(本ブログ関連:”386世代”、”1980年代”、”イ・ソンヒと政治”)
昨年末の記事であるが、京郷新聞<オピニオン>欄に掲載の 「【文化批評】 ”文化の黄金期” 1980年代」(2016年12月27日、イ・ドンヨン|韓国芸術総合学校教授)は、1980年代の韓国の<青春文化>について次のように記している。(抜粋、段落内改行)
(少々重々しい表現が多いが)
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・私に1980年代の青年文化は、学生運動圏(参加者)の文化、デモ文化、理念の文化に深く刻印されている。いわゆる、運動圏が支配した時代であった。大学キャンパスで、デモは日常的であったし、催涙弾とペッパーフォグの臭いは消えなかった。デモ隊のスローガンと「民衆歌謡」は、キャンパスのサウンドを支配した。
歌バンド、農楽隊、社会科学研究会、校誌編集会が大学サークルの主軸を成して、祭りのときに、一般学友がミーティングして酒を飲み自分勝手に遊ぶのが虫が好かず、有名大衆歌手の学内コンサートを物理力に取り潰して、私たちはお前らと違うという意識で集会を開いた運動圏の文化は、1980年代の大学文化の後日談の郷愁を刺激する。
・しかし、果たして、1980年代の青年文化を全て運動圏の文化に一瞥することができるだろうか? とても皮肉にも、1980年代は大学街の運動圏の文化に同一視するには、大衆文化の環境と文化産業の市場の変化が、非常に躍動的な時代であった。
⇒ 1980年代の青年文化には、学生運動などの文化だけでなく、多様な大衆文化も存在した。
特に1980年代は、韓国大衆音楽史において、音楽的力量と産業的発展が最も優れたていた。1980年代は、チョー・ヨンピル、ユ・ジェハ、キム・ヒョンシク、イ・ムンセ、ピョン・ジンソプ、イ・ソンヒ、ユン・シネ、ハン・ヨンエなど大型ボーカル型のミュージシャンだけでなく、「野菊」、「分かれてまた一緒に(따로또같이)」、「春夏秋冬」、「新村ブルース」、「シナウィ」、「隼」、「ブラックホール」などのフォークからロックまでバンドも最高の全盛期を謳歌した時代であった。ソラボル・レコード、シンチョン・ミュージック、東亜企画などの企業型レコード・レーベル会社が産業体系を整え始めた。2007年8月、「京郷新聞」と音楽専門ウェブマガジンのガズムネットワークが共同で企画した「韓国大衆音楽100名盤」には、1980年代に発売されたレコードが31枚も選ばれて、時代別で最も多かった。1位は1985年製作された「野菊」の1集「行進」だった。
・1980年代の韓国映画産業には、ハイティーン映画と性愛映画があふれ出たが、これは単に検閲と統制に対する反応にのみ見ることができない大衆文化の消費欲望を表象するものでもある。
第5共和国は、言論統廃合、報道指針、「国風81」のような統制的、管制的文化政策を露骨に遂行したが、一方でプロスポーツの全面化、カラーTVの早期普及など、文化的な自由化措置を積極的に断行した。韓国の大衆文化産業の新自由主義化が逆説的にも、第5共和国の文化の自由化措置から始まったわけだ。
・1980年代は、理念的に見ようとするなら、文化的解放と弾圧が衝突した時代だと見ることができるが、社会文化的には文化産業の量的な膨張、「3低(ドル安・原油安・低金利)好況」にともなう経済成長の頂点に立っていた時代であった。
青年世代の消費文化を刺激させたアメリカの新保守主義文化と帝国主義文化を軽べつした運動圏の文化が非常に内密に交差した時期だった。
・1980年代の大学文化、あるいは青年文化を運動圏の文化で代表して言うことができるが、それでも当時の大衆文化の多様な欲望と差が、個人の立場を揺さぶった跡を消すことはできないだろう。自分でも、私が体得したほぼすべての文化的感受性は、1980年代の大衆文化から出たということができる。私は、1980年代のポップとロック歌謡を聞いて、エロ映画とプロスポーツを楽しんで文化的感受性を育ててきた。意識化された青年時期には、そういう感受性を革命のために捨てるべきであるとしばらく考えたことがあったが、今はそう思わない。
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