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2013年12月15日日曜日

イ・ソンヒの「なぜ私だけ」

イ・ソンヒの6集所収の、「いつか言葉を失いました  笑うことさえ去ってしまい」から始まる、「なぜ私だけ(왜 나만)」(1990年、チョ・ハムン作詞・作曲)は、離別の痛みが癒されぬ歌だ。途中、叫ぶように悲嘆し苦悩の淵をさ迷い、最後に「これが私の行く道なら、どうすればよいですか」と弱さを歌う。旋律の巧みさに聴いてしまう歌でもある。

(本ブログ関連:”なぜ私だけ”)

ところで、中島みゆきの「時代」(1975年、中島みゆき作詞・作曲)も、「今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて / もう二度と笑顔にはなれそうもないけど」と始まるが、いつかの出逢いを信じて歩き出すという、彼女らしい達観と太さがある。聴くというよりも歌いたくなる歌だ。

イ・ソンヒの30周年に、彼女のバックグラウンドを活かした、地に太く逞しい曲が登場することをどこかで期待している。

2013年12月14日土曜日

繰言

流行は、雑誌(紙)、ラジオやテレビ(無線)、インターネットなど媒体が進化して、消費の時差をなくしてきた。新しい流行が発生するさまを、まるで傍で見るようになってきたのだろう。それでも、流行の発信地は、あまり変わってないようだが。

昔、母親から聞いたことで、昭和の始めころ、東京のファッションが九州に届くのに1ヶ月ほどかかったという。私が子どもの頃は、アメリカのポップが日本に流行るのにやっぱり時差があった・・・それがどれくらいかというと音楽事情をよく知るわけがなく何ともいえないが1ヶ月くらいだっただろうか。ラジオから流れる、ビルボードやキャッシュボックスの最新順位に耳を傾けてはメモをした・・・子どもの間では、曲名だけでも十分知った振りができたわけで。

ところで歳を重ねると、流行に目が向かなくなり、時間差も気にしなくなる。例えば「ことしの流行語」も、いわれれてみれば、そんなものがあったねと振り返る程度。大晦日の晩の番組「紅白歌合戦」も同様なわけで・・・初めて聞くものが増えてくる。

流行に敏感でなくなる・・・だから、歳をとるという実感は、流行り廃りよりも変わらぬものに、受け継がれるものに関心が向くことから気付く。昔から、年寄りが古典を読めといったのもよくわかる・・・解説、評論本でなくて、原典(原本じゃないよ)を読まなくちゃ・・・こういうのを、老いの繰言という。

2013年12月13日金曜日

来年(2014年)、イ・ソンヒのデビュー30周年

1984年7月29日、MBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」にデビューして以降、節々にコンサートを重ねてきたイ・ソンヒは、来年30周年を迎える。

彼女の公式ホームページには、30周年の節目である来年7月29日を特記しているが、この日に記念コンサートが開かれるのではないかと期待する。

現在、彼女が27歳のときに語った自伝的な記事を本ブログに掲載させていただいていおり、まさに上記の江辺歌謡祭に遭遇した際の彼女の心境、スタイル、家族、および人間関係など知ることができる。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー”)

ともあれ、いまだに彼女の人気の強さに驚くと同時に、来年2014年には、前回2011年のときと同様、その姿をコンサート舞台でまた見たく待ち遠しい。

2013年12月12日木曜日

(資料)イ・ソンヒの過去の日本公演と日本語曲

イ・ソンヒは日本で少なくとも二度公演している。彼女の公式ホームページから次のように知ることができる。

・大阪花博覧会(正式名称「国際花と緑の博覧会」、1990年4月1日~9月30日)で、5月22日に催された「韓国の日記念行事」に出演。

・東京の水道橋にある「韓国YMCAスペースワイ文化センター」で、1995年5月8日~6月6日に催された「YMCAチャリティー基金コンサート(正式名称「韓国大衆文化芸能祭」?)」の5月28日、29日両日に出演。

なお、イ・ソンヒは日本語CDを一度出しているようだ。ポニーキャニオンより1993年5月21日に発売されたもので、小型CD版に「空がくれたもの」と「見せたいけしき」の2曲(作詞:夏目純、作曲:都志見隆、編曲:萩田光雄)が収録されている。残念ながら、現在ネット上で聴くことができなくなってしまった。

KBS Worldの「Artist Search」でイ・ソンヒについて紹介している文中に、「90年まで、イ・ソンヒはヒットを出し続け、順風満帆な歌手活動を送る。このころ、香港で英語盤アルバム『Where The Love Falls...』を、日本ではシングルを発表し、海外進出を試みる。」がある。

90年代前半にどのように<日本進出>が企画され、なぜ果たせなかったのか知りたいところだ。

2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?)

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使った。その上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ。

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった。余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった。父が近づいて来たのだ。叔父と叔母も一緒に。

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た。「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・」

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした。娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした。

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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2013年12月10日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 ソウル

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第34回として、「古都」を語源とするといわれる「ソウル(서울)」にまつわる話を紹介した。

はじめに、韓国の人口・経済の規模について次のような紹介から始まった。
・世界237カ国(世界銀行統計では229カ国)中、韓国は面積で100位に入らないが、人口4900万人で25位、GDP(国内総生産、2012年基準)1兆1600億ウォン超で15位。朝鮮戦争(韓国戦争)休戦から今年60周年を迎え、現在、首都ソウルは千万人超で世界都市中で10位以内に入る。同時に、山と川に囲まれた自然の恵みのあふれる都市でもある。

▼ 短歌(단가)の「鎮国名山(진국명산)」を聴く。四囲を指し示すように歌うのだろう・・・力強い。

・短歌はパンソリを歌う前に、歌い手が喉の緊張をほぐす意味で歌う短い歌だ。「鎭國名山」は、ソウルの地について風水の視点で歌った珍しい一曲で、歌詞は全て漢文調のため、韓国人でも理解が難しいと言われる。

「景福宮の後ろに、高く切り立つように険しい峰が、ハスの花のように天に向かってそびえ立ち、三角山(サムガクサン、삼각산)となる。南側には蠶頭峰(チャムドゥボン、잠두봉:現在の龍山(ヨンサン、용산))がある。駱山(ナクサン、낙산)と仁王山(インワンサン、인왕산)はそれぞれ、左の青龍、右に白虎となって、聖なる気運を発し、それが空中に滲み出しながら宮殿へと集まっている。そのため、優れた人物が多く輩出されるのである。」

▼ 正歌の歌曲の「編数大葉(편수대엽) 鎭國名山」を聴く。こちらはゆるりとして・・・雅(みやび)である。

次にソウルの名の語源について次のように解説された。
・「ソウル」は、古都を指す普通名詞だったという。語源に諸説あって、古代の「ソド」と関連があるというのが有力な説だ。「ソド」は、出入りが厳しく制限されていた神聖な地域を指す言葉で、「ソッデ」という棒を立てて印とした。「ソド」、「ソッデ」が変化し、「ソウル」となったという。語源的「神の土地」の意を持つことになり、韓国歌中に「神様のご加護によってわが国は万代にわたって栄えよう」という一節がある。公式的には、
- 1896年、独立新聞に「ソウル」の言葉が初めて使用され、
- 1946年8月15日、ソウル市憲章が発表され、「ソウル」の名称となった。

▼ 京畿民謡「漢江水打令(한강수타령)」を聴く。水流が速いのか、愛も少々せっかちなのか・・・楽し気だ。

(付記)
K-Wikipediaにあるように、一般に「ソウル」の語源といわれる「新羅系の固有語であったソラボル(서라벌)」と、上記の解説はつながるのだろうか。

2013年12月9日月曜日

うたた寝

このところ連日、夕食後にストーブにあたりながらテレビを見ていると、いつのまにか寝入っている。小一時間もすると目覚めて、またやってしまったと溜め息をつく。

この「うたた寝」は「転寝」と書き、随分と寝相が悪い。「夢うつつ」という古い心的な振る舞いである「うつろ」につながるなら理解できるが、どうやらそうでもないらしい。

そんなわけで、見ていたテレビ番組の視聴は中途半端に終わるが、問題はその後の寝つきの悪さだ。それじゃあ、まるで子どもの問題のようで・・・。それに、風邪でも引いてしまっては元も子もない。

ところで、このブログのヘッダーのデザインを変えてみたが、つたなさに自信がない。見慣れればと・・・しばらく、これでやっていこう。

2013年12月8日日曜日

キム・ポムニョンの「冬雨は降って」

イ・ソンヒが2011年5月のコンサート「五月の陽射し」で、ゲスト出演したキム・ポムニョン(김범룡、金範龍, 1960年6月3日~)と一緒に彼の歌「冬雨は降って(겨울비는 내리고)」(1985年)を歌う映像がある。80年代をテーマに、同時代をともに駆けた、キム・ポムニョンと歌いつぐ趣向の一場面である。

キム・ポリョンは、イ・ソンヒの例えば5集(1989年)に収録の「貴方よ(그대여)」、「炎のように(불꽃처럼)」の作詞、作曲をしている。

(本ブログ関連:”キム・ポムニョン”)


(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2013年12月7日土曜日

ユンノリ

先日(11/23)、新宿の職安通りにある韓国民芸品ショップに韓国語教室の仲間と一緒に寄ったとき求めた、韓国の正月遊び「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を、今日の教室で試した。

蒲鉾の断面に似た、同サイズの棒(ユッ)4本を投げて、棒の平らな面の数だけ盤面(駒版)に記された経路(正方形と対角線)上の点を駒を進める<双六遊び(ノリ)>だ。チーム同士で競い合うことができる。

今日は基本的な駒の進め方を確認したが、進んだ点に自分(チーム)の駒がある場合は合体したり、相手(チーム)の駒がある場合は盤から外したりと・・・いろいろな要素もあるようだ。

ところで、イ・ソンヒの思い出に、小学校(国民学校)時代に、祖父が「クヌギの木で手作りで『ユッ』も切ってくれた」というのがある。彼女をひたすら愛してくれた祖父の思い出は、祖父との懐かしく温かい思い出を持つものに共感できる。


(追記)
NHKの「地球ドラマチック『古代マヤ文字を解読せよ』」を見ながら・・・せっかくの番組なのに寝入ってしまった。今度はしっかり見るので再放送を頼みます。

2013年12月6日金曜日

青空文庫と電子書籍リーダー

電子書籍といっても、最近の書店に並んでいる新刊本の類ではなく、青空文庫に登録されている著作権切れであるが名著として知られる書籍(夏目漱石や折口信夫など)を、小型の電子書籍リーダーで読んでみたい。

青空文庫に登録されている書籍ファイル(XHTML、TEXTなど)を取り込むとき、縦書き表示に変換するため、①アプリを事前にインストールしておく必要がある。そのうえ、②縦書き表示するための処理も必要で一発変換できないようだ。

他に、Web上の縦書き表示ツールで読む方法もあるが、それは携帯PC・パッドの世界(無線)での話で、電子書籍リーダーとは違う。

要は、XHTML、TEXT、PDFなどの書籍ファイルを入れたら、何の処理もなくすぐに縦書き表示してくれる電子書籍リーダーはないだろうか。文庫本のサイズと重さの電子書籍リーダーが一番好ましい。

2013年12月5日木曜日

宵の明星

帰宅途中、南西の空を眺めれば、三日月を追うように輝く星がある、金星だ。微かに明かりが残っている夜空にコントラストを強くして、月に負けずくっきり光っている。

こうやって金星を見るのは久しい。天の動きは地の動き、時が過ぎるのを思うとき、存在の小ささに気付く。といって、「寒さい、寒い」と小言して歩くのが精一杯かな。

金星が一番光度を増すのは、明後日7日(土)だそうだ。天気は次第に崩れて、雨ほどではないが、週末の夜は曇りとのこと。寒さも厳しくなるようだ。

イ・ソンヒが歌う童謡に「星を見ながら月を見ながら(별보며 달보며)」がある。高くて青い空の国お星さまの国に、永遠の笑いの国お月さまの国に住んでみたらと・・・夕べの空を眺める童たちは、子どもながらに、憂いを含めて夢が膨らむ。

(Youtubeに登録の Knightmareに感謝)

2013年12月4日水曜日

めでたい

めでたいことがあって、めでたい、めでたい。

祝いの歌を探したら、沖縄民謡に「めでたい節」があって、「めでたい めでたい すりすりめでたい めでたい めでたい」のお囃子に、なんだか南の暖かい風に酔ってしまいそうな気がする。めでたいと思うほどに、ますますめでたくなるよ。

人生一度限りという言葉、この歳になってようやく納得するが、どうやら遅きに過ぎる。でも時間のある限り大事にしたい。だから、人生を2度生きるようにすればいいのだ・・・Ampliat aetatis spatium sibi vir bonus; hoc est Vivere bis, vita posse priore frui(善き人は自分の生涯の期間を拡大する; 過ぎ去りし生涯を満足に楽しみうること、これは二度生くるなり)・・・人生満足するといわれても、どうすればいいのかな?

そういえば、サービスの定義に「生産=消費」がある。人生の瞬間(生産=消費)を満足できるように生きよ!というわけ。満足できる生き方を選択する、無理はしないけどチャレンジはしよう。そしてエンジョイしよう。

とりあえず、今宵はめでたい。明日もめでたい。(独りごと)

2013年12月3日火曜日

流行語大賞2013

今年の流行語大賞が決まった。昨日のORICONSTYLEの記事「【2013新語・流行語】年間大賞は史上最多4つ 『じぇじぇじぇ』『倍返し』など本命勢揃い」(12/2)は次のように報じている。(抜粋)
予想した言葉「今でしょ」だけでなく、他に3語も加えて、計4語が大賞という大判振る舞いとなった。

(本ブログ関連:”2013年流行語大賞ノミネート”)
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・その年話題となった新語・流行語を決定する年末恒例の『2013 ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)が2日発表され、
- 予備校講師・林修氏の「今でしょ!」、
- NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」、
- TBS系連続ドラマ『半沢直樹』の「倍返し」、
- 東京五輪招致のプレゼンテーションで滝川クリステルが日本をPRする際に使用した「お・も・て・な・し」
が年間大賞に選ばれた。1984年に創設され、今年30回を迎える同賞において、史上最多となる4つの“言葉”が大賞に選ばれた。

・・・・また、選考員特別賞として「被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう」が選ばれた。
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KBS WORLD「国楽の世界へ」 伽椰琴

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/27)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第33回として、日本の琴に似た弦楽器「伽椰琴」にまつわる話を紹介した。

まず、弦楽器「伽椰琴(カヤグム、가야금)」の歴史から次のように紹介された。
・世界には多種の、世代、ジャンル、あるいは宗教によっても、それぞれに音楽がある。一国の王ならば、国民固有の音楽に対するプライドを願ったかもしれない。伽耶(3世紀~6世紀中頃)末期の王、嘉悉(カシル、가실、?~?)は、(韓国)史上、最初に音楽の力で民を治めることに注目した。この王の下に誕生したのが弦楽器の「伽椰琴」だ。

▼ 「霊山会相」中の「上霊山(상령산)」を聴く。18世紀以降の両班の風流音楽らしく揺ったり流れる。

次に、伽椰琴の創生に関わる嘉悉王と于勒(ウルグ、우륵)の話題を次のように説明された。
・伽椰琴は改良され、様々な音楽に広く使われたが、「上霊山」の演奏に使われた伽椰琴は、「正楽伽椰琴」と呼ばれ、1500年ほど前に誕生した当時の形を維持しているという。

(注)伽椰琴には、正楽演奏の「正楽伽椰琴」と、民俗楽演奏の「散調伽椰琴」の二種類がある。

・伽椰琴の創始者は、于勒が有名。(「三国史記」に、楽器作成者は嘉悉王とされている)
・伽椰琴の、半円形の上面は「空」を、平らな下面は「地面」を、弦の支えは12ヶ月を表し、奏でる音が自然に溶け込むよう考えられている。楽器が出来た後、嘉悉王から、「各国に方言があるように、音楽もひとつである必要は無い。お前が伽耶という国にふさわしい音楽をつくるのだ」と命ぜられた于勒は、伽耶国の地方名を曲名とし、全12曲を作曲した。最初の曲は「ハガラド(하가라도、現在の金海市地域,)」、2番目の曲は「サンガラド(상가라도、現在の高霊地域)」となっている。

▼ ファン・ビョンギ作曲の「加羅都(カラド、가라도)」(1963年)の第1章を聴く。古趣ただよう・・・透明感のある今様である。

最後に、伽耶から新羅に投じた于勒と、新羅王の真興(ジンフン、진흥、534年~576年)との交流を次の通り解説された。
・于勒が12曲を完成させてすぐ、伽耶は新羅に滅ぼされる。于勒は、国の危険を察し、伽椰琴と作曲した音楽を持って新羅に投降した。新羅の真興は、于勒を歓迎し、自国の若者たちを于勒の元へ派遣し、そのメロディーを学ばせた。于勒の音楽をマスターした若者たちは、さらに思いを込めた編曲と演奏をした。この事を耳にした于勒は、初めは怒りを示したが、若者たちの演奏を聞き、涙を流し感嘆したという。
・また王も、こうした新しい音楽を好んで演奏させた。それに対し家臣たちは、 滅んだ国の音楽は、わが国をも滅ぼすと揃って抗議したが、王は、国が滅んだのは王の責任であり、音楽には何の罪もないと主張し、伽耶伝来の音楽を、新羅のものとして演奏を指示した。伽椰琴が現在までに伝えられたのは、その価値を見抜いた真興王のおかげだとも言える。

▼ ファン・イジョン作曲の「于勒の舞(우륵의 춤)」の中から第1楽章を聴く。軽やかな・・・今様である。

2013年12月2日月曜日

ウィンター・ワンダーランド

子ども時代、温暖地帯にある当時の家の造りは、今様に密封型ではなかった。ガラス窓と廊下の更に内側に障子で仕切った畳部屋があった。冬の夜になれば、木製の雨戸を閉めるのは必須だった。微かに隙間風がしみ込む部屋を暖めるのに火鉢を置いたりしたが、どれほどの暖房効果があっただろうか。けれど家族が集まれば、それだけで暖かく、交わす言葉にいっそう温もることができた。

今は、建物の構造が変わったし、暖房装置も石油やガスや電気を使うようになって、昔とは考えられない環境になっている。そんな変化の時代をまたいできたからか、懐旧も含めて、古い冬の歌に温もりを覚えるのかもしれない。

それは、興味しんしん眺めては触ろうとするたび親にたしなめられた、テーブルの上のいただき物のようなものだった。ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日~1977年10月14日)が歌う、「Winter Wonderland」(Richard B. Smith作詞、Felix Bernard作曲、1934年)はそんな歌だった。ワンダーランドの響きは、不思議というより、次々に素晴らしいものが飛び込んでくる憧れと期待の世界でもあったのだ。


(Youtubeに登録のChristmasTimeTVに感謝)

2013年12月1日日曜日

残った林檎は12分の1

今年、残り2ヶ月しかない11月にならんとしたとき、それを林檎の実にたとえて、6分の1しか残っていないと嘆息した。今日から12月、最早12分の1を切るに至った。6分の1と12分の1では、見た目にも、気分も大違いだ。

(本ブログ関連:”残った林檎は6分の1”)

12月になると、今年のカレンダーはますます存在感が薄れて身の軽さに揺れる。来年のカレンダーは、秘かに虎視眈々とその座を狙っている。私も移り気なのか、今年のカレンダーには目もくれない・・・そんなことはないけれど、壁に掛かっている余命1ヶ月のカレンダーの心境を思うと、最後まで見届けてやろうと思う。

一足速く、この冬まだ見ぬ雪景色を、イ・ソンヒの「雪が降る(눈이내리네)」を聴きながら楽しもう。

(Youtubeに登録のYoungbum Kim·に感謝)

これは、アダモ(Salvatore Adamo)の「雪が降る(Tombe la neige)」(1963年)のカバーであり、イ・ソンヒのアルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」 (1988年)に収録されている。

(本ブログ関連:”雪が降る”)

2013年11月30日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった。

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室”

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた。

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」”

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。

▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した。

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)

2013年11月29日金曜日

地震があったんですけど

今日の日付に変わった真夜中の01:15、ドンと響いて次第に揺れがおさまったが、地震発生が最近集中する、千葉県北西部を震源にしたものだ。先週の日曜日も深夜00:50に、同じ千葉県北西部を震源にする揺れがあった。しかも深夜に地震が続くのはいい気分がしない。

(本ブログ関連:”地震が・・・”)

今日の地震について、気象庁の発表(11月29日01時19分)は次の通り。
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29日01時15分頃地震がありました。震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、地震の規模4.8と推定されます。
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地域別の震度発表では、当地の震度は「2」で、体感もそんな感じだった。


(付記)
そういえば、話題の「アイソン(ISON)彗星」が、太陽に近づいた(近日点通過29日)ところで、蒸発してしまったという話があったけれど、どうにか命をつないでいるいるという報道もある。
旅行会社主催のチャーター機に乗って、アイソン彗星を観察するというイベントがあるそうだが、どうなるのだろうか・・・12月7日の早朝に飛び立つ計画だそうだが。

2013年11月28日木曜日

石が逃げる

本当は、石が逃げれば良いのだが。美しい結晶を内蔵した岩石が、人の気配を察して地中深くに退避したら石泥棒のような事件もなかったろうに・・・それはさておき。

俳人といっても、「古句を観る」の著者としてしか存じぬが、柴田宵曲(しばたしょうきょく、1897年9月2日~1966年8月23日)の短文「動く石」に下総国葛飾郡立石村の石掘りの話しがある。畑中にある石を掘り返そうとしたが根が深くなかなか取り出せない。翌日行ってみると、石はまた深く潜り込んでいたというのだ。

江戸時代、近江国の木内石亭(きうちせきてい、1725年1月14日~1808年4月6日)の「雲根志」*にも触れられていて、「石の根を見んとして掘ったところ、言い伝えるごとく黄色の木の根の形をした石が土中にはびこっていた。その時、忽(たちま)ち石が振動、手伝った者どもは前後不覚の体となり、大いに病んだという。その後、この石の根を穿(うが)ちほじる事を固く戒めたという。」との記載がある。

(*) 「雲根志」:九州大学総合研究博物館 DIGITAL ARCHIVE

この石、現在の東京都葛飾区立石にある「立石様」の由来のようだ。インターネットに、さまざまな記載を見ることができるので、それらを元に一度現地を訪ねてみたい。

ネットの情報から、石が地中に逃げるという立石様の周辺には、「南蔵院裏古墳」があることから、石室との関連が推測できる・・・つまり、地中に空洞があってズリ込んだのではないかということだが・・・素人考えなので不思議な話のままでいようか。

2013年11月27日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 風流

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/20)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第32回として、「風流(풍류)」について紹介した。

まず、統一新羅時代(676年~935年)末の文人崔致遠(최치원、858年~?)による、「風流」の紹介から次のように始まった。
・崔致遠は、まだ12歳の頃に一人、唐に留学して勉学に励み、(874年)18歳で外国人のための科挙試験に合格した。その後、「黄巣(こうそう)の乱」の討伐軍軍師として従軍する。その折、黄巣が掌握した地域に、非難の文書を書いて撒いた。その文書の素晴らしさに、黄巣が驚いたという逸話がある。黄巣の乱を治めたのは、刀の力でなく、崔致遠の文章力だったといわれるほど、彼の文書の影響が強く認識された。
・後に、新羅に帰国した崔致遠は、有名な人物の碑文など多く書き残した。「鸞郞碑序」に、花郎(화랑)に関する一節、「國有玄妙之道曰風流~」(国には玄妙な道理があり、これを風流という~」がある。(同文は、高麗時代の「三国史記」(作成:1143年~1145年)に記載されている)

▼ 「霊山会相(영산회상)」の中から「細霊山(세령산)」を聴く。そこかしこに、アリランの風味がしてくる風流音楽。

次に、「花郎」の教えでもあったといわれる、「風流」と音楽について次のように解説された。
・花郎は、新羅の貴族子息の教育機関、或いはそこで教育を受けた人たちを指す。 「鸞郞碑序文」にある風流は、花郎の道(教え)のひとつと言われる。花郎は、「国仙」と言いい、言葉の通り、仙人のように景色のよい場所を訪ねては修練に励み、そこで、歌や音楽を楽しんだとも言われる。風流という言葉が今日、粋に遊ぶこと、麗しい情緒、俗なことを避け、高尚な遊戯にふけることといった、意味を持つようになった理由も、こうした過程から来たといわれる。
・朝鮮時代となると、ソンビ(博識な学者)たちが「舎廊房(사랑방)」に集い、音楽を聴いたり、絵を描いたり、詩をしたため、互いに意見を言い合った。こうした空間を「風流房(풍류방)」と呼び、そこで演奏しあった音楽を「風流音楽」と呼ぶ。酒のたしなみもその一つのよう。

▼ 酒を勧める「歌辞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。酒杯ゆらり時に任せ、香りと味を楽しみたくなる・・・このまま酔いどれて。

最後に、風流音楽の種類とその意義を次のように説明された。
・風流音楽を、単に「風流」と呼ぶこともある。(朝鮮時代後期の)曲目「霊山会相」や、「ドドゥリ(도드리)」といった音楽は、弦楽器を中心に構成される演奏曲で、弦を表す「ジュル(줄)」をつけて「ジュル風流」という。また管楽器がメインとなる構成の場合は、その演奏を「テ風流」と呼ぶ。「テ」とは、管楽器の原材料の竹(テナム、대나무)の「テ」にちなむ。
・風流音楽は、楽器の構成を単純化し、ゆったりとした、観照的なメロディーを持つという特徴がある。淡々としていているが、心身の緊張を解きほぐし、自分自身に没頭する瞬間を作る。

▼ 「新水龍吟(신수룡음)」、「副題、還生(환생)」を聴く。基調に硬く・・・今様である。