先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第4回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの小学生時代の音楽経験について、例えば学芸会的なこと、子供向け音楽コンクール公開放送への出場など・・・知りたかったことだ。それに可愛い片思いの話も。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[4] 頻繁な転校と、「病気っ子」といわれていた国民学校(小学校)時代
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1972年3月、私は(ソウルの)城北区新洞国民学校に入学した。戸籍上、6歳であったから他の人々より2年先に学習の道に入ったわけだが、その時の私の本当の年齢は9歳だったので、むしろ一年遅れたわけだ。とにかく、私にとって国民学校への進学は以後度重なる「転校」の開始だった。
(注)年齢はすべて「数え年」
しばらく「留まった」学校でなく、それでも「在学」したと話せる学校を取り出せば、新洞、論峴、敦岩、梨泰院国民学校などだ。卒業証書を受けたところは、5年の2学期のときに転校した梨泰院国民学校だ。
(注)イ・ソンヒは父親に従って「国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。」(第3回 参照)
私は国民学校の時も、やっぱり同年輩より体つきが小さかった。6年を通して背番号の1番は私の一人占めだった。背のせいで運動場の朝会のたびに、最前列で先生と向かい合い、緊張の中に立ち続けねばならなかった。
ニックネームも「ヤマコ(『ちびちゃん:コマヤ꼬마야』を逆に)」、「テチュッシ(ナツメの種 대추씨:小柄ながらたくましくがっちりしている)」、「ちび(ジュイバンウル 쥐방울:不釣合に小柄)」など超小型だった。6年生になっても大人(?)と見違えるほどの3年生の後輩たちに「や~、~(し)よう」調のぞんざいな言葉にあう侮辱を受けたりもした。
私は背中に背負われるのにとてもなじんだ。母に背負われて登下校する姿が気の毒に見えたのか、体の大きな子供たちが時おり私を背負ってくれたりもした。
幼い頃から体が虚弱な方だった私は、体育の時間になると教室に残ったり、運動場のかげに座ってじっと見守ったりした。先生や友達に最初から「病気っ子」とつけられた私は、休みのたびに田舎で飛び回りながら体力を固めた後でも依然として、「病気の人、手をあげなさい」といえば、「この子で~す」と子供たちに指摘される「慢性患者」になってしまった。体操着に着替えるのもわずらわしいので、とても幸いなことだった。
しかし、よくある軽い病気がちでなく、どうして私が「病気っ子」であることを認めることができるだろうか。私は風邪が流行するたびに、一度も罹らずうつったことがなかった。また、病名は忘れたがかなり深刻な病気にかかった時もあった。国民学校4年生の時だったか、学校で手配してくれた病院でかなり長い間、通院治療を受けたことが思い起こされる。
私は3年生の時、およそ6ヶ月間、ガールスカウトで活動したことがある。
野営生活などを通じて心身を健全にできる良い機会であるとを何度も強調して、両親から入団の承諾を受けたが、内心目的は他の所にあった。
私が目指したのは、隣りのクラスの格好いいボーイスカウト隊員だった。女の子に人気が高かったあの子と自然に親しくなることができる方法は、私がブラウニー(Brownie:ガールスカウトの小学校低学年に相当の部門)になる道だけだった。ボーイ、ガールスカウトの合同集会などを通じて、ある程度その子と近づいたと満足していた頃、その少年はある日突然転校してしまったし、私の「第1の目標」が視野から消えたので、何の未練なく幼女隊(ブラウニー)を脱退した。
私は国民学校の時から、歌だけはどこの誰にも引けをとらなかったと自負する。
どんな場所でも歌を歌えといわれれば、遠慮したりとか、後の方をはずすことが一度もなかった。 かえって、「歌を歌うに値する場所はないのか」といいながら、ここかしこをのぞき込むほどだった。
いつだったか、国語の教科書に出てくる「森の鍛冶屋」という演劇をしたことがあった。各クラスを回っていた一種の「巡演」であったが、私が引き受けた配役は「スズメ」であった。理由はただ一つ。スズメ役の台詞部分が歌になっていたためだ。
一人でも歌うことができる歌、二人でも歌うことができる歌、多数がまじり合っても歌うことができる歌、そして歌が私になり、私が歌になる歌... 私はいつもそのような歌を歌いたかった。
「イ・ソンヒは歌が上手だ」といううわさは全校に広がったし、ある日、担任の先生がTV子供童謡大会に参加してみることを薦められた。それは4年生の時だ。
私は、「森の中の鍛冶屋」の演劇公演で「スズメ」に扮装して歌ったまさにその歌を歌って、KBS TV の(公開放送)「誰が誰がお上手か(누가누가 잘하나)」の1次予選を軽く通過した。
自信を得た私は、2次予選では歌の小節小節ごとに「雰囲気(멋)」をいっぱい入れて歌った。結果は脱落だった。私は今でもその時、情熱をつくして「童謡らしく」歌ったと信じる。国民学生があたかも「子おとな」のように童謡を歌謡調で歌って審査委員を当惑させたという話も聞いたが、私の胸の内はそうでなかった。もう少し上手くしようと、自ら「技巧」を働かせただけだった。とにかく当時の「予選脱落」は、私にとって大切な経験だった。「二度と上っ面だけのふりはしないだろう」。
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2013年11月16日土曜日
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