A.ブリューゲルやフェルメールが日本で一般的になった時期やきっかけについて、ご推察の通り「カラー版美術全集」の出版ブーム(1960年代後半〜70年代)は非常に大きな役割を果たしました。
それぞれの画家の普及プロセスを紐解くと、以下のようになります。
1. 普及の土壌:カラー版美術全集のブーム
1960年代、高度経済成長とともに日本の家庭に <「カラー版美術全集」> が普及しました。
きっかけ: 当時、平凡社や小学館、集英社などが競って豪華な全集を出版し、中流家庭のステータスシンボルとして応接間などに置かれました。
影響: これにより、本場の美術館へ行けなくても、日本人は自宅で高精細な(当時の技術での)北方絵画のディテールに触れることができるようになりました。
2. ピーテル・ブリューゲル:1970年代に「知的な発見」
ブリューゲルが広く認知されたのは、1970年代に入ってからです。
1972年の版画展: 日本初の本格的な紹介は、1972年に鎌倉近代美術館で開催された版画展と言われています。
文学・思想界でのブーム: 1970年代、作家の森鴎外や堀辰雄などの文脈から離れ、改めて「中世ヨーロッパの庶民の暮らし」を活写した画家として再発見されました。特に澁澤龍彦などの幻想文学や、歴史家たちが彼の絵を「社会資料」として紹介したことで、知的好奇心の強い層から一般へと人気が広がりました。
現在の立ち位置: 「バベルの塔」などの象徴的なモチーフにより、現在は子供から大人まで知る人気画家となっています。
3. フェルメール:1960年代の初来日と2000年の爆発
フェルメールの認知度は、数回の大きな「波」を経て現在の国民的人気に至っています。
第1波(1968年):初来日
「レンブラントとオランダ絵画巨匠展」で、フェルメールの作品が初めて日本にやってきました(『ギターを弾く女』など)。しかし、当時はまだ「レンブラントの影に隠れた名匠」という扱いでした。
第2波(2000年):社会現象化
大阪市立美術館で開催された <「フェルメールとその時代」展> が決定的なきっかけです。初めて「フェルメール」を冠した大規模な展覧会で、60万人以上を動員。ここから「寡作の天才」「光の魔術師」というイメージが定着し、爆発的なブームが始まりました。
なぜ日本で人気?: 静謐な室内画や、控えめな光の表現が、日本人の感性(侘び寂びや私小説的な世界観)にフィットしたことも一因と言われています。
まとめ
| 画家 | 一般化の時期 | 主なきっかけ |
| ブリューゲル | 1970年代〜 | 美術全集での紹介、1972年の版画展、文学・歴史文脈での再評価。 |
| フェルメール | 2000年代〜 | 2000年の大阪での大規模展覧会(それ以前は、美術愛好家の間での人気)。 |
美術全集は、いわば彼らの「予習」の場となり、その後の展覧会ブームで一気に実物の人気が爆発した、という流れがあります。
当時の美術全集のラインナップや、特定の作品についての詳細な解説などもお手伝いできます。何か気になる作品はありますか?