水鳥は、観察すれば、てんでバラバラに行動することもあるのだが、いつも群れて水に浮かび、飛ぶように見える。彼らの集団には、ムクドリのような単純さや、カラスのような狡猾さがない。どこか人間に似た(定まらぬ)隙だらけの無防備さを感じる。
今度は第五巻、「第五 折々のうた」(大岡信、岩波新書)に、「紫式部集」に所収(「紫式部日記」に初出)の次の歌を載せている。「私だとて水に浮く鳥同様、華やかに浮いた宮中の生活を営みながら、水面下の水鳥のあがきのように憂き日々を送っている身分なのだ」と平安女流の複雑な心境を歌っていると解説している。
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水鳥を 水の上とや よそに見む 我れも浮きたる 世を過ぐしつつ
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(本ブログ関連:”折々のうた”)
水鳥について、先日(1/18)、「第四 折々のうた」に採り上げられた、柴田白葉女の「水鳥の静かに己(おの)が身を流す」の句と対比されそう。紫式部は自身の複雑な心境・立場と照らし合わせて他人(よそ)事でないというのに対して、白葉女はもう少し冷徹に対象化しているように感じる。素人目には、短歌と俳句の違いと言ってしまいそうだが。
この歌の前後で、道長による促しと返歌について語られることがあることから妄想が広がりそう・・・。