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2017年7月12日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 李白詩

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(7/5)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、唐代の詩人「李白」(701年~762年)に関連する曲を紹介した。

始めに、唐代詩人「李白」が「黄鶴楼」で「崔顥(さいこう)」の詩に出会った話しについて次のように紹介された。
・中国唐代の詩人「李白」は酒を好み、酒仙と呼ばれた。また、月が好きなため、韓国民謡に「明るい月よ、李白が遊んだ頃の月よ」という歌もある。彼の言葉全てが詩になるほどの才があり、詩仙とも呼ばれた。ある日、詩作するつもりで、長江岸の「黄鶴楼」に登ったが、楼壁に「崔顥」の「昔人已乘黃鶴去/此地空余黃鶴樓」で始まる詩が書かれているのを見た李白は感嘆し、「これ以上の詩は作れない」と筆を片付けて帰ったという。

▼ 崔顥の詩「登金陵鳳凰臺」を歌にした「昔人已に去り(석인이승)」を聴く。朗々とうたいあげる。

次に、李白の詩「登金陵鳳凰臺」と民謡の「ユクジャベギ(육자배기)」について次のように紹介された。
・黄鶴楼を後にした李白は金陵(現南京)の「鳳凰台」に向かい、そこで有名な「登金陵鳳凰臺」の詩を作る。「鳳凰台上で遊んでいた鳳凰が去ってからは、長江だけがゆったりと流れている」といった内容だ。中でも「三山は半ば雲に隠れ、長江は二分して流れる」の部分は、韓国の昔の歌によく引用され、民謡の「ユクジャベギ」にも登場する。六拍を単位に歌うことから、曲名に数字の「六(ユク육)」が入っている。

▼ 南道民謡「ユクジャベギ(六字もの)」を聴く。高低強弱と変化に富んで、随分と声を揺らす。

最後に、管楽器「センファン」と「タンソ」による「水龍吟(수룡음)」の曲について次のように紹介された。
・「ユクジャベギ」一曲だけもあれば、少し早い拍子の他曲を続けて歌うこともある。李白や崔顥は、名勝で優れた詩作をしたが、この初夏に、私たちも都会を離れ、景色の良い楼閣で、風の音、水の音など自然の音と共に心身癒してみたい。
・管楽器の「センファン」と「タンソ」は、よく似合う楽器とされ二重奏される。水中の竜が歌う音の意の「水龍吟(수룡음)」の曲があり、二つの楽器が調和して奏でる不思議な音色に、安らかな一時を過ごしたい・・・とのこと。

▼ センファンとタンソ演奏による「水龍吟」を聴く。<自然が感じられる>という透明感のある演奏。

2017年7月11日火曜日

イ・ソンヒ「たぶん」

イ・ソンヒの12集所収の「たぶん(아마...)」(2001年)は、たぶん切ない恋歌なんでしょうか、通じぬ哀しみが伝わってきます。でも、ここでは、夏の夜風を受けて涼むよう歌って見える彼女のYoutube映像を眺めましょう。今日みたいな熱気のさめぬ夜には最高です。

それにしても、歌詞の世界だけみれば、女性の心は繊細で複雑で・・・と思いますが、たぶんスイッチを切ると、過去の想いは一瞬にして消え去ることでしょう。それに比べて、自然放電に任せるしかない男は、切り替え方が不器用なようです。ああ、夏の夜の夢にもならぬ話しを、たぶんしてしまい・・・。

(本ブログ関連:”たぶん”)


その人の話し、しましょうか。 悲しい私の愛、聞き入れることができますか。
馬鹿でしょ、言葉ひとつできず、一人で胸を痛めるなんて。 私のそばにいても、
分かってください。 そんな気持ち、彼を見るたび、いいえ、私余計なこといい始めたようです。

*もう、その人には、命のような、そんな大事なものがあるのでしょう。
*永遠に、私は堪えられない話をできないんです。 愛するという言葉は、たぶん・・・

なぜか、涙が止まりません。 つまらないでしょう。 私の気持ち分からなくて。
あなたがくれたハンカチに、涙とともに滲み出た言葉、それはあなたなのに。
本当に分からないのですか。 私のこんな気持ちを、いいえ、余計なこといい始めたようです。

(*2行繰り返し - 2度)


(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2017年7月10日月曜日

ヘブライ文字のオンライン「キーボード」とイディッシュ語「辞書」

先日6/30の「”YiddishPOP”と 夏休み『イデッシュ語入門講座』」と、7/2の「イディッシュ語の文字」の続きです。

イディッシュ語で使う「ヘブライ文字」の練習をキーボードでしてみましょう。キーボードといっても、オンライン・キーボードで、ネット上で入力します。次に、オンライン辞書にも触ってみましょう。もちろんみなフリーのツールです。
(各ツールに感謝です)

A. ヘブライ文字用の「オンライン・キーボード」と「辞書」を利用してみよう
試しに、「机」の意のヘブライ文字「טיש」を、「オンライン・キーボード」で入力し、さらに「オンライン辞書」(イディッシュ語 ⇔ 英語)で確認します。

① オンライン・キーボード
・次のリンク先で、「オンライン・キーボード」(” Lexilogos ”)画面を開きます。
   http://www.lexilogos.com/keyboard/yiddish.htm
・リンク先画面で、ヘブライ文字「טיש」の3文字を打ってみましょう。
   ⇒ 画面下側に配置された文字キーをクリックすると、一つずつ文字が、右→左へ表示します。
・表示された、ヘブライ文字「טיש」をコピー(Ctrl+C)して、次の②の「オンライン辞書」で確認してみましょう。

②  オンライン辞書
・次のリンク先で、「Yiddish Dictionary Online」画面を開きます。
   http://www.yiddishdictionaryonline.com/
・この辞書の使い方の解説を、「טיש」の単語を元に例示していますので、ちらり見ておいてください。
・3番目のラジオボタンを押して、①でコピーした「טיש」をペースト(Ctrl+V)し、検索(Go)してみましょう。
   ⇒ 「טיש」は、英語の「table」
・ちなみに「טיש」は、ローマ字と次のように対応します。
   ⇒ 「ש(sh)」←「י(i)」←「ט(t)」です。(右→左へ読みます)

※ オンライン・キーボードで、イディッシュ語の文章も作成できます。興味ある方は、「Google翻訳ツール」で、<イディッシュ語 ⇔ 英語> の翻訳も試してみましょう。でも、最近気付いたのです。手書きをおろそかにするものじゃない・・・とね。


B. 夏休み「イデッシュ語入門講座」
3日間で学ぶ、イデッシュ語入門講座があります。イディッシュの古い伝統を、先生からうかがういいチャンスでもあります。
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・日時:8月29日(火)~31日(木)、10時00分~13時20分(休憩20分含む)
・場所:東京外国語大学 本郷サテライト
・講座内容や申込みについては、次の「案内」をご覧ください。
    ⇒ 夏期間「イディッシュ語」
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ここで一息、美しいイディッシュの旋律を聴いてみましょう。

「キャンプファイヤーを囲んで」は、火の尽きるまでたのしもう、消えたあと空には星々が冠となって輝く、そんな様子を歌っているようです。そして、眠りについたら夢をめぐりましょう。学のサマーキャンプとちょっと違った、生活の一場面かもしれません。


(Youtubeに登録のJoe Krapovに感謝)

2017年7月9日日曜日

ラファエロ《 大公の聖母 》

上野にある国立西洋美術館で開かれた「ラファエロ」展に行ったのは、2013年3月のことだった。あっという間に4年が過ぎたのに驚く。ラファエロの絵画には、身構える必要のない親しみやすさがある。ぜひ見たいものがあった。「大公の聖母」の絵だ。暗い背景から聖母子が浮かびあがってくるよう描かれていた。

(本ブログ関連:”ラファエロ”)

子どものころ見た聖母像は、教会が配ったのだろう、滲んだ色刷りの図像だった。教会は、小高い丘の上にあった。遠くに眺めるだけの、近寄りがたい世界、そんな気がした。聖母像も、丘の上の一つのイメージでしかなかった。
後に、ラファエロの聖母像を知ったとき、懐かしさを感じた。聖母像が、日常の素朴な回路でつながったのだ。それは、かつて美術家に批評(批判)された、ラファエロの世俗さだったのかもしれない。

親和性のある聖母像。それは、誰かに見続けられていた。その見方について考えてみた。以前、「作品には3つの立場があるように思う。作品の制作者という立場(所有者と見る者を意識する)、作品の所有者(見せる側)、見る者(見る側)」と記した。ひとつの作品も、見る場所、見る時代が違えば、その存在意味も異なるだろう。かつての見る者(見る側)は、今見ているわたしたちと違った姿になってが浮かんでくる。

(本ブログ関連:”遠近法”)

優しい眼差しにつつまれた聖母子像をどう捉えよう。愛された経験を確認するものだけが見るのだろうか。慈愛を知らない人びともいたことだろう。そんな満たされなかった経験から、精神の癒しを渇望した彼らがいなかっただろうか。宗教画が、時代を経て見続けられるのに、どんな意味があるのだろうか。

子どもが、愛情にくるまれる時代がある。でも、そうでなかった、厳しい時代もあった。その中で生き延びたものもいる。生き延びれなかったものもいる。そして、そんな子どもたちと、ひとびとは直面したことだろう。道徳の尺度はだれから与えられるのだろうか。

若いころ、芭蕉の「野ざらし紀行」(「日記紀行集」所収、塚本哲三 校、大正11年)に、三歳ほどの捨て子の話しがあるのを知った。このできごとを、道徳的にどう解釈すればよいのだろう。いかなる解であれ、言葉にする危さを感じざるえない。
もし、この子が奇跡的に救いがあって、命をながらえたなら、そのご何に癒しを求めただろうか。今はその方が気になる。
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富士川の邊(ほとり)を行くに、三つばかりなる捨子の、哀(あはれ)げに泣くあり。此(こ)の川の早瀬にかけて、浮(うき)世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命まつ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、 今宵(こよひ)や散るらん、明日(あす)やしをれんと、袂(たもと)より喰(くひ)ものなげて通(とほ)るに、
      猿を聞く人すて子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父ににくまれたるか、母にうとまれたるか。 父は汝を悪(にく)むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。只(ただ)是(これ)天にして、汝が性のつたなき*を泣け。

(* 性のつたなき - うまれつきの不運)
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いまひとつ疑問がある。宗教画や彫刻はアートだろうか。そこに並べる限り、庶民の(かつての)慟哭が聞こえてくるだろうか。

2017年7月8日土曜日

イ・ソンヒの9月豪シドニー コンサートチケット発売

イ・ソンヒの昨年来のコンサート「The Great Concert」が、今年5月の米LAに続き、来る9月に豪州シドニーで開催される。その情報が(豪州版?)の「itap」(7/6)に掲載されていたので、あらためて、ユニークなシェル構造の外壁を持つ開催場所「オペラハウス」の(イ・ソンヒの)イベント案内を参照した。なお、チケット販売は、7月6日(木)午前10時に一般公開されている。

(本ブログ関連:”The Great Concert”)
(本ブログ関連:”LAコンサート”、”シドニー”)

開催案内
「数限りないヒットソングを持ち、全ての世代に愛される韓国の歌姫 イ・ソンヒがライブ『The Great Concert』とともにシドニーへ来る。」

開催日時
・2017年9月27日(水)、午後8時(2時間30分)

チケット料金(豪州ドル: 1ドル≒86.6円)
・VIP $249
・Gold $189
・Silver $139
・Bronze $99

大ホールの座席図(収容席数 2,679席)

2017年7月7日金曜日

ひまわりとミツバチ

夏を思わせる昼過ぎ、近所の「ひまわり畑」に寄る。腰丈ほどの小型のひまわりが畑を黄色に染めていた。郊外の宅地の間に残った農地ゆえ、映画「ひまわり」のシーンに見る圧倒的な光景とは違うのはいうまでもない。でも、畑地の横を通り過ぎる人びとは、しばし歩を休めて黄色の群生に目を向けていた。

(本ブログ関連:”ひまわり”)

考えてみれば、ひまわりの花弁の構造を正確に言いあてられない。太陽のプロミネンスのように外周に広がる花弁と、まさに核融合の連鎖を繰り広げるように中央に密集する花弁がある。外側の花弁を「舌状花」、内側の密集する花弁ひとつずつを「管状花」と呼ぶ・・・そうだ。

花弁の名称の違いは、行きずりの観察者にとっても、蜜をさがすものにとっても知らぬことだろう。でも、太陽の陽射しを受けて、花弁に食い入るものたちには共感がある。(一方的かもしれないが)そんな気にさせる。

ひまわり畑にみつばちが訪れていたのだ。彼らは、春先から花蜜を求めてせっせと働いていたに違いない。そんなみつばちの存在を忘れていたことに気付き、自然の営みに気付き、生命への畏怖というか、なぜか申し訳なく思う自分の存在にようやく気付いた。

画面をクリックするとみつばちが見えてきます

七夕 小暑 2017

昨日の帰宅道、母親の自転車に乗った子どもたちと随分すれ違った。母子が会話を楽しんでいる光景はいつもと変わらないが、なぜか子どもたちが小さな笹竹を大事そうに抱えていたのだ。

そうか、きょうは、「七夕」だ。昨日の母子は、星に向かってする願いごと(七夕の短冊)を話題にしていたのだろう。それに、二十四節気の「小暑」でもある。九州地方の豪雨災害を免れた当地は、梅雨とはいえ、本格的な暑さを経験している。今週土曜日までこの空模様が続くという。

(本ブログ関連:”七夕”、”小暑”)


突然だが、「老害」について語ってみたい。歳を十分重ねても地位に連綿するさまだ。過去の「成功体験」にこだわって、時代にそぐわぬ発言をする人物を思い浮かべるかもしれない。確かに大きな老害の一つだが、もう一つある。過去の失敗を履き違えて、幻想の城を築き篭城したものたちだ。まさに、その「虚城」から出撃を繰り返し、中には、海外に移住して、伝道師の如く舞い戻って来るものもいた。

若者たちが置かれる時代と運命を共にし、担うことができない存在と覚ったとき、舞台から退くべきだろう。そして、トタン屋根がぼろぼろに錆びて朽ち果てる前に、一線を去るべきだ。市井のひとびとは、自然にそれを受け入れて後進に譲ってきた。老害といわれるのは、そのチャンスを失ったことだ。発言するものにはそれを見極める責任がある。

「成功体験」を持ったことも、「虚城」に籠り続けたわけでもないけれど、ひとなみに老いを感じれば、老犬の毛並みがやつれているのに心痛めるように、老害についても気掛かりである。高齢化社会で、立ち位置を見誤ると、若者たちのあるべき場所、いや運命まで奪いかねない。

七夕の若い男女の願いを彼方から見守るように、時代への余裕が欲しいものだ。

2017年7月6日木曜日

始めの13歩 イディッシュ語

13日目。ここ連日、九州方面を襲った豪雨と比べて、関東の空は晴れ渡った。イディッシュ語教室の帰り道、例年の通り、小学校前の畑地に育った腰丈ほどの小さなヒマワリがいっせいに花を開いた。西陽を背にして、ヒマワリの黄色の花びらが濃く映えた。

・先生推奨の入門書(復習編):「レッスン1」(ייִדן אין אַלע לענדער)のExercise。実は、YIVOサイトに、Exerciseの解答が提示されているが、自分なり解答しようとすると実力が露呈する。(我がメッキ蒸着の何と薄いこと)

・先生がネットで見つけた、古いイディッシュ語の初級教科書「דער אָנהײבער」(The Beginner)から、母が子どもたちへ物語を聞かせる様子。(これから、ぐんぐんピッチが上がることが予想される)

・先生紹介のネット公開教材ソフト(YiddishPOP)の「レベル2-3」(?ראָבאָטן פֿליִען נישט)。音楽会へロボットと一緒に出かける。否定形(נישט:~ない)が、動詞の後に付くといった日本語風の表現(?)に驚く。

さらに、ユダヤ教の指導者ラビの資格や生活、それを取り巻く市民の宗教的規範など、外部の人間が素朴に持つ関心ごとについて解説いただく。

(本ブログ関連:”始めの ~歩 イディッシュ語”、”イディッシュ語”)

(音楽の宗教的な意味合いについては全く存じませんが・・・容赦を)

(Youtubeに登録のにThe Soul of Jewish Music感謝)

2017年7月5日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 水宮歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/28)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、パンソリの「 水宮歌(수궁가)」など関連する曲を紹介した。

始めに、パンソリ「水宮歌」と、三国統一の「金春秋(김춘추、武烈王)」について次のように紹介された。
・パンソリ「水宮歌」で、南海を治める竜王の病を治すため、ウサギの肝が必要となる。カメはウサギを探すよう命じられ、陸に上がってウサギを騙し王の元へ連れてくる。それに気づいたウサギが、今度は竜王を騙して命を救う話だ。単純な話に、色々な逸話が加わり4時間に渡る長い歌になる。ウサギのように嘘つくことで危機を脱する逸話がある。三国史記に登場する、高句麗、百済、新羅の三国統一の立役者「金春秋」の時代のこと、新羅の金春秋は高句麗に援助を求めたが、監獄に入れられ命まで危うくなる。嘘をついてでも脱出する話を知り、それに成功した金春秋は、新羅に戻って王となる。

▼ パンソリ「水宮歌」で「竜王が新しい建物を建てて宴会を開くが、無理をして病気になってしまう」という、「竜王が病気になる場面(용왕 득병하는 대목)」を聴く。漢字ばかり・・・で。

次に、パンソリ「水宮歌」の原形を釈迦の「本生経」の逸話に遡って次のように紹介された。
・泳げないウサギは、竜王と会うのにカメの背に乗って海中に入る。その様を寺の壁画などで見かける。嘘について、仏教では釈迦の逸話をまとめた「本生経」に記してある。ここではワニとサルが登場する。ワニとサルは友だが、ワニの妻がサルの肝を欲しがる。サルは釈迦であり、ワニの妻は釈迦と争った提婆達多にあたる。この話を原形に、ワニとサルが、ウサギとカメになり、歳月をかけ逸話も加わり、パンソリ「水宮歌」となる。ユネスコ文化遺産のひとつとなる。

▼ 子どもにも歌いやすくした「ウサギ ウサギ(토끼 토끼)」を聴く。ウサギが飛び跳ねるよう、今様に。

最後に、水宮歌にある絶えず襲う危機を、人生の姿にたとえて次のように説明された。
・水宮歌では、絶えず危機が訪れる。最初の危機は、世の中の権力を持つ竜王が病気で死にかかること。海に暮らすカメが王の命令で、命がけで陸に上がること。そして、ウサギを逃がしてしまったこと。ウサギにしても、カメに騙されて死にかかったこと。陸に戻る途中色々な危機に直面することなど、一時も安心できない。
・水宮歌の、絶えず襲う危機から乗り越える姿は、私たちの人生を教える話なのかもしれない・・・とのこと。

▼ 水宮歌をアレンジした、困り果てた意の「ナンカムハネ(난감하네)」を聴く。軽快に困っている、今様に。

2017年7月4日火曜日

悲しき街角

今が全てだ。過去なんてどうでもいい、未来は俺たちが作る。若者たちはみなそう思ってきた。これからもそうだろう。

そんな強気が懐かしい。でもその一歩手前の経験が、案外、重しになっているのかもしれない。イディッシュ語の古い教材の挿絵を見たとき、中学校時代に手にした英語教科書「Jack & Betty」(開隆堂出版発行)を思い出したのだ。
情報をいとも簡単に入手できる今と違って、豊で素晴らしい世界が想像だけでしかなかった当時、映画館のスクリーン上の総天然色映画や、白黒ブラウン管のテレビ番組で確めていた。教科書「Jack & Betty」は、学校教育の窮屈さを合わせ持ちながら、他方で向こうの世界へ続く通路でもあった。アメリカの臭いがした。

テレビは座敷に置かれていた。そして、家族みなで見た。だからホームドラマが主流だった。特にお気に入りは、「パパはなんでも知っている」だ。「Jack & Betty」が誘う先にある期待の家族像がそこにあった。理想の夫婦(外で働くしっかり者のパパと、家庭を守る優しいママ)であり、個性を重視した子どもたちによる ”アンダーソン” 一家がそこにあった。

ところで、アメリカに対して、焼け跡派の屈辱感といった感情より、取り入れたい文化の象徴、あこがれの対象だった。ラジオから流れるアメリカンポップスに耳を傾け、ビルボードやキャッシュボックスのランク情報を如何に知っているか競い合った。どっぷり漬かっていたのだ。(ビートルズ以前のこと。だから、ビートルズショックを広言するニセ受洗者にはなりたくないといった矜持をいまだに持っているつもりだ)

今日みたいに雨が降れば、EPレコードのタイトルに連なった「悲しき~」シリーズの、カスケーズの「悲しき雨音」(1963年)を思い出す。その頃の、アメリカンポップスがどんなものだったか、Youtube映像であらためて確めて見ると、同時代のデル・シャノンの「悲しき街角」(1961年)に驚く。(だからといって、過去を簡単に売り渡すほどおしゃべりじゃないつもりだ)


(Youtubeに登録のWhuntmoreに感謝)

2017年7月3日月曜日

リンゴ半分、今年後半のスタート

本来なら、切りのいい7月1日に書くべきだった。今年後半がスタートしたのだ。

一年をリンゴの実に例え、立て切りにすると、残り半分しかないのだ。片方から見れば、皮の付いた1個のままに見えるけれど、裏から見れば、白い断面だけしかない。まだまだ余裕のある振りはできなくなった。今日から確実に、果肉を晒すことになる。

今年前期の韓国語教室が今晩終了した。後期は10月からのはず。それまで3ヶ月間が問題。私のメモリーは元々揮発性のため、電源を落とすとすぐに空っぽになる危険がある。

それにしても、時の経過が早すぎる。年々、一年が短くなる。リンゴを食ったくせに、それを忘れたのかと自問する、反省する、そして落ち込む。

リンゴに結びつけるのも毎度だが、イ・ソンヒの作詞・作曲による、13集所収の「リンゴの木の下で(사과나무 아래서)」(2005年、編曲チェ・テワン)を聴いてみよう。
アルバムのタイトルが「四春期」、彼女が四十代になった意味も込めてのこと。リンゴの木の下の初恋とはちょっと違う味わいがある。そして、リンゴの木の下にはさまざまな記憶が残っているようだ。

(本ブログ関連:”リンゴの木の下で”)


(Youtubeに登録のwallace6813に感謝)

2017年7月2日日曜日

イディッシュ語の文字

先日(6/30)の「”YiddishPOP”と 夏休み『イデッシュ語入門講座』」の続きです。

A. イディッシュ語の「文字」を覚えましょう
YIVO研究所」の「イディッシュ アレフ-ベイズ 」と、「yiddish book center」の「イディッシュ語のアルファベットを学ぼう」が提供する、イディッシュ語使用の文字(アルファベット)、すなわち「ヘブライ文字」について見ましょう。

① 文字(アルファベット)の種類と発音(英単語の発音で対応)、対応するローマ字
・文字の「名前」も大事ですが、「発音」と「対応するローマ字」を覚えましょう。
   https://www.yivo.org/yiddish-alphabet

② 文字:「活字体」 >「筆記体」
・印刷物は「活字体」で表示されますが、講義などの板書では「筆記体」が使われます。
・「活字体」と「筆記体」を覚えるのは大変ですが、次のプリントを使って書写練習してみましょう。
   http://www.yiddishbookcenter.org/sites/default/files/downloads/cursive-alphabet-worksheet_0.pdf

以上の情報(①、②)ページを印刷して、書体の練習をしてみましょう。そして、次の夏休み「イデッシュ語入門講座」に参加して、イディッシュの言葉(単語)を書いてみる体験をしてみましょう。


B. 夏休み「イデッシュ語入門講座」
3日間で学ぶ、イデッシュ語入門講座です。(イデッシュ語には昔話、文学の長い伝統があり、ノーベル文学賞作家も輩出しています)
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・日時:8月29日(火)~31日(木)、10時00分~13時20分(休憩20分含む)
・場所:東京外国語大学 本郷サテライト
・講座内容や申込みについては、次の「案内」をご覧ください。
    ⇒ 夏期間「イディッシュ語」
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ここで一息、美しいイディッシュの旋律を聴いてみましょう。

昨年の夏休みの「イディッシュ語」入門講座で、先生が教えてくださった歌「Oyfn Pripetshik (On The Cooking Stove) 」です。(Google翻訳ツールを使いながら、Wikipediaの解説を参照してみましょう ⇒ 英語版イディッシュ語版 。 旧ロシア時代のユダヤ人の日常を描いたもので、19世紀末に広まった曲だそうです)
イディッシュの寺子屋といったらいいのでしょうか、暖かいストーブの傍らで、子どもたちに彼らの文字(ヘブライ文字)を学ぶ意味を、優しく、そしてしっかりと教えている光景が浮かんできます。


(Youtubeに登録のThe Soul of Jewish Musicに感謝)

2017年7月1日土曜日

「賽の河原地蔵和讃」

スーパーの商品棚は、幼い子どもにとって、高く平行に並ぶ、視線をさえぎる迷路の壁かもしれない。だから、こんな光景を目にする。親から離れたのはいいが、急に心配になって、「お母さん、どこ?」と呼びかける。すると、棚の向こうから、母親が「は~い」と応える。これがなんとも微笑ましい。子どもの心の中で、母親との距離はどうなっているのか想像し、きっと一時も離れられない距離なんだろうと合点する。

子どもが親の手をほどいて離れるのはいつ頃か、親の手前を走っては振り返り確認するのはいつまでか考えるだけでも楽しい。わが子の経験で、それがいつだったか、すっかり忘れているからこそ、懐かしく気になる。

ところで、我が子に対する親の慈しみについて何度か触れたことに、40万年前から2万年前まで存在したネアンデルタール人が幼くして亡くした子を「埋葬」したと思われる跡がある。その証拠に、何かにくるまれたらしい子の周りから花粉が発見されている。宗教以前の、共感できる素朴な感情の発露だ。美しい花に囲んで送り出したいという想いの痕跡だろう。子を亡くした親の悲しみはいかばかり、忘れないために墓はそのように作られたに違いない。

幼くして死んだ子どもたちが、「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・・」と石積みをうたう「地蔵和讃」がある。賽の河原で石を積みあげては、鬼にそれを崩されて、また繰り返す。この「和讃」は、幼子があの世との境で、哀れに苦しんでいるのではないかと嘆く親の悲しみを癒し、救いを与えるもののようだ。不思議なことに、仏教界で正式なものでなく、むしろ民間信仰に近い要素を持つという。

「地蔵和讃」はバリエーションが多様で、ここでは「国立国会図書館」収蔵のデジタル古書「西院河原地蔵和讃」(1884年《明17年9月》、出版社:別宮又四郎(出版地:石川県小松町))で見ることにする。 庶民が手にした15cmの小さな和装古書だ。


「サイノカワラヂゾウワサン」(「賽の河原の地蔵和讃」)
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コレハコノヨノコトナラズ。シデノヤマジノスソノナル、サイノカワラノモノガタリ。
キクニツケテモアワレナリ。二ツヤ三ツヤ四ツ五ツ。十ニモタラヌミドリ子ガ、サイノカワラニアツマリテチヽコヒシハヽコヒシ。コヒシコヒシトナクコエハコノヨノコエトハコトカワリ、カナシサホネミヲトオスナリカミノミドリコノシヨサトシテ、カハラノイシヲトリアツメ、コレニテエカフノトウヲクム。一ジウクンデハチヽノタメ、ニジュウクンデハハヽノタメ、三ジュウクンデハ フルサトノ、・・・
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昔、貧しい時代の庶民が理解できたカタカナ文字による「賽の河原の地蔵和讃」は、ご詠歌のように詠まれたのだろう。現代人には読み続けるのが辛い。そこで、仏教雑誌「大法輪」(2016年7月号)掲載の「特集 仏教と世界の《地獄事典》」の中から、「『賽の河原地蔵和讃』現代語訳と解説」(花岡博芳 熊谷市・松岩寺住職)に紹介された漢字混じり文を少々長いが転載させていただく。
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これはこの世のことならず
死出(しで)の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり

かのみどりごの所作として
河原の石をとり集め
これにて回向(えこう)の塔を組む
一重(いちじゅう)組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする

娑婆(しゃば)に残りし父母(ちちはは)は
追善供養の勤めなく
(ただ明け暮れの嘆きには)
(酷(こく)や可哀(かあい)や不憫(ふびん)やと)
親の嘆きは汝らの
苦患(くげん)を受くる種となる
我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す

その時能化(のうけ)の地蔵尊
ゆるぎ出させたまいつつ
汝ら命短くて
冥土(めいど)の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣(おころも)の
もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを
錫杖(しゃくじょう)の柄(え)に取り付かせ
忍辱(にんにく)慈悲の御肌(みはだ)へに
いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き
南無延命地蔵大菩薩
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解説によると、お地蔵様は、「『あの世』の入り口で、行き先をしめす神」である「道祖神」の化身でもあり、特別の意味を持つ。「賽の河原の地蔵和讃」は、今も心奥深く流れるものを浮きあがらせ、それを遡上する誘惑にかられる。私たちの心情は、その水脈を通じて古としっかりと結びついている。

辻角に見るお地蔵様は、呼べば応えてくれる存在だ。幼子がふと気付いて母親を確認するように、宗教的な環境と離れて、日常、暖かく見守ってくれる存在だ。日本人の琴線でもある。

2017年6月30日金曜日

”YiddishPOP” と 夏休み「イデッシュ語入門講座」

A. イディッシュ語教材ソフト ”YiddishPOP” 
イディッシュ語教室で使用している、先生紹介のネット公開教材ソフト ”YiddishPOP” (今のところPC専用だそうです)をご覧ください。女の子の「ノミ」とロボットの「モビ」を話題の中心にして、イディッシュ語学習を進めることができます。

(本ブログ関連:”始めの ~歩 イディッシュ語”、”イディッシュ語”)

① 先生のブログに、 ”YiddishPOP” の紹介記事があります。
② 下の Youtube で、”YiddishPOP”の Quick Tour を速見できます。
③ ”YiddishPOP” のソフトをいじっていただくと、なんとなく構成が見えてきます。
    (注)Versionが変わり次の操作と違う場合があります!
   ⇒ まずは、”Level1" のボタンをクリックしてみてください。
   ⇒ 動画の下のボタンで進行・停止・逆戻しできます。CCボタンでシナリオ表示します。
④ ちなみに、テキスト教材があり、英語(お勧め)/イディッシュ語を選択できます。

なんとなく見えて(雰囲気 ⇒ ドイツ語風+ヘブライ文字[活字体&筆記体])きたら、次に体験してみましょう。8月末に「イデッシュ語入門講座」があります。


B. 夏休み「イデッシュ語入門講座」
3日間で学ぶ、イデッシュ語入門講座です。(ノーベル文学賞の背景にもなった言語で、昔話など深い伝統があります)
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・日時:8月29日(火)~31日(木)、10時00分~13時20分(休憩20分含む)
・場所:東京外国語大学 本郷サテライト
・講座内容や申込みについては、次の「案内」をご覧ください。
    ⇒ 夏期間「イディッシュ語」
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(このQuick Tourでは、”YiddishPOP”の《雰囲気》だけ!とりあえずご覧ください)

砂場遊び

地元の公園に体育館があって、建物の横に幼児向けの小さな広場がある。一人乗りの揺れる遊具がいくつも置いてある。子どもたちはそれが大好きで歓声が絶えない。順番待ちのためか、砂場にも子どもたちがあふれている。いずれにしろ。遊具や砂場の廻りを母親たちが囲んで見守っている。なんとも幸せな光景だ。

そんな子ども広場を遠目にしながら、自分の子どものころを思い出してみた。幼稚園前のころ、砂場で遊んだことがあった。親に見守られながら遊ぶなんて時代じゃない。だから、目いっぱい遊んだ。そして、原っぱ端で母の呼ぶ声がしたら、砂をはたいて家に帰った。そんな充実した日々を送ったことになる。

砂場遊びの定番は砂山作りだ。できあがった山肌に小さな溝の筋をつけて、どこからか運んできたバケツの水を流すのだ。始めは砂山が水を吸ってしまい変化がない。バケツリレーを繰り返すうち、川筋ができ、次第に山崩れしていく。それが楽しみで、毎日繰り返した。

砂場に動物の糞尿があった記憶がない。当時、そんなことが話題になることもなく、衛生なんて気にもしないで、砂場がバケツで水浸しになり、灰色にびしょびしょになるまで遊んだ。それだけのことをしでかしたのに、服が汚れたという記憶がないのだ。砂場の水遊びは、子どもにとって無敵な遊びだったのかもしれない。母親がどう思っていたのか知るよしもない。

2017年6月29日木曜日

始めの12歩 イディッシュ語

12日目。一度学んだからといって覚えるわけではない・・・というのは素人おじさんのいいぶん。だから、沁み入るように覚えられるひとが羨ましい。今回から、メインテキスト(入門書)について復習が始まった。後ろから押していただくことに感謝。先を行く仲間に深謝。

(本ブログ関連:”始めの ~歩 イディッシュ語”、”イディッシュ語”)

・先生推奨の入門書の復習:「レッスン1」(ייִדן אין אַלע לענדער)について、先生手作りの  ① 本文中の単語(主に動詞)の読解と穴埋め、② 「文法」解説中の 1)冠詞と名詞の性、2)語順の解説中の単語の穴埋め。次回から、テキスト掲載の Exercise も手がけることになった!

・先生がネットで見つけた、古いイディッシュ語の初級教科書「דער אָנהײבער」(The Beginner)から、ユダヤ人家庭の日曜日に、祖父母の来訪と孫の喜び、台所の母の調理の手伝いと父の帰宅と食事。

ここで一息、美しいイディッシュの旋律を聴いてみる。


(Youtubeに登録のThe Soul of Jewish Musicに感謝)

2017年6月28日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 兜率歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/21)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、郷歌(향가)の「 兜率歌(도솔가)」など関連する曲を紹介した。

始めに、新羅の「景徳(경덕)王」のころ、僧侶「月明師(월명사)」作の「兜率歌」について次のように紹介された。
・新羅中代の第35代「景徳王」のある日、二つの太陽が昇り十日間沈まなかった、天文の官吏に、解決策を尋ねたところ、僧侶を招き儀式を行うよう答えた。呼ばれた僧侶「月明師」が歌いながら儀式を行なったところ、太陽はひとつに戻った。月明師が歌った「兜率歌」は、新羅の「郷歌」の形式だが、高麗時代に記された歌詞だけが伝わる。
・太陽は、全ての命の源。昔も太陽は大切な存在と知られ、多くの民族が太陽を信仰した。太陽が急に二つになれば驚いたことだろう。空を頼りの農作業で生計を営む人々にとって、災いに思えたはず。中国の昔の神話だが、十の太陽が昇った話もある。自然現象に、大気中の氷の粒に太陽光が反射して、複数に見えることがあるという。

▼ 「兜率歌」の歌詞をもとに、新作の曲「兜率歌」を聴く。あぁアリア、情熱的に今様に。

次に、日長の「夏至」、雨天の「梅雨」、乾期の「干ばつ」を通じ、豊穣の祈りについて次のように紹介された。
・今日(6/21)は、二十四節気中、一番日が長い日といわれる「夏至」だ。韓国では梅雨と干ばつの時期であり、麦の収穫や田植えに忙しい時期でもある。今は農作業も相当機械化され、手仕事が少なくなった。とはいえ農村では、秋の豊作を期待して、日照りの中でも汗を流すだろう。昼が最も長ければ、逆に、これから夜が長くなる。時が経つのは早い。しばらくすると季節が移り一年が終わる。

▼ パンソリ「春香歌(춘향가)」から、「農夫歌(농부가)」を聴く。別天地で聞くように今様に。

最後に、瞬く間に過ぎ去る歳月を嘆く「短歌(단가)」について次のように紹介された。
・韓国の「短歌」(パンソリの前に喉慣らしに歌う)には、瞬く間に過ぎ去る歳月を嘆く歌があるが、それだけでなくて、時が経つのは早い、若い内に懸命に働こう、そして思う存分に楽しもうといった内容が多いようだ。ところで、今年も既に半分経過したが、まだ半分残っていると考えれば、年初に計画したことを成し遂げられるだろう。

▼ 春夏秋冬を描写し、人生の空しさを歌った短歌「四季歌(사철가)」を聴く。こちらは正調で納得。

2017年6月27日火曜日

(雑談)素人について

素人について考える。つまり、そんな生き方をしている自身についてだが・・・。
・素人は、実行するのに責任はない。
・素人は、やる気だけあれば十分である。
・素人は、永遠に素人でいられる(やめても素人なのだから)。

専門家(プロ)がテレビなどで語ったこと、あるいは振る舞いを見て感じたこと。
・あるレストランオーナーが言った。素人でも美味い料理は作れる。プロは、それ以上のものを同時に大量に作る。
・ある画商が言った。素人は細部に目が向いてしまい、何を省略したらいいかといった全体にまで気が廻らない。
・ある作家が、急場にもかかわらず、すばらしいできばえのものを書きあげた。時間軸を同時に複数本持っているようだ。

研究者が他の研究者について、厳しく語ったことがある。
・(文系で)彼は研究対象に深く入るのではなく、結局は自分を語っている。
・(理系で)彼はウォーキング・ディクショナリーだ。(専門性がない)

こうなると、何もできなくても、とがめられることのない素人は身軽で気楽である。そして、素人は永遠に素人である。

2017年6月26日月曜日

「江辺歌謡祭」の企画者

1984年、イ・ソンヒが歌謡界にデビューするきっかけを作ったのが、MBC主催 第5回「江辺歌謡祭(강변가요제)」だった。イ・ソンヒが仁川専門大学一年のとき、同大の音楽サークル「4幕5場」からデユエットとして参加して、大賞受賞した。そのとき歌ったのが、彼女の代表曲でもある「Jへ」だ。この曲は、彼女が高校時代に通った音楽室で、偶然巡り合わせたことにより、自分の歌にした不思議な経緯がある。
京郷新聞19840731
(本ブログ関連:”江辺歌謡祭”)

この音楽祭について、「大学音楽祭」との比較もあり、競争的関係でもあったといわれる。大学生の音楽祭に対して、広い意味での新人歌手の登竜門として「江辺歌謡祭」は知られたようだ。

この「江辺歌謡祭」を企画したのが、MBCのプロデューサー、パク・ウォンウン氏だったという。先日の6/24に、同氏が亡くなったとネットに報じられた。享年77とのこと。

ハンギョレ紙の記事「『第1世代ポップソングDJ』パク・ウォンウン氏死去」(6/25)は、「7080世代の新人歌手の登竜門としては、イ・ソンヒ、イ・サンウンなどを誕生させた『江辺歌謡祭』も、彼の企画として知られている。」と記している。

2017年6月25日日曜日

イ・ソンヒ 90年代の「韓国の伝説的な歌手」第4弾

日本の掲示板サイトに「2ch」があって、それと同一レイヤーにあたる韓国版のものに「ガセンギ・ドットコム」があるそうだ。このガセンギに、(2011年頃のものだが)「90年代の韓国の伝説的な歌手」があり、歌手ひとり(グループ)ずつについて意見が掲示されている。

第1弾、歌手のキム・ゴンモの「間違った出会い」(김건모  '잘못된만남' )
第2弾、グループのソテジワアイドゥルの「僕は知っている」(서태지와 아이들  '난 알아요' )
第3弾、歌手のチョー・ヨンピル
第4弾、歌手のイ・ソンヒ

そこで、第4弾のイ・ソンヒ編をちらり見した。海外からの投稿もあるようだ。後半に、韓国の(多分)若者のコメントも列記されている。内容は礼賛で、兵役時代の懐かしい思い出もあるが、ライブ感覚というより、自分たち親世代の歌といった認識のようだ。

中に、イ・ソンヒを美空ひばりに重ねるものもある。その投稿、それなりの年配者によるものか、それとも韓国向けだからそうしたのか。世界の料理にそれぞれ国柄があり、つきつめれば郷土の味にいたる。イ・ソンヒは、韓国に在ってこそ普遍性を持つわけで・・・。まぁ、そんなことより、おおぜいの庶民による反応を直接知るいい機会、一見の価値あり。