昨日の帰宅道、母親の自転車に乗った子どもたちと随分すれ違った。母子が会話を楽しんでいる光景はいつもと変わらないが、なぜか子どもたちが小さな笹竹を大事そうに抱えていたのだ。
そうか、きょうは、「七夕」だ。昨日の母子は、星に向かってする願いごと(七夕の短冊)を話題にしていたのだろう。それに、二十四節気の「小暑」でもある。九州地方の豪雨災害を免れた当地は、梅雨とはいえ、本格的な暑さを経験している。今週土曜日までこの空模様が続くという。
(本ブログ関連:”七夕”、”小暑”)
突然だが、「老害」について語ってみたい。歳を十分重ねても地位に連綿するさまだ。過去の「成功体験」にこだわって、時代にそぐわぬ発言をする人物を思い浮かべるかもしれない。確かに大きな老害の一つだが、もう一つある。過去の失敗を履き違えて、幻想の城を築き篭城したものたちだ。まさに、その「虚城」から出撃を繰り返し、中には、海外に移住して、伝道師の如く舞い戻って来るものもいた。
若者たちが置かれる時代と運命を共にし、担うことができない存在と覚ったとき、舞台から退くべきだろう。そして、トタン屋根がぼろぼろに錆びて朽ち果てる前に、一線を去るべきだ。市井のひとびとは、自然にそれを受け入れて後進に譲ってきた。老害といわれるのは、そのチャンスを失ったことだ。発言するものにはそれを見極める責任がある。
「成功体験」を持ったことも、「虚城」に籠り続けたわけでもないけれど、ひとなみに老いを感じれば、老犬の毛並みがやつれているのに心痛めるように、老害についても気掛かりである。高齢化社会で、立ち位置を見誤ると、若者たちのあるべき場所、いや運命まで奪いかねない。
七夕の若い男女の願いを彼方から見守るように、時代への余裕が欲しいものだ。