWⅡ当時の海軍戦闘機の塗装を思わせる(上から見れば海色、下から見れば空の眩しさ)。
また、色彩の豊かさでいえば、わき腹を橙色で飾るルリビタキが華やかかも知れない。

③ 漫画ページ「青い羽は強い雄の証拠」(漫画 一日一種)は、瑠璃三鳥の強い雄の話題を提供してくれるが、最後に思わぬ展開がある。カッコウ科「ジュウイチ」が、瑠璃三鳥を相手に托卵させるという・・・お人好しにもほどがある。

童話に「青い鳥」がある。メーテルリンクの原作童話を読んだわけでないが、幼い兄妹が幸せの青い鳥を求めて旅するが、クリスマスの朝目覚めて気付いたのが、本当に幸せの青い鳥は身近にあるということだったようだ。

ともあれ、「青」には幸せのイメージがあるようだ。青色は、人類にとって自然をイメージするものであって、先日(4/13)の本ブログに記したように、緑色より先に言語化されたという。
ちなみに、宝石で、ダイヤモンドの中で希少・高価なのに「ブルーダイヤモンド」がある。グリーンにあたる宝石といえば「エメラルド」(緑柱石)だが、この石にはマフィ〇のにおいがする。

石の話になってしまったので、瑠璃色についていえば、かつてのシルクロードを、人々が求めた石「ラピスラズリ(瑠璃)」の路ともいえると、「楽しい鉱物学」(著者 堀秀道)で語られていたのを思い出す。

(本ブログ関連:”ラピスラズリ”)

瑠璃色はひとを引き寄せる。

2025年4月14日月曜日

スモモも モモも モモのうち

きのうの午後からきょうの午前3時ころ深夜まで、雨が降りつづいた。このところ天候が乱れ気味だが、今朝になって打って変わって陽光がまぶしいほど輝き、清々しい一日を満喫できた。

春も変化している。サクラについて、「ソメイヨシノ」の並木道は、緑の葉影に交替している。苗圃の「シダレザクラ」の花には勢いがない。住宅街の塀越しに咲く「ヤエザクラ」だけが頑張っているくらい。

むかし、テレビ番組でいかにも市民劇のような創作(現代劇)ミュージカルを見たことがある。そこでのメインテーマに歌われた歌詞に「スモモもモモもモモのうち」があった(みな同じ仲間と表現していた)。この言葉が耳に残ったが、よく考えれば早口言葉遊びに使われている。
観察する範囲で見かける「モモ」は、「ゲンペイモモ」(観賞用で実は食えない)くらい。本来の「モモ」も「スモモ」もどこかで花を咲かせているかも知れない・・・ただ、気付いてないだけなのかも知れない。

■ Googleの生成AIの「Gemini」より抜粋

❶ 東京での、「モモ」、「スモモ」、「サクラ」の開花順序を聞いた
どうやら、モモとスモモはほぼ同時期に、サクラはちょっと遅れて咲くようだ。ということは、モモとスモモの開花を知らずにいたが、4月は咲きつづけているようだ。
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一般的な開花順序(東京):
モモ(桃): 一般的に3月中旬から4月下旬にかけて見頃を迎えます。サクラよりもやや早く咲き始める傾向があります。
スモモ(李): スモモの開花時期は、品種によって幅がありますが、一般的には3月から4月にかけてです。モモとほぼ同時期か、やや遅れて咲くことが多いです。
サクラ(桜): ソメイヨシノなど一般的なサクラの見頃は、東京では3月下旬から4月上旬です。モモやスモモよりも後に咲くことが多いです。
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モモとスモモの系統分類を聞いた
ネットで調べたところ、両者の属を異なるとするものがあるが、「Gemini」によれば、現在では次のように「サクラ属」にまとまっているという。
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モモもスモモも、現在ではサクラ属 (Prunus) に属しています
・かつて「スモモ属」と考えられていたグループは、現在ではサクラ属スモモ亜属として扱われています。
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2025年4月13日日曜日

(雑談)青と緑、どちらが先か?

以前(2/24)、本ブログの雑談として「アオ(青)とミドリ(緑)」の混用について記した。絵の具の「青」と「緑」は容易に区別できるのに、言葉になると使い分けが曖昧になる点だ。例えば、交通信号機の青ランプ=実際は緑色、青い山脈=実際は緑の木々におおわれている、といった言語と視覚の差異でもある。

(本ブログ関連:”アオ(青)とミドリ(緑)”)

そこで、今回は言葉に即して「青」と「緑」の発生を、日本語と英語について、Google の生成AI Geminiに問うてみた。長い回答を得たがそのまま載せる。

結論日本語と英語ともに、「青(Blue)」から「緑(Green)」が分化したという


■  日本語の「青」と「緑」の発生

Q.日本語で「緑」と「青」は曖昧です。「緑」と「青」のどちらが先に発生したと言えますか?
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A.日本語における「緑」と「青」の曖昧さはよく知られており、歴史的にも興味深い現象です。結論から言うと、「青」の方が先に色の概念として存在その後に「緑」が分化してきたと考えられています

以下にその理由を解説します。

1. 古代の色の認識:
古代の言語、特に色の語彙が発達していない段階では、色の区別が大まかでした。明るい色(白、黄、赤など)暗い色(黒)といった基本的な区別は早くから存在しましたが、中間色である緑や青は、他の色との境界線が曖昧だったと考えられます。
多くの言語で、青と緑を区別する語彙が比較的新しい時代に現れる傾向があります。

2. 日本語における「青」の広範な意味:
古代日本語の「青(あお)」は、現代の「青」だけでなく、緑色のものに対しても広く使われていました。例えば、青葉(あおば - 緑の葉)青菜(あおな - 緑色の葉野菜)青々とした(あおあおとした - 緑が鮮やかな様子)などがその名残です。
これは、「青」という言葉が、未熟で生き生きとした植物の色、あるいは自然の色全般を指す広い概念を持っていたことを示唆しています。

3. 「緑」の成立:
「緑(みどり)」という言葉は、平安時代頃に「萌葱色(もえぎいろ)」など、植物の芽出しの色を表す言葉から独立してきたと考えられています。
「みどり」の語源は、「瑞々しい(みずみずしい)」「芽出し(めだし)」といった言葉と関連付けられています。これは、「緑」がもともと植物の新芽の色、つまり生命力溢れる色として認識されたことを示唆しています。
徐々に、植物の色特にの色を表す独立した概念として「緑」が定着していきました。

4. 現代語における曖昧さの残存:
現代日本語でも、「青信号」「青りんご」「青汁」のように、実際には緑色のものを「青」と表現する例が残っています。これは、かつて「青」が緑を含む広い範囲の色を指していた名残と考えられます。

まとめ:
以上のことから、日本語においては、まず「青」という広い概念の色名が存在し、その後に植物の色、特に新芽の色を表す「緑」が分化・独立してきたと考えるのが自然です。現代に残る「青」の曖昧さは、その歴史的な経緯を物語っています

これは、言語における色の認識が、文化や自然環境との関わりの中で徐々に細分化・明確化されていく過程を示す興味深い例と言えるでしょう。
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■  英語の「青」と「緑」の発生

Q.それでは、「英語」の単語の場合、「Blue」と「Green」の発生はどちらが先だったのでしょうか?
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A.英語の単語「Blue」と「Green」の発生に関しても、日本語と同様の傾向が見られ、「Blue」の方が先に色の概念として存在し、その後に「Green」が分化してきたと考えられています。

以下にその理由を解説します。

1. 歴史的な記録:
インド・ヨーロッパ祖語(PIE)に遡ると、青を表す語根である *bʰlēw-* が存在していました。この語根は、ラテン語の flāvus(黄色)古代教会スラヴ語の blěvъ(青白い)古高ドイツ語の blāo(青)など、多くのインド・ヨーロッパ語族の言語に痕跡を残しています。英語の "blue" もこの語根から派生しています。
一方、「Green」に対応する明確なインド・ヨーロッパ祖語の語根は特定されていません。これは、緑が初期の色の語彙において、他の色(特に黄や青)との区別が曖昧だった可能性を示唆しています。

2. 古英語の状況:
古英語の時代には、現代の「blue」に相当する語(blāw など)が存在していました。これは、空や海の色を表す基本的な色として認識されていたと考えられます。
「Green」に相当する古英語の grēne は存在しましたが、その意味範囲は現代英語の「green」よりも広く、未熟な新鮮な活気のあるといった意味合いも含まれていました。これは、緑が植物の成長や生命力と強く結びついて認識されていたことを示唆しています。

3. 言語間の比較:
多くの言語において、青を表す基本的な語彙が古くから存在し、緑を表す語彙が比較的後から分化する傾向が見られます。これは、空や水といった自然界の顕著な青色の存在が、初期の色認識において重要だったためと考えられます。
緑は植物の色として多様であり、他の色との境界も曖昧だったため、独立した色概念として確立するのに時間がかかった可能性があります。

4. 文化的な要因:
古代社会において、空や海の色である青は、神聖さや遠い世界といったイメージと結びつけられることがありました。一方、緑は身近な植物の色であり、生命や成長の象徴ではありましたが、独立した色名として強く意識されなかった可能性があります。

まとめ:
英語においても歴史的な言語学的証拠や他の言語との比較から「Blue」の方がより古い起源を持ち基本的な色の概念として先に存在していたと考えられます。「Green」は、植物の色、特に成長や生命力を表す意味合いを持ちながら、徐々に独立した色概念として確立していったと考えられます。

この現象は、人間がどのように自然界の色を認識し、言語化していくかの過程を示す興味深い事例と言えるでしょう。基本的な自然の色、特にの色が、初期の色の語彙において重要な役割を果たしたと考えられます
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ジャングルを出てサバンナへ向かった我々の祖先は、「緑」に覆われたジャングルを忘れ、「青々」と天空の広がる大地の記憶から始まっているのだろうか? それとも、植物の緑が当たり前過ぎたのだろうか?

4月の満月(ピンク・ムーン)、桜もち

きょう(旧暦3月16日)*の月は「満月」。今晩20時過ぎに曇りから小雨となるが、月の出は17時36分なので、19時頃に東南東、高度15.2度の空に浮かぶはず・・・。どうやら天気の按配がよくない。(実際のところ、満月の時刻は9:22 )
(*)旧暦3月の和名の「弥生(やよい)」は、「木草(きくさ)弥(いや=ますます)生(お)ひ茂る月」を語源とされているとのこと。

(本ブログ関連:”満月”)

■ ウェザーニュース
「3月のいろいろな呼称 『弥生』以外にも桜にまつわるものなど」(2023/03/01 05:00)
    ー https://weathernews.jp/s/topics/202302/280125/

米国の「農事暦」**では4月の満月を、この季節に満開になるピンク色の「芝桜」に由来して「ピンク・ムーン(Pink moon)」という。
(**)農事暦(The Old Farmers’ Almana): https://www.almanac.com/

■ ウェザーニュース
「春の夜空を照らす満月『ピンクムーン』が浮かぶ」(2022/04/16 19:57)
    ー https://weathernews.jp/s/topics/202204/160185/


桜もち
そういえば、秘密(自称)の桜並木は緑が増して、普通の並木道に戻った。それを惜しんで「桜もち」を食ってみたくなる。この菓子には三つの悩みごとがある。下記の選択について、わたしの場合、いずれも後者になるのだが。
・一つ目は、菓子を包む葉***を一緒に食べるか、食べないかだ。
・二つ目は、餡を包むのが、小麦粉の薄焼きの「長明寺」か、もち米の「道明寺」かだ。
・三つ目は、餡が粒餡か、漉し餡かだ。
(***)桜もちの葉: 「オオシマザクラ」の葉が使われる。先日(4/6)の観察会で、花の顎下部分を切って舐めると、かすかな甘味を感じた。

■ ウェザーニュース
「『桜餅』といえばどっち派?全国各地で“関西風”が優勢」(2022/04/03 12:14)
    ー https://weathernews.jp/s/topics/202204/020185/

ところで、歳時記「俳句歳時記 生活」(楠本憲吉編、カラーブックス 保育社)の「桜餅」の項に、高浜虚子の「三つ食へば葉三片や桜餅」の句がある。勢いで三つ食うほどに美味かったのだろう。皿に残った三片の葉を見て思い出し、苦笑いしているところか。ちなみに、虚子さんは、葉を食べない派のようだ。

(付記)
昔、珍しくカラーページを多用した文庫本スタイルの保育社の「カラーブックス」が流行った。図鑑の出版社らしく、あらゆる分野を網羅的にまとめていた。ポケットサイズで手軽、満喫した覚えがある。現在、新刊本はどうなのだろうか? 

2025年4月12日土曜日

(資料)「笈埃(きゅうあい)随筆」にある八百比丘尼

先日(4/9)の「八百比丘尼」の続き。

「江戸奇談怪談集」(須永朝彦 編訳、ちくま学芸文庫)には、江戸期の奇談・怪談について記した書物を並べ、それぞれの代表的な話題をピックアップしている。八百比丘尼を語るとき、まずあげられる資料に、桃井塘雨(ももいとうう)の「笈埃(きゅうあい)随筆」がある。

(本ブログ餡連:”八百比丘尼”)

上記怪談集に掲載の「笈埃随筆」の「八百比丘尼」から、ポイントを抜き出して以下に記す。

① 書き出しは、万葉集の歌から始まる。坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ:坂上郎女(いらつめ)の長女)が、万葉集編者の大伴家持に贈った相聞歌である。(この二人は後に結婚した)
「かにかくに人は言ふとも若狭道後瀬の山(のちせのやま)*の後も逢はむ君」
後瀬山は、文字面から象徴的に(後に逢瀬するの意で)使われただけで、都びとが若狭まで足を運んだわけではないようだ**。
(*)八百比丘尼は各地を巡った最後に小浜(おばま)に戻り、「後瀬山」で入定したとされる。
(**)資料:「すさまじきもの ~「歌枕」探訪~」の「後瀬山(福井県小浜市)」
    ー https://saigyo.sakura.ne.jp/nochisenoyama.html

②「八百比丘尼の父は秦道満(はたのどうまん)と申す由」とあり、秦の苗字を名乗っていて帰化系の響きを感じてしまう。また、名は堂満で、「陰陽師」(おんみょうじ)の「安倍晴明」と宿敵である「蘆屋道満(あしやどうまん)」が浮かんでくる・・・。

③ 八百比丘尼が「隠岐」まで訪れて杉を植え、「八百歳を経て後に、また来りて見ん」といったとある。上記の八百比丘尼が各地を巡った例のひとつ。

④ 伝説で、父親がある宴から不信に持ち帰ったもの(人魚の肉)を、娘が知らずひそかに食して八百比丘尼になるというのが主な展開だが、妻が食った例もある。妻は、その味覚・感触を次のように語った。
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・ 一口食した時は、味わい甘露のごとくに覚えましたるが、食し終えるや身体(からだ)蕩(とろ)け死して、夢のようにござりました。
・ 暫(しば)しの後、覚めますると、気骨は健やかに、目は遠くまで利き、耳はよう聞こえ、胸中は明鏡のように覚えまする。
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結果、妻は長寿を得て、親族七代を経ても生き続けた。「遂には若狭の小浜に至ったという」。

2025年4月10日木曜日

ゲンペイ(ハナ)モモ

体操教室の帰り道、畑地の端に人の背丈ほどの高さの「ハナモモ」の木と出会った。
例年この時期、ハナモモの2本の木立が、白い花と薄紅色の花を同じ幹から咲かせている。紅白二色が見られることから、源平の戦で源氏(旗色:白色)と平家(旗色:紅色)の旗色に合わせて、「ゲンペイモモ」と呼ばれる「モモ」の園芸種である。

今年、なぜか手前の木(写真左側)の花に、白色が多いように見え、奥の木(写真右側)にはいつも通り、白色と薄紅色の花が咲いている。

(本ブログ関連:”ゲンペイ(ハナ)モモ”)


ハナモモの原木である「モモ」について:
・以前(2005年4月17日)、水晶の代表的産地である山梨県の「乙女鉱山」に鉱物採集に行くため、勝沼のICを降りたところ、盆地一面に桃の薄桃色の花が広がっていた。驚嘆して、目一杯春を感じた思い出がある。

(本ブログ関連:”乙女鉱山

・陶淵明は、「桃花源記」で、桃の林の奥先に時間が止まった「桃源郷」との不思議な出会いの伝説を詩っている。モモの花には、サクラと違う物語がある(強いていえば、モモには時間の永続性が、サクラには時間の局面性が・・・)。

(本ブログ関連:”桃源郷”)


■  資料(Googleの「Search Labs 」AI による)
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桃には、果実を食べる「実桃と、花を楽しむ「花桃の2種類があります。
                                 実桃                                            花桃                           
用途                食用として栽培される                観賞用に栽培される
特徴                果実が大きく、甘みがある          花が大きく、八重咲きのものもある
生育環境          比較的暖かい地域を好む             寒冷地に強いという特徴がある        

実桃
「黄桃」や「白桃」など、よく知られている桃です。日本には弥生時代に渡来したとされ、平安時代には「桃の節句」に桃の花が観賞されるようになりました。

花桃
 園芸種として栽培されており、「ひな祭り」の時期に購入できることもあります。花桃は、枝いっぱいに咲き誇る桃の花が淡いピンク白色花びらで満たされ、その光景はまるで桃色の雲が空に広がるかのように美しいです。
花桃には、実がなることもありますが、苦みや酸味が強かったり、あまり大きくならなかったりと、一般的に食用には向いていません。
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2025年4月9日水曜日

花散るさくら並木道

昼過ぎ、秘密(自称)の「さくら並木」に出かけた。見上げると、青空を白い花びらが覆っている。いくつかの枝先から緑の葉が出ているのに気付く。舞台飾りが入れ替わるタイミングになったのかも知れない。


目を下に向ければ、路上に花びらが思いのほ重なっているのに気づく。そろそろ桜吹雪も悪くない。

(資料)八百比丘尼

先日(1/27)のブログに、「椿(ツバキ)」の分布と八百比丘尼の関係について、柳田国男が「雪国の春」で「(福井県)若狭の八百比丘尼(仏教の尼僧)のごとく、玉椿の枝を手に持って、諸国を巡歴したという旅人はあったのである」と述べたことを記した。

(本ブログ関連:”八百比丘尼”)

そこで、まず八百比丘尼についての思い出を記したい。八百比丘尼を初めて知ったのは、NHKのテレビドラマ「女人幻想」*(1972年)の現代劇を見てのことと思う。主演の佐藤友美(1941年10月8日~)は、八重歯が印象的な女優で、日本人にはそんな歯並びが好まれる**。それに、ちょっと擦れ声した(いわゆる妖艶さとは違う意味での)ハスキーボイスも魅力的だった。
(*)「女人幻想」(1972/02/26、22:10-23:40、番組表): テレビドラマデータベース
    ー http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-13062
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不老不死の女性八百比丘尼の伝説を下敷きに時空を越えた愛を描く。【以上、文・のよりん】突然失踪した妻の行方を捜す若い医師と、彼につきあって旅に出た作家がたどる怪奇な旅。
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(**)八重歯について、以前、韓国語の教室で、日本人の歯並びを口にした者がいた。日本人が八重歯を好む(愛らしく感じる傾向がある)のを不思議がっていたので、こんな例を伝えた・・・それは中東・北アフリカの羊市場で、買い手が商品の羊を品定めするとき、唇をめくり歯並びを確認(重視)すると。日韓の歯並びに対する視点の違いを、朝鮮の場合、高麗時代に長くモンゴルの支配下にあったからではないかと仄めかしたわけで・・・それを聞いた発言者は黙ってしまったことがあった。

さてドラマに戻ると、場所を変えて現れる或る女性を追い続ける、追慕を描いた不思議な印象を受けたが、物語の展開をつぶさに記憶に残していないのが残念。


以下、八百比丘尼に関する資料を探した

■ 鳥取短期大学研究紀要 (46), 21-38, 2002-12-01  ← 論文としての調査報告(都道府県別一覧表がある)
「八百比丘尼伝說 一 山陰を中心にその伝承の種々相を考える一」(酒井董美(ただよし))
    ー https://cygnus.repo.nii.ac.jp/record/276/files/bulletin46_03.pdf
以下「要旨」から:( )内の用語は論文内に記述のもの
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わが国には「八百比丘尼」に関する伝説が多く,27都府県にわたって存在している・・・
要旨は,漁師たちが竜宮に招かれて,人魚の肉を料理に出されるがだれも食べないたまたま一人がそれを持ち帰り,そこの娘(未婚女性)が食べたところ八百歳の長寿を得,しかも容姿は若い娘のままである娘は比丘尼(仏教への帰依)となって諸国を行脚し,植樹をしたり橋などを建立したりするが,最後は若狭の国で入定するというのが一般的な形である.本稿ではこの説話と「浦島太郎」の説話を対比(浦島伝説の方が古い)させながら,人々の長寿を願う気持ちを背景に,祖霊信仰を踏まえて成立したものであることを,民俗学の立場から考察したものである.
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上掲論文は、東大寺の二月堂で春に行なわれる「修二会(しゅにえ)」の法会の行事「お水取り」との関係を説明している。八百比丘尼が入定したという、若狭の小浜から「若水」が送られる「お水送り」に何かの象徴を感じる・・・以前数度、東大寺のお水取りに、火の粉をかぶりに行った覚えのある者にとってハッと驚く。

Youtube(登録: おどろ寺子屋)八百比丘尼の物語を名調子に要約されている。
「【怖い伝説】八百比丘尼〜人魚の肉を食い不老長寿・不老不死となった娘〜怪談朗読」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=4MKP882Bq5I

Youtube(登録: 福井県小浜市の公式チャンネル)
「八百比丘尼物語」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=m0VAkOJYW5E

百目鬼恭三郎著「奇談の時代」(朝日新聞社(出版))
① 「不死伝説」として、室町時代に記された八百歳の老尼に記録(下記、柳田国男が記す「臥雲日件録(がうんにっけんろく)」)より始まる。ただし、見世物的要素があり「ウサンくさい」としている。他に長老の人物(痴呆)を利用した例があるという。
② 同様に柳田国男も触れている、林羅山が若いときにこれに関心を持ったということに触れている(まあ、合理主義者の林羅山が興味を示したといえば、ちょっと耳を傾けたくなるわけで・・・)。

柳田国男著「雪国の春」の「若狭の八百比丘尼の物語」(「青空文庫」より)
    ー https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html
① 親が手に入れた人魚の肉を娘が食ってしまい、八百比丘尼となる構図である。 
② 八百比丘尼は日本各地を巡りながらも、その終結点として若狭の地があげられる。
③ この伝承は、「発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であった」としている。

<人魚の肉>
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 前に申した若狭の八百比丘尼の物語は、・・・ 足利氏の中期に、若狭に八百比丘尼という長生の婦人ありしことは、すでに馬琴の『八犬伝』によってこれを知った人が多いが、少なくとも当時その風評は高く、ある時は京洛の地に入って衆人に帰依せられたことは、文安六年五月から六月までの、『臥雲日件録(がうんにっけんろく)』や『康富記(やすとみき)』、もしくは『唐橋綱光卿記(からはしつなみつきょうき)』など、多くの日記の一致するを見れば疑うところはないのである。ただしいかにしてそのような長寿を得たかは、これらの記録には何も見えず、林道春(追補:林羅山)が父から聞いたといって、『本朝神社考』に書いたのが一番に古いが、これとても『清悦物語』の出現よりは前であった。すなわち昔この比丘尼の父、山中にして異人に逢い、招かれて隠れ里にいたる。人魚の肉を饗せられてあえて食わず、これを袖にして帰りきたるを、その女食いて長寿なりといっているのがそれである
 同じ話はまた『若狭郡県志』、『向若録』などにも出ている。この方では父は小松原という村の人で、海に釣をして異魚を獲たのを、娘だけが食べたということになっている美しい女性のいつまでも若いのを、「人魚でも食ったのか」という習いは、今でも諺のようになって残っている。基づくところかくのごとく久しいのである。・・・しかるを本人は怪しんであえて食わず、かえって無邪気なる小娘が、その恩恵をもっぱらにしたということは、話の早くからの要件であったと見えて、現に『清悦物語』でも同行者の一人がこれを持ち帰り、その女のこれを食うた者がつい近ごろまで存命であったと、不必要に問わず語りを添えているのである。『塩松勝譜(えんしょうしょうふ)』には常陸坊海尊、衣川にて老人に逢い赤魚をもらって食った。その婢女もまたこれを分ち食したとあるのは同じ話である。

 桃井塘雨(ももいとうう)の『笈埃(きゅうあい)随筆には、今浜洲崎という地に異人来り住み、一日土地の者を招いて馳走をした。人の頭をした魚を料理するのを隙見して、怖れて食う者もなかったが、ただ一人これを懐にして帰り、その妻知らずしてこれを食ったという話を載せている。これは疑いもなく寛永二年の隠岐島紀行、『沖のすさび』のまる写しであって、彼には伯耆(ほうき)弓浜の洲崎の話となっているのを、今浜洲崎と改めて若狭まで持ってきただけである。味は甘露のごとく食し終わって身とろけ死して夢のごとく、覚めて後目は遠きに精しく耳は密に聞き、胸中は明鏡のごとく顔色ことに麗わしとあって、ついに生き残ってしまったのである。七世の孫もまた老いたり、かの妻ひとり海仙となりて山水に遊行し諸国を巡歴して若狭にいたり、後に雲に乗りて隠岐の方に去れりとも記し、すなわちこの島焼火山その他の所々の追跡を説明しているのである。人の妻とある例はこれがただ一つであるが、海仙となって諸国に遊んだというのが、何か海尊仙人の口碑と因縁あるべく思われるただしこの話は九州を除くの外、ほとんど日本の全国に分布し、しかもたいていは同じ由来談を、若干の差異をもって説いているので、すなわち平泉の清悦の奇怪談が、必ずしも一人や二人の与太話よたばなしでなかったことだけは、もう十分に証明せられるのである。
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<八百比丘尼の事>
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 しからば人魚の効能と『義経記』との関係やいかん。それを考えるにはなお少しく類似の例を列挙してみなければならぬ。若狭の方面には『沖のすさび』のほぼ同じころに、貝原益軒(かいばらえきけん)の『西北紀行』があって、忠実に土地の所伝を録している。小浜の熊野山の神明社に、そのころはすでに比丘尼の木像と称するものがあり、しかもその由来記はまた別箇の趣を具えていた。昔この地方に六人の長者、おりおり集まって宝競べの会を催していたが、その一人人魚を調味して出したのを、五人の客疑って食わなかった。それから家に持ち帰って少女が食ったという段は、すべて他の例と一つである。
 佐渡では羽茂はもちの大石という村でも、八百比丘尼この地に生まると説いている。やはり異人饗応の話があり、人魚の肉によって千年の寿を得たのだが、その二百歳をさいて国主に譲り、女自身は八百歳に達した時、若狭に渡って死んだと伝えている。『播磨鑑』では私などの郷里神崎郡比延村に、この比丘尼は生まれたと主張する。これも八百になって比延川に身を投げたともいえばあるいは今一度人魚を捕りに、明石の浦へ出かけたまま帰ってこぬなどともいうのである。土佐国でも同じ人の海に入った話、その他いろいろの遺跡はあるのだが、人魚に関係せぬものはすべて省略する。『西郊余翰(さいこうよかん)』巻一に、土佐高岡郡多野郷の賀茂神社にある八百比丘尼の石塔の事を記しているが、白鳳(はくほう)十二年という大昔、この海辺に千軒の民家があった時代という。七人の漁翁が人魚を捕って刑に処せられた。七本木というのがその古跡である。村に一人の医者があって、ひそかに一切れの肉を貰い受けて、自分の娘に食わせると、すなわち後の八百比丘尼になった。三百年を経て一度帰り、この石塔を建てたともいい、あるいは死んだ後に若狭から届いてきたともいうが、人魚を食ったという証拠にはならぬのである。
 関東諸国ことに東京の周囲にも、この比丘尼の栽(う)えておいたという老木が多く、下野にも上総にもいろいろの遺跡はあるが、人魚の話はまだ聞いていない。しかも海もない美濃などにも、やはり麻木長者の娘が麻木の箸に付いた飯を、苧ヶ瀬池(おがせいけ)の魚に施した陰徳で、八百比丘尼となって若狭に往って死んだというのが同じだったらしく、さらにさかのぼって飛騨の益田郡、馬瀬の中切の次郎兵衛酒屋の話などは、山国らしい昔話に変化して今も語られる。この酒屋へおりおり一人の小僧が小さなヒョウタンを持って一斗の酒を買いに来る。疑わずに量って与えると、いくらでもそのヒョウタンへ入るのだ。試みに小僧の跡をつけて行けば、村の湯ノ淵という所までやってきて振返り、わしは竜宮の乙姫さまのお使だ。おぬしもござれと引っ張って行き、わずか三日の間款待を受けたと思ったらもうこの世では三年の年の終わりであった。帰る際に竜宮の宝でキキミミという箱を下される。耳をこれに付けていると、人間にはわからぬどんな事でも聞かれる。家に娘があってそれを不思議に思い、誰も知らぬ間にそっと開いてみると、箱の中には人魚の肉が入っていて、いかにもうまそうな香気がする。ついにその古い肉を食ってしまうと、そのお蔭で娘は八百比丘尼になった。村の氏神の雌雄杉の根もとへ、黄金の綱をこしらえて深く埋め、いよいよという場合には出して使えといって、自分は仙人になっていずれへか出て往ったというのである。ちょうど刊本の『義経記』が編纂ものなるごとく、これも地方に流れている三つ五つの物語を、端切り中をつんで冬の夜話の用に供したものらしい。
 まだいくつかの例が残っているのである。『丹州三家物語』に録するところは、ほとんど『神社考』と大差なくただ比丘尼の生地を若狭鶴崎としたのみだが、丹後には別に竹野郡乗原という部落に、旧家大久保氏の家伝というもののあることを、近ごろの『竹野郡誌』には詳述している。ある時この村へ一人の修験者が来ておって、庚申講(こうしんこう)に人々を招いた。それから先は例のごとくだが、この家の娘は比丘尼ながら、樹を栽え石を敷きいろいろと土地のためになっている紀州那賀郡丸栖村(まるすむら)の高橋氏でも、庚申講の亭主をしていると、見なれぬ美人がきて所望をして仲間に入った。その次の庚申の日には私の家へきて下さいと招かれたが、その晩土産といって紙に包んでくれたのが、例の人魚の一臠(きれ)であった帰って帯を解くときふと取落とすと、その折二、三歳の家の小娘が拾ってのみ込んでしまった云々と伝え、今もその家の子孫という某は住んでいるが、この事あって以来いつも庚申の晩には、算(かぞ)えてみると人が一人ずつ多くいるというので、とうとう庚申講は営まぬことになった。ここでもどういうわけか八百比丘尼は、末に貴志川へ身を投げて果てたと伝えている。越後の寺泊に近い野積浦の高津家にも、やはり人魚を食った八百比丘尼はこの家から出たといい、今も手植えの老松が残っている。同じく庚申講の夜山の神さまに招かれて、そんな物をもらって帰ったというのである。最後にもう一つは会津の金川寺という村でも、比丘尼はこの村の昔の住人、秦勝道の子だったという口碑がある。勝道はまた庚申講の熱心な勧進者であったが、村の流れの駒形岩の淵の畔(ほとり)において、やはり竜神の饗応を受け、その食物を食べたという点は、丹後紀伊などと似ていた。ただしこれだけは人魚でなくて九穴の貝というものであった。
 捜したらまだ何ほども例は出てくるのだろう。私が知っただけでは娘が取って食ったというのが、平泉を加えて十件あり、食物はそのただ一つのみが九穴の貝であり、さらに庚申講の晩というのが、互いに離れた土地に四つまでもある天平以前に庚申祭などがあったかと、野暮な疑問を抱くことを止めよ。庚申は要するに夜話の晩であった終夜寝ないで話をするために、村の人の集まる晩なのであるすなわち人魚を食ったという長命の女の奇蹟を、発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であったのであるその話をさも事新しく、なるべく知った人の多くおらぬような土地へ、こうして持ってこようという考えの者が、昔もあったことだけは想像せられる
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■ 日本伝承大鑑
「八百比丘尼入定洞」← 伝承の地、小浜で八百比丘についてのガイド
 ー https://japanmystery.com/fukui/ningyo.html

■ 福井県小浜市加斗コミュニティーセンター
「玉椿(八百比丘尼)」・・・ 小浜の後瀬山で入定時に詠んだとされる歌がある
「たのみなば 命のほどや ながからん いわまのしずく つきぬかぎりに」
    ー https://www1.city.obama.fukui.jp/obm/kouminkan/kato_k/profilepost/189

(参考)上掲の歌について、Geminiによる解説
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歌の意味を解きほぐす
・たのみなば: 「もし頼むとすれば」という意味で、仮定の条件を表しています。
・命のほどや: 「命の長さはどうだろうか」と、自身の寿命について問いかけています。
・ながからん: 「長く続くのだろうか」と、寿命の長さを疑問視しています。
・いわまのしずく: 岩穴から落ちる雫を比喩として用いており、生命の儚さ、無常さを表しています。
・つきぬかぎりに: 「雫が尽きるまで」という意味で、生命の終わりを暗示しています。

全体的な意味
・この歌は、八百比丘尼が長い年月を生き、多くの経験を積んだ上で、自身の命の終わりが近いことを悟り、詠んだ歌だと考えられます。
・岩穴から落ちる雫のように、自分の命もいつかは尽きるという、生命の有限性を深く認識し、そのことを静かに受け入れている様子が伺えます。
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(参考)
ところで、むかし(1980年代初期)、家族と一緒に居間のテレビで、吉永小百合主演のNHKドラマ「夢千代日記」を視聴した。当時、テレビドラマには、日本人の心象を、その経験を通じて奥深くから巻きあげるように描く。この作品について、多くの方がいまもネット上で語っている。

2025年4月8日火曜日

花まつり

むかしのこと、職場の仲間が集まって音楽の真似事をしようということになり、アンデスのフォルクローレ(民族音楽)演奏にチャレンジした。ケーナ(縦笛)やサンポーニャ(パンフルート)などで編成した中で、わたしはフルートのわずかな経験があったのでサンポーニャを選んだ。

忘年会だったか、みなの前で演奏を披露した。さて何の曲だったか・・・。本当は、フォルクローレの代表的な「花まつり(El Humahuaqueño)」を演奏したかったのだが、急場仕立ての編成だったので、とても手が出せなかった。そのような程度なので、1回の発表で終わってしまった。でも仲間と和気あいあい練習できたので、よい経験をしたと思う。

■ Youtube(登録: musixarg)
「"El humahuaqueño" Versión original del autor」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=zHFbHfAK8wU


ところで、きょうは仏教におけるお釈迦さまの生まれた日を祝う「花まつり(灌仏会:かんぶつえ)」だ。アンデスの「花まつり」とは違って、お釈迦さまの小さな像に甘茶をかけるのだが、祭りのサイズが幼稚園児/保育園児に合って、しばしば彼らが行事に参加する映像が見られる。幼児に、甘茶の甘さにひかれて喜んで参加した子がいるに違いない。

(本ブログ関連:”花まつり”)

去年、ある寺院に出かけて花まつりの行事を見た・・・といっても、そのとき境内に誰もいなかったが。お釈迦さまの像とまつりの飾りを見ただけで、甘茶をかけることをしなかったのが今も気掛かりだ。今年のきょうは、別用があって出かけられなかったので、来年は甘茶をかけられるよう願っている。

2025年4月7日月曜日

ベーカーさんちでの英語ゲーム

遠いむかし、小学生のころ、父の会社で英会話を指導していた年配の英国婦人がいた。父と同僚の子どもたち向けに、婦人の自宅で月に数度、英語に親しむようミニ教室を設けてもらった。毎回、絵カードを出して英語で答えるといったゲームのような指導だった。実は、何よりうれしかったのは、指導の最後にお茶とお菓子が用意されたことだ。

もうひとつ興味があったのは、国鉄中野駅から西武江古田駅へ向かうバス(関東バスだったか西武バスだったか)に乗って揺られながら、踏切を越えて、哲学堂の横を通る街の風景を見るのも楽しかった。わたしにとって、それはちょっとした遠出だったからだ。また、同じバス路線を走る別会社の運転手さん同士が、すれ違いざまに互いに挙手で挨拶するのを見るのも関心ごとだった。
教室の帰りには、子どもたちが一緒にバスに乗り、英語ゲームのことをすっかり忘れてはしゃいでいたのを思い出す。

ところで、婦人の名はベーカーさんといった。物静かで、子どもたちに穏やかな表情をいつも向けてくれた。教室で茶菓子をいただくとき、ベーカーさんの名から、素朴にパン屋さんを想像した。もしかしたら、多分、この茶菓子を目当てに通い続けることができたのかもしれない。

そういえば、こんな話をしてくれたことを思い出した。ベイカーさんが子どものころ、キャベツの頭といわれて叱られるのが怖かった・・・、というのは、キャベツは刈り取られてしまうからだ。
今になって、そのような言い回しがあったか、生成AIのChatGPTにたずねたところ、「昔の英国文化や民間伝承の中で、こうした言い回しがあったことは確かです」と回答があった。

婦人は一人住まいだったのだろうか、ときどき、娘さんが子どもを連れてこられた。英語のゲームといっても少々疲れ気味の子どもたちに、ちょっと顔を出して和ませてくれた。

結局のところ英語に慣れたけれど、本人に自覚がなければさらに向上しないと、後に自覚することになった・・・。貴重な時間だったのに。

2025年4月6日日曜日

公園の観察会(植物編)

定例の、自然観察会(わりあい植物に目を向ける)と、野鳥観察会(探鳥会)は、それぞれフィールドを隣接する公園に分けて実施している。今回、野鳥観察をもっぱらにする公園で、地元の文化協会主催の「桜と春の生きもの観察会」*(10:00~11:00過ぎ)に参加した。
(*)観察会:<サクラの品種や樹々> と <スミレなどの野草> を中心に植物観察した。

薄曇りながら温かく(16.5℃)、小雨の心配も杞憂に終わり濡れることはなかった。今回、公開のイベントのため、年配者が多数集った。一方、ガイド役は若手で、テンポよく公園を巡った。

ヤマザクラ(サービスセンター前)

観察の集団にしばしば遅れることがあり、ガイド氏の説明を聞き逃したり、聞き間違ったことがあるかもしれないが次に列記する。

サクラ
・園内に40種、約1,000本ある
    ー 早咲き(12月~):カンヒサクラ(寒緋桜、濃紅色)、ジュウガツサクラ(十月桜、淡紅色~白色)
    ー 遅咲き(4月~):ヨウキヒ(楊貴妃、淡紅色)、ウコン(鬱金、淡黄緑色)、ギョイコウ(御衣黄、黄緑色)
・サクラの種類は、在来種8種(ヤマザクラ、オオシマザクラなど)を交配することにより約400種ある。
・ヤマザクラは、国分寺崖線の雑木林にある。花と赤みを帯びた葉が同時に開く。
・オオシマザクラの花の顎下部分を切って舐めると、かすかな甘さを感じた。葉は桜餅に使用。
    ー 嘴(くちばし)の長い、ヒヨドリやメジロは、花の中心部に嘴を差し入れて蜜を吸う。
    ー 嘴の短い、シジュウカラは、花の横から子房に穴を開けて密を吸うため、花を落とすことがある。
・ソメイヨシノは、江戸末期~明治初期に作られた。

野草
・タチツボスミレが、歩道と路面の角に花を咲かせているのが見られるのは・・・。
    ー アリの巣が近くにある
【Googleの Search Labs(AI)による概要】
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タチツボスミレの種子にはアリが好む付着物エライオソーム)がついており、アリが巣まで運んでいきます。アリは巣の中で付着物をはずした後種そのものはゴミとして巣の外へ運び出します。このように、スミレ類はアリにタネを運ばせることによって、より遠くまでタネを分散させています。
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・ニリンソウ、フデリンドウを外来雑草から守るため、公園に群生地の囲いを設けている。


タチツボスミレ(写真左)、ニリンソウ(写真中央)、フデリンドウ(写真右)

2025年4月5日土曜日

野鳥観察(80)

きょうは野鳥観察(探鳥会)の日だ。今月から集合時刻が30分早まった(4月~9月:6時30分、10月~3月:7時00分)。寒さが少し緩和したとはいえ早朝の寒気を心配したが、冬着(防寒着)に身を固めるまでの必要はなかった。

(本ブログ関連:”野鳥観察”)

以前(3/22)のブログで言い訳の通り、寒さから逃れて布団の温もりに埋没し、探鳥会を欠席することがしばしばあった。そのため、ある出席回数の区切りになかなか到達できずいた。ついにきょうを以って、2020年8月22日に入会以来、80回目の出席になった。集合場所を太陽がまぶしく照らしている。
ー なお、同探鳥会は、2025年1月25日に、開催200回目を迎えている。


公園にある林の散策路と小川を巡って行なうバードウォッチングに同行してきたわけで、われながらよく続いたものと思う。繰り返し参加すれば観察眼が何とかなるのではと念じて期待したが、感度は鈍く低空飛行のままだ。ベテランの方がたの指導がなければ、続けられないのが実情。

今回も、ベテランの方から解説いただいたり、自分なりに目視とカメラで確認・整理したものから、次に記す(聞き間違いがありましたらご容赦)。
・シデコブシ: 公園西端の集合場所(写真の通り)
・ゲンペイ(ハナ)モモ: 公園西端の集合場所(写真の通り)
・ヤエベニシダレ: 公園の小川沿い小道(写真の通り)
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・コゲラ: 幹の裏から現れてするすると登る、早くて写真に撮れず、飛び去る
・ヒヨドリ: きょうも最多観察される(写真の通り)
・エナガ: 木立に群がる、動きが早くて写真に撮れず
・ヤマガラ: 木立に群がる、動きが早くて写真に撮れず
・ツグミ: 公園グラウンドの草上(写真の通り)
・シジュウカラ: 幹の穴を巣にしている(写真の通り)
・(オオタカに襲われたのか、キジバトの羽根だけが一面に散らばっていた)
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・(水鳥: いつも通りカウントされたが、観察列に遅れてしまい観察できず)


シデコブシ(写真左)、ゲンペイモモ(写真中央)、ヤエベニシダレ(写真右)
・白色の花弁の数が「コブシ」(≒6枚)より多い「シデコブシ」(≒13枚)が、集合場所近くにある。
・「ゲンペイモモ」の木に、八重咲きの白色と紅色の花が同じ幹に咲いている。<モモの園芸種「ハナモモ」に(源氏と平氏の旗の色をもとに)「源平」の名を冠した「源平花桃(ゲンペイ ハナモモ)」がある> とのこと。まさに桃源郷の花。
・シダレザクラの「ヤエベニシダレ」が川沿いの小道に、八重咲きの薄紅色の花を優雅に咲かせている。


ヒヨドリ(写真左)、ツグミ(写真中央左)、シジュウカラ(写真中央右)と(写真右)
きょうの写真の成果は、思った以上に精細に、あるいは偶然に撮ることができた。
・樹上に「ヒヨドリ」が1羽いて、さあどうぞと言わんばかりとまっていたので撮る。別の場所で、幹に沿って急降下・上昇してエサをとっていた。
・公園の野球場に自律型の草取りロボットがいて、(iRobotのように)働いている。その手前に「ツグミ」がいる写真を偶然撮れた。
・観察の終わり道、「シジュウカラ」が珍しく間近の枝にとまっていた。もう1羽いて、写真の右の巣穴を使っているようで、すぐに穴の中に消えた。




サクラ、そして花の進化
野鳥観察の終了後、Ⅰ.サクラの種類、Ⅱ.花の進化について会長からお話をうかがったので次に記述する。(聞き間違いがありましたらご容赦)

Ⅰ.サクラの種類
① 一重サクラは今ごろ、八重サクラは遅れて咲く。
② サクラの木は全体に減少傾向にある。
③ ヤマザクラ系のサクラに、マナザクラがある。
④ サクラの野生種は10種といわれているが、11種目にクマザクラ(紀伊半島)があるともいう。サクラは野生種の交配で種類を増やしている。
    ー カンヒザクラとアマギヨシノを交配してヨウコウを作出。
    ー 海外でも英国のイングラムが、カンヒザクラとマメザクラを交配してオカメザクラを作出。
⑤ カワヅザクラは、人為的な交配でなく、自然交配でできた。
⑥ ソメイヨシノの樹齢は、70年とされる。
    ー 接ぎ木によって生命を継承させている。
⑦ 野生種のヤマザクラは、実生(みしょう:種子から発芽して育った植物)である。

Ⅱ.花の進化
① 花は葉から進化した。花びらは一般用語で、花弁が学術用語となる。
    ー 花びら=花弁
    ー 花びら=花弁と顎(がく)
    ー 花びら=顎(例:セツブンソウ、ニリンソウ、キンポウゲ科)・・・ 一種の花の退化
② コブシの花を緑色のフィルターで見ると、葉と花が一体で見える。
③ 最も進化した花は、キク、ランのはなだろう。
    ー 種類が多いこと。逆に一科一属一種は原始的(モクレン、イチョウ)といえる。

参考資料
花の観察学入門: 葉から花への進化を探る」(岡崎恵視 共著、培風館、1999年)

2025年4月4日金曜日

清明 2025

きょうは二十四節気の「清明(せいめい)」、万物が生き生きと清しいさまを見せるころ。

(本ブログ関連:”清明”)

先週来の冷え込みから解放され、ようやく春らしい温もりになった。空は青く晴れ渡り、花々が咲き誇る。「ツグミ」や「ジョウビタキ」などが北へ帰り、「ツバメ」が訪れる時期である。清浄明潔(しょうじょうめいけつ)、まさに生命の脈動を感じる。

清明を三つにわけた、七十二候の三期間は次の通り。
・初候: 玄鳥至(つばめ いたる) : <>が南からやって来る
・次候: 鴻雁北(こうがん きたす) : 大きな(鴻)<>が北へ渡って行く
・末候: 虹始見(にじ はじめて あらわる) : 雨の後に<>が出始める

ところで根拠はないが、演歌に北へ帰るという表現がみられるのは、昔の人びとにとって春先に渡り鳥が北へ飛び立つのを見る機会が身近だったからではと想像したくなる。


満開のサクラ(写真左)、タンポポ(写真右)
・しばらく冷え込みが続いたおかげで、花見の余裕が残ったのは幸い。ちょうど昼どきに、日射しを受けて、秘密(自称)の桜並木を訪れた。見上げると、まだ白い花弁がまぶしく輝いていた。路肩に、もう花びらが舞い始めている・・・まもなく路上に花の絨毯ができることになるだろう。

・サクラ並木の樹下に「タンポポ」が黄色い花を咲かせていた。花の裏側の苞片が妙に反り返っていた。「カントウタンポポ」と「セイヨウタンポポ」の雑種が多いと教えてもらっていたので、判別に自信がない・・・多分、セイヨウタンポポ寄りじゃないかな。  

2025年4月3日木曜日

桜(花時雨、夜桜)、端唄(夜桜や)

昼過ぎまで冷たい小雨が続いた。桜が満開のこの時期、降ったりやんだりする雨を「まだら雨」と表現できるか調べたところ、辞書になく、ネットはきっぱりとそんな表現はないという。適切な言葉を探したところ、「花時雨」があった。冷たい水滴が花弁を濡らす、そんな中(ふだんは無視されがちなヒヨドリが)蜜を吸っている光景が浮かんでくる。

桜と雨は互いに打ち消し合うようで、少々さびしい気がする。

満開の桜が夜道を明るく照らす「夜桜」はどうだろう。与謝野晶子の歌に「清水(きよみず)へ  祇園をよぎる花月夜 こよひ逢ふ人みな美くしき」(「与謝野晶子歌集」与謝野晶子自選、岩波文庫 ・・・ 歌集『みだれ髪』より)がある。
今どきは照明が強く、暗い夜空を忘れたように夜桜を照らし出す。けれど、この歌が詠まれた時代(明治34年【1901年】)の夜は、もっと朧だったろう。

(本ブログ関連:”与謝野晶子”、”夜桜”)

夜桜のもとを、行き交う人々を美しいと表現する一瞬の見極めと、想像力は若くてたくましい。夜桜には心を浮かせる不思議な力がある。

それでは、ほんわりと端唄の夜桜へまいりましょう。

端唄
 「江戸端唄集」(倉田喜弘編、岩波文庫)の「夜桜や」
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夜桜*や 浮れ烏(がらす)**の まひまひと  花の小かげに  誰やらが居るわいな  とぼけさんすな 芽柳***が  風にもまれて ふうわりふわりと  ヲゝサそうかいな そうじゃわいな
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(*)上記文庫の補注より: 夜桜  新吉原・仲の町に植えられた桜
(**)上記文庫の補注より: 浮れ烏  ねぐらに落ち着かない鳥。転じて、遊里の中をうろつき回るならず者。 ← 遊里の夜を浮かれ歩く人で、「ならず者」というのはちときついな。
(***)上記文庫の補注より: 芽柳  「めふきやなぎ」と唄う。

■ Youtube(登録:朝川玲伎)
「夜桜」
「端唄 夜桜 朝川玲伎」
    ー https://www.youtube.com/watch?v=NP7VnxYB4oM

2025年4月2日水曜日

東京節 パ~イノ・パイノ・パイ

子どものころ、お呪(まじな)いのように「ラ~メチャンタッラ  ギッチョンチョンデ  パ~イノ・パイノ・パイ」と口ずさんでいた。曲名も歌手も知らなかったけれど、調子のよさによく口にした。

Wikipediaによると、この歌の正式な曲名は「パイノパイノパイ(東京節)」(演歌師 添田知道 作詞)で、大正時代に流行したという。旋律をたどると米国の「ジョージア行進曲」(ヘンリー・クレイ・ワーク作曲)にいたるそうだ。

いかにも、明治期の演歌師がバイオリンをギーコギーコ鳴らしながら歌った、癖(くせ)になりそうな曲調だ。また、「ア オッペケペー  オッペケペッポー  ペッポッポ」(川上音二郎オッペケペー節」)もそうだ・・・そういえば、子どもたちに大流行した、ピコ太郎の「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」にも通じるな。

これらの掛け合いのような言葉に、「パ行」(生後10ヶ月ころから現れる)の破裂音(模倣発語)が多い。割合初期に覚えるもので、子どもにとって馴染みやすいのだろう。

■ Youtube(登録: アダチ宣伝社)
「桜井敏雄『東京節(完全版)』」*
    ー https://www.youtube.com/watch?v=flKG0-wYzFg
(*)登録者の解説:「最後の演歌師、故・桜井敏雄氏のバイオリン演歌『東京節』を3番まで披露。共演は、なぎら健壱氏。1992年のテレビ出演。」



■ Youtube(登録: @amislife1215)
「思わず、、、! #baby #food #赤ちゃん #funny #癒し」 ← 三兄弟の末っ子、ソノ君の成鳥が早い。
    ー https://www.youtube.com/shorts/4G-vOVrzPFI

2025年4月1日火曜日

エイプリルフールと洒落と粋(いき)

きょうの4月1日は「エイプリルフール(四月馬鹿)」。しかし一日中雨で寒く、四月馬鹿の名にふさわしい陽気さはない。

(本ブログ関連:”エイプリルフール”、”馬鹿・阿呆”)

エイプリルフールには「洒落」があったはず。わたしの感覚だが、最近それが世間に通じてないような気がする。そもそも外来のイベントだし、それを受け入れる余裕もない。みなが白けた時世だからだろうか。

さらに困るのは、虚実ない交ぜになったエイプリルフールかもしれない。一方から見れば事実になり、他方から見れば嘘(悪意がこもったフェイク)になる。判別できてこそ、洒落と笑い飛ばせるのだが。

日本人の洒落の伝統について、Googleの生成AI「Gemini」に以下のようにたずねてみた。
ー 洒落のめすは、ハイカラにいえば「(いき)」に通じる。それも忘れられて久しい。

■ Gemini
Q.「洒落」という文化は、日本ではいつごろ誕生(発展)したのでしょうか?
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A.「洒落(しゃれ)」の文化は、日本の歴史の中で様々な形で発展してきましたが、特に江戸時代に花開いたと言えるでしょう。

江戸時代の「洒落」
・庶民の娯楽としての発展:
    ー 江戸時代には、庶民の間にユーモアや言葉遊びを交えた文化が広まりました。
    ー 落語や川柳といった娯楽が発展し、日常会話や文章の中にも「洒落」が取り入れられるようになりました。
・「粋(いき)」との関連:
    ー 江戸の「粋」という美意識は、「洒落」と深く結びついていました
    ー 「粋」とは、洗練されたセンスやユーモアを意味し、「洒落」はその表現手段の一つとして重要視されました。
・文化的な背景:
    ー 江戸時代の文化は、庶民の生活や価値観を反映しており、その中で「洒落」は人々のコミュニケーションや娯楽に欠かせない要素となりました。
    ー 着物の柄である江戸小紋などは、幕府の規制の中、庶民が「洒落」を表現した文化と言えます。

「洒落」の源流
言葉遊びの起源は古く、人類が言葉を使い始めた頃から存在していたと考えられます。
・日本においても、古くから和歌や狂言など、言葉を使った芸術が存在し、それらの中に「洒落」の要素が見られます。

現代への影響
・江戸時代の「洒落」の文化は、現代の日本のユーモアや言葉遊びにも影響を与えています。
テレビのお笑い番組や漫画、アニメなど、様々な形で「洒落」の精神が受け継がれています。

このように、「洒落」は、日本の文化の中で長い時間をかけて育まれ、現代においても重要な役割を果たしています。
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(追記)
Geminiに、「」文化が廃(すた)れたのではとたずねたところ、次のような回答があった。(抜粋)
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「粋」が廃れたと感じる人がいるのも事実です。その理由としては、以下のようなものが考えられます。
・情報過多:  情報が溢れる現代社会では、本質を見抜く力が鈍くなりがちです。
・効率重視:  効率や合理性が重視される現代社会では、遊び心や余裕が失われがちです。
・個人主義:  個人主義が浸透する現代社会では、相手を思いやる気持ちが希薄になりがちです。
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