KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/2)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、古代三国時代のひとつ、<百済時代>の遺跡地区が世界遺産に登録されたことに関連した3曲を紹介した。
始めに、百済(紀元前18年(神話)~660年、백제)の概要について次のように紹介された。
・百済の領土は、漢江流域から中部の忠清道と南部の全羅道を含み、日本とも緊密な関係を持った。滅亡後は統一新羅時代となる過程で、その歴史の多くがベールに包まれたが、僅かな遺跡と遺物、記録や物語りが継承され、美しい文化を有していたことが分かる。百済滅亡後、国を失った遺民の悲しみはいかばかりか。国楽に、彼らの悲しみの歌ある。
▼ 忠清南道にあった夫餘の田植え歌「山有花歌(산유화가)」を聴く。呼応して歌い合う農事の民謡は気持ちが良い。
次に、遺民と(高麗時代に記載の)新羅の「卿歌(郷歌、향가)」にある「薯童謡(서동요)」について次のように紹介された。
・新羅と中国の唐との連合軍に敗れた百済は、多くの遺民ができ、王族や一般民が唐に連れられたりした。人々は川の入り口、南堂山に登り見送ったその日が8月17日だ。人々は8月16日にこの山に登り、去った人々のため祭祀を捧げ、唐からの知らせはないかと集まった。以来、この日は遠くに住む親戚が集まる日に変わる。また「卿歌」にある、百済に関する歌「薯童謡」は、百済の武王が王位につく前の若いころ、新羅の善花姫との結婚のため作った歌という。リズムは消え、歌詞だけが伝わる。
▼ 脚色した歌「綿のような善花姫(햇솜 같은 선화공주)」を聴く。お月様、お星様、キラキラ響くよ、今様の可愛い童謡。
最後に、「三国遺事」(1270年代後半~1280年代に記述)の薯童(後の武王)と善花姫の話について次のように紹介された。
・「三国遺事」に、百済の薯童は貧しい田舎の出身で、善花姫が美しいと噂を聞き、あてもなく新羅に向かう。そして、善花姫が夜中に薯童と会いに出かけるという歌を子どもたちに歌わせた。歌は一気に慶州に広まり、姫は王宮から追い出され、薯童と姫は結婚(姫は後に王妃になる)するという話しだ。
全羅北道の益山の「彌勒寺」に、韓国で一番で古く大規模な国宝の彌勒寺址石塔がある。武王と善花姫が建てた寺との伝説もあるが、最近の発掘調査では、百済の貴族の娘とも言われる。そうならば、善花姫は誰だったのだろうか、いつかその真実が明らかになる日も来るだろう。
▼ 月の歌「月よ(달하)」を聴く。昔を思い浮かべるような響きする、今様である。
(追記) 「アリラン・ファンタジー」
今晩、新宿の初台にある「オペラシティー・コンサートホール」で、日韓国交正常化50周年記念(主催韓国(外交部)大使館、後援日本外務省)の「アリラン・ファンタジー」公演の鑑賞に出かけた。韓国「国立国楽管弦楽団(국립국악관현악단)」がメインの演奏を行ない、他に日本の琴(木村玲子演奏が凄い)、テグム(大笒:대금)、ピアノなどとのコンチェルトがあった。
国楽に興味を持って以来、気になっていたのが韓国国立国楽管弦楽団だ。一体どのような演奏を中心にしているのだろうか。宮廷音楽のような正楽風の演奏なのか、あるいは伝統楽器を洋楽のオーケストラ・パートに配置する洋楽風の演奏なのかということだった。結果は、後者すなわち、伝統楽器を使って国楽の伝統曲・新曲を洋楽風に演奏するようだ。
今の時代、韓国国楽へ関心を向ける使命のためにも、聴きやすく馴染みやすい最適な演奏スタイルかもしれない。その意味で、洋楽主体の生活をしている都会人には、ゆっくり耳を傾ける良い機会になった。
今までに聴いたことのない楽しい曲があった。京畿地域の巫俗音楽をテーマにした「シンネリム(神憑りの儀式、신내림)」だ。実に軽快で引き込まれる。次のYoutube曲で同様な経験ができる。五線譜で演奏しているのが分かる。(なお演奏は「江原道立芸術団」とのこと)
(Youtubeに登録の권용석に感謝)
2015年12月9日水曜日
2015年12月8日火曜日
年賀状デザイン
街はすっかりクリスマスの装い。マスコミはその先をいそいで、来年の年賀状モードに入っている。追いつくのに大変。
あるテレビ番組(局名などもすっかり忘れた)で年賀状について話題にしていた。申年(さるどし)にちなんで、次のような話が紹介された。
① 十二支は時刻や方角を指し、後から覚えやすいように動物(猿)をあてはめた。
② (諸説あるが番組では)申年は、<神(しん)>の文字のつくり<申(しん)>につながる。
③ 申は雷に通じ、象徴として(ラーメンのドンブリの模様に見る)「雷紋」がある。
そのほか、大正、昭和初期のものだろうか、ノスタルジックな年賀状デザインも紹介していた。
そんなわけで、そろそろ年賀状を準備せねばならない。
ネットで<猿>を検索したところ、江戸時代の画家、伊藤若沖(いとう じゃくちゅう、 1716年3月1日~1800年10月27日)の猿図が見つかった。実際は、親と子が手とつないでいる様を描いた縦長のものだが、左図のように、親の部分だけトリミングしたものを、チャッカリ使わせていただくことにしようかと思う。
以前、(練馬区立美術館だったような気がするが?)伊藤若沖の作品展を見に行ったことがある。奇想な感じするばかりだった。
ロック(バンド)にバラードがあるように、こんな心休めさせる作品もある。
2015年12月7日月曜日
大雪2015
二十四節気の「大雪(たいせつ)」、先日の「小雪(しょうせつ)」からの今日で、雪が本格的に降るころとなる。とはいえ新暦なので、おまけに暖冬だしで実感がわかない。近頃経験の雪景色は、鉱物採集に行ったとき見た遠景しかない。陰暦12月7日は、新暦でいえば年明けの1月16日となり大分先のこと。その時期なら納得できそうだ。
(本ブログ関連:”大雪”)
「小雪(しょうせつ)」を「こゆき」と呼んでしまうと記したことがあるけれど、「大雪(たいせつ)」は何としよう。やっぱり、「おおゆき」だろうか、浮かんでくるイメージに可憐さはない。「大」は「小」がたくさん重なるわけではないようだ。
ところで、Youtubeにイ・ソンヒのカバーによる「雪が降る(눈이 내리네)」があって、最新の登録(2015/12/03公開)のようだ。音質がとても素晴らしい。
(Youtubeに登録の이예재に感謝)
(本ブログ関連:”大雪”)
「小雪(しょうせつ)」を「こゆき」と呼んでしまうと記したことがあるけれど、「大雪(たいせつ)」は何としよう。やっぱり、「おおゆき」だろうか、浮かんでくるイメージに可憐さはない。「大」は「小」がたくさん重なるわけではないようだ。
ところで、Youtubeにイ・ソンヒのカバーによる「雪が降る(눈이 내리네)」があって、最新の登録(2015/12/03公開)のようだ。音質がとても素晴らしい。
(Youtubeに登録の이예재に感謝)
2015年12月6日日曜日
新大久保、新宿の街巡り
曇り空の昼過ぎ、久し振りに都内を巡る。行き先は電車内で何となく決めた、山手線上の街、新大久保と新宿だ。どんよりした景観に気が重くて、さらにの遠出は躊躇する、ほどほどの距離である。
新大久保の駅前は相変わらずの混雑振り。メディアがいうほどもないと思いながら、<大久保通り>を進む。次第に客足の鈍さが気になり始めた。日曜日にしては、最盛期の半分、いや三分の一といったところだろうか。想像以上に変化が進んでいるようだ。冬の厳しさを感じた。
コリア・プラザのCD、書籍売り場を廻る。CD棚に、イ・ソンヒの2集リマスタリング・アルバム、最新の15集アルバム、30周年記念コンサート・ライブのCDが並んでいた。売り切りを急いでいるように見えて気になった。これ以上、新大久保にとどまることもなくて新宿に移動する。
紀伊国屋書店で、中島みゆきの歌詞集である、「中島みゆき全歌集 1975-1986」、「中島みゆき全歌集 2001-2014」(ともに朝日新聞出版)を求める。彼女の歌詞集は、以前購入の「中島みゆき最新歌詞集 1987-2003」と「中島みゆきnakajima miyuki全歌集」*(ともに朝日新聞出版)が手元にある。
(本ブログ関連:”中島みゆき”)
ちなみに、今回手にした「中島みゆき全歌集 1975-1986」は、以前購入の「中島みゆきnakajima miyuki全歌集」の新装版である。両巻末に詩人の谷川俊太郎の同じあとがき「大好きな『私』」があって、歌われる歌詞を文字で読むことについて、「歌の魅力がときにことば以上に、そのメロディやリズムや歌い手の声によっていることは誰もが知っている」ことを承知して、歌詞と詩を対比するかたちで次のような記述している。(下線は今回付記した)
--------------------------------------------
歌はことばの隠している意味と感情を増幅する。あるいは誇張すると言っていいかもしれない。だがそうすることで、歌は私たちがふだんとらえ損なっていることばの意味と感情を新しくよみがえらせてくれる。メロディとリズムに支えられたひとりの生身の歌い手の声がそれを可能にするのだ。だから活字になった歌のことばは、ある意味ではぬけがらにすぎないと言えるかもしれない。しかしまた音楽と声の助けなしにことばを読むことで、私たちは歌の肉体だけでなく、骨格とでもいうべきものを知ることができる。特にそのことばが、歌い手自身によって書かれている場合には、ひとりの歌い手の心の中にわけいることさえできるのだ。ことばと音楽と声はひとつの歌のうちで、決して分解できぬものとして存在しているのだが、書物は音楽にあふれたスタジオやコンサートホールとはまた違った静けさのうちでしか聞くこのできない隠された声、それを詩と呼んでもいいのではないだろうか。
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新大久保の駅前は相変わらずの混雑振り。メディアがいうほどもないと思いながら、<大久保通り>を進む。次第に客足の鈍さが気になり始めた。日曜日にしては、最盛期の半分、いや三分の一といったところだろうか。想像以上に変化が進んでいるようだ。冬の厳しさを感じた。
コリア・プラザのCD、書籍売り場を廻る。CD棚に、イ・ソンヒの2集リマスタリング・アルバム、最新の15集アルバム、30周年記念コンサート・ライブのCDが並んでいた。売り切りを急いでいるように見えて気になった。これ以上、新大久保にとどまることもなくて新宿に移動する。
紀伊国屋書店で、中島みゆきの歌詞集である、「中島みゆき全歌集 1975-1986」、「中島みゆき全歌集 2001-2014」(ともに朝日新聞出版)を求める。彼女の歌詞集は、以前購入の「中島みゆき最新歌詞集 1987-2003」と「中島みゆきnakajima miyuki全歌集」*(ともに朝日新聞出版)が手元にある。
(本ブログ関連:”中島みゆき”)
ちなみに、今回手にした「中島みゆき全歌集 1975-1986」は、以前購入の「中島みゆきnakajima miyuki全歌集」の新装版である。両巻末に詩人の谷川俊太郎の同じあとがき「大好きな『私』」があって、歌われる歌詞を文字で読むことについて、「歌の魅力がときにことば以上に、そのメロディやリズムや歌い手の声によっていることは誰もが知っている」ことを承知して、歌詞と詩を対比するかたちで次のような記述している。(下線は今回付記した)
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歌はことばの隠している意味と感情を増幅する。あるいは誇張すると言っていいかもしれない。だがそうすることで、歌は私たちがふだんとらえ損なっていることばの意味と感情を新しくよみがえらせてくれる。メロディとリズムに支えられたひとりの生身の歌い手の声がそれを可能にするのだ。だから活字になった歌のことばは、ある意味ではぬけがらにすぎないと言えるかもしれない。しかしまた音楽と声の助けなしにことばを読むことで、私たちは歌の肉体だけでなく、骨格とでもいうべきものを知ることができる。特にそのことばが、歌い手自身によって書かれている場合には、ひとりの歌い手の心の中にわけいることさえできるのだ。ことばと音楽と声はひとつの歌のうちで、決して分解できぬものとして存在しているのだが、書物は音楽にあふれたスタジオやコンサートホールとはまた違った静けさのうちでしか聞くこのできない隠された声、それを詩と呼んでもいいのではないだろうか。
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2015年12月5日土曜日
イ・ソンヒのアルバム12集 「この歌をかりて」
イ・ソンヒのアルバム12集は、ソウルの中古レコード店でCDを見つけることができなかった。日本国内で一度購入のチャンスがあったのを見逃してしまい後悔している。韓国のネットでは探し出せるが、購入手続きが面倒そうなので、いつか好機を待つ他になしとしている。
ところで、放送PDから(本格)制作者への道を進むキム・ソンフンという方のTwitter(@omstv101)に、この12集について次のような紹介がある(感謝)。日本ではなかなか見つからなかった理由があるようだ。
-----------------------------------------------
歌手イ・ソンヒの12集アルバムは、2001年に発売されるやいなや配給会社の問題で販売が中止された。12集アルバムの中で、「この歌をかりて(이 노래를 빌려서)」の曲は、イ・ソンヒの歌手人生最高の音楽として挙げられる。しかし、中古CDどころか、音源サイトでも聞くことがない。そうした・・・
-----------------------------------------------
上記のTwitterの中で語られている通り、「この歌をかりて(이 노래를 빌려서)」は本当に美しい曲で、ドラマチックな響きがして、すぐ感応してしまう。
(本ブログ関連:”この歌をかりて”)
(参考) 投稿サイトの”トゥデイ・ユーモア”で、「この歌は、実話を基に作った歌だそうです・・・聴覚障害のある方が障害のために、愛する人を去り、別れるしかなかった痛みを表現した」という伝聞を紹介されている。感謝。
分かってよ、多分私もそうしたわ
私に反対の家族は もう許してくれたの
あなたもおそらく親になれば、その心分かるわ
あなたを惜しんで そういうのを
幸せでなければならない、私の掌(てのひら)に書かいて
走って行ったあなたに 電話しようとしたの
そんなにも あなたのために練習した言葉
あなたを愛してる、私の声で
この歌をかりて、ほかの人をかりて
こんなにも あなたに 伝えたいひとこと
この歌を聞いたら、いつか聞いたら
あなたを愛していた心を分かってよ
私は祈って、またこの世に来るなら
その時は このようにどうか生まれないように
誰かをただ愛することさえ
罪にならねばならぬ自分が嫌いです
この歌をかりて、ほかの人をかりて
こんなにも あなたに 伝えたいひとこと
*
この歌を聞いたら、いつか聞いたら
あなたを愛していた心を分かってよ
(*以下繰り返し)
(Youtubeに登録のwallace6813に感謝)
ところで、放送PDから(本格)制作者への道を進むキム・ソンフンという方のTwitter(@omstv101)に、この12集について次のような紹介がある(感謝)。日本ではなかなか見つからなかった理由があるようだ。
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歌手イ・ソンヒの12集アルバムは、2001年に発売されるやいなや配給会社の問題で販売が中止された。12集アルバムの中で、「この歌をかりて(이 노래를 빌려서)」の曲は、イ・ソンヒの歌手人生最高の音楽として挙げられる。しかし、中古CDどころか、音源サイトでも聞くことがない。そうした・・・
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上記のTwitterの中で語られている通り、「この歌をかりて(이 노래를 빌려서)」は本当に美しい曲で、ドラマチックな響きがして、すぐ感応してしまう。
(本ブログ関連:”この歌をかりて”)
(参考) 投稿サイトの”トゥデイ・ユーモア”で、「この歌は、実話を基に作った歌だそうです・・・聴覚障害のある方が障害のために、愛する人を去り、別れるしかなかった痛みを表現した」という伝聞を紹介されている。感謝。
分かってよ、多分私もそうしたわ
私に反対の家族は もう許してくれたの
あなたもおそらく親になれば、その心分かるわ
あなたを惜しんで そういうのを
幸せでなければならない、私の掌(てのひら)に書かいて
走って行ったあなたに 電話しようとしたの
そんなにも あなたのために練習した言葉
あなたを愛してる、私の声で
この歌をかりて、ほかの人をかりて
こんなにも あなたに 伝えたいひとこと
この歌を聞いたら、いつか聞いたら
あなたを愛していた心を分かってよ
私は祈って、またこの世に来るなら
その時は このようにどうか生まれないように
誰かをただ愛することさえ
罪にならねばならぬ自分が嫌いです
この歌をかりて、ほかの人をかりて
こんなにも あなたに 伝えたいひとこと
*
この歌を聞いたら、いつか聞いたら
あなたを愛していた心を分かってよ
(*以下繰り返し)
(Youtubeに登録のwallace6813に感謝)
2015年12月4日金曜日
(資料)「歌謡番組が危ない?」
韓国歌謡界といえば、オーディション、メディアの変化、ランキングシステムといった状況のもと、グループ・アイドル歌手の生産と消費、それに対極する歌手の居場所といったものが話題にあがる。それに伴い将来の「歌謡番組が危ない?」といった歌謡番組存立そのものの話しまで出ている。
KBS WORLD RADIO(日本語放送)の番組「アジュンマの井戸端会議」の第376話「歌謡番組が危ない?」(11/19)は、随分ショッキングなタイトルだが、歌謡番組の出演システムや番組の存在について次のように伝えている。(抜粋表示)
(本ブログ関連:”アイドル”)
-------------------------------------------------------------
・地上波やケーブルテレビ各局の歌謡番組の放送は、楽曲のランキングを発表し、それで出演者が決まる。ランキングの意味が全くなく、いずれの番組も廃止するべきという声が上がっている。アイドル中心に反感が強いこと、それに番組の影響力が弱くなっていることが原因。
・ほとんど毎日放送される歌謡番組では、1位になる歌手が毎週のように変わるのが最近の趨勢。ランキング番組の主な視聴者は、ビジュアル重視で、アイドル歌手追っかけの忠誠度の高い10代だ。番組のランキングは、CD売り上げ、聴取回数、ミュージックビデオ再生回数などが評価対象となる。また視聴者の事前投票もかなりを占め、忠誠度の高いファンを持つアイドルに有利なシステムである。出演時間は3分前後だが、数回のリハーサルに半日は放送局で過ごさねばならない。
・最近まで音源チャートの上位ランクインしていた歌手たちは、最新曲で歌謡番組にほとんど出演しない。新曲で活動再開をアピールし、カムバック披露するのが、アイドルたちを除いて意味合いもなくなっている。
・歌謡番組のランキングは何の意味もないと切り捨てる歌謡関係者もいる。特定事務所の所属歌手により多くの時間を割き、忠誠度の高いファンを多く持つアイドルグループがカムバックと同時に1位になるような、構造的な問題を抱えている。
・マルチメディアの時代の到来で、放送局の歌謡番組に出演しなくとも、自身の楽曲を宣伝することができる機会が増えたのも、歌謡番組が軽視されるようになった理由の一つだろう。これからは新人も含めて歌謡番組には出演しない歌手がますます増えるのではないかと、業界ではみている。
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KBS WORLD RADIO(日本語放送)の番組「アジュンマの井戸端会議」の第376話「歌謡番組が危ない?」(11/19)は、随分ショッキングなタイトルだが、歌謡番組の出演システムや番組の存在について次のように伝えている。(抜粋表示)
(本ブログ関連:”アイドル”)
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・地上波やケーブルテレビ各局の歌謡番組の放送は、楽曲のランキングを発表し、それで出演者が決まる。ランキングの意味が全くなく、いずれの番組も廃止するべきという声が上がっている。アイドル中心に反感が強いこと、それに番組の影響力が弱くなっていることが原因。
・ほとんど毎日放送される歌謡番組では、1位になる歌手が毎週のように変わるのが最近の趨勢。ランキング番組の主な視聴者は、ビジュアル重視で、アイドル歌手追っかけの忠誠度の高い10代だ。番組のランキングは、CD売り上げ、聴取回数、ミュージックビデオ再生回数などが評価対象となる。また視聴者の事前投票もかなりを占め、忠誠度の高いファンを持つアイドルに有利なシステムである。出演時間は3分前後だが、数回のリハーサルに半日は放送局で過ごさねばならない。
・最近まで音源チャートの上位ランクインしていた歌手たちは、最新曲で歌謡番組にほとんど出演しない。新曲で活動再開をアピールし、カムバック披露するのが、アイドルたちを除いて意味合いもなくなっている。
・歌謡番組のランキングは何の意味もないと切り捨てる歌謡関係者もいる。特定事務所の所属歌手により多くの時間を割き、忠誠度の高いファンを多く持つアイドルグループがカムバックと同時に1位になるような、構造的な問題を抱えている。
・マルチメディアの時代の到来で、放送局の歌謡番組に出演しなくとも、自身の楽曲を宣伝することができる機会が増えたのも、歌謡番組が軽視されるようになった理由の一つだろう。これからは新人も含めて歌謡番組には出演しない歌手がますます増えるのではないかと、業界ではみている。
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2015年12月3日木曜日
イ・ソンヒ「一人になった愛」
イ・ソンヒの登場に驚いた作家たちには力が入っただろう。初集アルバムの作品は今も素晴らしい名曲揃いだ。それらを、力いっぱいに響かせたデビュー時と違い、時間を経るごとに更に豊かな作品になっていく。
イ・ソンヒの1集に所収の「一人になった愛(혼자된 사랑)」(1985年、作詞キム・キルソプ、作曲ソン・ジュホ)を、1990年10月に訪れたモントリオール室内楽団と協演している、次の映像を見て、いっそう洗練されていることが分かる。(それでも若々しい)この機会にソウルの世宗文化会館に立つことができた。
(本ブログ関連:”モントリオール室内楽団”)
協演当時、音楽界での自身の立場について複雑な思いがあったようだ。彼女の自伝というべき思い出語りに、次のような記憶がある。
--------------------------------------
昨年の秋(1990年10月)には、カナダのモントリオール室内管弦楽団と共演した。あの「敷居の高い」世宗文化会館大講堂で。その楽団が著名な外国のクラシックオーケストラではなかったとしたら、私一人で世宗文化会館の舞台に立つということが可能だったのだろうか? ほろ苦い。また、私が望んだことは、外国楽団でない私たちのオーケストラであった。しかしながら、伴奏はできないというのだから、私だってどうすることができようか。
--------------------------------------
風が雨を巻きあげて さらっていった街に
捨てられた傘ひとつ さびしく泣いていた
*
足もとには夕闇せまって 孤独な夜が深まれば
行く辺のないこの心 静寂(しじま)の中で明かした
しずむ 孤独だけが 切なくて
散らばる葉を集め 火をつけて
去った愛を探して さびしい心 (Oh~)
そっと寄りそいみれば それでも 暖かい、暖かい
ひとりいるより
(*以下繰り返し)
(Youtubeに登録のlys2187に感謝)
イ・ソンヒの1集に所収の「一人になった愛(혼자된 사랑)」(1985年、作詞キム・キルソプ、作曲ソン・ジュホ)を、1990年10月に訪れたモントリオール室内楽団と協演している、次の映像を見て、いっそう洗練されていることが分かる。(それでも若々しい)この機会にソウルの世宗文化会館に立つことができた。
(本ブログ関連:”モントリオール室内楽団”)
協演当時、音楽界での自身の立場について複雑な思いがあったようだ。彼女の自伝というべき思い出語りに、次のような記憶がある。
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昨年の秋(1990年10月)には、カナダのモントリオール室内管弦楽団と共演した。あの「敷居の高い」世宗文化会館大講堂で。その楽団が著名な外国のクラシックオーケストラではなかったとしたら、私一人で世宗文化会館の舞台に立つということが可能だったのだろうか? ほろ苦い。また、私が望んだことは、外国楽団でない私たちのオーケストラであった。しかしながら、伴奏はできないというのだから、私だってどうすることができようか。
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風が雨を巻きあげて さらっていった街に
捨てられた傘ひとつ さびしく泣いていた
*
足もとには夕闇せまって 孤独な夜が深まれば
行く辺のないこの心 静寂(しじま)の中で明かした
しずむ 孤独だけが 切なくて
散らばる葉を集め 火をつけて
去った愛を探して さびしい心 (Oh~)
そっと寄りそいみれば それでも 暖かい、暖かい
ひとりいるより
(*以下繰り返し)
(Youtubeに登録のlys2187に感謝)
2015年12月2日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 別れの歌
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/25)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<別れの歌>に関連した3曲を紹介した。
始めに、昔は特定の木を植えて道程(距離)を示したこと、東屋(あずまや)を置いたことについて次のように紹介された。
・昔の道は、目的地までの距離を示すのに木を植えて表した。10里の地点にハリゲヤキ、5里の地点にハンノキを植えた。5里を「オリ(오리)」と発音し、ハンノキを「オリナム(오리나무.=五里木)」と言うのは、これにちなんだと言われる。ちなみに、日本の1里≒4Kmは、朝鮮の10里≒4Kmとなり、単位は同じ「里」だが距離に違いがある。また、ハンノキは高く、遠くから見える。村々に東屋を5里ごとに建てたことから、5里(오리)の発音を付して「五里亭(오리정)」とも呼ぶ。人を迎え、別れる場所でもあった。例えば、パンソリ「春香歌(춘향가)」で、春香(춘향)と李夢龍(이몽룡)が別れたところが五里亭だ。
▼ 「春香歌」から、「五里亭の別れ(오리정 이별대목)」の場面を聴く。どことなく物静かだが、千遍思案を重ねてのこと。
次に、「春香歌」で春香と李夢龍の五里亭での別れと、その心情について次のように紹介された。
・李夢龍は地方官の息子で、地方官の家族が都に去る日、妓生の娘春香が五里亭まで追った。当時にすれば無茶と思えるが、それだけ切ない別れだったのだろう。京畿地域の歌い手が、この場面を歌で構成した、十二の雑歌の中に「出引歌」がある。日常の惣菜の青唐辛子、作りたてのキムチを、また昔も今も高級なタコ、アワビなどの食材を用意して五里亭に向かうところから始まる。別れを前に馳走を味わう余裕はないものの、心を込めて準備したのだろう。
▼ 京畿地域の雑歌から「出引歌(출인가)」を聴く。いつまでも明るく生きることを願う、恋すればの歌だろうか。
最後に、別れの後に恋人たちが安否を気遣い託した「青い鳥(청조)」の伝説について次のように紹介された。
・別れは悲しい。旅立たねばならぬ者がいて、その後に、いつまでも待つ者がいる。手紙のやり取りもままならぬ当時、人々は飛び交う鳥を見て心を慰めた。昔、朝からカササギがさえずると喜ばしいことがあると信じられた。中国では青い鳥がその役割をした。青い鳥に、恋人の安否を問う歌がある。女性歌曲(가곡)で、伝統的音階の「ウジョ(우조)」に、「チュンゴ(중거)」という歌曲がある。
▼ 鳥に歌いかける歌「青い鳥よ(청조야)」を聴く。柔らかい詩吟のよう。安否と安堵が重なる。
・最後に、キム・ボエさんの言葉「別れがあるからこそ、また再会の喜びもあるのだと思います。」
始めに、昔は特定の木を植えて道程(距離)を示したこと、東屋(あずまや)を置いたことについて次のように紹介された。
・昔の道は、目的地までの距離を示すのに木を植えて表した。10里の地点にハリゲヤキ、5里の地点にハンノキを植えた。5里を「オリ(오리)」と発音し、ハンノキを「オリナム(오리나무.=五里木)」と言うのは、これにちなんだと言われる。ちなみに、日本の1里≒4Kmは、朝鮮の10里≒4Kmとなり、単位は同じ「里」だが距離に違いがある。また、ハンノキは高く、遠くから見える。村々に東屋を5里ごとに建てたことから、5里(오리)の発音を付して「五里亭(오리정)」とも呼ぶ。人を迎え、別れる場所でもあった。例えば、パンソリ「春香歌(춘향가)」で、春香(춘향)と李夢龍(이몽룡)が別れたところが五里亭だ。
▼ 「春香歌」から、「五里亭の別れ(오리정 이별대목)」の場面を聴く。どことなく物静かだが、千遍思案を重ねてのこと。
次に、「春香歌」で春香と李夢龍の五里亭での別れと、その心情について次のように紹介された。
・李夢龍は地方官の息子で、地方官の家族が都に去る日、妓生の娘春香が五里亭まで追った。当時にすれば無茶と思えるが、それだけ切ない別れだったのだろう。京畿地域の歌い手が、この場面を歌で構成した、十二の雑歌の中に「出引歌」がある。日常の惣菜の青唐辛子、作りたてのキムチを、また昔も今も高級なタコ、アワビなどの食材を用意して五里亭に向かうところから始まる。別れを前に馳走を味わう余裕はないものの、心を込めて準備したのだろう。
▼ 京畿地域の雑歌から「出引歌(출인가)」を聴く。いつまでも明るく生きることを願う、恋すればの歌だろうか。
最後に、別れの後に恋人たちが安否を気遣い託した「青い鳥(청조)」の伝説について次のように紹介された。
・別れは悲しい。旅立たねばならぬ者がいて、その後に、いつまでも待つ者がいる。手紙のやり取りもままならぬ当時、人々は飛び交う鳥を見て心を慰めた。昔、朝からカササギがさえずると喜ばしいことがあると信じられた。中国では青い鳥がその役割をした。青い鳥に、恋人の安否を問う歌がある。女性歌曲(가곡)で、伝統的音階の「ウジョ(우조)」に、「チュンゴ(중거)」という歌曲がある。
▼ 鳥に歌いかける歌「青い鳥よ(청조야)」を聴く。柔らかい詩吟のよう。安否と安堵が重なる。
・最後に、キム・ボエさんの言葉「別れがあるからこそ、また再会の喜びもあるのだと思います。」
2015年12月1日火曜日
師走2015
今日から12月、旧暦名であるが「師走」となった。やっと冬らしい寒さが来た。外出に、思わず厚手のジャンパーと手袋を用意したくらいだ。夜の帰り道、冬着してよかったとつくづく思った。それほど頬をさすように冷えた。
(本ブログ関連:”師走”)
今年も残り1ヶ月しかなくて、部屋の「月別カレンダー」は一枚だけになってゆらゆら揺れている。「日めくりカレンダー」も薄くなり落ち着かないようだ。町中、クリスマスムード作りして、駅前や公園の木立をLED照明で飾っている。(こんな寒い夜中に、子どもたちが見に来るのだろうか)
1年をリンゴの実に例えて、軸を中心に縦に12等分すると、既に11/12食ってしまったことになる。1/12は一片というより、一枚といったほうがよいかもしれない。まるで一年がスライスされ、ポテトチップのようになっている。
師走の名と違い、生活はあわただしくない。歳のせいだろうか。カウチポテト族のように、この31日間を無為に過ごすことになりそうだ。それでも時間は過ぎていく、過ぎて行ってくれる。
(本ブログ関連:”師走”)
今年も残り1ヶ月しかなくて、部屋の「月別カレンダー」は一枚だけになってゆらゆら揺れている。「日めくりカレンダー」も薄くなり落ち着かないようだ。町中、クリスマスムード作りして、駅前や公園の木立をLED照明で飾っている。(こんな寒い夜中に、子どもたちが見に来るのだろうか)
1年をリンゴの実に例えて、軸を中心に縦に12等分すると、既に11/12食ってしまったことになる。1/12は一片というより、一枚といったほうがよいかもしれない。まるで一年がスライスされ、ポテトチップのようになっている。
師走の名と違い、生活はあわただしくない。歳のせいだろうか。カウチポテト族のように、この31日間を無為に過ごすことになりそうだ。それでも時間は過ぎていく、過ぎて行ってくれる。
2015年11月30日月曜日
イ・ソンヒの「少女の祈り」
総じて暖冬。昼の日向の温もりも、日陰に入ればヒンヤリする。月面であれ、宇宙であれ、太陽光のあたる部分とそうでない部分の温度差は想像以上。地上でも、砂漠の昼夜で随分と差がでる。そう考えると、この寒暖に不平もいえない。
紅葉は温度差が激しいほど美しいという。最盛期は過ぎたが、高尾山の紅葉はまだ見ごろとのこと。行ってみようかと思案するが、寒さと人の混み合いを想像するだけで足が遠のく。詩情がわかないが、近場の紅葉でおさめる。それにしても、紅葉を愛でるにふさわしい(人生の)時期もあるようだ。
イ・ソンヒの初めてのアルバムに収録の「少女の祈り(소녀의 기도)」(1985年)は、思い出が落葉のように重なる乙女の歌だ。次のYoutubeの歌声は、20周年コンサートのものだろうか。高音につやが加わって、なめらかに響く。たぶん、最も美しい紅葉だろう。
(本ブログ関連:”少女の祈り”)
風吹けば散る、寂しい落葉が みな
おぼろな露のよう、揺らぎます
その声耳にして 空しく歩く うつろな心は
*
離れた人 なつかしむ、切ない心だけれど
一人残り 守ればならぬ、 孤独なわたしを泣かすよ
引き留められぬ 未練さに
落葉の季節に わたしを埋めて
春がまた訪れを 祈ります、この夜が明けたら
(*以下繰り返し)
この夜が明けたら
(Youtubeに登録のseony7676に感謝)
紅葉は温度差が激しいほど美しいという。最盛期は過ぎたが、高尾山の紅葉はまだ見ごろとのこと。行ってみようかと思案するが、寒さと人の混み合いを想像するだけで足が遠のく。詩情がわかないが、近場の紅葉でおさめる。それにしても、紅葉を愛でるにふさわしい(人生の)時期もあるようだ。
イ・ソンヒの初めてのアルバムに収録の「少女の祈り(소녀의 기도)」(1985年)は、思い出が落葉のように重なる乙女の歌だ。次のYoutubeの歌声は、20周年コンサートのものだろうか。高音につやが加わって、なめらかに響く。たぶん、最も美しい紅葉だろう。
(本ブログ関連:”少女の祈り”)
風吹けば散る、寂しい落葉が みな
おぼろな露のよう、揺らぎます
その声耳にして 空しく歩く うつろな心は
*
離れた人 なつかしむ、切ない心だけれど
一人残り 守ればならぬ、 孤独なわたしを泣かすよ
引き留められぬ 未練さに
落葉の季節に わたしを埋めて
春がまた訪れを 祈ります、この夜が明けたら
(*以下繰り返し)
この夜が明けたら
(Youtubeに登録のseony7676に感謝)
2015年11月29日日曜日
なぜ仙人の話しをするのか
このブログは、イ・ソンヒのファンブログだ。とはいえ、毎日彼女のことを書き続ける力はない。そこで、彼女の歌の曲名や歌詞内容にキーワードを探し、思い浮かぶことを話題にしたりしている。テレビドラマの「僕のガールフレンドは九尾狐」挿入曲である、彼女の歌「狐の嫁入り(여우비)」(2010年)から、狐信仰、九尾狐、稲荷神社、(狐に関連して)山海経、聊斎志異、耳袋(嚢)など調べている。
(本ブログ関連:”狐の嫁入り”)
また、イ・ソンヒの父親が仏教音楽「梵唄(ぼんばい:범패)」の指導者だったことから、韓国仏教、国楽などに関心を向けている。
そんな一つに、イ・ソンヒの名前がある。漢字名「李仙姫」に、なぜ「仙」の文字があるのかについて、彼女が誕生する前に父親が見た「夢」から選ばれたということを何度か触れた。
(本ブログ関連:”李仙姫の名前”)
---------------------------------------
「老木樹のチャン・ウクチョ(장욱조)が生命樹になって」
・イ・ソンヒは、(陰暦の)1964年11月11日に、(本籍地)忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里に誕生した。父(イ・ジョンギュ:이종규)、母(チェ・ビョンムン:최병문)の初めての子として誕生した。父母のそれぞれの夢に、男の子が示唆されていた。父の夢にあらわれた、山の神を意味する虎のために、彼女の名前(李仙姫)に神仙の「仙」の字が入ることになった。
(本ブログ関連:"イ・ソンヒの生誕")
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ここ数日、仙人について書き連ねている。いつか、仙人のいる仙境、あるいは桃源郷の世界を覗くことができたらと期待している。(とはいえ、仙人の事典のような列仙伝をめくると、彼らが普遍的な存在というよりは、一つの生き方に見えてくる。人模様というか、人様々というか。)
(本ブログ関連:”狐の嫁入り”)
また、イ・ソンヒの父親が仏教音楽「梵唄(ぼんばい:범패)」の指導者だったことから、韓国仏教、国楽などに関心を向けている。
そんな一つに、イ・ソンヒの名前がある。漢字名「李仙姫」に、なぜ「仙」の文字があるのかについて、彼女が誕生する前に父親が見た「夢」から選ばれたということを何度か触れた。
(本ブログ関連:”李仙姫の名前”)
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「老木樹のチャン・ウクチョ(장욱조)が生命樹になって」
・イ・ソンヒは、(陰暦の)1964年11月11日に、(本籍地)忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里に誕生した。父(イ・ジョンギュ:이종규)、母(チェ・ビョンムン:최병문)の初めての子として誕生した。父母のそれぞれの夢に、男の子が示唆されていた。父の夢にあらわれた、山の神を意味する虎のために、彼女の名前(李仙姫)に神仙の「仙」の字が入ることになった。
(本ブログ関連:"イ・ソンヒの生誕")
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ここ数日、仙人について書き連ねている。いつか、仙人のいる仙境、あるいは桃源郷の世界を覗くことができたらと期待している。(とはいえ、仙人の事典のような列仙伝をめくると、彼らが普遍的な存在というよりは、一つの生き方に見えてくる。人模様というか、人様々というか。)
2015年11月28日土曜日
仙人になりそこなう
国立国会図書館には、古書をネットで参照できるサービス、「近代デジタルライブラリー」がある。<仙人 支那>で検索すると、最近気になり探している中国の仙人話しを読むことができる。
(本ブログ関連:”仙人”、”国立国会図書館”)
池田大伍編の「支那童話集:新訳」(富山房、大正13年)に、「聊斎志異」*をもとに書いた「仙人修業」がある。仙人になりたいという思いはあるが、それを浅慮と見抜かれた男の話しだ。彼は、仙人になる一途さも、仙人になる躊躇もない。あるのは、その気になってしまう粗忽さだけだった。
(* 「聊斎志異」の「仙術修業 - 労山道士」を童話にした)
仙人になりたくて、(労山にいる)道士に弟子入りしたものの長続きしない王生は、ひと月、ふた月と我慢したものの、とうとう暇を申し出る。何を思ったか、一つだけ秘術を教え乞うたのだ。道士は、「それ見ろ。だから、わたしはお前には辛抱はできないといったのだ。」といいながらも、壁抜けの術を授けた。そして、その時は、王生にもそれができた。
家に戻った王生は、仙道を学んできたといいわけするが、長い留守に女房に散々なじられる。そこで、壁抜けの術を見せようとする。
------------------------------------
「ではやってみせるぞ」
と、家の壁から、五六尺離れて、呪文を唱えて、頭を突き出して、駆けぬけようとしますと、堅い壁で、どさんと頭が突当たって、目が眩んで転倒(ひっくりかえ)りました。お嫁さんが助けおこしてみると、額の上に、大きな卵ほどの瘤(こぶ)が出来ました。お嫁さんはあんまり馬鹿々々しさに、笑い出しました。王はぷんぷん怒って、「悪道士め、欺(だ)ましたな。」と、次団駄ふみましたが、どうすることもできませんでした。
------------------------------------
人にも見極めがある。適不適だけでなく、人格まで見抜くことだ。勘といってもよいし、経験から体得したものといってもよい。重要な仕事を共にする場合に至極当り前の判別だし、自分が編み出した術を伝授するとなればなおさら肝心である。
ところが、見極めからはずれた当人は、なぜそうなのか理解できない。はずした側にすれば、きつくいえないし、早く気付いて欲しいと願うばかりだ。
(本ブログ関連:”仙人”、”国立国会図書館”)
池田大伍編の「支那童話集:新訳」(富山房、大正13年)に、「聊斎志異」*をもとに書いた「仙人修業」がある。仙人になりたいという思いはあるが、それを浅慮と見抜かれた男の話しだ。彼は、仙人になる一途さも、仙人になる躊躇もない。あるのは、その気になってしまう粗忽さだけだった。
(* 「聊斎志異」の「仙術修業 - 労山道士」を童話にした)
仙人になりたくて、(労山にいる)道士に弟子入りしたものの長続きしない王生は、ひと月、ふた月と我慢したものの、とうとう暇を申し出る。何を思ったか、一つだけ秘術を教え乞うたのだ。道士は、「それ見ろ。だから、わたしはお前には辛抱はできないといったのだ。」といいながらも、壁抜けの術を授けた。そして、その時は、王生にもそれができた。
家に戻った王生は、仙道を学んできたといいわけするが、長い留守に女房に散々なじられる。そこで、壁抜けの術を見せようとする。
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「ではやってみせるぞ」
と、家の壁から、五六尺離れて、呪文を唱えて、頭を突き出して、駆けぬけようとしますと、堅い壁で、どさんと頭が突当たって、目が眩んで転倒(ひっくりかえ)りました。お嫁さんが助けおこしてみると、額の上に、大きな卵ほどの瘤(こぶ)が出来ました。お嫁さんはあんまり馬鹿々々しさに、笑い出しました。王はぷんぷん怒って、「悪道士め、欺(だ)ましたな。」と、次団駄ふみましたが、どうすることもできませんでした。
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人にも見極めがある。適不適だけでなく、人格まで見抜くことだ。勘といってもよいし、経験から体得したものといってもよい。重要な仕事を共にする場合に至極当り前の判別だし、自分が編み出した術を伝授するとなればなおさら肝心である。
ところが、見極めからはずれた当人は、なぜそうなのか理解できない。はずした側にすれば、きつくいえないし、早く気付いて欲しいと願うばかりだ。
2015年11月27日金曜日
仙人の心変り
季節が巡り、ようやく訪れた春に思いをあらたにするものだ。薄田泣菫は和やかな春に接して、掌編「春の賦」の後半に、次のような話しを紹介している。念願の仙人修行を成就したものの、一瞬の<ちょっとした>心変りした男を省察する。
中国のいつの時代だったか、馬明生は仙術の不老不死と飛翔にあこがれ、第一人者の安期生に弟子入りする。修業の後、「金液神丹方」を伝授される。この「神丹」を飲めば、不老不死となり、鳥のように空を飛べるというのだ。そこで、華陰山の山深く入り、教えられた秘法で仙薬を錬り、できあがった薬をてのひらに載せて、ほがらかな微笑さえも浮べて言った。
-----------------------------------------
「わしは、今これを服そうとしているのだ。次の瞬間には、わしの身体は鸛(こうのとり)のように、ふわりと空高く舞ひ揚ることができるのだ。大地よ。お前とは久しい間の……」
彼はこういつて、最後の一瞥を長い間の昵懇(なじみ)だった大地の上に投げた。
その一刹那、彼の心は変った。彼は掌面に盛っていた仙薬の全分量の半分だけを一息にぐっと嚥み下したかと思うと、残った半分を惜し気もなくそこらにぶち撒けてしまった。
飛仙となって、羽ばたきの音けたたましく大空を翔けめぐるべきはずだった馬明生の体は、見る見るうちに傴僂(せむし)のように折れ曲って、やがて小さな地仙*となってしまった。
-----------------------------------------
(* 地仙: 超越して飛翔できる天仙に対する、位の下る地上の仙人)
泣菫は、馬明生の一刹那の行動について、「彼の心変りも、詮じ詰めると、(時季がちようど春だったから感じる)そんなちよっとした理由にもとづくものではなかったろうか。/世の中にはよくそんなことがあるものだ。」と語る。
冬に枯れた心に、春は生命力を吹き込む。そんな自然を感応したとき、仙人の境界を知り、それを越えることに躊躇したのだろう。そうであるからこそ、人はより自然に引き寄せられる。わが身がどうであれ、地上の風景とともにあることを選んだのかもしれない。
(本ブログ関連:”仙人”)
中国のいつの時代だったか、馬明生は仙術の不老不死と飛翔にあこがれ、第一人者の安期生に弟子入りする。修業の後、「金液神丹方」を伝授される。この「神丹」を飲めば、不老不死となり、鳥のように空を飛べるというのだ。そこで、華陰山の山深く入り、教えられた秘法で仙薬を錬り、できあがった薬をてのひらに載せて、ほがらかな微笑さえも浮べて言った。
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「わしは、今これを服そうとしているのだ。次の瞬間には、わしの身体は鸛(こうのとり)のように、ふわりと空高く舞ひ揚ることができるのだ。大地よ。お前とは久しい間の……」
彼はこういつて、最後の一瞥を長い間の昵懇(なじみ)だった大地の上に投げた。
その一刹那、彼の心は変った。彼は掌面に盛っていた仙薬の全分量の半分だけを一息にぐっと嚥み下したかと思うと、残った半分を惜し気もなくそこらにぶち撒けてしまった。
飛仙となって、羽ばたきの音けたたましく大空を翔けめぐるべきはずだった馬明生の体は、見る見るうちに傴僂(せむし)のように折れ曲って、やがて小さな地仙*となってしまった。
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(* 地仙: 超越して飛翔できる天仙に対する、位の下る地上の仙人)
泣菫は、馬明生の一刹那の行動について、「彼の心変りも、詮じ詰めると、(時季がちようど春だったから感じる)そんなちよっとした理由にもとづくものではなかったろうか。/世の中にはよくそんなことがあるものだ。」と語る。
冬に枯れた心に、春は生命力を吹き込む。そんな自然を感応したとき、仙人の境界を知り、それを越えることに躊躇したのだろう。そうであるからこそ、人はより自然に引き寄せられる。わが身がどうであれ、地上の風景とともにあることを選んだのかもしれない。
(本ブログ関連:”仙人”)
2015年11月26日木曜日
(資料) 金泳三と歌手イ・ソンヒの握手
イ・ソンヒは27才となる1991年(6月20日)に、ソウル市会議員選挙にて麻浦地区から民自党候補として出馬し当選した。
(本ブログ関連:”ソウル市議会議員”)
連合通信の記事、「<YS死去> 金泳三と歌手イ・ソンヒの握手」(11/22)に、(イ・ソンヒがソウル市会議員選挙に出馬した)当時民自党代表だった金泳三(元大統領、1927年12月20日~2015年11月22日)と握手する写真(1991年6月)が掲載されている。
ちなみに、「金泳三」のローマ字名「Kim Young-sam」から「YS」と表記。(最近の)大統領名の略称として使われる。
(金大中元大統領は「DJ」と呼ばれる。イ・ソンヒと握手している写真を、ネットで見たことがある。)
(本ブログ関連:”ソウル市議会議員”)
連合通信の記事、「<YS死去> 金泳三と歌手イ・ソンヒの握手」(11/22)に、(イ・ソンヒがソウル市会議員選挙に出馬した)当時民自党代表だった金泳三(元大統領、1927年12月20日~2015年11月22日)と握手する写真(1991年6月)が掲載されている。
ちなみに、「金泳三」のローマ字名「Kim Young-sam」から「YS」と表記。(最近の)大統領名の略称として使われる。
(金大中元大統領は「DJ」と呼ばれる。イ・ソンヒと握手している写真を、ネットで見たことがある。)
2015年11月25日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 島々の歌
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/18)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<島々の歌>にふさわしい3曲を紹介した。
始めに、全羅道地域の多島海にある「巨文島(거문도)」ついて次のように紹介された。
・韓国には3,300の島があり、その内2,300は南側に位置する。特に、珍島を中心とする西南海岸、全羅道地域だけで、2,000近くの島が散在し、海域を「多島海」と呼ぶ。海辺で海苔やカキを養殖し、その向こうに島々が並ぶ。海は田、島は山に思える。島は陸地ほど往来の自由がないが、それぞれ独特で貴重な文化を残している。全羅南道の麗水沖に「巨文島」がある。
▼ 多島海の島歌「巨文島の舟歌(거문도 뱃노래)」を聴く。潮風を受け、波越える海の男たちのみなぎる力が聞こえる。
次に、巨文島の歴史と「甫吉島(보길도)」の文化(尹善道:윤선도、1587年~1671年)について次のように紹介された。
・巨文島は麗水に属し、麗水から船で2時間かかる多島海最南端の島だ。麗水と済州島の中間に位置する。1885年から2年間、英国に占拠された「巨文島事件」で知られる。巨文島の漁夫歌に、船で使う綱をないながら歌う「スルビ歌(술비소리)」、帰港するとき歌う「ソル歌(썰소리)」など様々ある、全羅道のリズムと方言が特徴だ。
また、南の島、「南島(남도)」には、観光客が多く訪れる「甫吉島」がある。朝鮮時代、詩人の尹善道が済州島へ渡るとき、その景色に魅了されて定着したほどだ。ここで風流を楽しみながら書を読み詩作した。甫吉島の四季を描いた「漁父四時詞(어부사시사)」も、ここで出来た作品だ。尹善道が手入れした建物と庭園は、「尹善道園林」といい多くの人々が訪れ、甫吉島の自然保護にも役立っている。
▼ (管)ソグム、(弦)ヘグム・カヤグム演奏「甫吉島の朝(보길도의 아침)」を聴く。陽光が次第に広がり渡る、今様である。
最後に、「珍島(진도)」の地理と、葬儀の歌「珍島タシレギ(진도다시래기)」について次のように紹介された。
・また、南島文化に欠かせなぬ場所が「珍島」だ。韓国で3番目に大きい島で、漁業より農業が盛んだ。美しい環境の影響か、数々の有名アーティストを輩出している。また、歌と関連した多様な無形文化財も保有しており、住民が積極的に参加、継承している。珍島には、葬儀を行う際、村人が喪家で歌い踊る風習があり、そのとき「珍島タシレギ」を歌う。珍島の人々の生き方がうかがえる歌だ。
▼ ”大きな悲しみも歌を歌いながら乗り越える”という歌「珍島タシレギ」を聴く。Youtubeでは寸劇もあるようで・・・賑やか。
始めに、全羅道地域の多島海にある「巨文島(거문도)」ついて次のように紹介された。
・韓国には3,300の島があり、その内2,300は南側に位置する。特に、珍島を中心とする西南海岸、全羅道地域だけで、2,000近くの島が散在し、海域を「多島海」と呼ぶ。海辺で海苔やカキを養殖し、その向こうに島々が並ぶ。海は田、島は山に思える。島は陸地ほど往来の自由がないが、それぞれ独特で貴重な文化を残している。全羅南道の麗水沖に「巨文島」がある。
▼ 多島海の島歌「巨文島の舟歌(거문도 뱃노래)」を聴く。潮風を受け、波越える海の男たちのみなぎる力が聞こえる。
次に、巨文島の歴史と「甫吉島(보길도)」の文化(尹善道:윤선도、1587年~1671年)について次のように紹介された。
・巨文島は麗水に属し、麗水から船で2時間かかる多島海最南端の島だ。麗水と済州島の中間に位置する。1885年から2年間、英国に占拠された「巨文島事件」で知られる。巨文島の漁夫歌に、船で使う綱をないながら歌う「スルビ歌(술비소리)」、帰港するとき歌う「ソル歌(썰소리)」など様々ある、全羅道のリズムと方言が特徴だ。
また、南の島、「南島(남도)」には、観光客が多く訪れる「甫吉島」がある。朝鮮時代、詩人の尹善道が済州島へ渡るとき、その景色に魅了されて定着したほどだ。ここで風流を楽しみながら書を読み詩作した。甫吉島の四季を描いた「漁父四時詞(어부사시사)」も、ここで出来た作品だ。尹善道が手入れした建物と庭園は、「尹善道園林」といい多くの人々が訪れ、甫吉島の自然保護にも役立っている。
▼ (管)ソグム、(弦)ヘグム・カヤグム演奏「甫吉島の朝(보길도의 아침)」を聴く。陽光が次第に広がり渡る、今様である。
最後に、「珍島(진도)」の地理と、葬儀の歌「珍島タシレギ(진도다시래기)」について次のように紹介された。
・また、南島文化に欠かせなぬ場所が「珍島」だ。韓国で3番目に大きい島で、漁業より農業が盛んだ。美しい環境の影響か、数々の有名アーティストを輩出している。また、歌と関連した多様な無形文化財も保有しており、住民が積極的に参加、継承している。珍島には、葬儀を行う際、村人が喪家で歌い踊る風習があり、そのとき「珍島タシレギ」を歌う。珍島の人々の生き方がうかがえる歌だ。
▼ ”大きな悲しみも歌を歌いながら乗り越える”という歌「珍島タシレギ」を聴く。Youtubeでは寸劇もあるようで・・・賑やか。
2015年11月24日火曜日
イ・ソンヒのカバー「未練」、「あなたの愛は」
民謡を含む国楽からトロットまで、あらゆるジャンルを網羅するイ・ソンヒの歌唱力について今更語ることはないだろう。先人の曲をカバーする際に、独自の色に染め上げるのではなく、真摯に向かい合い、その曲が本来持っているだろう音楽性を繊細にすくいあげる。歌声は聴く者の心に深く沁み込み響く。
(本ブログ関連:”「愛しか私はわからない」”、”トロット・メドレー ①、②、③”)
めずらしい(京畿道抱川市にある光陵林業試驗場での)映像がYoutubeにある。イ・ソンヒがカバーする次の2曲を聞くとき、原曲の持つ大衆性を、イ・ソンヒがいとも容易に引き出していることに気付く。しかも、今聞いても古色でなく、時代の臭いを感じさせないのに驚く。
・チャンヒョン(장현、1945年~2008年)の「未練(미련)」
・ヤン・ヒウン(楊姫銀、양희은、1952年~)の「あなたの愛は(내님의 사랑은)」
(Youtubeに登録のjenny.kimに感謝)
(本ブログ関連:”「愛しか私はわからない」”、”トロット・メドレー ①、②、③”)
めずらしい(京畿道抱川市にある光陵林業試驗場での)映像がYoutubeにある。イ・ソンヒがカバーする次の2曲を聞くとき、原曲の持つ大衆性を、イ・ソンヒがいとも容易に引き出していることに気付く。しかも、今聞いても古色でなく、時代の臭いを感じさせないのに驚く。
・チャンヒョン(장현、1945年~2008年)の「未練(미련)」
・ヤン・ヒウン(楊姫銀、양희은、1952年~)の「あなたの愛は(내님의 사랑은)」
(Youtubeに登録のjenny.kimに感謝)
2015年11月23日月曜日
小雪2015 外語祭
二十四節気の「小雪(しょうせつ)」にしては、冷え込みは鋭くないが、小雨まじりの曇天は重く、いかにも雪がぱらつき始めるこの候らしい気配がした。私は、「小雪」をどうしても「こゆき」と呼んでしまう。
(本ブログ関連:”小雪”)
そんな午前中、少し先の街にある大学の学園祭に、空模様を気にしながら出かけた。東京外国語大学(TUFS、タフス)の「93回 外語祭」である。各語学専攻の学生たち、主に2年生による「語劇」が催された。27の芝居の中から、「さようなら、カン・ハンナ(강한나、안녕)」(11:30~12:30)を観劇した。
(参考: TUFS外語祭2015朝鮮語科語劇)
芝居は、映画「カンナさん大成功です!(미녀는 괴로워!、美女はつらい)」のストーリーのようだ。歌唱の才能はあるが容姿のため、芸能界では影としてしか扱われず、強いコンプレックスを持った若い女性(カン・ハンナ)が、美容整形して(ジェニーに変身して)大成功をおさめる。その分、失ったものもあるが、それをどう回復させるかまでを若い学生たちが熱演した。
おもわず見入ってしまったが、考えてみれば演劇サークルの芝居ではない。彼らの演技に驚いたし、映像を取り入れたり、観客席を劇中の劇場に変換したりする演出にも感心した。久し振りに若い世代の熱気に触れた気がする。
(付記)
帰り道にある公園で、紅葉と落ち葉の景観を楽しんだ。紅葉が遅れているそうだが、うっかりすると見落とすかもしれない。大切な景色なので、ひとつひとつの機会を大事にしたい。
(本ブログ関連:”小雪”)
そんな午前中、少し先の街にある大学の学園祭に、空模様を気にしながら出かけた。東京外国語大学(TUFS、タフス)の「93回 外語祭」である。各語学専攻の学生たち、主に2年生による「語劇」が催された。27の芝居の中から、「さようなら、カン・ハンナ(강한나、안녕)」(11:30~12:30)を観劇した。
(参考: TUFS外語祭2015朝鮮語科語劇)
芝居は、映画「カンナさん大成功です!(미녀는 괴로워!、美女はつらい)」のストーリーのようだ。歌唱の才能はあるが容姿のため、芸能界では影としてしか扱われず、強いコンプレックスを持った若い女性(カン・ハンナ)が、美容整形して(ジェニーに変身して)大成功をおさめる。その分、失ったものもあるが、それをどう回復させるかまでを若い学生たちが熱演した。
おもわず見入ってしまったが、考えてみれば演劇サークルの芝居ではない。彼らの演技に驚いたし、映像を取り入れたり、観客席を劇中の劇場に変換したりする演出にも感心した。久し振りに若い世代の熱気に触れた気がする。
(付記)
帰り道にある公園で、紅葉と落ち葉の景観を楽しんだ。紅葉が遅れているそうだが、うっかりすると見落とすかもしれない。大切な景色なので、ひとつひとつの機会を大事にしたい。
2015年11月22日日曜日
いつまでも若いね
子どもの頃、両親が、映画俳優の山本富士子(1931年12月11日~)をいつまでも若いねえといっているのを聞いて、一体いつの話しかと距離を感じていた。今、私が、同じく(青春スターだった)俳優の吉永小百合(1945年3月13日~)がいつまでも若々しいねといえば、子どもたちが果たして納得してくれるだろうか。
お二人を記憶した時期による印象の差がそうさせたのだろうけれど。考えてみると、お二人の歳の差はわずか13歳だ。今の私の年齢からすれば、その差はほんの些細なこと。むしろ意外な感じがしたほどだ。
ちなみに、イ・ソンヒ(1964年12月14日~)もいつまでも若い。ただし、教室の先生から見れば、母親世代の歌手の話しになる。イ・ソンヒより芸歴が先輩で、70年代に「本当に本当に(진짜 진짜)」シリーズでヒロインを独占した青春スターのイム・イェジン(임예진、1960年1月24日~)との歳の差はたった4歳でしかない。イム・イェジンが10代の頃の笑顔は、本当に自然で健康的で愛らしい。Youtubeの映像で確認できる。
(本ブログ関連:”イム・イェジン”)
女性の若々しさを表現するのに「童顔(동안)」という言葉がある。彼女たちが人気を博したときも、無垢に通じるわらべの要素が多分に残っていたのだろう。まさに頃合いによろしいようだ。(若い頃整い過ぎると、老いて後その変化に驚くことがある)
お二人を記憶した時期による印象の差がそうさせたのだろうけれど。考えてみると、お二人の歳の差はわずか13歳だ。今の私の年齢からすれば、その差はほんの些細なこと。むしろ意外な感じがしたほどだ。
ちなみに、イ・ソンヒ(1964年12月14日~)もいつまでも若い。ただし、教室の先生から見れば、母親世代の歌手の話しになる。イ・ソンヒより芸歴が先輩で、70年代に「本当に本当に(진짜 진짜)」シリーズでヒロインを独占した青春スターのイム・イェジン(임예진、1960年1月24日~)との歳の差はたった4歳でしかない。イム・イェジンが10代の頃の笑顔は、本当に自然で健康的で愛らしい。Youtubeの映像で確認できる。
(本ブログ関連:”イム・イェジン”)
女性の若々しさを表現するのに「童顔(동안)」という言葉がある。彼女たちが人気を博したときも、無垢に通じるわらべの要素が多分に残っていたのだろう。まさに頃合いによろしいようだ。(若い頃整い過ぎると、老いて後その変化に驚くことがある)
2015年11月21日土曜日
仙人はたいへんだ
薄田泣菫のひとくち話集ともいえる随筆「艸木虫魚(そうもくちゅうぎょ)」に、仙人と路傍の石がいっとき対話をする「仙人と石」がある。本来、動と静、変幻と不動の対比を持つべき、仙人と石が互いに存在を語り合う不思議な話しだ。
(本ブログ関連:”薄田泣菫”)
仙人は、雲に乗って飛び回る、そんなイメージがあるが、石との対話で人間らしい悩みを見せる。出会いと別れは次のように語られる。
法力でこさえた驢馬にまたがり、一日五万里を巡る仙人がいた。あるとき旅に疲れて一休みした際、路傍に昔からいる白い石に呼びかけられて、なぜ駆け回るのか問われた。
「わしは幸福の棲む土地をたずねて、方々捜し歩きたかったからだ。」と仙人はこたえた。だが、その幸福は、「まだ見つからない。そしてわしはすっかり年をとってしまった。」とつぶやく。
石は、「どうだい、いっそここに落ちついて、わしと一緒に棲んじゃ。」と申し出るが、仙人は断わって、「そうだ。幸福を求めて。……こんなにして方々駆けずり廻って、やがて死ぬのが、わしの一生かも知れない。でも、わしは出かけなければならない。」といい、嵐のように飛んでいった。
-----------------------------
白い石は低い声で独語を言って、そのまま黙ってしまいました。
秋の日はそろそろ西へ落ちかかりました。途を間違えたらしいこがね虫が、土をもち上げて、ひょっくりと頭を出しましたが、急にそれと気づいたらしく、すぐにまた姿を隠してしまいました。
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何もかもが見えてしまう、見えると思っている仙人はたいへんだ。無為を手柄にする石とて同様。幸福を探しても気付かず、分からない。遣り過ごしている傍らにある、かわらぬことにこそ、本当の幸福があるかもしれないからだ。
(本ブログ関連:”仙人”)
(本ブログ関連:”薄田泣菫”)
仙人は、雲に乗って飛び回る、そんなイメージがあるが、石との対話で人間らしい悩みを見せる。出会いと別れは次のように語られる。
法力でこさえた驢馬にまたがり、一日五万里を巡る仙人がいた。あるとき旅に疲れて一休みした際、路傍に昔からいる白い石に呼びかけられて、なぜ駆け回るのか問われた。
「わしは幸福の棲む土地をたずねて、方々捜し歩きたかったからだ。」と仙人はこたえた。だが、その幸福は、「まだ見つからない。そしてわしはすっかり年をとってしまった。」とつぶやく。
石は、「どうだい、いっそここに落ちついて、わしと一緒に棲んじゃ。」と申し出るが、仙人は断わって、「そうだ。幸福を求めて。……こんなにして方々駆けずり廻って、やがて死ぬのが、わしの一生かも知れない。でも、わしは出かけなければならない。」といい、嵐のように飛んでいった。
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白い石は低い声で独語を言って、そのまま黙ってしまいました。
秋の日はそろそろ西へ落ちかかりました。途を間違えたらしいこがね虫が、土をもち上げて、ひょっくりと頭を出しましたが、急にそれと気づいたらしく、すぐにまた姿を隠してしまいました。
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何もかもが見えてしまう、見えると思っている仙人はたいへんだ。無為を手柄にする石とて同様。幸福を探しても気付かず、分からない。遣り過ごしている傍らにある、かわらぬことにこそ、本当の幸福があるかもしれないからだ。
(本ブログ関連:”仙人”)
2015年11月20日金曜日
仙人になりたい
上方落語に「口入屋(くちいれや)」(職業斡旋所)がある。船場にある大店の一番番頭が、今度こそ美女が奉公に来るよう、丁稚を使って口入屋に頼む。望み通り美人の女中が来て、店の男たちは大騒ぎになる。早速、夜分に、二番番頭が二階で寝ている彼女に近づこうとする。そんなことを用心したおかみさんが、二階につながる梯子を外していたため、膳棚を使ってよじ登ろうとするが崩れてしまう。次に一番番頭も同様で、二人して棚を支える羽目になる。また、手代は天窓の紐を使ってよじ登ろうとするが、紐が切れて池に落ちてしまう。・・・どれだけドタバタなことだろう。
美女に近づこうとして、夜中に棚を担いだり、池に落ちたりする凡人の滑稽な結末だが、仙人とて同じこと。久米仙人は、久米川の川辺で洗濯する若い女の脛(すね)足を見るや、飛術に失敗して墜落する。久米仙人に、凡人ながら共感してしまうのは私だけではないだろう。
芥川龍之介に「仙人」という短編がある。何をヒントにしたのだろうか、次のような話である。
その昔、大阪の口入屋に、不老不死の仙人になりたいと、権助という者が頼みに来た。口入屋は思案にくれるが、医者の家にひとまず奉公させることにする。
仙人になりたいと申し出る権助に、医者がなぜなりたいのかと問えば、大阪城の太閤様もいずれ死ぬ、栄耀栄華のはかなさからという。そこで、狡猾な医者の女房は、仙人になる術を教える口実に、二十年間ただ働きの約束をさせる。
そして、二十年目を迎えて、権助は仙人の秘術を願い出る。すると、何を思ったか医者の女房は、庭の松の木の一番高い梢にまで登らせて、しかも両手を離させたのだ。落下すれば、下の石に当たって命はない。
-----------------------------
権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣はありません。あっと云う間に権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢から離れました。が、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空へ、まるで操つり人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?
「どうも難有うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」
権助は叮嚀に御時宜をすると、静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へ昇って行ってしまいました。
-----------------------------
まるで落語のようだが、落ちに、落ちることのない話しだ。仙人のごとく空中に浮かんだ権助がうらやましく思える。彼は自ずから飛ぶ術を体得してしまったのだから。しかも、近所の日常のなかで成し遂げた。
(本ブログ関連:”仙人”)
美女に近づこうとして、夜中に棚を担いだり、池に落ちたりする凡人の滑稽な結末だが、仙人とて同じこと。久米仙人は、久米川の川辺で洗濯する若い女の脛(すね)足を見るや、飛術に失敗して墜落する。久米仙人に、凡人ながら共感してしまうのは私だけではないだろう。
芥川龍之介に「仙人」という短編がある。何をヒントにしたのだろうか、次のような話である。
その昔、大阪の口入屋に、不老不死の仙人になりたいと、権助という者が頼みに来た。口入屋は思案にくれるが、医者の家にひとまず奉公させることにする。
仙人になりたいと申し出る権助に、医者がなぜなりたいのかと問えば、大阪城の太閤様もいずれ死ぬ、栄耀栄華のはかなさからという。そこで、狡猾な医者の女房は、仙人になる術を教える口実に、二十年間ただ働きの約束をさせる。
そして、二十年目を迎えて、権助は仙人の秘術を願い出る。すると、何を思ったか医者の女房は、庭の松の木の一番高い梢にまで登らせて、しかも両手を離させたのだ。落下すれば、下の石に当たって命はない。
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権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣はありません。あっと云う間に権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢から離れました。が、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空へ、まるで操つり人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?
「どうも難有うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」
権助は叮嚀に御時宜をすると、静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へ昇って行ってしまいました。
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まるで落語のようだが、落ちに、落ちることのない話しだ。仙人のごとく空中に浮かんだ権助がうらやましく思える。彼は自ずから飛ぶ術を体得してしまったのだから。しかも、近所の日常のなかで成し遂げた。
(本ブログ関連:”仙人”)
2015年11月19日木曜日
イ・ソンヒの「歳月は流れても」
思い出を語るのに、イ・ソンヒの4集収録の「歳月は流れても(세월은 흘러도)」(1988年)ほど、素直な曲はないだろう。まるで窓から差し込む陽を受けながら、アルバムのページをめくり見るような懐かしさだ。それは、日常の平穏に包まれながら感じる遠い記憶かもしれない。
4集がリリースした1988年はソウル・オリンピックの年であった。
以前、本ブログに掲載した、釜山日報「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)に、次にように紹介されている。(抜粋)
├-----------------------------------------------------------
4集で最も高い関心が集まった曲は、「美しい江山」である。(略) それまでは大衆的にそれほど大きく知られていなかった同名曲が、イ・ソンヒのリメイクによって、多くの人々から愛されるようになったので、その功労もまた小さいということはできないだろう。個人的には、4集でユン・テヨン作詞、作曲の「歳月は流れても」を最も好む。容易で平易なメロディーを持ったこの歌は、たとえ大ヒットではなかったが、ボサノバ風の洗練された編曲が直ちに耳をひきつける曲だ。
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ちなみに、本来ロック的な抵抗心があった「美しい江山」は、1988年には国民鼓舞的なものへと変身することになる。
「歳月は流れても」
歳月は流れても 私たちの心は
忘れられたその街に 残っています
歳月は流れても 私たちの愛は
散ったその時間に 残っているわよ
*
その昔の記憶を たどってみましょう
忘れられたその街を 歩いてみましょう
その昔は夢のように 散ってしまった
その時間はどこにあるのか 探してみましょう
歳月は流れても 思い出は残っている
忘れようとすればするほど 思い出します
忘れようとすればするほど 思い出します
(Youtubeに登録のJ-GODに感謝)
4集がリリースした1988年はソウル・オリンピックの年であった。
以前、本ブログに掲載した、釜山日報「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)に、次にように紹介されている。(抜粋)
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4集で最も高い関心が集まった曲は、「美しい江山」である。(略) それまでは大衆的にそれほど大きく知られていなかった同名曲が、イ・ソンヒのリメイクによって、多くの人々から愛されるようになったので、その功労もまた小さいということはできないだろう。個人的には、4集でユン・テヨン作詞、作曲の「歳月は流れても」を最も好む。容易で平易なメロディーを持ったこの歌は、たとえ大ヒットではなかったが、ボサノバ風の洗練された編曲が直ちに耳をひきつける曲だ。
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ちなみに、本来ロック的な抵抗心があった「美しい江山」は、1988年には国民鼓舞的なものへと変身することになる。
「歳月は流れても」
歳月は流れても 私たちの心は
忘れられたその街に 残っています
歳月は流れても 私たちの愛は
散ったその時間に 残っているわよ
*
その昔の記憶を たどってみましょう
忘れられたその街を 歩いてみましょう
その昔は夢のように 散ってしまった
その時間はどこにあるのか 探してみましょう
歳月は流れても 思い出は残っている
忘れようとすればするほど 思い出します
(*以下繰り返し)
(Youtubeに登録のJ-GODに感謝)
2015年11月18日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 人を思いやる歌
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/11)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<人を思いやる心の歌>にふさわしい3曲を紹介した。
始めに、人と心をつなぐ最近のイベント日について、次のように紹介された。
・「バレンタインデー」(2/11)に、好きな人へチョコレートをあげ、「ホワイトデー」(3/14)にはキャンディをあげる。恋人たちに特別な日だ。他にも特別な日がある。恋人のいない者同士が集まって中華風ジャジャン麺を食べる日を「ブラックデー」と呼ぶ。また、11月11日は、1が四つ並ぶことから、(グリコの)「ポッキー」に似た菓子である(韓国ロッテの)「ペペロ」を恋人同士だけでなく、職場の同僚や学校の先生、友達などに配る「ペペロデー」がある。企業主導のイベントとの批判もあるが。
▼ 自分の愛を綿の布団に例えた詞が温かい歌「愛の歌(사랑가)」を聴く。ステップを踏んで愛を確かめる、今様である。
次に、「端午の節句」に扇子(부채)の下賜や、クネ(ブランコ、그네)に乗ることについて次のように紹介された。
・上記の他に、特定の贈り物をする日があった。「端午の節句」に、宮中で臣下に扇子が下賜されたりした。昔のソンビは、扇子を持ち歩き、自分の喜びや怒りの表情を隠すのに使用したという。ところで、端午の節句といえば、「春香伝(춘향전)」に、端午の節句にクネに乗った春香を、李夢龍(이몽룡)が見染めるという話がある。
▼ クネに乗る春香の姿を素材にした南道民謡「フィヨヌンチョン(휘여능청)」を聴く。風がかすめる気がしてくる。
最後に、真冬の冬至に「暦(カレンダー、달력)」を贈る風習について次のように紹介された。
・真冬の冬至に「暦(こよみ)」を贈る風習があった。冬至は、昼が最も短かく、次の日から長くなるので、昔は「小正月」とも呼ばれた。朝鮮時代、この頃に新年の暦を作って、王に捧げる風習があった。王が暦に印を押して官吏に配ると、それを家族や親戚に分けた。農業社会の当時、暦に種まき時期や農作物の刈り入れ時期を記した。祭祀を捧げる時期を記す重要な役割もした。暦を贈り合うのに、相手が健康で良い年を迎えるようにという思いが込められたのだろう。
▼ 人々の健康を祈る厄払いの歌「厄除け打令(액맥이타령)」を聴く。東西南北と中央、辺り四方に厄除けする。
(感想) 確かに、新しいカレンダーを持つことは、その一年が無事平穏であることの思いにつながりますね。
始めに、人と心をつなぐ最近のイベント日について、次のように紹介された。
・「バレンタインデー」(2/11)に、好きな人へチョコレートをあげ、「ホワイトデー」(3/14)にはキャンディをあげる。恋人たちに特別な日だ。他にも特別な日がある。恋人のいない者同士が集まって中華風ジャジャン麺を食べる日を「ブラックデー」と呼ぶ。また、11月11日は、1が四つ並ぶことから、(グリコの)「ポッキー」に似た菓子である(韓国ロッテの)「ペペロ」を恋人同士だけでなく、職場の同僚や学校の先生、友達などに配る「ペペロデー」がある。企業主導のイベントとの批判もあるが。
▼ 自分の愛を綿の布団に例えた詞が温かい歌「愛の歌(사랑가)」を聴く。ステップを踏んで愛を確かめる、今様である。
次に、「端午の節句」に扇子(부채)の下賜や、クネ(ブランコ、그네)に乗ることについて次のように紹介された。
・上記の他に、特定の贈り物をする日があった。「端午の節句」に、宮中で臣下に扇子が下賜されたりした。昔のソンビは、扇子を持ち歩き、自分の喜びや怒りの表情を隠すのに使用したという。ところで、端午の節句といえば、「春香伝(춘향전)」に、端午の節句にクネに乗った春香を、李夢龍(이몽룡)が見染めるという話がある。
▼ クネに乗る春香の姿を素材にした南道民謡「フィヨヌンチョン(휘여능청)」を聴く。風がかすめる気がしてくる。
最後に、真冬の冬至に「暦(カレンダー、달력)」を贈る風習について次のように紹介された。
・真冬の冬至に「暦(こよみ)」を贈る風習があった。冬至は、昼が最も短かく、次の日から長くなるので、昔は「小正月」とも呼ばれた。朝鮮時代、この頃に新年の暦を作って、王に捧げる風習があった。王が暦に印を押して官吏に配ると、それを家族や親戚に分けた。農業社会の当時、暦に種まき時期や農作物の刈り入れ時期を記した。祭祀を捧げる時期を記す重要な役割もした。暦を贈り合うのに、相手が健康で良い年を迎えるようにという思いが込められたのだろう。
▼ 人々の健康を祈る厄払いの歌「厄除け打令(액맥이타령)」を聴く。東西南北と中央、辺り四方に厄除けする。
(感想) 確かに、新しいカレンダーを持つことは、その一年が無事平穏であることの思いにつながりますね。
2015年11月17日火曜日
天気予報
今回(11/16)の鉱物採集は運がよかった。全員のスケジュールを重ね合わせると、実施は昨日しかなかった。調整が難しい場合、私の今日の予定をキャンセルすることも想定していたが・・・
昨日でよかった。小春日和、インディアンサマーという穏やか日和だったのだから。それに比べて、今日は天気が一変して、しとしと降りだ。
鉱物採集プランは、まず大ベテランに採集地を決めてもらい、もろもろ相談する。その上で、長期の天気予報から日程が決まる。大体1ヶ月前と2週間前くらいだ。できるだけ、採集日の前3日と後1日に好天が続くのが望ましい・・・。
そこで、1ヶ月前および2週間前の予報として一番あてにしているのは、ネットの「AccuWeather」を参照する。さらに、1週間前の予報として「Weathernews」も加えて参照する。両者が大きくずれることはないが念のためだ。
とはいえ、今回のように翌日の天気が大きく変化したりすると、天気予報のありがたさを思い知る。
鉱山*は山中なので、天気が山並みに影響されることがないか気になる。ピンポイントで天気予報を表示するけれど、その精度がどれくらいか知りたいところだ。
*) ちなみに、鉱山は産業であるので交通の便が要される。特に、近代まで稼動した鉱山の場合、道路事情が思いのほか良く、ときに「横付け」という、道路から直ぐに鉱山へ入る道があったりする。
昨日でよかった。小春日和、インディアンサマーという穏やか日和だったのだから。それに比べて、今日は天気が一変して、しとしと降りだ。
鉱物採集プランは、まず大ベテランに採集地を決めてもらい、もろもろ相談する。その上で、長期の天気予報から日程が決まる。大体1ヶ月前と2週間前くらいだ。できるだけ、採集日の前3日と後1日に好天が続くのが望ましい・・・。
そこで、1ヶ月前および2週間前の予報として一番あてにしているのは、ネットの「AccuWeather」を参照する。さらに、1週間前の予報として「Weathernews」も加えて参照する。両者が大きくずれることはないが念のためだ。
とはいえ、今回のように翌日の天気が大きく変化したりすると、天気予報のありがたさを思い知る。
鉱山*は山中なので、天気が山並みに影響されることがないか気になる。ピンポイントで天気予報を表示するけれど、その精度がどれくらいか知りたいところだ。
*) ちなみに、鉱山は産業であるので交通の便が要される。特に、近代まで稼動した鉱山の場合、道路事情が思いのほか良く、ときに「横付け」という、道路から直ぐに鉱山へ入る道があったりする。
2015年11月16日月曜日
秩父鉱山(大黒川原)
早朝とはいえ明るいだ頃、鉱物採集に家を出た。今回は余裕がある。いつもと比べて3時間遅いのだ。東の空は朱に輝やき、日の出を待っている。
駅ホームに入ってきた電車に戸惑う。休日・祝日に鉱物採集して、気にもとめなかったが、まさに通勤電車なのだ。つい、車内での自分の姿を想像してしまう。待ち合わせ駅でも、平日モードの人々が改札口から次々出て来るのに更に驚く。
落ち合った鉱物仲間S氏と、いつもお世話になっているH氏の車に同乗させていただき、目的地の埼玉県秩父鉱山へ向かう。県道210号線に入れば、進むほど紅葉が増す。大黒坑手前にある広場でY氏と合流して、いよいよ鉱物採集を開始する。
(本ブログ関連:”秩父鉱山 - 大黒、渦の沢、石灰沢、小倉沢”)
小春日和に恵まれ、空気は澄み、川原は少しひんやりしている。期待に胸が膨らむ。昼飯を挟んで約4時間、採集に没頭・・・果たして、オーソドックスなものばかり。成果は、私の謙虚さを表しているようだ。
・黄鉄鉱、磁鉄鉱、閃亜鉛鉱、硅孔雀石、柘榴石、(水晶)、(方解石)
平日の鉱物採集の特典は、帰り道に混雑がないことと発見した。次回から、おじさんたちの行動は、平日の方が都合よいかもしれないと覚った。
駅ホームに入ってきた電車に戸惑う。休日・祝日に鉱物採集して、気にもとめなかったが、まさに通勤電車なのだ。つい、車内での自分の姿を想像してしまう。待ち合わせ駅でも、平日モードの人々が改札口から次々出て来るのに更に驚く。
落ち合った鉱物仲間S氏と、いつもお世話になっているH氏の車に同乗させていただき、目的地の埼玉県秩父鉱山へ向かう。県道210号線に入れば、進むほど紅葉が増す。大黒坑手前にある広場でY氏と合流して、いよいよ鉱物採集を開始する。
(本ブログ関連:”秩父鉱山 - 大黒、渦の沢、石灰沢、小倉沢”)
小春日和に恵まれ、空気は澄み、川原は少しひんやりしている。期待に胸が膨らむ。昼飯を挟んで約4時間、採集に没頭・・・果たして、オーソドックスなものばかり。成果は、私の謙虚さを表しているようだ。
平日の鉱物採集の特典は、帰り道に混雑がないことと発見した。次回から、おじさんたちの行動は、平日の方が都合よいかもしれないと覚った。
2015年11月15日日曜日
(資料)1980年代の大衆歌謡
1984年に登場のイ・ソンヒがデビューを飾った1980年代の韓国大衆歌謡について、DAUM掲載「韓国民族文化大百科事典」の「大衆歌謡」から「5.1980年」の項を見る。(事典の「大衆歌謡」に、70年代以前および90年代以降について解説がある)
80年代に流行した音楽ジャンルの変遷を次に載せさせていただく。当時の世相やメディアの変化についても知ることができる。(区分タイトルとして、音楽ジャンルなどを< >で追記した)
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5.1980年代
1980年代は、大きく1987年を基点に分かれて1991年頃まで持続する。 単純に説明しようとするなら初中盤はスーパースター、チョー・ヨンピルの主導が、後半はバラードの主導の中にダンスミュージックとアンダーグラウンド(=公演を中心とする音楽活動)ロックが躍進する様相を見せた。
<スタンダード・ポップとロックの結合>
・1980年代前半を通して最高のスターの座を譲らなかったチョー・ヨンピルは、一方で1980年代前半を主導する新しい作品傾向を創出して先導しつつ、他方で韓国大衆歌謡史の重要な様式を総網羅したデパート式作品世界に、多くの世代や趣向の需要者を受け入れた。1980年代式の「窓の外の女(창밖의 여자)」は、おなじみの1960年代式短調スタンダードポップの旋律を基本にして、ロックを組み合わせつつ、起承転結を破壊した分節的構成とシャウトなどロックの特性を華やかなハーモニーと旋律で包み込んだ。その結果、壮年層まで馴染む悲劇的な情調にロック的な強烈さを加えた新しい傾向を作り出したし、以後、「悲恋(비련)」、「蝋燭の火(촛불)」、「見つけられない鶯(も~いいかい、못 찾겠다 꾀꼬리)」を経て、「涙のパーティー(눈물의 파티)」、「マドヨ(마도요)」に至るまでのヒットを継続し、1980年代初中盤の主導傾向に固めていった。スタンダード・ポップの旋律にロックを結合するこの方法は、「花一輪(꽃한송이)」のキム・スチョル、「偶然に出会った君(어쩌다 마주친 그대)」の隼(はやぶさ)、「Jへ」のイ・ソンヒ、「熱愛(열애)」のユン・シネなど、この時期、ほとんどの人気歌手たちヒット曲が採用された方式であった。また、これらの主導傾向に加えて、モダンロックの「ショートヘア(단발머리)」、「あまりにも短い(너무 짧아요)」から、本格的な短調スタンダードポップの「情(정)」、トロットの「一途なタンポポよ」、「憎い、憎い、憎い(미워 미워 미워)」、「虚空(허공)」、民謡のリメイクの「恨五百年(한오백년)」に至るまで、フォークを除く韓国大衆歌謡史の全様式を網羅した作品世界を同時的に示した。したがって、チョー・ヨンピルは、10代から中高年層に至るまで、ほぼすべての世代を需要者に抱き込み、自作曲歌手でありながらも、作家主義的とはいえない大衆志向的態度を見せてくれた。
<バラード>
・一方、1988年のピョン・ジンソプの「一人になるということ(홀로 된다는 것)」のヒットから、新しい主導の様式に登板したバラードは、1980年代初中盤のイ・ヨン、チェ・ソンス、イ・グァンジョなどの人気を踏まえて様式を形成し始めた。1980年代前半期には、チョー・ヨンピル主導の中にロック的な強烈さが主導したというなら、1985年を契機に、より繊細な内面を華麗な旋律とハーモニーを歌う作品の人気が登り始めた。ついに、アンダーグラウンドといえる「愛しているので(사랑하기 때문에)」のユ・ジェハ、イ・ヨンフンが作った「私は分からないでしょう(난 모르잖아요)」、「愛が過ぎ去れば(사랑이 지나가면)」を歌ったイ・ムンセの人気を経て繊細さと華やかさが深まり、1988年ビョン・ジンソプを契機にしてバラードの典型的な姿が完成されたようだ。以後、「悲しい絵のような愛(슬픈 그림 같은 사랑)」のイ・サンウ、「最後のコンサート(마지막 콘서트)」のイ・スンチョル、「悲しい表情しないでください(슬픈 표정 하지 말아요)」のシン・ヘチョル、「別れの陰(이별의 그늘)」のユンサン、「微笑の中に映った君(미소 속에 비친 그대)」のシン・スンフンに至った。
<ダンスミュージック>
・これと共に、1984年チュ・ヒョンミの「雨降る泳東橋(비 내리는 영동교)」をきっかけに、トロット特有の非劇性が清算された新しい演歌傾向が浮上してヒョンチョルなどが人気を得て、ナミの「クルクル(빙글빙글)」を初発に始まったダンスミュージックは、「今夜(오늘밤)」のキム・ワンソン、「愛の不時着(사랑의 불시착)」のパク・ナムジョンなどによる独自の様式で場をつかんだ。
<フォーク>、<ロック>
・一方、フォークは、1980年代前半まで、ナムグン・オクブン、。ヘバラギ(向日葵)、シン・ヒョンウォンなどがときたま大衆的なヒット曲を出したが、多くはアンダーグラウンドで新しい模索をした。「木漏れ日のなかで(나뭇잎 사이로)」、「スミレ(제비꽃)」などのチョ・ドンジン、「北漢江で(북한강에서)」のチョン・テジュンが、フォーク・アンダーグラウンドの流れをリードした新鋭の「愛の日記(사랑일기)」のシン・イングァに至るまで、思索と熟視の姿勢を鋳造していった。しかし、フォークで出発した人のうち何人かは、ブルース、ロックなどに作品世界を移動させた。ついに1985年に、フォークで活動を始めたチョン・イングォンとチェ・ソンウォンが主導するロックグループのトゥルクッカ(野菊)の最初のレコードが、テレビの助けがなくても、30万枚を販売する気炎を吐きながら韓国のアンダーグラウンドとロックの時代の新しい誕生を知らせた。何よりも「それだけが私の世界(그것만이 내 세상)」、「行進(행진)」などトゥルクッカの歌は、シン・ジュンヒョンからソンゴルメ(隼)に至るまで、テレビに向かって走ってきたロックが示せなかった、ロックな世界認識と態度を示した点でより一層意味がある。
<ヘビメタル>、<ブルース>
以後、「ラジオをつけて(라디오를 켜고)」のシナウィをはじめ、プハル(復活)、白頭山などヘビメタルグループがレコードを出してアンダーグラウンドの中心を固めており、1970年代末からロックでスタートして、1980年代後半、「愛しました(사랑했어요)」、「雨のように音楽のように(비처럼 음악처럼)」などのヒット曲を出したキム・ヒョンシクがロックの新しい時代を開いていった。
一方、フォークで開始したイ・ジョンソンがオム・インホと手をつないで、ハン・ヨンエ、キム・ヒョンシクなどを糾合して作成された、新村ブルース(신촌블루스)は韓国大衆歌謡の様式の地平を広げたし、このメンバーは「誰かいない(누구 없소)」のハン・ヨンエで見られるように、各自ソロとしての地位を固めた。
<民衆歌謡>
・1987年6月市民抗争(시민항쟁)をきっかけに、大衆歌謡界の外側で(歌い)継がれたものと運動組織に依存して存在していた民衆歌謡が、大衆歌謡市場の中に進入したのも韓国大衆歌謡史全体で空前絶後の事件である。(民衆歌謡グループの)歌を探している人、ノレマウルなどは、民主化展開と共に人気を享受しながら、民衆歌謡「松の木よ、青い松の木よ(솔아 푸르른 솔아)」、「四季(사계)」、「その日が来れば(그날이 오면)」、「白頭山(백두산)」などを一般の人たちにも人気のある曲にした。
これらの存在は、この間散発的に存在していたキム・ミンギ(「朝露(아침 이슬)」)、돌(?)などの社会批判的フォーク自作曲の歌手の存在を一陣営に束ねて認識させた、以降、チョン・テチュン、キム・グァンソク、アン・チファンなど大衆歌謡圏中の民衆歌謡の流れを作っていった。これらの活動は、放送メディアで力を発揮できなかったが、レコードと公演で人気を集めながら、影響力を発揮しており、1990年代以降、大衆歌謡の表現の自由を伸長させ、ついにレコード検閲撤廃にまで進む実質的な動力となった。
<LPからカセット、ウォークマン、CD>
・1980年代にも大衆歌謡の媒体は、多くの変化を示した。すでに、1970年代半ばに定着したカセットテープは、LP(レコード)に比べて複製と持ち運びが楽なレコードとして脚光を浴びていたが、1980年代に入っては、いわゆるウォークマンと呼ばれた小型カセットプレーヤーが急激に普及した。ウォークマンのような1人機器で歌を一人で聞く文化が青少年の間で拡散しながら、1980年代後半アンダーグラウンドは、この土台の上で成長することができた。そして作品性を重視するアンダーグラウンドの需要者たちは、1980年代末に始まった高音質のコンパクトディスク時代の最も重要な需要者に浮上した。一方、テレビは本格的なカラーテレビの時代に突入して、大衆歌謡の視覚性はますます重要になり、1980年代半からのダンスミュージック旋風は、これらの媒体の変化の中で行われたものだった。
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80年代に流行した音楽ジャンルの変遷を次に載せさせていただく。当時の世相やメディアの変化についても知ることができる。(区分タイトルとして、音楽ジャンルなどを< >で追記した)
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5.1980年代
1980年代は、大きく1987年を基点に分かれて1991年頃まで持続する。 単純に説明しようとするなら初中盤はスーパースター、チョー・ヨンピルの主導が、後半はバラードの主導の中にダンスミュージックとアンダーグラウンド(=公演を中心とする音楽活動)ロックが躍進する様相を見せた。
<スタンダード・ポップとロックの結合>
・1980年代前半を通して最高のスターの座を譲らなかったチョー・ヨンピルは、一方で1980年代前半を主導する新しい作品傾向を創出して先導しつつ、他方で韓国大衆歌謡史の重要な様式を総網羅したデパート式作品世界に、多くの世代や趣向の需要者を受け入れた。1980年代式の「窓の外の女(창밖의 여자)」は、おなじみの1960年代式短調スタンダードポップの旋律を基本にして、ロックを組み合わせつつ、起承転結を破壊した分節的構成とシャウトなどロックの特性を華やかなハーモニーと旋律で包み込んだ。その結果、壮年層まで馴染む悲劇的な情調にロック的な強烈さを加えた新しい傾向を作り出したし、以後、「悲恋(비련)」、「蝋燭の火(촛불)」、「見つけられない鶯(も~いいかい、못 찾겠다 꾀꼬리)」を経て、「涙のパーティー(눈물의 파티)」、「マドヨ(마도요)」に至るまでのヒットを継続し、1980年代初中盤の主導傾向に固めていった。スタンダード・ポップの旋律にロックを結合するこの方法は、「花一輪(꽃한송이)」のキム・スチョル、「偶然に出会った君(어쩌다 마주친 그대)」の隼(はやぶさ)、「Jへ」のイ・ソンヒ、「熱愛(열애)」のユン・シネなど、この時期、ほとんどの人気歌手たちヒット曲が採用された方式であった。また、これらの主導傾向に加えて、モダンロックの「ショートヘア(단발머리)」、「あまりにも短い(너무 짧아요)」から、本格的な短調スタンダードポップの「情(정)」、トロットの「一途なタンポポよ」、「憎い、憎い、憎い(미워 미워 미워)」、「虚空(허공)」、民謡のリメイクの「恨五百年(한오백년)」に至るまで、フォークを除く韓国大衆歌謡史の全様式を網羅した作品世界を同時的に示した。したがって、チョー・ヨンピルは、10代から中高年層に至るまで、ほぼすべての世代を需要者に抱き込み、自作曲歌手でありながらも、作家主義的とはいえない大衆志向的態度を見せてくれた。
<バラード>
・一方、1988年のピョン・ジンソプの「一人になるということ(홀로 된다는 것)」のヒットから、新しい主導の様式に登板したバラードは、1980年代初中盤のイ・ヨン、チェ・ソンス、イ・グァンジョなどの人気を踏まえて様式を形成し始めた。1980年代前半期には、チョー・ヨンピル主導の中にロック的な強烈さが主導したというなら、1985年を契機に、より繊細な内面を華麗な旋律とハーモニーを歌う作品の人気が登り始めた。ついに、アンダーグラウンドといえる「愛しているので(사랑하기 때문에)」のユ・ジェハ、イ・ヨンフンが作った「私は分からないでしょう(난 모르잖아요)」、「愛が過ぎ去れば(사랑이 지나가면)」を歌ったイ・ムンセの人気を経て繊細さと華やかさが深まり、1988年ビョン・ジンソプを契機にしてバラードの典型的な姿が完成されたようだ。以後、「悲しい絵のような愛(슬픈 그림 같은 사랑)」のイ・サンウ、「最後のコンサート(마지막 콘서트)」のイ・スンチョル、「悲しい表情しないでください(슬픈 표정 하지 말아요)」のシン・ヘチョル、「別れの陰(이별의 그늘)」のユンサン、「微笑の中に映った君(미소 속에 비친 그대)」のシン・スンフンに至った。
<ダンスミュージック>
・これと共に、1984年チュ・ヒョンミの「雨降る泳東橋(비 내리는 영동교)」をきっかけに、トロット特有の非劇性が清算された新しい演歌傾向が浮上してヒョンチョルなどが人気を得て、ナミの「クルクル(빙글빙글)」を初発に始まったダンスミュージックは、「今夜(오늘밤)」のキム・ワンソン、「愛の不時着(사랑의 불시착)」のパク・ナムジョンなどによる独自の様式で場をつかんだ。
<フォーク>、<ロック>
・一方、フォークは、1980年代前半まで、ナムグン・オクブン、。ヘバラギ(向日葵)、シン・ヒョンウォンなどがときたま大衆的なヒット曲を出したが、多くはアンダーグラウンドで新しい模索をした。「木漏れ日のなかで(나뭇잎 사이로)」、「スミレ(제비꽃)」などのチョ・ドンジン、「北漢江で(북한강에서)」のチョン・テジュンが、フォーク・アンダーグラウンドの流れをリードした新鋭の「愛の日記(사랑일기)」のシン・イングァに至るまで、思索と熟視の姿勢を鋳造していった。しかし、フォークで出発した人のうち何人かは、ブルース、ロックなどに作品世界を移動させた。ついに1985年に、フォークで活動を始めたチョン・イングォンとチェ・ソンウォンが主導するロックグループのトゥルクッカ(野菊)の最初のレコードが、テレビの助けがなくても、30万枚を販売する気炎を吐きながら韓国のアンダーグラウンドとロックの時代の新しい誕生を知らせた。何よりも「それだけが私の世界(그것만이 내 세상)」、「行進(행진)」などトゥルクッカの歌は、シン・ジュンヒョンからソンゴルメ(隼)に至るまで、テレビに向かって走ってきたロックが示せなかった、ロックな世界認識と態度を示した点でより一層意味がある。
<ヘビメタル>、<ブルース>
以後、「ラジオをつけて(라디오를 켜고)」のシナウィをはじめ、プハル(復活)、白頭山などヘビメタルグループがレコードを出してアンダーグラウンドの中心を固めており、1970年代末からロックでスタートして、1980年代後半、「愛しました(사랑했어요)」、「雨のように音楽のように(비처럼 음악처럼)」などのヒット曲を出したキム・ヒョンシクがロックの新しい時代を開いていった。
一方、フォークで開始したイ・ジョンソンがオム・インホと手をつないで、ハン・ヨンエ、キム・ヒョンシクなどを糾合して作成された、新村ブルース(신촌블루스)は韓国大衆歌謡の様式の地平を広げたし、このメンバーは「誰かいない(누구 없소)」のハン・ヨンエで見られるように、各自ソロとしての地位を固めた。
<民衆歌謡>
・1987年6月市民抗争(시민항쟁)をきっかけに、大衆歌謡界の外側で(歌い)継がれたものと運動組織に依存して存在していた民衆歌謡が、大衆歌謡市場の中に進入したのも韓国大衆歌謡史全体で空前絶後の事件である。(民衆歌謡グループの)歌を探している人、ノレマウルなどは、民主化展開と共に人気を享受しながら、民衆歌謡「松の木よ、青い松の木よ(솔아 푸르른 솔아)」、「四季(사계)」、「その日が来れば(그날이 오면)」、「白頭山(백두산)」などを一般の人たちにも人気のある曲にした。
これらの存在は、この間散発的に存在していたキム・ミンギ(「朝露(아침 이슬)」)、돌(?)などの社会批判的フォーク自作曲の歌手の存在を一陣営に束ねて認識させた、以降、チョン・テチュン、キム・グァンソク、アン・チファンなど大衆歌謡圏中の民衆歌謡の流れを作っていった。これらの活動は、放送メディアで力を発揮できなかったが、レコードと公演で人気を集めながら、影響力を発揮しており、1990年代以降、大衆歌謡の表現の自由を伸長させ、ついにレコード検閲撤廃にまで進む実質的な動力となった。
<LPからカセット、ウォークマン、CD>
・1980年代にも大衆歌謡の媒体は、多くの変化を示した。すでに、1970年代半ばに定着したカセットテープは、LP(レコード)に比べて複製と持ち運びが楽なレコードとして脚光を浴びていたが、1980年代に入っては、いわゆるウォークマンと呼ばれた小型カセットプレーヤーが急激に普及した。ウォークマンのような1人機器で歌を一人で聞く文化が青少年の間で拡散しながら、1980年代後半アンダーグラウンドは、この土台の上で成長することができた。そして作品性を重視するアンダーグラウンドの需要者たちは、1980年代末に始まった高音質のコンパクトディスク時代の最も重要な需要者に浮上した。一方、テレビは本格的なカラーテレビの時代に突入して、大衆歌謡の視覚性はますます重要になり、1980年代半からのダンスミュージック旋風は、これらの媒体の変化の中で行われたものだった。
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2015年11月14日土曜日
2015年11月13日金曜日
月
曇り空の今晩、月を見ることはない。<月齢1.4>ゆえ、晴れても気付くことはないだろうけれど。
月の明るさに驚くことがある。先日の帰り道、夜空に雲が白くたなびいていた。更に上空に煌々と輝く満月がいた。もし窓辺から庭を覗いたら、余りの白さに霜かと驚いたろう、李白のように。
ブログに記したが、KBS WORLDラジオ番組「国楽の世界へ」の「晩秋」の回で紹介された、朴木月の詩「旅人」に、雲間の月が旅人と共に進むよう詠われている。これは、実感することだ。月と追いかけっこした子どものころの記憶は鮮明だ。
木から落ちたときより、潮の満ち引きに、重力のスケールの大きさを実感する。テレビのSF番組で、固い流星が月に衝突して、月の公転がずれて地球に衝突するというパニック物語があった。結果がどうなったのか、番組を最後まで見ることができなかったので知らない。どのように危機を回避したのだろうか。
火星航路のキャビンで、近づく月を見晴るかすとき、きっとナット・キング・コールが歌う「私を月へ連れてって(Fly Me to the Moon)」(1954年)が流れてくるに違いない。火星で待つ家族を思いながら。
月の明るさに驚くことがある。先日の帰り道、夜空に雲が白くたなびいていた。更に上空に煌々と輝く満月がいた。もし窓辺から庭を覗いたら、余りの白さに霜かと驚いたろう、李白のように。
ブログに記したが、KBS WORLDラジオ番組「国楽の世界へ」の「晩秋」の回で紹介された、朴木月の詩「旅人」に、雲間の月が旅人と共に進むよう詠われている。これは、実感することだ。月と追いかけっこした子どものころの記憶は鮮明だ。
木から落ちたときより、潮の満ち引きに、重力のスケールの大きさを実感する。テレビのSF番組で、固い流星が月に衝突して、月の公転がずれて地球に衝突するというパニック物語があった。結果がどうなったのか、番組を最後まで見ることができなかったので知らない。どのように危機を回避したのだろうか。
火星航路のキャビンで、近づく月を見晴るかすとき、きっとナット・キング・コールが歌う「私を月へ連れてって(Fly Me to the Moon)」(1954年)が流れてくるに違いない。火星で待つ家族を思いながら。
2015年11月12日木曜日
イ・ソンヒの「私はいつもあなたを」
一途な想いの歌なら、(想いなんて知らぬ頃に聞いていたのだが)、プラターズ(THE PLATTERS)の「ONLY YOU」(1955年)だろう。アメリカン・ポップの流れるラジオからこの曲を聴いたのは、リリースされてからもっと後のことだ。Youtubeで聞き返すと、当時の懐かしさがよみがえる。(登録者Aguinaldo Oliveiraに感謝)
映画「家門シリーズ」の第一弾「家門の栄光」は、ヤクザの親分の娘が、ソウル大卒の若きベンチャー企業経営者に恋することから始まる喜劇である。箱入り娘に育てられた彼女はすべてにおいて純粋で、現実を吹き飛ばすギャグな騒動を巻き起こす。そんな彼女が、ピアノで弾き語りして哀切に歌うのが、イ・ソンヒの4集に所収の、「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」(1988年、キム・ミンジョン作詞、ソン・シヒョン作曲)だ。(ちなみに、日本のカラオケでは、曲調がまるで演歌風になっている)
(本ブログ関連:”私はいつもあなたを”、”家門シリーズ”)
いつもあなたを、慕っているのに
思うようにはいけない
今日も、セピア色した写真の中に
あなたの姿しのぶわ
*
いつもあなたに、会いたいのに
あなたは何処へ立ったの
優しいその姿、涙で染めるわ
あなた、私に戻ってよ
戻ってきて、私のところへ
すべて、あなただけなのよ(Oh~~)
燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ
(*以下繰り返し)
(戻ってきて・・・)
あなた、戻ってきてよ
すべて、あなただけなのよ
燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ
(Youtubeに登録のpops8090に感謝)
映画「家門シリーズ」の第一弾「家門の栄光」は、ヤクザの親分の娘が、ソウル大卒の若きベンチャー企業経営者に恋することから始まる喜劇である。箱入り娘に育てられた彼女はすべてにおいて純粋で、現実を吹き飛ばすギャグな騒動を巻き起こす。そんな彼女が、ピアノで弾き語りして哀切に歌うのが、イ・ソンヒの4集に所収の、「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」(1988年、キム・ミンジョン作詞、ソン・シヒョン作曲)だ。(ちなみに、日本のカラオケでは、曲調がまるで演歌風になっている)
(本ブログ関連:”私はいつもあなたを”、”家門シリーズ”)
いつもあなたを、慕っているのに
思うようにはいけない
今日も、セピア色した写真の中に
あなたの姿しのぶわ
*
いつもあなたに、会いたいのに
あなたは何処へ立ったの
優しいその姿、涙で染めるわ
あなた、私に戻ってよ
戻ってきて、私のところへ
すべて、あなただけなのよ(Oh~~)
燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ
(*以下繰り返し)
(戻ってきて・・・)
あなた、戻ってきてよ
すべて、あなただけなのよ
燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ
(Youtubeに登録のpops8090に感謝)
2015年11月11日水曜日
MRJ初飛行
中学時代、飛行機ファンだった。当時の漫画週刊誌に、普通に戦時中の戦闘機を題材にした物語が連載されていたし、テレビでも記録番組が放送していた。いまとは大分違う時代感覚だった。
(本ブログ関連:”飛行機”)
飛行機について、その後、熱烈さは衰えたが、それなりに関心を持っている。千歳-女満別線のYS-11ラストフライトと聞いて、最終前日だったが乗った・・・知床硫黄山に硫黄を採りに行くことと合わせての旅だったが。その他は、平凡だが地元の飛行場に休日散歩しに行くことくらいである。
YS-11につぐ、戦後2番目の旅客機の<MRJ>(三菱重工)が、本日、約1時間半の初テスト飛行をした(愛知県営名古屋空港)。離陸の様子がテレビで実況中継されるのを見守った。「離陸後、太平洋側の空域を利用し、上昇、下降、旋回などの基本特性の確認」をしたとのこと。
すっと抜き出るような機首のラインがとりわけ美しい。輸送機転用を意図しないような、旅客機の優美さがある。2、3年後にANA機として就航するわけで、機会があったらぜひ乗ってみたい。
(Youtubeに登録のMitsubishiAircraftに感謝)
(本ブログ関連:”飛行機”)
飛行機について、その後、熱烈さは衰えたが、それなりに関心を持っている。千歳-女満別線のYS-11ラストフライトと聞いて、最終前日だったが乗った・・・知床硫黄山に硫黄を採りに行くことと合わせての旅だったが。その他は、平凡だが地元の飛行場に休日散歩しに行くことくらいである。
YS-11につぐ、戦後2番目の旅客機の<MRJ>(三菱重工)が、本日、約1時間半の初テスト飛行をした(愛知県営名古屋空港)。離陸の様子がテレビで実況中継されるのを見守った。「離陸後、太平洋側の空域を利用し、上昇、下降、旋回などの基本特性の確認」をしたとのこと。
すっと抜き出るような機首のラインがとりわけ美しい。輸送機転用を意図しないような、旅客機の優美さがある。2、3年後にANA機として就航するわけで、機会があったらぜひ乗ってみたい。
(Youtubeに登録のMitsubishiAircraftに感謝)
KBS WORLD「国楽の世界へ」 晩秋
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<晩秋>にふさわしい3曲を紹介した。
始めに、旅人を歌う朴木月(박목월、1916年~1978年)の「旅人(나그네)」について次のように紹介された。
・田を黄金色に染める晩秋。ことわざに「稲は実れば実るほど頭を下げる」がある。「能ある鷹は爪を隠す」と似る。稲が実るこの頃の風景であり、黄金色の稲が風に揺れる。既に刈り終えた空っぽの田、人気のない秋の景色、心穏やかになる。朴木月の「旅人」の詩を謳うと、秋の趣が感じられてくる。豊かな季節でありながらもどこか寂しい感がする晩秋の趣だ。
▼ 張思翼(장사익)の歌う、コムンゴ伴奏曲「旅人」を聴く。百代の過客のよう、月と旅人が雲を追う味わいがする。
次に、キムチを漬ける「キムジャン(김장)」の光景と、パンソリ「興甫歌(흥보가)」について次のように紹介された。
・11月8日は、冬が始まる「立冬」。この頃の光景に、キムチを漬け込む「キムジャン」がある。昔、どの家もキムジャンの準備をしたが、最近、温暖化の影響で時期を遅らすこともある。また、キムチを多く食べぬため、キムジャンをしない家もある。新鮮な野菜が多くなったのも理由だろう。キムジャンの時、家族がみな集まり、女性は白菜を塩漬けにし、大根を千切りにする。男は外で越冬用のキムチ漬けのかめを埋めるため土を掘る。2013年にユネスコ人類無形遺産に登録される。
・キムジャンのもうひとつの楽しみに、塩漬け白菜に、味付けしたヤンニョムと豚肉をはさんで食べることがある。でも、全て余裕があった人の話で、冬は貧しい人々にとって大変な時期だった。
・世の中、善人ばかりでない。興甫(흥보)とノルボ(놀보)の物語に登場する、兄ノルボは意地悪で、よりによって最も寒い時期に弟興甫を追い出すほどだった。
▼ パンソリ「興甫歌」から、「兄ノルボが弟興甫を追い出す場面」を聴く。そう思って聞けば情けもないように・・・。
(本ブログ関連:"興夫歌"、"興甫歌")
最後に、同じ頃の味噌作りなどについて次のように紹介された。
・この時期、キムジャンに劣らず重要な仕事に味噌作りがある。料理のほとんどに、醤油、味噌、辛みそのコチュジャンのひとつやふたつが入る。料理の味はこれらによって左右されるとも言われる。必要となる材料は、大豆の麹で、色々と手間のかかる作業で、醤油などを醸すには、色んな下準備を始め、何ヶ月も発酵させる手間がかかる。家族を想い、愛する心での大変な作業だった。
▼ 「冬の日に暖かい光を(겨울날 다슨 빛을)」の歌を聴く。修道女のコーラスを思い出す、心温まる今様だ。
始めに、旅人を歌う朴木月(박목월、1916年~1978年)の「旅人(나그네)」について次のように紹介された。
・田を黄金色に染める晩秋。ことわざに「稲は実れば実るほど頭を下げる」がある。「能ある鷹は爪を隠す」と似る。稲が実るこの頃の風景であり、黄金色の稲が風に揺れる。既に刈り終えた空っぽの田、人気のない秋の景色、心穏やかになる。朴木月の「旅人」の詩を謳うと、秋の趣が感じられてくる。豊かな季節でありながらもどこか寂しい感がする晩秋の趣だ。
▼ 張思翼(장사익)の歌う、コムンゴ伴奏曲「旅人」を聴く。百代の過客のよう、月と旅人が雲を追う味わいがする。
次に、キムチを漬ける「キムジャン(김장)」の光景と、パンソリ「興甫歌(흥보가)」について次のように紹介された。
・11月8日は、冬が始まる「立冬」。この頃の光景に、キムチを漬け込む「キムジャン」がある。昔、どの家もキムジャンの準備をしたが、最近、温暖化の影響で時期を遅らすこともある。また、キムチを多く食べぬため、キムジャンをしない家もある。新鮮な野菜が多くなったのも理由だろう。キムジャンの時、家族がみな集まり、女性は白菜を塩漬けにし、大根を千切りにする。男は外で越冬用のキムチ漬けのかめを埋めるため土を掘る。2013年にユネスコ人類無形遺産に登録される。
・キムジャンのもうひとつの楽しみに、塩漬け白菜に、味付けしたヤンニョムと豚肉をはさんで食べることがある。でも、全て余裕があった人の話で、冬は貧しい人々にとって大変な時期だった。
・世の中、善人ばかりでない。興甫(흥보)とノルボ(놀보)の物語に登場する、兄ノルボは意地悪で、よりによって最も寒い時期に弟興甫を追い出すほどだった。
▼ パンソリ「興甫歌」から、「兄ノルボが弟興甫を追い出す場面」を聴く。そう思って聞けば情けもないように・・・。
(本ブログ関連:"興夫歌"、"興甫歌")
最後に、同じ頃の味噌作りなどについて次のように紹介された。
・この時期、キムジャンに劣らず重要な仕事に味噌作りがある。料理のほとんどに、醤油、味噌、辛みそのコチュジャンのひとつやふたつが入る。料理の味はこれらによって左右されるとも言われる。必要となる材料は、大豆の麹で、色々と手間のかかる作業で、醤油などを醸すには、色んな下準備を始め、何ヶ月も発酵させる手間がかかる。家族を想い、愛する心での大変な作業だった。
▼ 「冬の日に暖かい光を(겨울날 다슨 빛을)」の歌を聴く。修道女のコーラスを思い出す、心温まる今様だ。
2015年11月10日火曜日
イ・ソンヒの2015年末イベント
昨年(2014年)末、イ・ソンヒには次の主なイベントがあった。①12/20 救世軍慈善公演(新村歩行者天国 - 現代UPLEX前)、②12/22 デビュー30周年記念ライブ・アルバム発売、③12/28 SBSドキュメンタリー・スペシャルなどだ。今年はどうだろうか。
・まず、来月12月11日(金)に企業(ロッテ・カード)主催の「フリークリスマス11周年 - コンサート『同窓会』」のイベントに参加することがネット情報で伝えられている。(慶煕大 平和の殿堂、4,000人)
・韓国の誕生日は陰暦を採用していて、イ・ソンヒの場合、1964年11月11日(忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里)である。これを陽暦に換算すると、1964年12月14日となり、ファンクラブでは、この日に祝いのコメントが投稿されている。
(本ブログ関連:”誕生日”)
・テレビ放送についてはどうだろうか。韓国の通常放送の契約をしていないので、PCで見られれば幸いだ。
先日のインタビューのように、現在充填期のようで、次へ向けて英気を養っている。
・まず、来月12月11日(金)に企業(ロッテ・カード)主催の「フリークリスマス11周年 - コンサート『同窓会』」のイベントに参加することがネット情報で伝えられている。(慶煕大 平和の殿堂、4,000人)
・韓国の誕生日は陰暦を採用していて、イ・ソンヒの場合、1964年11月11日(忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里)である。これを陽暦に換算すると、1964年12月14日となり、ファンクラブでは、この日に祝いのコメントが投稿されている。
(本ブログ関連:”誕生日”)
・テレビ放送についてはどうだろうか。韓国の通常放送の契約をしていないので、PCで見られれば幸いだ。
先日のインタビューのように、現在充填期のようで、次へ向けて英気を養っている。
2015年11月9日月曜日
列仙伝 卭疏
中国には、大袈裟な表現が好まれる中でも、悠々として奇なる仙人がいた。秘薬を操れたのも彼らだろう。古い本草学(者)のようなものか、そんな一人である「卭疏(きょうそ)」について、仙人のカタログ書のような「列仙伝」に語られている。
石由来の長寿の秘薬、石鐘乳を煎じたようだ。一体どんなものか気になり探してみた。「鑑賞中国の古典 抱朴子・列仙伝」(角川書店)の「列仙伝」(平木康平、大形徹)に、次のような解説がある。さらに、<四言八句の讃>が付加されていて、「五石」が記されている。(平凡社版の「列仙伝・神仙伝」には、この讃はなかったけれど)
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卭疏(きょうそ)者、周(しゅう)封史(【諸侯の領土の区域を定める官】)也。能(よく)行気(気をめぐらし)錬形(形を錬り【肉体を鍛錬する】)、煮石髄(石髄を煮て)而服之(之を服す)。謂之(之を謂う)石鐘乳、至数百年、 往来入(往来して入る)太室(【河南省登封県の北に連なる嵩山の異称、その一つにある】)。山中有臥石・牀枕焉。
八珍促寿 五石延生 山海の珍味を好めば寿命縮まる、されど五石は長寿の秘薬
卭疏得之 錬髄餌精 それを卭疏は手中におさめ、石髄練って精粋を摂る
人以百年 我享千齢 人は願う百歳の寿、わしの齢はすでに千歳
寝息中嶽 遊歩千庭 奥山に身を横たえて静かに憩い、そぞろ歩かん仙人の庭
-----------------------------------------------------------┤
解説によれば、「石鐘乳」は鍾乳石であり、また「五石」は五種類の石(長生薬、丹砂、雄黄、白礬石、磁石)を混ぜて錬りあわせて服薬したそうだ。また、「行気」・「錬形」の呼吸法についても触れて、服薬と合わせてバランスが取れているという。
・鍾乳石から垂れる水を飲むならば、さぞや硬水だったろうし、さしずめ、Volvicといったところか。
・五石の「長生薬、丹砂、雄黄、白礬石、磁石」とは具体的にどんな石なのだろうか。これから調べたい。
五石について、「抱朴子」は「丹砂、雄黄、白礬石、曾青、磁石」(広辞苑)という。また、「五石散」というものがあって、「鍾乳石、硫黄、白石英、紫石英、赤石脂」を練り合わせた薬を指すようだが、中毒性があって絶えず散歩の必要があったことから「散歩」の語源になったという。そう考えると、上記<四言八句の讃>にある「寝息中嶽 遊歩千庭」はちょっとあぶなっかしい気がする。
石由来の長寿の秘薬、石鐘乳を煎じたようだ。一体どんなものか気になり探してみた。「鑑賞中国の古典 抱朴子・列仙伝」(角川書店)の「列仙伝」(平木康平、大形徹)に、次のような解説がある。さらに、<四言八句の讃>が付加されていて、「五石」が記されている。(平凡社版の「列仙伝・神仙伝」には、この讃はなかったけれど)
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卭疏(きょうそ)者、周(しゅう)封史(【諸侯の領土の区域を定める官】)也。能(よく)行気(気をめぐらし)錬形(形を錬り【肉体を鍛錬する】)、煮石髄(石髄を煮て)而服之(之を服す)。謂之(之を謂う)石鐘乳、至数百年、 往来入(往来して入る)太室(【河南省登封県の北に連なる嵩山の異称、その一つにある】)。山中有臥石・牀枕焉。
八珍促寿 五石延生 山海の珍味を好めば寿命縮まる、されど五石は長寿の秘薬
卭疏得之 錬髄餌精 それを卭疏は手中におさめ、石髄練って精粋を摂る
人以百年 我享千齢 人は願う百歳の寿、わしの齢はすでに千歳
寝息中嶽 遊歩千庭 奥山に身を横たえて静かに憩い、そぞろ歩かん仙人の庭
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解説によれば、「石鐘乳」は鍾乳石であり、また「五石」は五種類の石(長生薬、丹砂、雄黄、白礬石、磁石)を混ぜて錬りあわせて服薬したそうだ。また、「行気」・「錬形」の呼吸法についても触れて、服薬と合わせてバランスが取れているという。
・鍾乳石から垂れる水を飲むならば、さぞや硬水だったろうし、さしずめ、Volvicといったところか。
・五石の「長生薬、丹砂、雄黄、白礬石、磁石」とは具体的にどんな石なのだろうか。これから調べたい。
五石について、「抱朴子」は「丹砂、雄黄、白礬石、曾青、磁石」(広辞苑)という。また、「五石散」というものがあって、「鍾乳石、硫黄、白石英、紫石英、赤石脂」を練り合わせた薬を指すようだが、中毒性があって絶えず散歩の必要があったことから「散歩」の語源になったという。そう考えると、上記<四言八句の讃>にある「寝息中嶽 遊歩千庭」はちょっとあぶなっかしい気がする。
2015年11月8日日曜日
立冬2015
自然を直接実感せず、街の飾りで「季節」を知ることが多い。カレンダーをめくるのが優先する。木立の変化に目覚め、風の変化を肌で感じる生活から随分遠い。日々、その兆しを探そうとつとめてはいるが、季節や年という単位で先走る。
今日は二十四節気の「立冬」。陽暦で生活をしていると、立冬の言葉に馴染みにくさがある。むしろ、秋分と冬至の真ん中といった方が分かりやすい。
(本ブログ関連:”立冬”)
二十四節気も、日毎変化が積み重なった結果だ。久し振りに、間を置いてこそ気付くことも多い。人は、どうやら、大きな区切りの中で理解するもののようだ。
一足飛びに、冬の不思議の国を巡ろうか。雪が積もった銀世界、これならいつもと違うってことが百も承知。わくわくさせる夢と希望が待っている。もう一度、子どものころの興奮あふれた世界へ舞い戻り、Dean Martinの歌う「Winter Wonderland」(1934年、作詞Richard B. Smith、作曲Felix Bernard)を聴いてみよう。なぜか私には、彼の世代が歌うクリスマスがお似合いの気がする。(まだクリスマスが街頭にあった時代のことだ)
(Youtubeに登録のL. Heitmannに感謝)
今日は二十四節気の「立冬」。陽暦で生活をしていると、立冬の言葉に馴染みにくさがある。むしろ、秋分と冬至の真ん中といった方が分かりやすい。
(本ブログ関連:”立冬”)
二十四節気も、日毎変化が積み重なった結果だ。久し振りに、間を置いてこそ気付くことも多い。人は、どうやら、大きな区切りの中で理解するもののようだ。
一足飛びに、冬の不思議の国を巡ろうか。雪が積もった銀世界、これならいつもと違うってことが百も承知。わくわくさせる夢と希望が待っている。もう一度、子どものころの興奮あふれた世界へ舞い戻り、Dean Martinの歌う「Winter Wonderland」(1934年、作詞Richard B. Smith、作曲Felix Bernard)を聴いてみよう。なぜか私には、彼の世代が歌うクリスマスがお似合いの気がする。(まだクリスマスが街頭にあった時代のことだ)
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2015年11月7日土曜日
(資料) イ・ソンヒとのインタビュー(連合ニュース)
イ・ソンヒとのインタビューが、連合ニュースの記事「<インタビュー> イ・ソンヒ 『歌は無心の作業・・・「Jへ」は今聞いても胸がキュン』」(11/4、キム・ボギョン記者)に掲載された。若いファン層への感謝、後輩歌手たちへ助言、そして彼女の今後についてなど、31年間つちかった音楽経験を交えて聞くことができる。
イ・ソンヒの語り(=音楽観)には独特のものがあるという。以前、別のインタビュー記事にも、成程とうかがい知るような記述しているものがあった。今回は、どうだろうか・・・記者も苦心されたようだが、読み進むうちにイ・ソンヒらしさがやっぱり感じられてくる。妙に安心する。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒ インタビュー”)
ところで、現在は充填期のようで、次ぎのアルバムまで時間がいるようだ。少々待ち遠しい気がするが楽しみである。
├-----------------------------------------------------------
「音楽は私を記憶する人との疎通(コミュニケーション)・・・若いファンたち感謝する」
「声は私だけの楽器・・・他の人が出てきて違うことを認めなきゃ」
イ・ソンヒは、誰もが自信をもって「国民歌手」と呼ぶことができる、数少ない歌謡界の巨匠中の一人だ。
1984年、「第5回 江辺歌謡祭」で、「Jへ」で大賞を獲得してデビューした彼女は、翌年1集のタイトル曲「ああ! 昔よ」を始め、「秋の風」、「分かりたいです」や、「私はいつもあなたを」、「ひとしきり笑いで」などをヒットさせて、1980年代の代表的ディーバ(歌姫)として座をつかんだ。
彼女は小さい体躯から出る爆発的な歌唱力でファンたちをひきつけて、初の<姉さん部隊>(=中高女学生ファングループ)を誕生させたりもした。
~~~~~~~~~~~~~~~~
1990年代にも着実に新曲を発表したイ・ソンヒは、2011年、米国カーネギーホールのアイザック・スターン・オーディトリウムで単独コンサートも開いた。昨年(2014年)には、デビュー30周年を記念して、正規15集「セレンディピティ(Serendipity)」を発表した。
最近、イ・ソンヒを、ソウル江南区清潭洞の所属事務所(=フックエンターテインメント)の建物で会った。TVよりはるかに若く見られる容貌に記者が驚くと、すぐに彼女は、「私がTVによく出てないからよ」と冗談を言った。
まず、最近の近況を尋ねた。イ・ソンヒは、昨年3月アルバムを発売するやいなや、全国ツアーコンサートを開いて1年余りをファンたちのそばで過ごした。今年には、光復70年記念番組のKBS「私は大韓民国」に出演して「1945合唱団」を指揮したりもした。
「いま、やっとスケジュールがまばらになりました。昨年は一年中公演して、今年は『私は大韓民国』を準備するために緊張を解くことができませんでした。番組が終わって、およそ2週間患いました。そうして、ちょっと日常を楽しんだのです。休む時、したいことなどをリストに書き込みました。今は、それらをしに歩き回るのに忙しいですね。 (笑い)」
彼女は歌手として31年を生きた。短くない時間の間、彼女は歌と喜怒哀楽を一緒にこなした。イ・ソンヒにとって、音楽はどんな意味であろうか。気になってきたところで、単刀直入に尋ねた。
「音楽は一種の疎通(=コミュニケーション)でしょう。歌う人は、歌で自分を表現します。私が過ごした時間にどんな考えをし、何をいいたいのか、結局、歌で語るんです。結局、私を記憶する人とずっと疎通(=コミュニケーション)するんです。」
数えきれないほど舞台に立って、ファンたちに会いながら、おのずから記憶に残る瞬間も多かったはずなのに。質問を投げると愚問賢答(=愚かな問にも賢く答える)が返ってきた。
「留めておく性格ではないので、何かを入れれば続けて注ぎます。歌もそうですよね。感情を続けて注ぎます。それで、うれしくても悲しくても、感情はその瞬間にだけ残るもののようです。そうするうちに、あえて過ぎ去った時間に何が残ったかどうか執着しない方です。」
このような回答を聞くと、気軽に他の質問をするのがためらわれた。だが、質問を止めることができなかった。発表した曲中、最も愛着がある曲を尋ねると、自然に「Jへ」という回答が出てきた。
「私はこの質問を受けたら、いつも『Jへ』と答えます。このように淡々と話しているけど、本当に『Jへ』は、今聞いてもキュンとします。おのずから過ぎた時間を振り返り見させる歌なんです。」
この他にも、最近、彼女の口の中で巡る歌がある。昨年発表した15集収録曲「今になって(이제야)」だ。「その時は分からなかったのでしょう/すべてを知っていて思ったが、愚かにも/感嘆符、休符も、そこに込められていることを」、という歌詞がなぜか胸に迫る。
「最近、私が元々進んだ方向からちょっと違うように、方向を定めました。そのように決めて見たら葛藤が多くなりました。すると、私も気づかぬ内に、この歌を口ずさんでいましたよ。この歌をしきりに歌うのを見て、私の視線が変わったことを感じます。」
イ・ソンヒといえば浮び上がるイメージがある。短いショートカットにメガネ、ズボン、スーツがそれだ。常にズボンだけはく彼女を見て、ファンたちは「イ・ソンヒの脚に大きい傷跡がある」とひそひそ話したりもした。彼女は、デビュー後7~8年間、素顔で放送に出たりもした。
一つのスタイルに固執した理由を尋ねると、「その時は、ただそれが良かった」という素っ気無い反応が返ってきた。
「今考えれば大したことないのに、その当時、瞬間瞬間ぶつかることが多かったです。化粧もして、メガネも外せというのが何となくいやだったんです。『歌う人が好きなスタイルで行くべきなのに、私がなぜあの人たちに従って行かなければならないのか?』という問いを持ち続けました。それで、固執半分、反抗心半分でずっと押し進めたら、そのまま私のスタイルに固まったんです。ところで、そうなるとそのスタイルが嫌いになりましたよ。(笑い) そのまま、その時その時やりたい通りに自然に従ったようです。」
イ・ソンヒの公演会場に、中壮年層の観客だけ訪れると考えると相当な誤算だ。彼女のコンサート会場にはいつも20~30代の観客で賑わっている。特に映画「王の男」のオリジナル・サウンドトラック(OST)に収録された「因縁(인연)」という歌が大ヒットを記録して、彼女は若い世代に名前を知らせた。イ・ソンヒが手紙好きという話を聞いて、直接、書いたファンレターを送る少女ファンも多い。
「公演会場で、観客席を見ればびっくりです。以前よりも観客が若くなっているとはっきりしてるんですよ。とてもありがたいことです。」
「最近、若いファンの意思表明が本当にどんどん目立ちます。公演レビューの掲示板も念入りに調べる方ですが、反応を見ればとてもおもしろいです。(笑い) 私を<姉さん>と呼ぶ中学生ファンがいるのだけど、自分のママも私を<姉さん>と呼ぶといいましたよ。そうしたところ、『うちの母さんも<姉さんファン>なのに家系図がどうなるのでしょう?』と尋ねたこともあります。」
イ・ソンヒは、MBCオーディション番組「偉大なる誕生2」で、メンターを引き受けるなど、後輩たちにも格別の愛情を注ぐ。しかし、最近の歌謡界を見ると物足りなさも大きいといった。<江辺歌謡祭>出身である彼女は、最近の雨後の竹の子のよう生じるオーディション番組を見ると、特にそのような感じを受ける。
「当時、<江辺歌謡祭>や<大学歌謡祭>は、私たち同士の祭りのような感じでした。もちろん決勝、準決勝と進んで競争したりしたが、みんな歌が好きだったし、お互いが違うということを認めましたよ。ところで、最近は本当に競争だけします。皆がみな違っているんですけど、私だけ頑張らなきゃという考えをするようで残念です。1、2位を獲る瞬間に歌手になるのではないのにね。」
彼女は話を続けた。
「声は私だけの楽器です。他の人が私より歌をもっと上手だとしても、私の場所を持つのではありません。全てみな違った声を持っていますね。自分だけの声を持ってこそ、より豊かに生きていけます。グルメ通りを考えてみてください。一つのレストランでなく、多様なレストランが集まっているので、多くの人が訪ねてくるのじゃないの。他の人が出てきて、違うということを認めれば、全てみな上手くやれます。」
イ・ソンヒは、後輩たちが尊敬して似たがる巨匠の中のひとりだ。それだけに最近のTVをつければ、イ・ソンヒの歌をリメークしたり真似て歌う歌手をよく見かける。そのような姿を見て、本来本人はどんな思いがするのか気になった。
「最近の後輩たちは本当に音楽が上手いです。以前には良いものを表現する方法も知りませんでした。また、音楽される方の多くが付き従う音楽をしましたよ。ところが最近は、音楽で上手く表現する世代になりました。私の歌を、後輩たちが歌ってくれたら余りにもうれしいです。それを聞いて、『あんな方向にも歌を歌うことができるのだろう』と感じたりもします。しかし、私が歌った方式そのままに歌う後輩を見ると、上手いとは別にちょっと物足りないです。」 そのような後輩に、先輩としてしたい助言はないだろうか。
「とにかく経験するんです。編み出すというのは積もることで、積もれば吐き出すことができなければなりません。音楽をする人たちは、音楽に吐き出さなければなりません。もちろん競争が全てではないが、そのような過程を勝ち抜くのも必要です。だが、記憶しなければならないものがあります。人のために、私がだめなものなんてありません。人もなるし、私もなるんです。」
インタビューを進めて、31年(=デビュー31年目)の内面はやはり違うという考えが頭の中を離れられなかった。急がず自身の考えを一つ一つ明らかにする、彼女のカリスマに圧倒される瞬間も多かった。一時間余りのインタビューを終えて、今後の計画をたずねた。「小さい巨人」イ・ソンヒの答はやはり特別だった。
「以前には、男性と女性の声を同時に持つ少年のような声だったとしたら、今は女らしい声になりました。そうするうちに、そこに合った歌を歌うことになったし、声も澄んだのですよ。私は今、50代以後にどんな歌を歌うのか悩んでいます。次のアルバムですか? アルバムを出すというのは無心にする作業です。それで何かいっぱい満たしてようやく、結果に結び付けられます。ところで今は、満たせる時間が長く続かなかったです。それで当分は計画はありません。」
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(Youtubeに登録のqueen sallyに感謝)
イ・ソンヒの語り(=音楽観)には独特のものがあるという。以前、別のインタビュー記事にも、成程とうかがい知るような記述しているものがあった。今回は、どうだろうか・・・記者も苦心されたようだが、読み進むうちにイ・ソンヒらしさがやっぱり感じられてくる。妙に安心する。
(本ブログ関連:”イ・ソンヒ インタビュー”)
ところで、現在は充填期のようで、次ぎのアルバムまで時間がいるようだ。少々待ち遠しい気がするが楽しみである。
├-----------------------------------------------------------
「音楽は私を記憶する人との疎通(コミュニケーション)・・・若いファンたち感謝する」
「声は私だけの楽器・・・他の人が出てきて違うことを認めなきゃ」
イ・ソンヒは、誰もが自信をもって「国民歌手」と呼ぶことができる、数少ない歌謡界の巨匠中の一人だ。
1984年、「第5回 江辺歌謡祭」で、「Jへ」で大賞を獲得してデビューした彼女は、翌年1集のタイトル曲「ああ! 昔よ」を始め、「秋の風」、「分かりたいです」や、「私はいつもあなたを」、「ひとしきり笑いで」などをヒットさせて、1980年代の代表的ディーバ(歌姫)として座をつかんだ。
彼女は小さい体躯から出る爆発的な歌唱力でファンたちをひきつけて、初の<姉さん部隊>(=中高女学生ファングループ)を誕生させたりもした。
~~~~~~~~~~~~~~~~
1990年代にも着実に新曲を発表したイ・ソンヒは、2011年、米国カーネギーホールのアイザック・スターン・オーディトリウムで単独コンサートも開いた。昨年(2014年)には、デビュー30周年を記念して、正規15集「セレンディピティ(Serendipity)」を発表した。
最近、イ・ソンヒを、ソウル江南区清潭洞の所属事務所(=フックエンターテインメント)の建物で会った。TVよりはるかに若く見られる容貌に記者が驚くと、すぐに彼女は、「私がTVによく出てないからよ」と冗談を言った。
まず、最近の近況を尋ねた。イ・ソンヒは、昨年3月アルバムを発売するやいなや、全国ツアーコンサートを開いて1年余りをファンたちのそばで過ごした。今年には、光復70年記念番組のKBS「私は大韓民国」に出演して「1945合唱団」を指揮したりもした。
「いま、やっとスケジュールがまばらになりました。昨年は一年中公演して、今年は『私は大韓民国』を準備するために緊張を解くことができませんでした。番組が終わって、およそ2週間患いました。そうして、ちょっと日常を楽しんだのです。休む時、したいことなどをリストに書き込みました。今は、それらをしに歩き回るのに忙しいですね。 (笑い)」
彼女は歌手として31年を生きた。短くない時間の間、彼女は歌と喜怒哀楽を一緒にこなした。イ・ソンヒにとって、音楽はどんな意味であろうか。気になってきたところで、単刀直入に尋ねた。
「音楽は一種の疎通(=コミュニケーション)でしょう。歌う人は、歌で自分を表現します。私が過ごした時間にどんな考えをし、何をいいたいのか、結局、歌で語るんです。結局、私を記憶する人とずっと疎通(=コミュニケーション)するんです。」
数えきれないほど舞台に立って、ファンたちに会いながら、おのずから記憶に残る瞬間も多かったはずなのに。質問を投げると愚問賢答(=愚かな問にも賢く答える)が返ってきた。
「留めておく性格ではないので、何かを入れれば続けて注ぎます。歌もそうですよね。感情を続けて注ぎます。それで、うれしくても悲しくても、感情はその瞬間にだけ残るもののようです。そうするうちに、あえて過ぎ去った時間に何が残ったかどうか執着しない方です。」
このような回答を聞くと、気軽に他の質問をするのがためらわれた。だが、質問を止めることができなかった。発表した曲中、最も愛着がある曲を尋ねると、自然に「Jへ」という回答が出てきた。
「私はこの質問を受けたら、いつも『Jへ』と答えます。このように淡々と話しているけど、本当に『Jへ』は、今聞いてもキュンとします。おのずから過ぎた時間を振り返り見させる歌なんです。」
この他にも、最近、彼女の口の中で巡る歌がある。昨年発表した15集収録曲「今になって(이제야)」だ。「その時は分からなかったのでしょう/すべてを知っていて思ったが、愚かにも/感嘆符、休符も、そこに込められていることを」、という歌詞がなぜか胸に迫る。
「最近、私が元々進んだ方向からちょっと違うように、方向を定めました。そのように決めて見たら葛藤が多くなりました。すると、私も気づかぬ内に、この歌を口ずさんでいましたよ。この歌をしきりに歌うのを見て、私の視線が変わったことを感じます。」
イ・ソンヒといえば浮び上がるイメージがある。短いショートカットにメガネ、ズボン、スーツがそれだ。常にズボンだけはく彼女を見て、ファンたちは「イ・ソンヒの脚に大きい傷跡がある」とひそひそ話したりもした。彼女は、デビュー後7~8年間、素顔で放送に出たりもした。
一つのスタイルに固執した理由を尋ねると、「その時は、ただそれが良かった」という素っ気無い反応が返ってきた。
「今考えれば大したことないのに、その当時、瞬間瞬間ぶつかることが多かったです。化粧もして、メガネも外せというのが何となくいやだったんです。『歌う人が好きなスタイルで行くべきなのに、私がなぜあの人たちに従って行かなければならないのか?』という問いを持ち続けました。それで、固執半分、反抗心半分でずっと押し進めたら、そのまま私のスタイルに固まったんです。ところで、そうなるとそのスタイルが嫌いになりましたよ。(笑い) そのまま、その時その時やりたい通りに自然に従ったようです。」
イ・ソンヒの公演会場に、中壮年層の観客だけ訪れると考えると相当な誤算だ。彼女のコンサート会場にはいつも20~30代の観客で賑わっている。特に映画「王の男」のオリジナル・サウンドトラック(OST)に収録された「因縁(인연)」という歌が大ヒットを記録して、彼女は若い世代に名前を知らせた。イ・ソンヒが手紙好きという話を聞いて、直接、書いたファンレターを送る少女ファンも多い。
「公演会場で、観客席を見ればびっくりです。以前よりも観客が若くなっているとはっきりしてるんですよ。とてもありがたいことです。」
「最近、若いファンの意思表明が本当にどんどん目立ちます。公演レビューの掲示板も念入りに調べる方ですが、反応を見ればとてもおもしろいです。(笑い) 私を<姉さん>と呼ぶ中学生ファンがいるのだけど、自分のママも私を<姉さん>と呼ぶといいましたよ。そうしたところ、『うちの母さんも<姉さんファン>なのに家系図がどうなるのでしょう?』と尋ねたこともあります。」
イ・ソンヒは、MBCオーディション番組「偉大なる誕生2」で、メンターを引き受けるなど、後輩たちにも格別の愛情を注ぐ。しかし、最近の歌謡界を見ると物足りなさも大きいといった。<江辺歌謡祭>出身である彼女は、最近の雨後の竹の子のよう生じるオーディション番組を見ると、特にそのような感じを受ける。
「当時、<江辺歌謡祭>や<大学歌謡祭>は、私たち同士の祭りのような感じでした。もちろん決勝、準決勝と進んで競争したりしたが、みんな歌が好きだったし、お互いが違うということを認めましたよ。ところで、最近は本当に競争だけします。皆がみな違っているんですけど、私だけ頑張らなきゃという考えをするようで残念です。1、2位を獲る瞬間に歌手になるのではないのにね。」
彼女は話を続けた。
「声は私だけの楽器です。他の人が私より歌をもっと上手だとしても、私の場所を持つのではありません。全てみな違った声を持っていますね。自分だけの声を持ってこそ、より豊かに生きていけます。グルメ通りを考えてみてください。一つのレストランでなく、多様なレストランが集まっているので、多くの人が訪ねてくるのじゃないの。他の人が出てきて、違うということを認めれば、全てみな上手くやれます。」
イ・ソンヒは、後輩たちが尊敬して似たがる巨匠の中のひとりだ。それだけに最近のTVをつければ、イ・ソンヒの歌をリメークしたり真似て歌う歌手をよく見かける。そのような姿を見て、本来本人はどんな思いがするのか気になった。
「最近の後輩たちは本当に音楽が上手いです。以前には良いものを表現する方法も知りませんでした。また、音楽される方の多くが付き従う音楽をしましたよ。ところが最近は、音楽で上手く表現する世代になりました。私の歌を、後輩たちが歌ってくれたら余りにもうれしいです。それを聞いて、『あんな方向にも歌を歌うことができるのだろう』と感じたりもします。しかし、私が歌った方式そのままに歌う後輩を見ると、上手いとは別にちょっと物足りないです。」 そのような後輩に、先輩としてしたい助言はないだろうか。
「とにかく経験するんです。編み出すというのは積もることで、積もれば吐き出すことができなければなりません。音楽をする人たちは、音楽に吐き出さなければなりません。もちろん競争が全てではないが、そのような過程を勝ち抜くのも必要です。だが、記憶しなければならないものがあります。人のために、私がだめなものなんてありません。人もなるし、私もなるんです。」
インタビューを進めて、31年(=デビュー31年目)の内面はやはり違うという考えが頭の中を離れられなかった。急がず自身の考えを一つ一つ明らかにする、彼女のカリスマに圧倒される瞬間も多かった。一時間余りのインタビューを終えて、今後の計画をたずねた。「小さい巨人」イ・ソンヒの答はやはり特別だった。
「以前には、男性と女性の声を同時に持つ少年のような声だったとしたら、今は女らしい声になりました。そうするうちに、そこに合った歌を歌うことになったし、声も澄んだのですよ。私は今、50代以後にどんな歌を歌うのか悩んでいます。次のアルバムですか? アルバムを出すというのは無心にする作業です。それで何かいっぱい満たしてようやく、結果に結び付けられます。ところで今は、満たせる時間が長く続かなかったです。それで当分は計画はありません。」
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2015年11月6日金曜日
(雑談)自然の美しい形
石好きの理由に、鉱物結晶の美しさがある。直線的で平らな表面をもった様々な晶系が作り出す不思議な世界だ。きれいな結晶にいきなり巡り会うことができるとすれば、鉱山業に従事する者の特権で、坑道で遭遇するケースだろう。そうでない、アマチュアは、選鉱した後に捨てられたズリの斜面で探すだけだ。
結晶を持つ母岩を見当づけて割る。運が良ければ出会いがある。ベテランは闇雲に割るわけではなく、母岩の特徴も知っているので確率も高い。そうでない者は、手当たり次第割るわけで、やがて疲労と空しさが押し寄せて来る。
自然の中で、美しい結晶を探すとき、自然と相似な姿を求めているのだろうか。山、谷、沢といった複雑な地形を考えると、美しい結晶は異様であり異質である。自然の景観とは違った、シンプルでめったに目にすることのない形だ。自然金は金ということで貴重だが、そのままの形は美しいものでない。むしろ水晶の六角柱や玄武岩の節理の方が驚異的なのだ。奇妙なことに、その姿を人工的と例えようとする。
人間の住居で当り前にしていることに、窓は四角で、柱は垂直で、床や階段は水平である。また、ディスプレイだって四角の直線で囲っている。自然の美しさを口にしながら、実際は直線的なものや、水平で平らなものを求めている。現代的だからというわけでもない。昔から、人間の生活には、直線的な造形が採り入れられている。そうでないと不安定で落ち着かない。
自然を唱えているが、僕らは他の動物たちとは違った観念で実際の生活をしているようだ。ぐにゃぐにゃな空間、ルールのない社会に耐えられそうもない動物なのだ。
結晶を持つ母岩を見当づけて割る。運が良ければ出会いがある。ベテランは闇雲に割るわけではなく、母岩の特徴も知っているので確率も高い。そうでない者は、手当たり次第割るわけで、やがて疲労と空しさが押し寄せて来る。
自然の中で、美しい結晶を探すとき、自然と相似な姿を求めているのだろうか。山、谷、沢といった複雑な地形を考えると、美しい結晶は異様であり異質である。自然の景観とは違った、シンプルでめったに目にすることのない形だ。自然金は金ということで貴重だが、そのままの形は美しいものでない。むしろ水晶の六角柱や玄武岩の節理の方が驚異的なのだ。奇妙なことに、その姿を人工的と例えようとする。
人間の住居で当り前にしていることに、窓は四角で、柱は垂直で、床や階段は水平である。また、ディスプレイだって四角の直線で囲っている。自然の美しさを口にしながら、実際は直線的なものや、水平で平らなものを求めている。現代的だからというわけでもない。昔から、人間の生活には、直線的な造形が採り入れられている。そうでないと不安定で落ち着かない。
自然を唱えているが、僕らは他の動物たちとは違った観念で実際の生活をしているようだ。ぐにゃぐにゃな空間、ルールのない社会に耐えられそうもない動物なのだ。
2015年11月5日木曜日
イ・ソンヒ「冬哀傷」
久し振りに公園に寄った。紅葉は3分ほどか。それでも、一部に葉がすっかり枯れて、風に舞わせているものもある。樹下に積もって絨毯となり、幼児たちが持ち上げては舞い散らす。おもしろくて、うれしくて、何度も何度も楽しんでいる。
公園の紅葉が染まりきれば、いずれ雪景色、純白の世界になる。雪が珍しい幼ない子どもたちは再び、枯葉のときのように舞い散らすことだろう。風景が好奇心の対象でしかない、世界を感性で理解するのだから、うらやましい。
大人になると思い入れが深く、雪景色も感傷の舞台になる。きらめく澄んだ歌声を聞かせる、イ・ソンヒの5集所収の「冬哀傷(겨울 애상)」(1989年)は、聴くものをそんな世界に同化させる。でも、美しいこの作品ができたのは、ソン・シヒョンの家で、熱い即席ラーメンを作る最中だったなんてことは・・・。
星明かりに澄み映える 私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら 飛び去る 空を 見る
懐かしさ雪のように積もり 丘を転がり超えて
青い月明かり 降り注ぐ 私の空っぽの 庭に
*
風は木の葉を 吹きたてて 消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は 私の胸に浮かんでいるのか
消すことが できないのか
冬になるとよみがえる姿
青く冷たい 私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
(*以下繰り返し)
凍ってしまった悲しい後姿
(Youtubeに登録のnaperboyに感謝)
公園の紅葉が染まりきれば、いずれ雪景色、純白の世界になる。雪が珍しい幼ない子どもたちは再び、枯葉のときのように舞い散らすことだろう。風景が好奇心の対象でしかない、世界を感性で理解するのだから、うらやましい。
大人になると思い入れが深く、雪景色も感傷の舞台になる。きらめく澄んだ歌声を聞かせる、イ・ソンヒの5集所収の「冬哀傷(겨울 애상)」(1989年)は、聴くものをそんな世界に同化させる。でも、美しいこの作品ができたのは、ソン・シヒョンの家で、熱い即席ラーメンを作る最中だったなんてことは・・・。
星明かりに澄み映える 私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら 飛び去る 空を 見る
懐かしさ雪のように積もり 丘を転がり超えて
青い月明かり 降り注ぐ 私の空っぽの 庭に
*
風は木の葉を 吹きたてて 消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は 私の胸に浮かんでいるのか
消すことが できないのか
冬になるとよみがえる姿
青く冷たい 私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
(*以下繰り返し)
凍ってしまった悲しい後姿
(Youtubeに登録のnaperboyに感謝)
2015年11月4日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 瞑想の音楽
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/28)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<瞑想>にふさわしい3曲を紹介した。
始めに、瞑想の効用と風流音楽について次のように紹介された。
・瞑想は、ストレス解消や血液循環が良くなり、肉体疲労や病を回復させる力があるという。集中力が上がり、憂鬱な気分から解放されるともいう。しかし、本当に効果があるか確認する方法はない。直接体験して確かめることになる。瞑想方法は多様だが、共通するのは集中することだ。頭の中で思いを一ヵ所に集中する必要がある。最初は簡単でないが、静かな音楽と、そのリズムに集中するのもひとつの方法だ。
▼ 撥弦楽器の伽耶琴(カヤグム、가야금)演奏の代表的風流音楽「霊山会相(영산회상)」から、「上霊山(상령산)」を聴く。行間を読むように響く。
次に、撥弦楽器の「伽耶琴」や「玄琴(コムンゴ、거문고)」の奏法、仏教音楽「梵唄(범패)」について次のように説明された。
・撥弦楽器の、「伽耶琴」や「玄琴」は、「スルテ(술대)」という絃をはじく竹撥(ばち)、または指で音を出す。西洋楽器のバイオリンと違い、弓で一度音を出すとすぐに消えるため、遠ざかる音を装飾音(꾸밈음、Trill)で飾ると、長く響くように感じる。「上霊山」の場合、ゆっくりした速さと、音階の少ないのが特徴。一曲の演奏に、初めから終わりまで集中が必要、瞑想でもある。
・仏教音楽の「梵唄」も同様である。中でも、歌詞を長く解釈しながら歌う、サンスクリット語からなるもっとも長い歌「ジッソリ(짓소리)」は、五、六文字で一時間歌うこともある。母音を長く伸ばすため間違えると大変で、集中しなければならなかった。
▼ 梵唄「ジッソリ」から「挙霊山(거영산)」を聴く。遍路歌ではないが、聞き入っていることに気付く。
・九文字で構成される歌詞を二度繰り返し、もう一度繰り返すとき一文字だけを長く歌う。大変短い歌詞だが、意味のない母音をリズムに合わせて歌う。長い歌詞のパンソリに匹敵するくらい難しい。僧侶の修行のひとつの方法ともされる。
(ちなみに、イ・ソンヒの父は、梵唄の指導者といわれている)
最後に、(韓国の)伝統音楽と瞑想の親和性について次のように紹介された。
・西洋の音楽は和音が多い反面、伝統音楽はメロディーがシンプルなため、瞑想に役に立つともいう。
▼ 「コル・ニドライ」(Max Bruch作曲)の、牙筝(アジェン、아쟁)とピアノ演奏(2005年、明洞聖堂大聖堂)を聴く。チェロも哲学的といわれる・・・が。
始めに、瞑想の効用と風流音楽について次のように紹介された。
・瞑想は、ストレス解消や血液循環が良くなり、肉体疲労や病を回復させる力があるという。集中力が上がり、憂鬱な気分から解放されるともいう。しかし、本当に効果があるか確認する方法はない。直接体験して確かめることになる。瞑想方法は多様だが、共通するのは集中することだ。頭の中で思いを一ヵ所に集中する必要がある。最初は簡単でないが、静かな音楽と、そのリズムに集中するのもひとつの方法だ。
▼ 撥弦楽器の伽耶琴(カヤグム、가야금)演奏の代表的風流音楽「霊山会相(영산회상)」から、「上霊山(상령산)」を聴く。行間を読むように響く。
次に、撥弦楽器の「伽耶琴」や「玄琴(コムンゴ、거문고)」の奏法、仏教音楽「梵唄(범패)」について次のように説明された。
・撥弦楽器の、「伽耶琴」や「玄琴」は、「スルテ(술대)」という絃をはじく竹撥(ばち)、または指で音を出す。西洋楽器のバイオリンと違い、弓で一度音を出すとすぐに消えるため、遠ざかる音を装飾音(꾸밈음、Trill)で飾ると、長く響くように感じる。「上霊山」の場合、ゆっくりした速さと、音階の少ないのが特徴。一曲の演奏に、初めから終わりまで集中が必要、瞑想でもある。
・仏教音楽の「梵唄」も同様である。中でも、歌詞を長く解釈しながら歌う、サンスクリット語からなるもっとも長い歌「ジッソリ(짓소리)」は、五、六文字で一時間歌うこともある。母音を長く伸ばすため間違えると大変で、集中しなければならなかった。
▼ 梵唄「ジッソリ」から「挙霊山(거영산)」を聴く。遍路歌ではないが、聞き入っていることに気付く。
・九文字で構成される歌詞を二度繰り返し、もう一度繰り返すとき一文字だけを長く歌う。大変短い歌詞だが、意味のない母音をリズムに合わせて歌う。長い歌詞のパンソリに匹敵するくらい難しい。僧侶の修行のひとつの方法ともされる。
(ちなみに、イ・ソンヒの父は、梵唄の指導者といわれている)
最後に、(韓国の)伝統音楽と瞑想の親和性について次のように紹介された。
・西洋の音楽は和音が多い反面、伝統音楽はメロディーがシンプルなため、瞑想に役に立つともいう。
▼ 「コル・ニドライ」(Max Bruch作曲)の、牙筝(アジェン、아쟁)とピアノ演奏(2005年、明洞聖堂大聖堂)を聴く。チェロも哲学的といわれる・・・が。
2015年11月3日火曜日
2015年11月2日月曜日
ちあきなおみの「黄昏のビギン」
午前中の雨脚に、天気予報の通り夕方まで降るのかと気が滅入りそうだった。昼過ぎどうやら治まってくれた。とはいえ、冬並みの寒さが一日続いた。
雨が止んでも、空はどんより重く、晴れ間はついに訪れなかった。そんなとき、気分を変えてくれる歌が欲しくなるものだ。かといって、あけっぴろげな元気を求めていたわけではない。
今も絶大な人気を誇りながら、自らステージを去った歌手、ちあきなおみの歌「黄昏のビギン」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)は、その昔、コーヒーのコマーシャルにも歌われて、ちょっとした大人気分だった。(原曲は、1959年の水原弘の歌だった)
ちあきなおみの歌で、私のお気に入りは、「紅とんぼ」(作詞:吉田旺 作曲:船村徹)だ。なぜかって、カラオケでは、イ・ソンヒの歌とともに歌わせてもらっているから。新宿駅裏の小さな飲み屋が店仕舞いする。女将と客たちの別れ歌だ。
(Youtubeに登録のtoshiyuki maeda、HirooTanakaに感謝)
雨が止んでも、空はどんより重く、晴れ間はついに訪れなかった。そんなとき、気分を変えてくれる歌が欲しくなるものだ。かといって、あけっぴろげな元気を求めていたわけではない。
今も絶大な人気を誇りながら、自らステージを去った歌手、ちあきなおみの歌「黄昏のビギン」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)は、その昔、コーヒーのコマーシャルにも歌われて、ちょっとした大人気分だった。(原曲は、1959年の水原弘の歌だった)
ちあきなおみの歌で、私のお気に入りは、「紅とんぼ」(作詞:吉田旺 作曲:船村徹)だ。なぜかって、カラオケでは、イ・ソンヒの歌とともに歌わせてもらっているから。新宿駅裏の小さな飲み屋が店仕舞いする。女将と客たちの別れ歌だ。
(Youtubeに登録のtoshiyuki maeda、HirooTanakaに感謝)
2015年11月1日日曜日
イ・ソンヒ、50歳になったら・・・
テレビ画面で、可憐にして清楚で淑やかに見える女性タレントが、インタビューを通して、案外しっかり者であるのを見受けることがある。考えてみれば、芸能界をしっかり生き抜いているわけで、柔なはずがない。強い意志がなければ注目もされないだろうと気付かされる。
イ・ソンヒも、どこかそんなところがあるようだ。歌も上手かった中学時代に、体育教師に「サニー」のあだ名を付けてもらったという。体育会系の朗らかさがあったのだろう。デビュー時に、歌手が並んだステージに登ってきた酔っ払いを独りで払いのけている映像がある。まさに、ボーイッシュなイメージがそのまま重なる面もあるが。
アジア・トゥデイの記事「イ・ソンヒ、この時代の真のメンター(指導者)・・・歳を早くとりたいという(映画評論家・コラムニスト)ホ・ジウン(허지웅)に言った忠告は?」(10/30、バン・チョンフン記者)は、イ・ソンヒのある意味<さっぱり>した仏教的価値観を垣間見る気がする。
イ・ソンヒは、数段大人だ。
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イ・ソンヒが過去、ホ・ジウンにした忠告が再照明されている。
イ・ソンヒは、過去放送されたSBSスペシャル「私は生きる-歌手イ・ソンヒ、大韓民国を慰める」で、自身のレコーディングルームを訪れたホ・ジウンに暖かい助言をかけた。
当時、放送でホ・ジウンは、「さまよっていた時代に、先生の歌を聞いて気を引き締めた」と告白し、それに対してイ・ソンヒは、「三十七歳だったらいいとき。いいなあ」と励ました。
ホ・ジウンは、「大学時代からの夢が、50代になることだった」とか、「歳を早くとりたい」理由は、「五十になったら心乱れないものだと思っていた」と言及した。
これに対して、イ・ソンヒは、「私も幼い時から、50になれば人生に対して解脱できる歳だと考えて早く大人になりたかった」といいながらも、「50になってもそうじゃない人にはならない。今がその時だと考えて、早く捨て去るべきことは捨て去り生きるのが良い」と和やかさを醸し出した。
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イ・ソンヒも、どこかそんなところがあるようだ。歌も上手かった中学時代に、体育教師に「サニー」のあだ名を付けてもらったという。体育会系の朗らかさがあったのだろう。デビュー時に、歌手が並んだステージに登ってきた酔っ払いを独りで払いのけている映像がある。まさに、ボーイッシュなイメージがそのまま重なる面もあるが。
アジア・トゥデイの記事「イ・ソンヒ、この時代の真のメンター(指導者)・・・歳を早くとりたいという(映画評論家・コラムニスト)ホ・ジウン(허지웅)に言った忠告は?」(10/30、バン・チョンフン記者)は、イ・ソンヒのある意味<さっぱり>した仏教的価値観を垣間見る気がする。
イ・ソンヒは、数段大人だ。
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イ・ソンヒが過去、ホ・ジウンにした忠告が再照明されている。
イ・ソンヒは、過去放送されたSBSスペシャル「私は生きる-歌手イ・ソンヒ、大韓民国を慰める」で、自身のレコーディングルームを訪れたホ・ジウンに暖かい助言をかけた。
当時、放送でホ・ジウンは、「さまよっていた時代に、先生の歌を聞いて気を引き締めた」と告白し、それに対してイ・ソンヒは、「三十七歳だったらいいとき。いいなあ」と励ました。
ホ・ジウンは、「大学時代からの夢が、50代になることだった」とか、「歳を早くとりたい」理由は、「五十になったら心乱れないものだと思っていた」と言及した。
これに対して、イ・ソンヒは、「私も幼い時から、50になれば人生に対して解脱できる歳だと考えて早く大人になりたかった」といいながらも、「50になってもそうじゃない人にはならない。今がその時だと考えて、早く捨て去るべきことは捨て去り生きるのが良い」と和やかさを醸し出した。
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2015年10月31日土曜日
(雑談)ハロウィンよりも、残り2ヶ月しかないこと
1年をリンゴの実に例えて、軸を中心に縦に6等分すると、5/6を食ってしまったことになる。1/6しか残っていないのだ。後、2ヶ月で今年が終わる。あっけないほどだ。
子どものころ、時間は長かった。クリスマスや正月が来るのが待ち遠しかった。夏休みに遊び飽きることもなかった。時間は無尽蔵で、やることがいっぱいあったのだ。
若者は遊び上手だ。若い女性が先を走り、それを男たちが追う。ハロウィンは、口実かもしれないがうってつけだ。その構図は変わらない。
さて、おじさんは、どうする。残り2ヶ月を酒の肴にして味わうしかない。いつのまにか時間の皿は空っぽになって、酔いが覚め、ヒンヤリするのが毎度のこと。
子どものころ、時間は長かった。クリスマスや正月が来るのが待ち遠しかった。夏休みに遊び飽きることもなかった。時間は無尽蔵で、やることがいっぱいあったのだ。
若者は遊び上手だ。若い女性が先を走り、それを男たちが追う。ハロウィンは、口実かもしれないがうってつけだ。その構図は変わらない。
さて、おじさんは、どうする。残り2ヶ月を酒の肴にして味わうしかない。いつのまにか時間の皿は空っぽになって、酔いが覚め、ヒンヤリするのが毎度のこと。
2015年10月30日金曜日
イ・ソンヒ「ひとしきり笑いで」
イ・ソンヒの5集所収の「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」(作詞作曲ソン・シヒョン、1989年)について、以前、「『あ!昔よ』、『美しい江山』、『ケンチャナ』などに通じる、彼女の歌の中で、何かを吹き払い、いかにも前向きな響きがする、韓国らしいトーンの強い曲である」と記した。コンサート会場で見た観客の熱狂からそう察した。
(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)
会場の反応に、ある意味、定番のような気もしたが、昨日の本ブログに紹介した、釜山日報の「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)によれば、次のように社会性を帯びているという。歌詞を見れば暗喩的である。事情についていずれ知りたいと思う。
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■ あちこちに社会性の濃い曲配置した5集 (1989年)
(5集収録の)「五月の陽射し」は、80年光州民主化運動(光州事件)の犠牲者の英霊を慰める曲であり、「ひとしきり笑いで」もまた時代の痛みが滲んでいる曲だった。直接的ではないが、歌詞の中に比喩的に隠されたメッセージは、通常の民衆歌謡に劣らず深くおぼろげだった。・・・
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ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように
若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
(Youtubeに登録のAlejandro Kimに感謝)
(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)
会場の反応に、ある意味、定番のような気もしたが、昨日の本ブログに紹介した、釜山日報の「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)によれば、次のように社会性を帯びているという。歌詞を見れば暗喩的である。事情についていずれ知りたいと思う。
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■ あちこちに社会性の濃い曲配置した5集 (1989年)
(5集収録の)「五月の陽射し」は、80年光州民主化運動(光州事件)の犠牲者の英霊を慰める曲であり、「ひとしきり笑いで」もまた時代の痛みが滲んでいる曲だった。直接的ではないが、歌詞の中に比喩的に隠されたメッセージは、通常の民衆歌謡に劣らず深くおぼろげだった。・・・
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ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように
若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
(Youtubeに登録のAlejandro Kimに感謝)
2015年10月29日木曜日
(資料) 「イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」
久し振りに、イ・ソンヒについての評論記事がネットを飾った。釜山日報(BUSAN.com)の「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)は、80年代に登場したイ・ソンヒの席捲と躍進について次にように語っている。
イ・ソンヒの4集、5集アルバムは、1988年、89年と連続リリースされた。これをリマスター版「ALL THAT MASTERPIECE LEE SUN HEE 4+5」として、2011年に再発行されている。昔からのファンの支持が、このような形に再結晶化したのだろう。本ブログで以前にも触れたが、名曲が網羅されている。記事では、ソン・シヒョンとの関わりが興味深い。
(本ブログ関連:”「ALL THAT MASTERPIECE LEE SUN HEE 4+5」”)
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1984年前半期、歌謡界最高のヒロインは、断然チェ・ヘヨン(최혜영)だった。彼女のデビューアルバム収録曲「それは人生(그것은 인생)」は、当時最高の人気曲であったし、後続曲の「水のような愛(물같은 사랑)」の人気も侮れなかった。そのままならば、年末の各種新人賞は、文字通り確実なものだった。
ちょうどその時、一瞬に地図をひっくり返してしまった問題ある、その人が忽然と登場する。彼女の名前はイ・ソン・ヒだった。 1984年夏、仁川専門大学生だったイ・ソンヒは、同じ学校のイム・ソンギュンと一緒に「4幕5場」という混成デュエットで、江辺歌謡祭に参加し、大賞を握った。受賞曲は「Jへ(J에게)」だった。その日を起点として歌謡界の人気版図は、荒波の中に巻き込まれていった。
江辺歌謡祭大賞後、ソロとして本格的な活動
84年の最高のヒット歌謡・・・各種賞獲得
ソン・シヒョンと出会って4・5集の付き合い、音楽も変化
5集には「五月の陽射し」など社会性の濃い曲
■ 歌謡界の地図塗り変えた「4幕5場」の登場 (1984年)
イム・ソンギュンの入隊のため、ソロで本格的な活動に乗り出したイ・ソンヒの人気は、想像を超越した。 「Jへ」は、KBS歌謡トップテンで5週連続1位を占めるなど、絶大な人気を得て、1984年最高のヒット曲となり、年末のKBS歌謡大賞とMBC10代歌手歌謡祭の新人賞も、当然イ・ソンヒの獲得だった。個人的な感想を言えば、当時、私は、チェ・ヘヨンと「それは人生」が好きだった。イ・ソンヒと「Jへ」の登場は、少なくとも彼女(チェ・ヘヨン)には不運だった。「Jへ」の人気がどれだけすごいといったら、しばらくして「J あなたは」という類似品が出たこともあった。 (両方の曲とも、イ・セゴン(이세건)が作詞、作曲した歌だ)
■ 1985年、正式デビューとヒットパレード (1集、2集)
「Jへ」ただ一曲で、1984年を自分の年してしまったイ・ソンヒの正規1集は、翌年の1985年の初めに出た。ここで、「ああ!昔よ(아! 옛날이여)」、「葛藤(갈등)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが相次いでヒットし、彼女は自分の人気が「Jへ」の一回で終わらないことを立証した。その年が経つ前(同1985年)に再度出した2集では、「秋の風(갈바람)」、「ケンチャナ(괜찮아)」、「そうよ過ちは私にあります(그래요 잘못은 내게 있어요)」などのヒット曲が続けて出たし、1986年出した3集でも「分かりたいです(알고 싶어요)」、「暗闇は晴れて(어둠은 걷히고)」、 「Young(영)」などが多くの愛(支持)を受けた。
(□ 1986年 3集)
■ イ・ソンヒ+ソン・シヒョン(송시현)、発展の証明書 4集、そして5集 (4集:1988年)
1988年2月に出た4集は、イ・ソンヒのディスコグラフィーで非常に重要な位置を占めている。ここから彼女の音楽が意味のある変曲点を迎えたのだ。ところで、その変化の糸口を説明する名前の一つがある。まさにソン・シヒョンだ。
1987年「夢みるような世界(꿈결같은 세상)」のヒットで名前を知らせたシンガーソングライター、ソン・シヒョンはこの時からイ・ソンヒのアルバム作業に参加を始めたが、4集でLPのA面タイトル曲である「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」と、B面タイトル曲「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」を含めて、全4曲が彼の作品である。二人の出会いは成功だった。ソン・シヒョン特有の感受性と叙情性は、イ・ソンヒの声とよく調和たし、以後も、彼はしばらくの間、イ・ソンヒと共にすることになる。
4集で最も高い関心が集まった曲は、「美しい江山(아름다운 강산)」である。韓国ロックの巨人シン・ジュンヒョン(신중현)の名曲をリメイクした「美しい山河」の評価は、多少分かれてるが、概ね編曲と演奏面ではそれほど高い点数を得ることができない。しかし、この曲でさえもイ・ソンヒの歌唱力だけは、非の打ち所がない。また、それまでは大衆的にそれほど大きく知られていなかった同名曲が、イ・ソンヒのリメイクによって、多くの人々から愛(支持)されるようになったので、その功労もまた小さいということはできないだろう。個人的には、4集でユン・テヨン(윤태영)作詞、作曲の「歳月は流れても(세월은 흘러도)」を最も好む。容易で平易なメロディーを持ったこの歌は、たとえ大ヒットではなかったが、ボサノバ風の洗練された編曲が直ちに耳をひきつける曲だ。
■ あちこちに社会性の濃い曲配置した5集 (1989年)
5集は、1989年に出たが、イ・ソンヒはここでまた一歩進んだ姿を見せてくれた。アルバムのあちこちに社会性の濃い曲を配置したのだ。「五月の陽射し(오월의 햇살)」は、80年光州民主化運動(光州事件)の犠牲者の英霊を慰める曲であり、「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」もまた時代の痛みが滲んでいる曲だった。直接的ではないが、歌詞の中に比喩的に隠されたメッセージは、通常の民衆歌謡に劣らず深くおぼろげだった。この他にも、5集は、(ロックバンド)「山鳴り(산울림)」のキム・チャンワン(김창완)が作った二つの曲が収録されており、目を引くのが、同年イム・ジフン(임지훈)によっても発表された「お姉ちゃん(누나야)」と、ハミングとナレーションが続く独特の雰囲気(独白調)の曲「水仙(수선화)」がそれで、キム・チャンワン特有の歌詞とイ・ソンヒの若い張りのある声が調和した「水仙」は、やや実験的な曲である。ソン・シヒョンは4集に続き、5集でも極めて重要な役割を果たしている。アルバムの代表曲である「ひとしきり笑いで」と「冬哀傷(겨울애상)」がまさに彼が作った曲である。
■ 80年代を貫いた名・歌・手 李・仙・姫(イ・ソンヒ)
最近、「私は歌手だ(나는 가수다)」に続いて「覆面歌王(복면가왕)」というTV番組が首都の話題だ。この番組に対して、好き嫌いが交錯しており、個人的には、他の長所・短所を離れて、多くの人々が、次のような点をもう一度考えてみることができようになったのは、大いに励みになる。歌手とミュージシャンは違う。したがって歌が上手なのと音楽を上手なことも全く違う次元の問題だ。もちろん、優れたソング・ライティング能力と歌唱力を兼ね備えて両方をうまくこなした場合、是非の余地はないが、天才的ソングライターだが、歌ができない人もいるだろうし、逆にソング・ライティング能力がないが、歌だけは最高に上手くすることもまたありだろう。私たちは、どちらか一方を無視したり、けなす必要なく、それぞれを認めればそれまでだ。
この大きな課題で、歌が上手ということも一つで定義されるものではないと、異議を申し立て方があることが分かる。正しい。筆者もやはり賛成する。歌手はそれぞれの個性があり、またそれぞれの歌にふさわしい声やボーカルスタイルもある。唯一の爆発的な声量を持って、高音領域でクールなシャウトを聞かせてくれることだけが歌の上手なわけではない。時には低めの口ずさむことがより優れた瞬間もある。
しかし、すべてのものを考慮しても、これだけは明らかである。イ・ソンヒは、優れた歌手であり、彼女なしでは決して80年代の歌謡を話すことができない。このシリーズを介して再び紹介されるイ・ソンヒの4集と5集は、彼女が活き活きしていた初期を過ぎて、本当によく似合う組み合わせだったソン・シヒョンと会って成し遂げられた発展的成果であり、80年代を貫いた彼女の明確な足跡を確認する、最も明澄な(明るく澄みわたった)証明書だ。
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イ・ソンヒの4集、5集アルバムは、1988年、89年と連続リリースされた。これをリマスター版「ALL THAT MASTERPIECE LEE SUN HEE 4+5」として、2011年に再発行されている。昔からのファンの支持が、このような形に再結晶化したのだろう。本ブログで以前にも触れたが、名曲が網羅されている。記事では、ソン・シヒョンとの関わりが興味深い。
(本ブログ関連:”「ALL THAT MASTERPIECE LEE SUN HEE 4+5」”)
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1984年前半期、歌謡界最高のヒロインは、断然チェ・ヘヨン(최혜영)だった。彼女のデビューアルバム収録曲「それは人生(그것은 인생)」は、当時最高の人気曲であったし、後続曲の「水のような愛(물같은 사랑)」の人気も侮れなかった。そのままならば、年末の各種新人賞は、文字通り確実なものだった。
ちょうどその時、一瞬に地図をひっくり返してしまった問題ある、その人が忽然と登場する。彼女の名前はイ・ソン・ヒだった。 1984年夏、仁川専門大学生だったイ・ソンヒは、同じ学校のイム・ソンギュンと一緒に「4幕5場」という混成デュエットで、江辺歌謡祭に参加し、大賞を握った。受賞曲は「Jへ(J에게)」だった。その日を起点として歌謡界の人気版図は、荒波の中に巻き込まれていった。
江辺歌謡祭大賞後、ソロとして本格的な活動
84年の最高のヒット歌謡・・・各種賞獲得
ソン・シヒョンと出会って4・5集の付き合い、音楽も変化
5集には「五月の陽射し」など社会性の濃い曲
■ 歌謡界の地図塗り変えた「4幕5場」の登場 (1984年)
イム・ソンギュンの入隊のため、ソロで本格的な活動に乗り出したイ・ソンヒの人気は、想像を超越した。 「Jへ」は、KBS歌謡トップテンで5週連続1位を占めるなど、絶大な人気を得て、1984年最高のヒット曲となり、年末のKBS歌謡大賞とMBC10代歌手歌謡祭の新人賞も、当然イ・ソンヒの獲得だった。個人的な感想を言えば、当時、私は、チェ・ヘヨンと「それは人生」が好きだった。イ・ソンヒと「Jへ」の登場は、少なくとも彼女(チェ・ヘヨン)には不運だった。「Jへ」の人気がどれだけすごいといったら、しばらくして「J あなたは」という類似品が出たこともあった。 (両方の曲とも、イ・セゴン(이세건)が作詞、作曲した歌だ)
■ 1985年、正式デビューとヒットパレード (1集、2集)
「Jへ」ただ一曲で、1984年を自分の年してしまったイ・ソンヒの正規1集は、翌年の1985年の初めに出た。ここで、「ああ!昔よ(아! 옛날이여)」、「葛藤(갈등)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが相次いでヒットし、彼女は自分の人気が「Jへ」の一回で終わらないことを立証した。その年が経つ前(同1985年)に再度出した2集では、「秋の風(갈바람)」、「ケンチャナ(괜찮아)」、「そうよ過ちは私にあります(그래요 잘못은 내게 있어요)」などのヒット曲が続けて出たし、1986年出した3集でも「分かりたいです(알고 싶어요)」、「暗闇は晴れて(어둠은 걷히고)」、 「Young(영)」などが多くの愛(支持)を受けた。
(□ 1986年 3集)
■ イ・ソンヒ+ソン・シヒョン(송시현)、発展の証明書 4集、そして5集 (4集:1988年)
1988年2月に出た4集は、イ・ソンヒのディスコグラフィーで非常に重要な位置を占めている。ここから彼女の音楽が意味のある変曲点を迎えたのだ。ところで、その変化の糸口を説明する名前の一つがある。まさにソン・シヒョンだ。
1987年「夢みるような世界(꿈결같은 세상)」のヒットで名前を知らせたシンガーソングライター、ソン・シヒョンはこの時からイ・ソンヒのアルバム作業に参加を始めたが、4集でLPのA面タイトル曲である「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」と、B面タイトル曲「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」を含めて、全4曲が彼の作品である。二人の出会いは成功だった。ソン・シヒョン特有の感受性と叙情性は、イ・ソンヒの声とよく調和たし、以後も、彼はしばらくの間、イ・ソンヒと共にすることになる。
4集で最も高い関心が集まった曲は、「美しい江山(아름다운 강산)」である。韓国ロックの巨人シン・ジュンヒョン(신중현)の名曲をリメイクした「美しい山河」の評価は、多少分かれてるが、概ね編曲と演奏面ではそれほど高い点数を得ることができない。しかし、この曲でさえもイ・ソンヒの歌唱力だけは、非の打ち所がない。また、それまでは大衆的にそれほど大きく知られていなかった同名曲が、イ・ソンヒのリメイクによって、多くの人々から愛(支持)されるようになったので、その功労もまた小さいということはできないだろう。個人的には、4集でユン・テヨン(윤태영)作詞、作曲の「歳月は流れても(세월은 흘러도)」を最も好む。容易で平易なメロディーを持ったこの歌は、たとえ大ヒットではなかったが、ボサノバ風の洗練された編曲が直ちに耳をひきつける曲だ。
■ あちこちに社会性の濃い曲配置した5集 (1989年)
5集は、1989年に出たが、イ・ソンヒはここでまた一歩進んだ姿を見せてくれた。アルバムのあちこちに社会性の濃い曲を配置したのだ。「五月の陽射し(오월의 햇살)」は、80年光州民主化運動(光州事件)の犠牲者の英霊を慰める曲であり、「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」もまた時代の痛みが滲んでいる曲だった。直接的ではないが、歌詞の中に比喩的に隠されたメッセージは、通常の民衆歌謡に劣らず深くおぼろげだった。この他にも、5集は、(ロックバンド)「山鳴り(산울림)」のキム・チャンワン(김창완)が作った二つの曲が収録されており、目を引くのが、同年イム・ジフン(임지훈)によっても発表された「お姉ちゃん(누나야)」と、ハミングとナレーションが続く独特の雰囲気(独白調)の曲「水仙(수선화)」がそれで、キム・チャンワン特有の歌詞とイ・ソンヒの若い張りのある声が調和した「水仙」は、やや実験的な曲である。ソン・シヒョンは4集に続き、5集でも極めて重要な役割を果たしている。アルバムの代表曲である「ひとしきり笑いで」と「冬哀傷(겨울애상)」がまさに彼が作った曲である。
■ 80年代を貫いた名・歌・手 李・仙・姫(イ・ソンヒ)
最近、「私は歌手だ(나는 가수다)」に続いて「覆面歌王(복면가왕)」というTV番組が首都の話題だ。この番組に対して、好き嫌いが交錯しており、個人的には、他の長所・短所を離れて、多くの人々が、次のような点をもう一度考えてみることができようになったのは、大いに励みになる。歌手とミュージシャンは違う。したがって歌が上手なのと音楽を上手なことも全く違う次元の問題だ。もちろん、優れたソング・ライティング能力と歌唱力を兼ね備えて両方をうまくこなした場合、是非の余地はないが、天才的ソングライターだが、歌ができない人もいるだろうし、逆にソング・ライティング能力がないが、歌だけは最高に上手くすることもまたありだろう。私たちは、どちらか一方を無視したり、けなす必要なく、それぞれを認めればそれまでだ。
この大きな課題で、歌が上手ということも一つで定義されるものではないと、異議を申し立て方があることが分かる。正しい。筆者もやはり賛成する。歌手はそれぞれの個性があり、またそれぞれの歌にふさわしい声やボーカルスタイルもある。唯一の爆発的な声量を持って、高音領域でクールなシャウトを聞かせてくれることだけが歌の上手なわけではない。時には低めの口ずさむことがより優れた瞬間もある。
しかし、すべてのものを考慮しても、これだけは明らかである。イ・ソンヒは、優れた歌手であり、彼女なしでは決して80年代の歌謡を話すことができない。このシリーズを介して再び紹介されるイ・ソンヒの4集と5集は、彼女が活き活きしていた初期を過ぎて、本当によく似合う組み合わせだったソン・シヒョンと会って成し遂げられた発展的成果であり、80年代を貫いた彼女の明確な足跡を確認する、最も明澄な(明るく澄みわたった)証明書だ。
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2015年10月28日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 祝福(祭祀)
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/21)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<祝福>(祭祀)にかかわる3曲を紹介した。
始めに、旧暦10月の儀式と、崔南善(최남선)の著「朝鮮常識問答(조선상식문답)」について次のよう紹介された。
・旧暦10月を、一年で最も優れた上の月の意で「上月(상 달)」と言う。今年の旧暦は、一年13ヶ月で閏月がある。今、旧暦9月だが、いつもなら10月が始まる頃。新年を迎える正月でもないのに、10月をなぜ上月と言うのか、崔南善(1890年4月26日~1957年10月10日)の著「朝鮮常識問答」に記載がある。この時期、一年の農作業が終わり、新しい穀物や果物を収穫したことを、天と先祖に感謝の儀式を捧げる。10月は神と人間が共に楽しむ月、最も良い月とされた。高句麗の儀式「東盟(동맹)」や半島南部の部族馬韓の祭天儀式も全て10月に行われた。
▼ 「パン」=ある場面、「ノリ」=遊びの意による、演奏「パンノリ(판노리)」を聴く。賑やかな味付けした今様である。
次に、民間レベルでの村祭り「洞祭(동제)」や、家ごとの祭祀「告祀(고사)」の風習について次のように紹介された。
・朝鮮時代、収穫の秋に国家レベルの祭天儀式はなかったが、民間レベルで「洞祭」と呼ぶ村祭りがあった。これ以外に、家ごとに「告祀」と呼ぶ祭祀があり、面白い風習もあった。告祀を行った夜中、子供たちが温かい小豆をのせた餅「蒸し餅(시루떡)」を籠に入れ家々を訪ねた。餅の種類も多種多様で、そば粉やもち米で作った餅、かぼちゃを入れた餅もあり、食べ比べる楽しみもあった。告祀の祭祀は、先祖に捧げる「祭祀(제사)」や、巫女の巫堂(무당)が捧げる「クッ(굿)」の祭祀と少し違う。告祀はその他の神々に捧げるものだ。また、クッと目的が似ているが規模が違う。クッは、巫堂が演奏に合わせて大規模に歌い踊る。半面、告祀は家族単位で捧げ、時に経を唱える盲人や僧侶を招くこともあり、比較的こじんまりしたものだ。
▼ 告祀の祭祀で行なう、祝福を願う経の意の歌「祝願経(축원경)」を聴く。のりの良い四方めでたい曲。いつ頃の作品だろう。
最後に、告祀の祭祀で、家に関わる(八百万の神のような)神々について次のように紹介された。
・告祀の祭祀を行うとき、「祝願経」や、家庭の平安を祈る「安宅経(안택경)」などを唱える。また、様々な悪鬼を追い払う「罷経(파경)」のようなものもある。神にはそれぞれレベルがあり、待遇の仕方が少し違った。家の敷地を守る土主神(터주신)、家の守護神(성주신)があり、主に台所を守る神(조왕신)には、供え物と共に礼をする。また、庭を意味する庭神(마당신)、門を守る門神(문신)、お手洗いを守る神(측신)は、場所ごとに留まり、不運が入らぬように守る神だ。これらの神には礼をせず、ただ供え物を用意した。告祀の祭祀は、家を守るため、家を持たぬ人はできなかった。
▼ バラジ=若い8人による「バラジ(바라지)の祝願」の演奏を聴く。珍島をオリジナルにした響きだそうだ。今様な洗練した音色だ。
始めに、旧暦10月の儀式と、崔南善(최남선)の著「朝鮮常識問答(조선상식문답)」について次のよう紹介された。
・旧暦10月を、一年で最も優れた上の月の意で「上月(상 달)」と言う。今年の旧暦は、一年13ヶ月で閏月がある。今、旧暦9月だが、いつもなら10月が始まる頃。新年を迎える正月でもないのに、10月をなぜ上月と言うのか、崔南善(1890年4月26日~1957年10月10日)の著「朝鮮常識問答」に記載がある。この時期、一年の農作業が終わり、新しい穀物や果物を収穫したことを、天と先祖に感謝の儀式を捧げる。10月は神と人間が共に楽しむ月、最も良い月とされた。高句麗の儀式「東盟(동맹)」や半島南部の部族馬韓の祭天儀式も全て10月に行われた。
▼ 「パン」=ある場面、「ノリ」=遊びの意による、演奏「パンノリ(판노리)」を聴く。賑やかな味付けした今様である。
次に、民間レベルでの村祭り「洞祭(동제)」や、家ごとの祭祀「告祀(고사)」の風習について次のように紹介された。
・朝鮮時代、収穫の秋に国家レベルの祭天儀式はなかったが、民間レベルで「洞祭」と呼ぶ村祭りがあった。これ以外に、家ごとに「告祀」と呼ぶ祭祀があり、面白い風習もあった。告祀を行った夜中、子供たちが温かい小豆をのせた餅「蒸し餅(시루떡)」を籠に入れ家々を訪ねた。餅の種類も多種多様で、そば粉やもち米で作った餅、かぼちゃを入れた餅もあり、食べ比べる楽しみもあった。告祀の祭祀は、先祖に捧げる「祭祀(제사)」や、巫女の巫堂(무당)が捧げる「クッ(굿)」の祭祀と少し違う。告祀はその他の神々に捧げるものだ。また、クッと目的が似ているが規模が違う。クッは、巫堂が演奏に合わせて大規模に歌い踊る。半面、告祀は家族単位で捧げ、時に経を唱える盲人や僧侶を招くこともあり、比較的こじんまりしたものだ。
▼ 告祀の祭祀で行なう、祝福を願う経の意の歌「祝願経(축원경)」を聴く。のりの良い四方めでたい曲。いつ頃の作品だろう。
最後に、告祀の祭祀で、家に関わる(八百万の神のような)神々について次のように紹介された。
・告祀の祭祀を行うとき、「祝願経」や、家庭の平安を祈る「安宅経(안택경)」などを唱える。また、様々な悪鬼を追い払う「罷経(파경)」のようなものもある。神にはそれぞれレベルがあり、待遇の仕方が少し違った。家の敷地を守る土主神(터주신)、家の守護神(성주신)があり、主に台所を守る神(조왕신)には、供え物と共に礼をする。また、庭を意味する庭神(마당신)、門を守る門神(문신)、お手洗いを守る神(측신)は、場所ごとに留まり、不運が入らぬように守る神だ。これらの神には礼をせず、ただ供え物を用意した。告祀の祭祀は、家を守るため、家を持たぬ人はできなかった。
▼ バラジ=若い8人による「バラジ(바라지)の祝願」の演奏を聴く。珍島をオリジナルにした響きだそうだ。今様な洗練した音色だ。
2015年10月27日火曜日
月がとっても青いから
今晩、帰り道がとても明るかった。たなびく雲はくっきりと白く、天頂の満月は雲間から煌々と照らす。星の瞬きのない紺青色の更にその奥は深い。
月明かりに、高揚するのはなぜだろうか。青い光に照らされて、風を受けた帆のように気分がはためく。清清しくそよぐ風。空は大きく広がり、月明かりが充満するようだ。
そんな気分に浸っていると、おじさんに浮かんできたのは、昔の歌謡曲。曲調から、まるで戦前の歌のようだが、気分は戦後だ。菅原都々子(すがわらつづこ、1927年8月5日~)の歌「月がとっても青いから」(1955年、作詞清水みのる、作曲陸奥明)だ。
時代が鷹揚だったとはいえないけれど、古い調子に、新しい二人連れが公然と味付けしている。不安と確信が揺り戻る当時の青春だ。すれ違いはしたくないといった心意気だろうか。子どもの私には、わけもわからず、なんとも古めかしく聞こえたけれど。
(Youtubeに登録のBEGA1947に感謝)
月明かりに、高揚するのはなぜだろうか。青い光に照らされて、風を受けた帆のように気分がはためく。清清しくそよぐ風。空は大きく広がり、月明かりが充満するようだ。
そんな気分に浸っていると、おじさんに浮かんできたのは、昔の歌謡曲。曲調から、まるで戦前の歌のようだが、気分は戦後だ。菅原都々子(すがわらつづこ、1927年8月5日~)の歌「月がとっても青いから」(1955年、作詞清水みのる、作曲陸奥明)だ。
時代が鷹揚だったとはいえないけれど、古い調子に、新しい二人連れが公然と味付けしている。不安と確信が揺り戻る当時の青春だ。すれ違いはしたくないといった心意気だろうか。子どもの私には、わけもわからず、なんとも古めかしく聞こえたけれど。
(Youtubeに登録のBEGA1947に感謝)
2015年10月26日月曜日
(雑談)ハロウィン
今月末(31日)に、毎年賑やかになってきた「ハロウィン」行事がある。ハロウィンについては、SFファンタジー小説の世界で知ったのが最初だ。それが、こんなに普及するとは想像しなかった。
(本ブログ関連:”ハロウィン”)
ここ数年、人通りの多い街角で、魔法使い・魔女、精霊・妖精、吸血鬼、お姫様などの衣装を着た(着せられた)子どもたちの姿を目にする。それも、集団ではしゃぎ、若い母親が周りを囲んで写真を撮る。子どもたちは、少々戸惑いがあるようで、辺りをぐるぐる走り回る。よく見れば、父親の影がない。どこか照れが漂っているように見える。
この行事について、おもしろい記事がある。京都新聞の「ハロウィーン、実は欧州では低調 『日本人はまだまだ』」(10/25)によると、(英米中心で)ヨーロッパ本土では関心が乏しいようだ。日本で、ディズニーランドから火がついたというのも分かる気がする。ムードとして、若い女性が先を走り、若い男が後を追うという構図が主流かもしれない。
商業的な感のする風景に少々違和感があったが、子どもたちの光景を目にするようになると、彼らが楽しければ良いのではないかと思うようになった。だから、行き場の定まらぬ行事に終わるのでなく、しっかり土地(子どもたちの地元)に根付くようになればと願う。
家庭で楽しむように定着した、「クリスマス」行事の例もあるのだから。
(本ブログ関連:”ハロウィン”)
ここ数年、人通りの多い街角で、魔法使い・魔女、精霊・妖精、吸血鬼、お姫様などの衣装を着た(着せられた)子どもたちの姿を目にする。それも、集団ではしゃぎ、若い母親が周りを囲んで写真を撮る。子どもたちは、少々戸惑いがあるようで、辺りをぐるぐる走り回る。よく見れば、父親の影がない。どこか照れが漂っているように見える。
この行事について、おもしろい記事がある。京都新聞の「ハロウィーン、実は欧州では低調 『日本人はまだまだ』」(10/25)によると、(英米中心で)ヨーロッパ本土では関心が乏しいようだ。日本で、ディズニーランドから火がついたというのも分かる気がする。ムードとして、若い女性が先を走り、若い男が後を追うという構図が主流かもしれない。
商業的な感のする風景に少々違和感があったが、子どもたちの光景を目にするようになると、彼らが楽しければ良いのではないかと思うようになった。だから、行き場の定まらぬ行事に終わるのでなく、しっかり土地(子どもたちの地元)に根付くようになればと願う。
家庭で楽しむように定着した、「クリスマス」行事の例もあるのだから。
2015年10月25日日曜日
万珠鉱山、富井鉱山
昨日、本ブログに記したように、栃木県の万珠(まんじゅ)鉱山へ鉱物採集に出かけた。
昨夜来の寒風が収まらぬ夜明け前、 始発電車にのる。考えてみれば冬のようなもの。乗り換え電車の酔客は、ヒーターが入ってないか座席下に手をかざし確認する。往路の途中ようやく東の空に明かりがさしてきた。待ち合わせ駅で、H氏の車に同乗させていただき、採集地へ向かう。
【万珠鉱山】
当初の目的地だった万珠鉱山については、ネットの随所に産地情報が掲載されている。情報を参考に山林と沢・泥道を進むも、最終地点にあるべき坑口が見つけらない。辺りを探しても、紫水晶の気配も全くない。表面採集に徹しているため、ほうほうの体で撤退する。(同行のH氏によれば、以前来たときと、ネット情報の道筋が違うという・・・)
・採集鉱物 : 水晶(微小群晶)、緑水晶、玉髄、赤鉄鉱
【富井鉱山】
万珠鉱山の惨敗を挽回すべく、富井鉱山へ移動。採集開始前、駐車中で昼食していたとき、同好の士に出会う。後で、貴重な標本をいただくことになる。
さて、採集の方ははかどらない。陽が傾くと、寒風が気になる。帰り仕度をしていたとき、同好の士と石談義を咲かせる。鉱物趣味の或る会を案内する。
・採集鉱物 : 閃亜鉛鉱、黄鉄鉱、赤鉄鉱、白鉄鉱、石英(紫色、紫水晶の破片?)
今日は風があり、簡易ヤッケで防寒するも、着れば着たで汗をかく、少々やっかいであった。それより、「紫水晶」は何処。
2015年10月24日土曜日
霜降2015
今日は、二十四節気の「霜降(そうこう)」だ。文字面から連想して、牛の霜降り肉で「すき焼き」でもと思ったが・・・まっ、ハンバーグの載ったカレーライスと安上がりにした。
霜が降る「霜降」と関係ないけれど、先日のテレビに怪元気なスポーツおじさんが登場して、筋肉を連呼していた。そんなわけで、私も最近、肉を意識した食事にしているが、適切な運動を伴わなければ健康も増進しない。
ところで、午前中、近隣の駅ビルにある有名書店に、ラジオ講座のテキストを気分転換ついでに求めに行った。大きな書店にもかかわらず売り切れだった。他に駅前の小さな書店も同様だった。のんびり時を過ごして地元駅に帰って、駅のかたわらにある書店に行けば、何と置いてあるではないか。遠出の必要がなかった次第。
(付記)
明日は、少し遠出の予定。栃木県塩谷郡塩谷町にある、万珠(まんじゅ)鉱山へ鉱物採集に行く。元は金山だったそうだが、現在は紫水晶で有名だ。けれど、ネットで見る限り、余り芳しくない。けれど、期待と欲望は大きい。
以前、富井鉱山で会った元鉱山関係者から偶然入手した紫水晶(上品で優美な藤紫色)が忘れられないのだろうか、お誘いいただいたH氏は紫水晶を求めて産地を巡っているよう。
(本ブログ関連:”富井鉱山”)
霜が降る「霜降」と関係ないけれど、先日のテレビに怪元気なスポーツおじさんが登場して、筋肉を連呼していた。そんなわけで、私も最近、肉を意識した食事にしているが、適切な運動を伴わなければ健康も増進しない。
ところで、午前中、近隣の駅ビルにある有名書店に、ラジオ講座のテキストを気分転換ついでに求めに行った。大きな書店にもかかわらず売り切れだった。他に駅前の小さな書店も同様だった。のんびり時を過ごして地元駅に帰って、駅のかたわらにある書店に行けば、何と置いてあるではないか。遠出の必要がなかった次第。
(付記)
明日は、少し遠出の予定。栃木県塩谷郡塩谷町にある、万珠(まんじゅ)鉱山へ鉱物採集に行く。元は金山だったそうだが、現在は紫水晶で有名だ。けれど、ネットで見る限り、余り芳しくない。けれど、期待と欲望は大きい。
以前、富井鉱山で会った元鉱山関係者から偶然入手した紫水晶(上品で優美な藤紫色)が忘れられないのだろうか、お誘いいただいたH氏は紫水晶を求めて産地を巡っているよう。
(本ブログ関連:”富井鉱山”)
2015年10月23日金曜日
(資料) 岡本綺堂「中国怪奇小説集-樹を伐る狐」
狐について話を探している。これまで、狐と人の積極的な結びつきを見てきた。習俗のなかに共生する関係だ。宗教的であったり、民俗行事である。ある意味、精神的な領域に展開される。
(本ブログ関連:”狐”)
狐と人の関係が奇伝となると、それだけで済まない。狐に化かされるおかしさを超えて、逆襲の凄味もある。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」にある「樹を伐る狐」(青空文庫)の次の一文は、調子にのった狐が、樹上すなわち上位の知恵から蹴散らされる話しだ。
一気呵成もよいが、単純に繰り返しては足をすくわれる。見透かされ一網打尽となる。
├-----------------------------------------------------------
・鄭(てい)村の鉄李(てつり)という男は狐を捕るのを商売にしていた。大定の末年のある夜、かれは一羽の鴿(はと)を餌として、古い墓の下に網を張り、自分はかたわらの大樹の上に攀じ登ってうかがっていると、夜の二更(にこう、午後九時~十一時)とおぼしき頃に、狐の群れがここへ集まって来た。かれらは人のような声をなして、樹の上の鉄を罵った。
・「鉄の野郎め、貴様は鴿一羽を餌にして、おれたちを釣り寄せるつもりか。貴様の親子はなんという奴らだ。まじめな百姓わざも出来ないで、明けても暮れても殺生ばかりしていやあがる。おれたちの六親眷族はみんな貴様たちの手にかかって死んだのだ。しかし今夜こそは貴様の天命も尽きたぞ。さあ、その樹の上から降りて来い。降りて来ないと、その樹を挽き倒すぞ」
・なにを言やあがると、鉄も最初は多寡をくくっていたが、狐らはほんとうに樹を伐るつもりであるらしく、のこぎりで幹を伐るような音がきこえはじめた。そうして、釜の火を焚け、油を沸かせと罵り合う声もきこえた。かれらは鉄をひきおとして油煎りにする計画であることが判ったので、彼も俄かに怖ろしくなったが、今更どうすることも出来ない。
・「ともかくも樹にしっかりとかじり付いているよりほかはない。万一この樹が倒されたら、腰につけている斧で手当り次第に叩っ斬ってやろう」と、彼は度胸を据えていた。
・幸いに何事もないうちに夜が明けかかったので、狐らはみな立ち去った。鉄もほっとして樹を降りると、幹にはのこぎりの痕らしいものも見えなかった。ただそこらに牛の肋骨あばらぼねが五、六枚落ちているのを見ると、かれらはこの骨をもってのこぎりの音を聞かせたらしい。
・「畜生め。おれを化かして嚇かしゃあがったな。今にみろ」
・かれは爆発薬を竹に巻き、別に火を入れた罐を用意して、今夜も同じところへ行くと、やはり二更に近づいた頃に、狐の群れが又あつまって来て樹の上にいる彼を罵った。それを黙って聴きながら、鉄は爆薬に火を移して投げ付けると、凄まじい爆音と共に火薬が破裂したので、狐らはおどろいて逃げ散るはずみに、我から網にかかるものが多かった。鉄は斧をもって片端から撲なぐり殺した。
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(本ブログ関連:”狐”)
狐と人の関係が奇伝となると、それだけで済まない。狐に化かされるおかしさを超えて、逆襲の凄味もある。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」にある「樹を伐る狐」(青空文庫)の次の一文は、調子にのった狐が、樹上すなわち上位の知恵から蹴散らされる話しだ。
一気呵成もよいが、単純に繰り返しては足をすくわれる。見透かされ一網打尽となる。
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・鄭(てい)村の鉄李(てつり)という男は狐を捕るのを商売にしていた。大定の末年のある夜、かれは一羽の鴿(はと)を餌として、古い墓の下に網を張り、自分はかたわらの大樹の上に攀じ登ってうかがっていると、夜の二更(にこう、午後九時~十一時)とおぼしき頃に、狐の群れがここへ集まって来た。かれらは人のような声をなして、樹の上の鉄を罵った。
・「鉄の野郎め、貴様は鴿一羽を餌にして、おれたちを釣り寄せるつもりか。貴様の親子はなんという奴らだ。まじめな百姓わざも出来ないで、明けても暮れても殺生ばかりしていやあがる。おれたちの六親眷族はみんな貴様たちの手にかかって死んだのだ。しかし今夜こそは貴様の天命も尽きたぞ。さあ、その樹の上から降りて来い。降りて来ないと、その樹を挽き倒すぞ」
・なにを言やあがると、鉄も最初は多寡をくくっていたが、狐らはほんとうに樹を伐るつもりであるらしく、のこぎりで幹を伐るような音がきこえはじめた。そうして、釜の火を焚け、油を沸かせと罵り合う声もきこえた。かれらは鉄をひきおとして油煎りにする計画であることが判ったので、彼も俄かに怖ろしくなったが、今更どうすることも出来ない。
・「ともかくも樹にしっかりとかじり付いているよりほかはない。万一この樹が倒されたら、腰につけている斧で手当り次第に叩っ斬ってやろう」と、彼は度胸を据えていた。
・幸いに何事もないうちに夜が明けかかったので、狐らはみな立ち去った。鉄もほっとして樹を降りると、幹にはのこぎりの痕らしいものも見えなかった。ただそこらに牛の肋骨あばらぼねが五、六枚落ちているのを見ると、かれらはこの骨をもってのこぎりの音を聞かせたらしい。
・「畜生め。おれを化かして嚇かしゃあがったな。今にみろ」
・かれは爆発薬を竹に巻き、別に火を入れた罐を用意して、今夜も同じところへ行くと、やはり二更に近づいた頃に、狐の群れが又あつまって来て樹の上にいる彼を罵った。それを黙って聴きながら、鉄は爆薬に火を移して投げ付けると、凄まじい爆音と共に火薬が破裂したので、狐らはおどろいて逃げ散るはずみに、我から網にかかるものが多かった。鉄は斧をもって片端から撲なぐり殺した。
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2015年10月22日木曜日
イ・ソンヒ「分かりたいです」
久し振りに風を感じた。といって、風音が轟くほどではない。街路樹の小枝が揺れて、思わずひんやり身にしみるといったところだ。
この時期になると、日めくりカレンダーが日ごと剥がすたび、薄くなってゆらゆら揺れる始末。一年もあっけなく終いに入ろうとしている。舞う落ち葉のように、時間が随分軽くなった気がする。あとは駆け足だ。
そんな月明りの夜道、周りを見回して思わず口ずさむのが、イ・ソンヒの3集収録曲「分かりたいです(알고 싶어요)」(作詞ヤン・インジャ、作曲キム・ヒガプ、1986年)だ。いえいえ、おじさんは、おじさんの気分でハミングするだけです。
イ・ソンヒさんのコンサートは、来年あるかな、多分再来年には・・・。分かりたくもあり、知りたくもあり。
(本ブログ関連:”分かりたいです”)
月明りの夜、あなたは、誰を想いますか
夢路で、あなたは、何を見ますか
深い夜、一人醒めて、涙流しませんか
時に日記に、私のことも、記しませんか
私と逢って幸せでしたか、私の愛を信じますか
あなたを想えば、全て気掛かりです
____
一日中、私の想い、どれほど重ねますか
私本当に、あなたの、心に入りますか
雀のように、騒いでも、今でもかわいいですか
忙しいとき、電話しても、私の声嬉しいですか
私はとても綺麗ですか、心から私を愛してますか
本当に分かりたいです、話ししてください
(Youtubeに登録のhyunmi kimに感謝)
この時期になると、日めくりカレンダーが日ごと剥がすたび、薄くなってゆらゆら揺れる始末。一年もあっけなく終いに入ろうとしている。舞う落ち葉のように、時間が随分軽くなった気がする。あとは駆け足だ。
そんな月明りの夜道、周りを見回して思わず口ずさむのが、イ・ソンヒの3集収録曲「分かりたいです(알고 싶어요)」(作詞ヤン・インジャ、作曲キム・ヒガプ、1986年)だ。いえいえ、おじさんは、おじさんの気分でハミングするだけです。
イ・ソンヒさんのコンサートは、来年あるかな、多分再来年には・・・。分かりたくもあり、知りたくもあり。
(本ブログ関連:”分かりたいです”)
月明りの夜、あなたは、誰を想いますか
夢路で、あなたは、何を見ますか
深い夜、一人醒めて、涙流しませんか
時に日記に、私のことも、記しませんか
私と逢って幸せでしたか、私の愛を信じますか
あなたを想えば、全て気掛かりです
____
一日中、私の想い、どれほど重ねますか
私本当に、あなたの、心に入りますか
雀のように、騒いでも、今でもかわいいですか
忙しいとき、電話しても、私の声嬉しいですか
私はとても綺麗ですか、心から私を愛してますか
本当に分かりたいです、話ししてください
(Youtubeに登録のhyunmi kimに感謝)
2015年10月21日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 秋の風景
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/14)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<秋の風景>にかかわる3曲を紹介した。
始めに、映画「トンマッコルへようこそ(웰컴 투 동막골)」(2005年)を通して人の幸せについて次のように紹介された。
・朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)のただ中、トンマッコルという村を舞台にした映画「トンマッコルへようこそ」*がある。トンマッコルの人々と、南北の兵士および米兵を交えたストーリーだ。敵対する兵士たちが、村の人々と共に過ごす中、互いを理解しあうようになる。印象に残るシーンに、ある兵士が村長に、どうすれば村人をうまくまとめられるのか尋ねた。すると、村長はさっぱりと、「十分に食べさせれば良い」と答えた。単純ながら、その通りかも知れない。昔の人々は、国と民が平和で豊作になることを最も重視した。これこそが理想であった。収穫真っ盛りな秋の風景を見ると、心の中も豊かに満たされる。
(* カン・ヘジョンの役回りと演技がなければ、この映画が成立しなかったという意味で、主演というべきだろう)
▼ 豊かな歌の意の「豊登歌(풍등가)」を聴く。農業報国をおおらかに歌う。
次に、自然がもたらす豊穣への感謝と、「稲刈りの歌(벼베는소리)」について次のように説明された。
・「豊登歌」は、1930年代に崔貞植(최정식)が作った曲だ。それほど古い曲でないが、ソウル地域の民俗歌<雑歌(잡가)>で、国の平安と、農民の豊作を喜ぶ内容だ。雑歌で最も知られるものを12の雑歌に分類するが、ここには含まれない。田の歌や畑を耕す歌もある。特に、様々な種類の豆を蒔いて、豆の名をひとつひとつ親しげに呼び上げる。種蒔き、施肥、夏が過ぎて実る。努力しただけ実を結ぶ自然に頭が下がった。
・収穫した米を背中に背負って村まで運ぶときに歌った「稲刈りの歌」がある。
▼ 全羅北道沃溝(옥구)の「稲刈りの歌」を聴く。肥沃な土地に生まれた物語りを語るように、素朴な歌が始まる。
最後に、労働と報酬が調和する、のどかな場面を次のように紹介された。
・最近、一部を除いて機械で稲刈りする。中には、村人が集まり、直接田植と収穫をする、昔の農作を受け継ぎ試みる地域もある。重い米を運んで、体に良い馳走を食べたくなる、早く鶏を捕まえよう、という歌もある。雇われた者が主人に、鶏肉の馳走を求める。主人にしても、一年間食べられる米を収穫したので、鶏肉くらい馳走しても良いと思った。周りで見物する子供たちも、久々に鶏肉のスープを味わえる日だ。
▼ 演奏「野原で(들판에서)」を聴く。叙情的、田園風景を描く。今様である。
始めに、映画「トンマッコルへようこそ(웰컴 투 동막골)」(2005年)を通して人の幸せについて次のように紹介された。
・朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)のただ中、トンマッコルという村を舞台にした映画「トンマッコルへようこそ」*がある。トンマッコルの人々と、南北の兵士および米兵を交えたストーリーだ。敵対する兵士たちが、村の人々と共に過ごす中、互いを理解しあうようになる。印象に残るシーンに、ある兵士が村長に、どうすれば村人をうまくまとめられるのか尋ねた。すると、村長はさっぱりと、「十分に食べさせれば良い」と答えた。単純ながら、その通りかも知れない。昔の人々は、国と民が平和で豊作になることを最も重視した。これこそが理想であった。収穫真っ盛りな秋の風景を見ると、心の中も豊かに満たされる。
(* カン・ヘジョンの役回りと演技がなければ、この映画が成立しなかったという意味で、主演というべきだろう)
▼ 豊かな歌の意の「豊登歌(풍등가)」を聴く。農業報国をおおらかに歌う。
次に、自然がもたらす豊穣への感謝と、「稲刈りの歌(벼베는소리)」について次のように説明された。
・「豊登歌」は、1930年代に崔貞植(최정식)が作った曲だ。それほど古い曲でないが、ソウル地域の民俗歌<雑歌(잡가)>で、国の平安と、農民の豊作を喜ぶ内容だ。雑歌で最も知られるものを12の雑歌に分類するが、ここには含まれない。田の歌や畑を耕す歌もある。特に、様々な種類の豆を蒔いて、豆の名をひとつひとつ親しげに呼び上げる。種蒔き、施肥、夏が過ぎて実る。努力しただけ実を結ぶ自然に頭が下がった。
・収穫した米を背中に背負って村まで運ぶときに歌った「稲刈りの歌」がある。
▼ 全羅北道沃溝(옥구)の「稲刈りの歌」を聴く。肥沃な土地に生まれた物語りを語るように、素朴な歌が始まる。
最後に、労働と報酬が調和する、のどかな場面を次のように紹介された。
・最近、一部を除いて機械で稲刈りする。中には、村人が集まり、直接田植と収穫をする、昔の農作を受け継ぎ試みる地域もある。重い米を運んで、体に良い馳走を食べたくなる、早く鶏を捕まえよう、という歌もある。雇われた者が主人に、鶏肉の馳走を求める。主人にしても、一年間食べられる米を収穫したので、鶏肉くらい馳走しても良いと思った。周りで見物する子供たちも、久々に鶏肉のスープを味わえる日だ。
▼ 演奏「野原で(들판에서)」を聴く。叙情的、田園風景を描く。今様である。
2015年10月20日火曜日
ヒョードルのリング曲
中学生の頃、時代の風潮だったのだろうか、いわゆる<うたごえ運動>が教室にまで浸透して、「ステンカラージンの歌」などロシア民謡を歌わされた。指導する者(教師)たちにとっては、使命感に心酔したのだろうが、白紙のまま受けとめる子どもたちにすれば、何とも距離感のつかめぬものだった。
だから、後に<うたごえ>とは無縁のかたちで知った、同じくステンカーラージンの名を持つ歌「(邦題)ステンカラージンの夢(Ой, то не вечер)」は新鮮だった。運命と直面し予期するという思惟的なこの歌には、歌う者、聴く者に預ける何かがあった。歌とはそういうものだと知った。
この歌をYoutubeで検索すると、いかに多くロシアで歌われているかが分かる。少し感傷的かもしれないが。
ところで、プロレスといえば、力道山、豊登、遠藤以来何も知らないが、わが子が一時期熱狂していたので、そばで見ていたとき、渋い仕事師といった印象を受けたのが、PRIDEのエメリヤーエンコ・ヒョードルだった。テレビで見る彼は、冷静にして沈着寡黙、相手をじわじわと仕留ていくといった雰囲気がした。リングテーマ曲が、「ステンカラージンの夢」というのは、何とも泣かせるではないか。
いったん、引退を発表したヒョードルは、今年の大晦日に復帰するという(東京スポーツ)。
だから、後に<うたごえ>とは無縁のかたちで知った、同じくステンカーラージンの名を持つ歌「(邦題)ステンカラージンの夢(Ой, то не вечер)」は新鮮だった。運命と直面し予期するという思惟的なこの歌には、歌う者、聴く者に預ける何かがあった。歌とはそういうものだと知った。
この歌をYoutubeで検索すると、いかに多くロシアで歌われているかが分かる。少し感傷的かもしれないが。
ところで、プロレスといえば、力道山、豊登、遠藤以来何も知らないが、わが子が一時期熱狂していたので、そばで見ていたとき、渋い仕事師といった印象を受けたのが、PRIDEのエメリヤーエンコ・ヒョードルだった。テレビで見る彼は、冷静にして沈着寡黙、相手をじわじわと仕留ていくといった雰囲気がした。リングテーマ曲が、「ステンカラージンの夢」というのは、何とも泣かせるではないか。
いったん、引退を発表したヒョードルは、今年の大晦日に復帰するという(東京スポーツ)。
(Youtubeに登録のIURII Buyanに感謝)
2015年10月19日月曜日
(資料)「稲荷信仰から見える江戸」
先日、NHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」で、「聖なるキツネと神秘の鳥居 ~伏見稲荷大社の不思議な世界~」をテーマにした回を視聴した。(京都の)伏見稲荷大社にある、赤い千本鳥居に始まりに、稲荷信仰について紹介された。
稲荷信仰は、農業、特に稲荷⇒稲⇒害獣であるネズミ退治につながるキツネを稲荷神の使いとするといわれる。それが、江戸時代に、大きく社数を増やし、民間・大衆の身近な信仰対象となった。番組では、当時、三越百貨店の前身である越後屋三井呉服店が三囲神社(みめぐりじんじゃ)を守護社と定めたことから、稲荷神社と商業の強い関係に触れている。
農業、商業以外にも、稲荷神社と関係深いものがある。江戸期に新田地帯だった地元にある、稲荷神社は疱瘡治癒の効用もあって、遠く川崎宿からも参詣があったという。また不思議なことに、近所のある道筋に、民家の軒先に稲荷の小さな祠が続けて点在するところがある。
(本ブログ関連:”稲荷”)
そこで、江戸時代に、なぜ稲荷神社が爆発的に広がったのか、病気(治癒)との関係はどうだったのか知りたいところ、ネットに次のような(「火事」と「疫病」に着目した)論文が掲載されているのを知った。
「稲荷信仰から見える江戸」(湯浅徳子、指導教員 山室恭子)で、平成19年(2007年)度の修士論文のようだ。大名屋敷の稲荷、廓の中の稲荷、人足寄場の稲荷など、いろいろな階層に信仰されたこと。修験の祈祷と結びついたことなど、興味深い話がある。いかに庶民のよすがとなったかを教えてくれる。
資料として、「疫病」部分について抜粋させていただきます。感謝。
├-----------------------------------------------------------
出発点
・なぜ江戸で稲荷がもてはやされ、流行り神となったのか。
背景
・日本の民俗信仰のなかでも代表的な信仰のひとつが稲荷信仰である。稲荷はさまざまな神社仏閣の中でも群をぬいて数が多い。全国の神社総数が約 8 万社あるうち、およそ 3 万社が稲荷であるという。これに個人宅の屋敷稲荷まで加えると、おびただしい数となる。稲荷信仰は江戸時代のそれも江戸という都市で突如爆発的な隆盛を見せるという特異な特徴を有する。
目的
・そこで、本研究では稲荷信仰が隆盛するに至った理由を、江戸の都市災害である「火事」と「疫病」との関連に焦点を当て、稲荷信仰から見える江戸の一特性について明らかにしていく。
まとめ
4.3 病気治癒と稲荷まとめ
・大名屋敷、廓、町中、塀の中という江戸の様々な場所にまつられる稲荷を見てきた。パターンごとに分類しつつ、具体例を検証していくことで、人々が病気治癒を期待し、真剣に信仰している様子が浮かび上がってきた。
・まず、稲荷には一般に開放されている「参詣できる稲荷」と、閉ざされた環境にある「私的な稲荷」があった。そして、私的な稲荷である大名屋敷の稲荷が「麻疹」に効験があるとされ、一般に開放された事例を確認した。それは、町人が大名屋敷という特権的空間に入ることで非日常的な荘厳さを体感し、利益を感じさせるものであった。また、大名が地方にもつ領地にあった稲荷を勧請していることから、遠路からきた稲荷ということで、ありがたみがあり、さらに切手を手に入れて平日に参詣することは他の町人と差別化をはかれ、より心願成就への期待が持てるものだった。つまり江戸の人々は信仰にプレミア感を求め、参詣のハードルが高いほど病気に効果があると信じたい心理があったのである。
・次に、廓の中にも稲荷が確認された。江戸の男女構成比の不均等という地域的特性から、吉原や、岡場所が繁盛し、梅毒等の性病が猛威をふるうことになった。廓の中でも稲荷は求められ、遊女から信仰されたのである。また、梅毒に特化した瘡守稲荷も数多く存在した。そして梅毒が皮膚に瘡を発生させることから「疱瘡」につながり、疱瘡の患者の信仰も集めた。
・大名屋敷や廓は江戸に特徴的な空間であり、そこでもまつられた稲荷は時に流行神となり信仰を集めた。そして、それらの稲荷に結びつく病気は難治なものが多かった。このような特徴的な空間にまつられた稲荷と、病気にまつわる流行神的稲荷出現の状況は、江戸人の病気治癒への強い思いが噴き出したかのような様相を呈していると言えよう。
・町中の稲荷は、人々が手軽に参詣できるため重宝されていた。ここに修験が居住する稲荷を確認した。奉行所から快く思われないのを承知で、追放された修験を神職に復帰させていた事例から、修験に信頼を寄せる町人の姿を見てとれた。修験の果たした役割は祈祷である。祈祷の病気治癒は江戸で広く受け入れられ、人々は祈祷で病苦を忍んだのである。
・最後に人足寄場という特殊な空間で稲荷を見た。「塀の中」で暮らす人足たちが稲荷を勧請することを強く望んだという事が確認された。寄場という病人が多い、劣悪な衛生環境で彼らが求めたのは、医師でも薬でもなく、ほかならぬ稲荷であった。
・なすすべのない病気に対して人々ができることといえば仏に治癒を祈ることである。江戸は医師や薬も数多くあったが、当時の医療の未発達な部分とそれを補完する神仏の効験で、人々は病気と対峙してきたのだ。医療と宗教が切り離されるのは、病中の祈祷禁止等の法律が成立する明治に入ってからである。つまり江戸時代は病気治癒のための祈祷が熱心に行われた最後の時代だったのである。
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稲荷信仰は、農業、特に稲荷⇒稲⇒害獣であるネズミ退治につながるキツネを稲荷神の使いとするといわれる。それが、江戸時代に、大きく社数を増やし、民間・大衆の身近な信仰対象となった。番組では、当時、三越百貨店の前身である越後屋三井呉服店が三囲神社(みめぐりじんじゃ)を守護社と定めたことから、稲荷神社と商業の強い関係に触れている。
農業、商業以外にも、稲荷神社と関係深いものがある。江戸期に新田地帯だった地元にある、稲荷神社は疱瘡治癒の効用もあって、遠く川崎宿からも参詣があったという。また不思議なことに、近所のある道筋に、民家の軒先に稲荷の小さな祠が続けて点在するところがある。
(本ブログ関連:”稲荷”)
そこで、江戸時代に、なぜ稲荷神社が爆発的に広がったのか、病気(治癒)との関係はどうだったのか知りたいところ、ネットに次のような(「火事」と「疫病」に着目した)論文が掲載されているのを知った。
「稲荷信仰から見える江戸」(湯浅徳子、指導教員 山室恭子)で、平成19年(2007年)度の修士論文のようだ。大名屋敷の稲荷、廓の中の稲荷、人足寄場の稲荷など、いろいろな階層に信仰されたこと。修験の祈祷と結びついたことなど、興味深い話がある。いかに庶民のよすがとなったかを教えてくれる。
資料として、「疫病」部分について抜粋させていただきます。感謝。
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出発点
・なぜ江戸で稲荷がもてはやされ、流行り神となったのか。
背景
・日本の民俗信仰のなかでも代表的な信仰のひとつが稲荷信仰である。稲荷はさまざまな神社仏閣の中でも群をぬいて数が多い。全国の神社総数が約 8 万社あるうち、およそ 3 万社が稲荷であるという。これに個人宅の屋敷稲荷まで加えると、おびただしい数となる。稲荷信仰は江戸時代のそれも江戸という都市で突如爆発的な隆盛を見せるという特異な特徴を有する。
目的
・そこで、本研究では稲荷信仰が隆盛するに至った理由を、江戸の都市災害である「火事」と「疫病」との関連に焦点を当て、稲荷信仰から見える江戸の一特性について明らかにしていく。
まとめ
4.3 病気治癒と稲荷まとめ
・大名屋敷、廓、町中、塀の中という江戸の様々な場所にまつられる稲荷を見てきた。パターンごとに分類しつつ、具体例を検証していくことで、人々が病気治癒を期待し、真剣に信仰している様子が浮かび上がってきた。
・まず、稲荷には一般に開放されている「参詣できる稲荷」と、閉ざされた環境にある「私的な稲荷」があった。そして、私的な稲荷である大名屋敷の稲荷が「麻疹」に効験があるとされ、一般に開放された事例を確認した。それは、町人が大名屋敷という特権的空間に入ることで非日常的な荘厳さを体感し、利益を感じさせるものであった。また、大名が地方にもつ領地にあった稲荷を勧請していることから、遠路からきた稲荷ということで、ありがたみがあり、さらに切手を手に入れて平日に参詣することは他の町人と差別化をはかれ、より心願成就への期待が持てるものだった。つまり江戸の人々は信仰にプレミア感を求め、参詣のハードルが高いほど病気に効果があると信じたい心理があったのである。
・次に、廓の中にも稲荷が確認された。江戸の男女構成比の不均等という地域的特性から、吉原や、岡場所が繁盛し、梅毒等の性病が猛威をふるうことになった。廓の中でも稲荷は求められ、遊女から信仰されたのである。また、梅毒に特化した瘡守稲荷も数多く存在した。そして梅毒が皮膚に瘡を発生させることから「疱瘡」につながり、疱瘡の患者の信仰も集めた。
・大名屋敷や廓は江戸に特徴的な空間であり、そこでもまつられた稲荷は時に流行神となり信仰を集めた。そして、それらの稲荷に結びつく病気は難治なものが多かった。このような特徴的な空間にまつられた稲荷と、病気にまつわる流行神的稲荷出現の状況は、江戸人の病気治癒への強い思いが噴き出したかのような様相を呈していると言えよう。
・町中の稲荷は、人々が手軽に参詣できるため重宝されていた。ここに修験が居住する稲荷を確認した。奉行所から快く思われないのを承知で、追放された修験を神職に復帰させていた事例から、修験に信頼を寄せる町人の姿を見てとれた。修験の果たした役割は祈祷である。祈祷の病気治癒は江戸で広く受け入れられ、人々は祈祷で病苦を忍んだのである。
・最後に人足寄場という特殊な空間で稲荷を見た。「塀の中」で暮らす人足たちが稲荷を勧請することを強く望んだという事が確認された。寄場という病人が多い、劣悪な衛生環境で彼らが求めたのは、医師でも薬でもなく、ほかならぬ稲荷であった。
・なすすべのない病気に対して人々ができることといえば仏に治癒を祈ることである。江戸は医師や薬も数多くあったが、当時の医療の未発達な部分とそれを補完する神仏の効験で、人々は病気と対峙してきたのだ。医療と宗教が切り離されるのは、病中の祈祷禁止等の法律が成立する明治に入ってからである。つまり江戸時代は病気治癒のための祈祷が熱心に行われた最後の時代だったのである。
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2015年10月18日日曜日
イ・ソンヒ「バラ」
バラの季節だ。バラは、園芸として難しいようで、近所の民家に花壇を成しているのを見かけることはない。ときたま、垣根や柵に枝を延ばしているものもあるが、丁寧に手入れをしているようにはみえない。
昔、行ったことのある植物園のバラ園を見てしまうと、その圧巻に勝るものはない。教室へ行く途中、あるスクールと道路を挟んだ真向かいに、鉄網塀越し一面にバラが咲いている施設がある。明るい時間に通りかかるたび、一度は覗いてみたいと思っていた。ネットで調べて驚いた。何と、そこは墓地だった。バラに覆われて、外から一見、バラ園にしか思えなかった。
しかしながら、バラ、とりわけ赤いバラは情熱的だ。妖艶であり誘惑的である。バラの赤は、ときめく胸を流れる血潮であり、ほとばしる溶岩である。そして、女性の唇である。男は、心情をバラに託し、その香気に酔い、虜になる。
(本ブログ関連:”バラ(장미)”)
あなたにバラを渡す
その赤い香気、あなたに伝える
私を忘れて眠る夜に
あなたの部屋いっぱいに、バラの花の香気が広がるまで
私たちの愛で生きよう
短い生涯を、夢見るようにしよう
二度と来ないこの瞬間に
愛する時間は、あまりあるではないか
一瞬としても、およばぬとしても
その喜びにひたってみるべきでないか
生きてみて、胸がときめく
時が多くないことを、よく知っているから
その先が痛みだとしても
両の手を広げて、あなたを抱こう
愛しよう
生きてみて
私たち二つの心、熱くなろう
あなたに口づけしたい
ああ、その唇はどれほどうっとりするだろうか
太陽の下、柔らかな花びら
さらに赤く染まっていくのね
愛と憎しみの両方を持って
風の最後にあなたのすべてを預けて
大きくなっていくあなたの熱望は
遥かその昔の、草原を描いているのか
その先が痛みだとしても
美しく咲いたのね
風に触れて
花びらが散るとても
そのこころは、熱く咲いて散る
(Youtubeに登録のMusic maniaに感謝)
昔、行ったことのある植物園のバラ園を見てしまうと、その圧巻に勝るものはない。教室へ行く途中、あるスクールと道路を挟んだ真向かいに、鉄網塀越し一面にバラが咲いている施設がある。明るい時間に通りかかるたび、一度は覗いてみたいと思っていた。ネットで調べて驚いた。何と、そこは墓地だった。バラに覆われて、外から一見、バラ園にしか思えなかった。
しかしながら、バラ、とりわけ赤いバラは情熱的だ。妖艶であり誘惑的である。バラの赤は、ときめく胸を流れる血潮であり、ほとばしる溶岩である。そして、女性の唇である。男は、心情をバラに託し、その香気に酔い、虜になる。
(本ブログ関連:”バラ(장미)”)
あなたにバラを渡す
その赤い香気、あなたに伝える
私を忘れて眠る夜に
あなたの部屋いっぱいに、バラの花の香気が広がるまで
私たちの愛で生きよう
短い生涯を、夢見るようにしよう
二度と来ないこの瞬間に
愛する時間は、あまりあるではないか
一瞬としても、およばぬとしても
その喜びにひたってみるべきでないか
生きてみて、胸がときめく
時が多くないことを、よく知っているから
その先が痛みだとしても
両の手を広げて、あなたを抱こう
愛しよう
生きてみて
私たち二つの心、熱くなろう
あなたに口づけしたい
ああ、その唇はどれほどうっとりするだろうか
太陽の下、柔らかな花びら
さらに赤く染まっていくのね
愛と憎しみの両方を持って
風の最後にあなたのすべてを預けて
大きくなっていくあなたの熱望は
遥かその昔の、草原を描いているのか
その先が痛みだとしても
美しく咲いたのね
風に触れて
花びらが散るとても
そのこころは、熱く咲いて散る
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2015年10月17日土曜日
イ・ソンヒとイ・スンギの「Jへ」デュエット
SBS歌謡ショー、「イ・ソンヒと友人達(이선희와 친구들)」(2004年8月21日)で、イ・ソンヒと愛弟子イ・スンギが、彼女のデビュー曲「Jへ」をデュエットする場面がある。この年の同月、イ・ソンヒは、8月26日~28日に世宗文化会館大劇場で「Jへ 20年 イ・ソンヒ コンサート」を開いている。この放送の直後である。一方、放送少し前の6月25日に、イ・スンギは1集アルバムでデビューしている。
(本ブログ関連:”「イ・ソンヒと友人達」(1)、(2)”、”イ・スンギ”、”Jへ”)
イ・ソンヒとイ・スンギの「Jへ」のデュエット映像は様々あるが、次の映像は爽やかな師弟関係の始まりを示している。イ・ソンヒの眼差しから穏やかさと、すこぶる清潔感を、イ・スンギからは初々しさ(当時17歳)が感じられる。特に、イ・ソンヒの、白いシャツに勿忘草色した上着がとても似合っている(ファッションについて説明できないのが残念)。
(Youtubeに登録の아카시아 Acaciaに感謝)
(本ブログ関連:”「イ・ソンヒと友人達」(1)、(2)”、”イ・スンギ”、”Jへ”)
イ・ソンヒとイ・スンギの「Jへ」のデュエット映像は様々あるが、次の映像は爽やかな師弟関係の始まりを示している。イ・ソンヒの眼差しから穏やかさと、すこぶる清潔感を、イ・スンギからは初々しさ(当時17歳)が感じられる。特に、イ・ソンヒの、白いシャツに勿忘草色した上着がとても似合っている(ファッションについて説明できないのが残念)。
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2015年10月16日金曜日
(雑談) 階段の蓄光シール
夜、走行する自転車のランプは、必ずしも点けっぱなしのものでなくてよいという。LEDランプのように点滅するものでも、法律上、自転車の存在を示せるなら問題ないそうだ。とはいえ、ランプを点滅する自転車と、夜道ですれ違うとき、本気度が感じられないのはどうしてだろう。
教室に通うのに自転車を利用している。日没後なので、車輪の回転を利用したLEDランプを灯しているが、実はもう一つ、点滅するLEDの懐中電灯を手首にぶらせげている。これは効果てき面、狭い路地を行き交う自動車が気付いて、ゆっくりすり抜けてくれる。光の点滅は、おもちゃの三要素(音、光、動き)のひとつであるように、人を素早く反応させる。
暗闇に光る標識(非常口照明など)は道標になる。地面にあれば、足の踏み場を示すガイドにもなる。そこで、わが家の階段に、一段一段、滑り止めを貼ると同時に、蓄光シールも貼った。陽がかげると、しばらく効果を発揮して、怪しく薄みどり色に光っている。
夜間、階段の明かりをつけっぱなしにして、光のエネルギーが蓄光シールに溜まるようにしている。階段を上がるとき、いったん明かりを消して、蓄光シールの発光を楽しんでいる。そもそも階段に照明があるのに、われながら阿呆なことをしているなと思っている。
教室に通うのに自転車を利用している。日没後なので、車輪の回転を利用したLEDランプを灯しているが、実はもう一つ、点滅するLEDの懐中電灯を手首にぶらせげている。これは効果てき面、狭い路地を行き交う自動車が気付いて、ゆっくりすり抜けてくれる。光の点滅は、おもちゃの三要素(音、光、動き)のひとつであるように、人を素早く反応させる。
暗闇に光る標識(非常口照明など)は道標になる。地面にあれば、足の踏み場を示すガイドにもなる。そこで、わが家の階段に、一段一段、滑り止めを貼ると同時に、蓄光シールも貼った。陽がかげると、しばらく効果を発揮して、怪しく薄みどり色に光っている。
夜間、階段の明かりをつけっぱなしにして、光のエネルギーが蓄光シールに溜まるようにしている。階段を上がるとき、いったん明かりを消して、蓄光シールの発光を楽しんでいる。そもそも階段に照明があるのに、われながら阿呆なことをしているなと思っている。
2015年10月15日木曜日
イ・ソンヒの「夜が来れば」
イ・ソンヒの初期アルバム、4集所収の「夜が来れば(밤이 찾아 오면)」(1988年、作詞・作曲ユン・ヒジュン)は、トロット気分満開だ。それに、彼女の若さ溢れる高音を目いっぱい効かせている。いってみれば、大きな網を広げたアルバムだったのかもしれない。
なにしろ、彼女の歌唱力はトロットはもちろん、国楽(=民謡を含む伝統音楽)もカバーするのだから。この歌の歌詞に、民謡にある<西山に沈む陽>が浮かぶが、ドップリ漬かっているわけでもない。とはいえ後の8集(1992年)で、国楽、民謡と正面を切った試行が結実することになる。
(本ブログ関連:”夜が来れば”)
西山に陽(ひ)沈むよ、夜が訪ねくるよ
夜深まり行けば、寂しさがまたくるよ
*
懐かしさ 染まれば、夢も消えて
寂しさが たまれば、愛だけ待つよ
寂しさ 慰める、この私にはないのね
私は未知らぬ あなたを 待ちながら
この夜も、この夜も 寂しさを癒すよ
(*以下繰り返し)
この夜も、この夜も 寂しさを癒すよ
(Youtubeに登録のJ-GODに感謝)
なにしろ、彼女の歌唱力はトロットはもちろん、国楽(=民謡を含む伝統音楽)もカバーするのだから。この歌の歌詞に、民謡にある<西山に沈む陽>が浮かぶが、ドップリ漬かっているわけでもない。とはいえ後の8集(1992年)で、国楽、民謡と正面を切った試行が結実することになる。
(本ブログ関連:”夜が来れば”)
西山に陽(ひ)沈むよ、夜が訪ねくるよ
夜深まり行けば、寂しさがまたくるよ
*
懐かしさ 染まれば、夢も消えて
寂しさが たまれば、愛だけ待つよ
寂しさ 慰める、この私にはないのね
私は未知らぬ あなたを 待ちながら
この夜も、この夜も 寂しさを癒すよ
(*以下繰り返し)
この夜も、この夜も 寂しさを癒すよ
(Youtubeに登録のJ-GODに感謝)
2015年10月14日水曜日
KBS WORLD「国楽の世界へ」 秋
KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/7)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、秋にかかわる3曲を紹介した。
始めに、「興打令(흥타령)」に歌われる、秋の夜の聴くと酒について次のように紹介された。
・月明かりの美しい、菊香漂う秋の夜に、窓の外に菊を植えて、酒を醸しておくという詩が浮かぶ。酒が発酵する頃、菊の花が咲く。友が訪ねてくる前に、美味い酒を用意しておくのだ。そして、その夜、琴に似た玄琴(コムンゴ、거문고)と共に夜通し遊ぶという内容。月明かりも大変美しい季節、ロマンチックな風景が込められた歌がある。二つの地域(全羅道と慶尚道地域)で親しまれた長い歌、南道雑歌「興打令」だ。
▼ 「興打令」を聴く。人生を眺めた歌のようだが、淡々というより粘りのある歌い方だ。
次に、相性の良さを表す「琴瑟(금슬)」や「壎篪相和(훈지상와)」から、併奏(병주)曲「笙簫併奏(생소병주)」について次のように紹介された。
・歌も人も相性の良さがあるように、楽器も互いに調和するものがある。夫婦仲の睦まじさを指す「琴瑟が良い」の「琴瑟」は、琴と瑟の二つの弦楽器だ。音色が相性が良く、ひとつの言葉になった。管楽器にも似た「壎篪相和」がある。今は途絶えた土笛と竹笛の調和から、兄が土笛を吹き、弟が竹笛で答えるの意で、兄弟仲の良さを例える。二つの楽器で演奏することを「併奏」という。曲「笙簫併奏」は、「笙簧(생황)」と「短簫(단소)」の管楽器の二重奏だ。「笙簧」は、伝統楽器中、唯一和音を奏でる楽器で、竹管でできているが、金属のような響きをして、鳳凰の鳴き声に似るといわれる。「短簫」は、清く美しい、空を飛ぶような音色だ。
▼ 朝鮮時代、ソンビが楽しんだ伴奏曲を管楽器用に編曲した「笙簫併奏、水龍吟(수룡음)」を聴く。駆ける風流の如し。
最後に、歌「タルコリ(달거리(月令歌:월령가))」について次のように紹介された。
・人について知りたければ、その友人を観察するという。似た者同士交わるからだ。友は、最も分かりやすい鏡という言葉もある。愛する人がそのようであるなら、なお幸せだ。京畿地域の雑歌「タルコリ」は、1月、2月、3月・・・と、月ごとに、適切な歌詞を付けて歌う。一年12ヵ月、友、夫や妻など身近な人を恋しく思い歌う。
▼ 歌「十二雑歌」から「タルコリ」を聴く。素朴な響きするが、一年を語る、誰がどんな風に歌ったのだろうか。
始めに、「興打令(흥타령)」に歌われる、秋の夜の聴くと酒について次のように紹介された。
・月明かりの美しい、菊香漂う秋の夜に、窓の外に菊を植えて、酒を醸しておくという詩が浮かぶ。酒が発酵する頃、菊の花が咲く。友が訪ねてくる前に、美味い酒を用意しておくのだ。そして、その夜、琴に似た玄琴(コムンゴ、거문고)と共に夜通し遊ぶという内容。月明かりも大変美しい季節、ロマンチックな風景が込められた歌がある。二つの地域(全羅道と慶尚道地域)で親しまれた長い歌、南道雑歌「興打令」だ。
▼ 「興打令」を聴く。人生を眺めた歌のようだが、淡々というより粘りのある歌い方だ。
次に、相性の良さを表す「琴瑟(금슬)」や「壎篪相和(훈지상와)」から、併奏(병주)曲「笙簫併奏(생소병주)」について次のように紹介された。
・歌も人も相性の良さがあるように、楽器も互いに調和するものがある。夫婦仲の睦まじさを指す「琴瑟が良い」の「琴瑟」は、琴と瑟の二つの弦楽器だ。音色が相性が良く、ひとつの言葉になった。管楽器にも似た「壎篪相和」がある。今は途絶えた土笛と竹笛の調和から、兄が土笛を吹き、弟が竹笛で答えるの意で、兄弟仲の良さを例える。二つの楽器で演奏することを「併奏」という。曲「笙簫併奏」は、「笙簧(생황)」と「短簫(단소)」の管楽器の二重奏だ。「笙簧」は、伝統楽器中、唯一和音を奏でる楽器で、竹管でできているが、金属のような響きをして、鳳凰の鳴き声に似るといわれる。「短簫」は、清く美しい、空を飛ぶような音色だ。
▼ 朝鮮時代、ソンビが楽しんだ伴奏曲を管楽器用に編曲した「笙簫併奏、水龍吟(수룡음)」を聴く。駆ける風流の如し。
最後に、歌「タルコリ(달거리(月令歌:월령가))」について次のように紹介された。
・人について知りたければ、その友人を観察するという。似た者同士交わるからだ。友は、最も分かりやすい鏡という言葉もある。愛する人がそのようであるなら、なお幸せだ。京畿地域の雑歌「タルコリ」は、1月、2月、3月・・・と、月ごとに、適切な歌詞を付けて歌う。一年12ヵ月、友、夫や妻など身近な人を恋しく思い歌う。
▼ 歌「十二雑歌」から「タルコリ」を聴く。素朴な響きするが、一年を語る、誰がどんな風に歌ったのだろうか。
2015年10月13日火曜日
さても夜道の寒さよ
久し振りの教室、今夜から後期が始まった。賽の河原の石積みか、それとも生来の怠け癖のためか、一向に進歩がないのに気付く。「どじでのろまなカメ」でも、いいことにしよう。
刺激を受けての帰り道、夜風が寒い。いつのまにこんなに冷えるようになったのだろう。気分はもう冬。おかげで、赤色に連なって点滅する道路工事のランプが、クリスマスの電飾のように見えてくる。動画にしてアップしたい気分だった。
夜分9時過ぎの気温は17℃くらい。昔の井の頭公園プールの水温だ。やっぱり冷たいか。寒さがどんどん増す。帰り道を考えて、これからは厚着が必要かもしれない。
(付記)
近所のコンビニで、飲料水「毎日の 朝バナナオレ」(エルビー)を見つけた。以前、飲んだような、そうでないような不確かだったが、購入してみた・・・やはり、去年、味見していた。
本物のバナナか使われているかどうか、私の喉は、アレルギーのイガイガで判定できる。今回もイガイガ感があったので合格。バナナ味の巡礼はまだ続く。
(本ブログ関連:”バナナ味”)
刺激を受けての帰り道、夜風が寒い。いつのまにこんなに冷えるようになったのだろう。気分はもう冬。おかげで、赤色に連なって点滅する道路工事のランプが、クリスマスの電飾のように見えてくる。動画にしてアップしたい気分だった。
夜分9時過ぎの気温は17℃くらい。昔の井の頭公園プールの水温だ。やっぱり冷たいか。寒さがどんどん増す。帰り道を考えて、これからは厚着が必要かもしれない。
(付記)
近所のコンビニで、飲料水「毎日の 朝バナナオレ」(エルビー)を見つけた。以前、飲んだような、そうでないような不確かだったが、購入してみた・・・やはり、去年、味見していた。
本物のバナナか使われているかどうか、私の喉は、アレルギーのイガイガで判定できる。今回もイガイガ感があったので合格。バナナ味の巡礼はまだ続く。
(本ブログ関連:”バナナ味”)
2015年10月12日月曜日
(雑談) 体育の日の昼寝
「体育の日」の祝日、穏やかな陽射しに誘われて、辺りをぐるりと散歩した。
(本ブログ関連:”体育の日 ①、②”)
小学校の校庭で、町内会の運動会が開かれたようだ。昼ころ学校前を通ったとき、人影がまばらだった。もしかしたら、午前中に終わってしまったのかもしれない。それとも、昼休みだったのだろうか。
以前、ひまわりを咲かせて、あっというまに刈り取った畑地に、ネットを被せた畝が複数並んでいる。ネットは真っ白なものと、薄紅色のものがある。色の違いは何なのか、一体何を栽培しているのだろう。
佇んでいると、ぽかぽか陽気に昼寝したくなる。でも、昼寝は午後3時までだそうだ。「3時のおやつ」というじゃないか・・・、そのときが一番、気を抜きたくなるというに。しかも、30分以上はだめ、それ以上だと本格的な睡眠に入るそうで、20分以内が目安という。
頑張って昼寝をしなかった。けれど、夕方に転寝してしまった。とろりとまどろんだので、その時間が分からない。
(本ブログ関連:”体育の日 ①、②”)
小学校の校庭で、町内会の運動会が開かれたようだ。昼ころ学校前を通ったとき、人影がまばらだった。もしかしたら、午前中に終わってしまったのかもしれない。それとも、昼休みだったのだろうか。
以前、ひまわりを咲かせて、あっというまに刈り取った畑地に、ネットを被せた畝が複数並んでいる。ネットは真っ白なものと、薄紅色のものがある。色の違いは何なのか、一体何を栽培しているのだろう。
佇んでいると、ぽかぽか陽気に昼寝したくなる。でも、昼寝は午後3時までだそうだ。「3時のおやつ」というじゃないか・・・、そのときが一番、気を抜きたくなるというに。しかも、30分以上はだめ、それ以上だと本格的な睡眠に入るそうで、20分以内が目安という。
頑張って昼寝をしなかった。けれど、夕方に転寝してしまった。とろりとまどろんだので、その時間が分からない。
2015年10月11日日曜日
金鉱の妖霊 乾麂子
鉱物採集に、大方はズリ(選鉱後の石捨て場)の斜面を漁る。体力と好奇心があれば、腰の深さまで掘り返す人もいる。そうでなければ、表面採集といいつくろって、ズリ表面を軽く掻く。私は後者である。
鉱物産地には、鉱山跡ゆえ坑口がそのままになっていることがある。ベテランは、坑道に入って探すこともあるそうだが、現地に詳しい仲間がいる場合のようだ。表面採集する者には、坑口を覗くことはあっても、中に踏み込む勇気はない。
先だって、鉱物仲間の方から聞いた話、暗闇を進んで行くと、立て坑らしいものがあって、水がたまっているような音がしたという。無茶なことをと、唖然とした。
鉱山には、女王が登場する童話の世界もあるが、実際、死と隣り合わせゆえに恐怖が勝る。岡本綺堂の「中国怪奇小説集 子不語」に、死んでいることを知らずさまよう亡者が登場する「金鉱の妖霊」がある。彼らを「乾麂子(かんきし)」という。(「青空文庫」より)
(本ブログ関連:”坑夫”)
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・乾麂子(かんきし)というのは、人ではない。人の死骸の化したるもの、すなわち前*に書いた僵尸(きょうし)のたぐいである(*「僵尸(屍体)を画く」)。雲南地方には金鉱が多い。その鉱穴に入った坑夫のうちには、土に圧されて生き埋めになって、あるいは数十年、あるいは百年、土気と金気に養われて、形骸はそのままになっている者がある。それを乾麂子と呼んで、普通にはそれを死なない者にしているが、実は死んでいるのである。
・死んでいるのか、生きているのか、甚だあいまいな乾麂子なるものは、時どきに土のなかから出てあるくと言い伝えられている。鉱内は夜のごとくに暗いので、穴に入る坑夫は額の上にともしびをつけて行くと、その光りを見てかの乾麂子の寄って来ることがある。かれらは人を見ると非常に喜んで、烟草をくれという。烟草をあたえると、立ちどころに喫ってしまって、さらに人にむかって一緒に連れ出してくれと頼むのである。その時に坑夫はこう答える。
・「われわれがここへ来たのは金銀を求めるためであるから、このまま手をむなしゅうして帰るわけにはゆかない。おまえは金の蔓のある所を知っているか」
・かれらは承知して坑夫を案内すると、果たしてそこには大いなる金銀を見いだすことが出来るのである。そこで帰るときには、こう言ってかれらを瞞のを例としている。
「われわれが先ず上がって、それからお前を籃にのせて吊りあげてやる」
・竹籃にかれらを入れて、縄をつけて中途まで吊りあげ、不意にその縄を切り放すと、かれらは土の底に墜ちて死ぬのである。ある情けぶかい男があって、瞞すのも不憫だと思って、その七、八人を穴の上まで正直に吊りあげてやると、かれらは外の風にあたるや否や、そのからだも着物も見る見る融けて水となった。その臭いは鼻を衝くばかりで、それを嗅いだ者はみな疫病にかかって死んだ。
・それに懲りて、かれらを入れた籃は必ず途中で縄を切って落すことになっている。最初から連れて行かないといえば、いつまでも付きまとって離れないので、いつもこうして瞞すのである。但しこちらが大勢で、相手が少ないときには、押えつけ縛りあげて土壁に倚りかからせ、四方から土をかけて塗り固めて、その上に燈台を置けば、ふたたび祟りをなさないと言い伝えられている。
・それと反対に、こちらが小人数で、相手が多数のときは、死ぬまでも絡み付いていられるので、よんどころなく前にいったような方法を取るのである。
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(追記)http://open-lit.com/listbook.php?cid=4&gbid=160&start=0 より。「開放文學」に感謝。
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乾麂子
乾麂子,非人也,乃僵屍類也。雲南多五金礦,開礦之夫,有遇土壓不得出,或數十年,或百年,為土金氣所養,身體不壞,雖不死,其實死矣。
凡開礦人苦地下黑如長夜,多額上點一燈,穿地而入。遇乾麂子,麂子喜甚,向人說冷求煙吃。與之煙,噓吸立盡,長跪求人帶出。挖礦者曰:「我到此為金銀而來,無空出之理。汝知金苗之處乎?」乾麂子導之,得礦,必大獲。臨出,則紿之曰:「我先出,以籃接汝出洞。」將竹籃繫繩,拉乾麂子於半空,剪斷其繩,乾麂子輒墜而死。
有管廠人性仁慈,憐之,竟拉上乾麂子七八個。見風,衣服肌骨即化為水,其氣腥臭,聞之者盡瘟死。是以此後拉乾麂子者必斷其繩,恐受其氣而死;不拉,則又怕其纏擾無休。
又相傳,人多乾麂子少,眾縛之使靠土壁,四面用泥封固作土墩,其上放燈台,則不復作祟;若人少乾麂子多,則被其纏死不放矣。
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乾麂子はあわれだ。坑夫になる前身を語られず、まして地の底にいて自らの死も知らずにいる。出会った坑夫に金銀の蔓(鉱脈)を教える引きかえに地上へ上がることを願う。しかし、地上で、彼らは忌み嫌われる存在でしかない。
私は、幸いにも今までに恐怖と遭遇したことはない。ただ、山中を歩くとき、草を踏む音、靴を引きずる音、潅木をかする音、それらが微妙にずれあって、最後尾にいて、あたかも私の後にもうひとり誰かがついてきているような錯覚を覚えることがある。
鉱物産地には、鉱山跡ゆえ坑口がそのままになっていることがある。ベテランは、坑道に入って探すこともあるそうだが、現地に詳しい仲間がいる場合のようだ。表面採集する者には、坑口を覗くことはあっても、中に踏み込む勇気はない。
先だって、鉱物仲間の方から聞いた話、暗闇を進んで行くと、立て坑らしいものがあって、水がたまっているような音がしたという。無茶なことをと、唖然とした。
鉱山には、女王が登場する童話の世界もあるが、実際、死と隣り合わせゆえに恐怖が勝る。岡本綺堂の「中国怪奇小説集 子不語」に、死んでいることを知らずさまよう亡者が登場する「金鉱の妖霊」がある。彼らを「乾麂子(かんきし)」という。(「青空文庫」より)
(本ブログ関連:”坑夫”)
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・乾麂子(かんきし)というのは、人ではない。人の死骸の化したるもの、すなわち前*に書いた僵尸(きょうし)のたぐいである(*「僵尸(屍体)を画く」)。雲南地方には金鉱が多い。その鉱穴に入った坑夫のうちには、土に圧されて生き埋めになって、あるいは数十年、あるいは百年、土気と金気に養われて、形骸はそのままになっている者がある。それを乾麂子と呼んで、普通にはそれを死なない者にしているが、実は死んでいるのである。
・死んでいるのか、生きているのか、甚だあいまいな乾麂子なるものは、時どきに土のなかから出てあるくと言い伝えられている。鉱内は夜のごとくに暗いので、穴に入る坑夫は額の上にともしびをつけて行くと、その光りを見てかの乾麂子の寄って来ることがある。かれらは人を見ると非常に喜んで、烟草をくれという。烟草をあたえると、立ちどころに喫ってしまって、さらに人にむかって一緒に連れ出してくれと頼むのである。その時に坑夫はこう答える。
・「われわれがここへ来たのは金銀を求めるためであるから、このまま手をむなしゅうして帰るわけにはゆかない。おまえは金の蔓のある所を知っているか」
・かれらは承知して坑夫を案内すると、果たしてそこには大いなる金銀を見いだすことが出来るのである。そこで帰るときには、こう言ってかれらを瞞のを例としている。
「われわれが先ず上がって、それからお前を籃にのせて吊りあげてやる」
・竹籃にかれらを入れて、縄をつけて中途まで吊りあげ、不意にその縄を切り放すと、かれらは土の底に墜ちて死ぬのである。ある情けぶかい男があって、瞞すのも不憫だと思って、その七、八人を穴の上まで正直に吊りあげてやると、かれらは外の風にあたるや否や、そのからだも着物も見る見る融けて水となった。その臭いは鼻を衝くばかりで、それを嗅いだ者はみな疫病にかかって死んだ。
・それに懲りて、かれらを入れた籃は必ず途中で縄を切って落すことになっている。最初から連れて行かないといえば、いつまでも付きまとって離れないので、いつもこうして瞞すのである。但しこちらが大勢で、相手が少ないときには、押えつけ縛りあげて土壁に倚りかからせ、四方から土をかけて塗り固めて、その上に燈台を置けば、ふたたび祟りをなさないと言い伝えられている。
・それと反対に、こちらが小人数で、相手が多数のときは、死ぬまでも絡み付いていられるので、よんどころなく前にいったような方法を取るのである。
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(追記)http://open-lit.com/listbook.php?cid=4&gbid=160&start=0 より。「開放文學」に感謝。
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乾麂子
乾麂子,非人也,乃僵屍類也。雲南多五金礦,開礦之夫,有遇土壓不得出,或數十年,或百年,為土金氣所養,身體不壞,雖不死,其實死矣。
凡開礦人苦地下黑如長夜,多額上點一燈,穿地而入。遇乾麂子,麂子喜甚,向人說冷求煙吃。與之煙,噓吸立盡,長跪求人帶出。挖礦者曰:「我到此為金銀而來,無空出之理。汝知金苗之處乎?」乾麂子導之,得礦,必大獲。臨出,則紿之曰:「我先出,以籃接汝出洞。」將竹籃繫繩,拉乾麂子於半空,剪斷其繩,乾麂子輒墜而死。
有管廠人性仁慈,憐之,竟拉上乾麂子七八個。見風,衣服肌骨即化為水,其氣腥臭,聞之者盡瘟死。是以此後拉乾麂子者必斷其繩,恐受其氣而死;不拉,則又怕其纏擾無休。
又相傳,人多乾麂子少,眾縛之使靠土壁,四面用泥封固作土墩,其上放燈台,則不復作祟;若人少乾麂子多,則被其纏死不放矣。
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乾麂子はあわれだ。坑夫になる前身を語られず、まして地の底にいて自らの死も知らずにいる。出会った坑夫に金銀の蔓(鉱脈)を教える引きかえに地上へ上がることを願う。しかし、地上で、彼らは忌み嫌われる存在でしかない。
私は、幸いにも今までに恐怖と遭遇したことはない。ただ、山中を歩くとき、草を踏む音、靴を引きずる音、潅木をかする音、それらが微妙にずれあって、最後尾にいて、あたかも私の後にもうひとり誰かがついてきているような錯覚を覚えることがある。
2015年10月10日土曜日
イ・ソンヒの「愛が散るこの場所」
イ・ソンヒの動画は、Youtubeで見たのが最初だった。次の映像と同じものだが、少々左右が圧縮されて面長になっている。以前見たものは、自然な印象で、頬に膨らみもあり健康的で、何より、歌唱力に圧倒されたものだ。2004年、世宗文化会館での、20周年記念コンサートの姿だ。
そのとき歌われた、4集収録の「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」(1988年、作詞・作曲:ソン・シヒョン)は、若さの生硬さに磨きが加わり、美しく余韻を含んで響いた。その10年後の昨年には、円熟味を増した。
(本ブログ関連:”愛が散るこの場所”)
「愛が散るこの場所」
花びら舞い散るとき、あなた目覚めないで
あれほど美しかった、花びらだったじゃない
愛が遠のくとき、あなた黙って去るのですか
あれほど愛した思い出が、壊れるのか恐わくて
*愛が散るこの場所、思い出だけ悲しくて
あなた目覚めないで、涙見せたくないのよ
私が恋しいとき、あなた帰ってきてもいいわよ
あれほど愛した昔に、戻りたいです
(*以下繰り返し)
(Youtubeに登録のd'abord musiqueに感謝)
そのとき歌われた、4集収録の「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」(1988年、作詞・作曲:ソン・シヒョン)は、若さの生硬さに磨きが加わり、美しく余韻を含んで響いた。その10年後の昨年には、円熟味を増した。
(本ブログ関連:”愛が散るこの場所”)
「愛が散るこの場所」
花びら舞い散るとき、あなた目覚めないで
あれほど美しかった、花びらだったじゃない
愛が遠のくとき、あなた黙って去るのですか
あれほど愛した思い出が、壊れるのか恐わくて
*愛が散るこの場所、思い出だけ悲しくて
あなた目覚めないで、涙見せたくないのよ
私が恋しいとき、あなた帰ってきてもいいわよ
あれほど愛した昔に、戻りたいです
(*以下繰り返し)
(Youtubeに登録のd'abord musiqueに感謝)
2015年10月9日金曜日
善意
イ・ソンヒは、善意の人である。デビュー当初、困難な状況にあっても強く生きる学生たちを支援する慈善活動を始めた根幹にある。宗教的環境に育ったことも、その背景にあるのかもしれない。
イ・ソンヒは、善意を信じるからこそ、人を信じたのかもしれない。ときに、善意を実現するために、政治の世界を往来したこともある。
イ・ソンヒは、歌手人生を切り開いてきた。善意の明かりをいったん手元に置いて、自らの道筋を照らす齢にいるのではないだろうか。
善意のくびきから、どうか自由になって欲しい。思い過ごしだろうか。
イ・ソンヒは、善意を信じるからこそ、人を信じたのかもしれない。ときに、善意を実現するために、政治の世界を往来したこともある。
イ・ソンヒは、歌手人生を切り開いてきた。善意の明かりをいったん手元に置いて、自らの道筋を照らす齢にいるのではないだろうか。
善意のくびきから、どうか自由になって欲しい。思い過ごしだろうか。
2015年10月8日木曜日
寒露、「猿に始まり狐に終わる」こと
今日は二十四節気の「寒露」。「露が冷気により凍りそうになるころ」(Wikipedia)だそうで、今朝は相当に冷え込んだ。
寒露の音から、カンロ飴や甘露煮をイメージして「甘露」が浮かんで、甘味を帯びそうな気がする。「うまい、うまい」と絶賛するのに、「甘露、甘露」と殿様が(昔の映画で)いったりもした。
ところで、地元にある武蔵野大学で、狂言師の野村萬斎氏(1966年~)を迎えて、武蔵野大学客員教授の羽田昶氏との対談を聴く公開講座があった。能楽資料センターによる連続公開講座(「けものイロイロ―― 能・狂言に見る鳥獣・霊獣」)の最終回だが、初めて知って、初めて同敷地を訪れた次第。
最終回のテーマは、「猿に始まり狐に終わる」という、狂言に現れる生き物について、野村萬斎氏の経験に照らしながら語るかたちで進行された。
狂言の初舞台は、3,4歳ころに「靱猿(うつぼざる)」の舞台で猿の姿に扮することから始まるそうだ。今回のテーマにある、<狐に終わる>というべき演目として、「釣狐(つりぎつね)」を初めて演じた(披(ひら)いた)のが1988年とのことで、ここから真の演者としてわざを深めていくことになったという。
狂言のスタンスに、「このあたりのものでござる」という言葉があるというそうだ。人、生き物すべてに通じる考え方であり、立場(領分)という。物語が、この理(ことわり)から外れるとき、狂言は滑稽さの中に逆転や逆襲の姿が見え隠れすることになる。
(<狐>に関心あって講演会に出かけたが、とてつもなく大きな世界に出会った気がした)
(Yotubeに登録のodessanokaidanchに感謝)
寒露の音から、カンロ飴や甘露煮をイメージして「甘露」が浮かんで、甘味を帯びそうな気がする。「うまい、うまい」と絶賛するのに、「甘露、甘露」と殿様が(昔の映画で)いったりもした。
ところで、地元にある武蔵野大学で、狂言師の野村萬斎氏(1966年~)を迎えて、武蔵野大学客員教授の羽田昶氏との対談を聴く公開講座があった。能楽資料センターによる連続公開講座(「けものイロイロ―― 能・狂言に見る鳥獣・霊獣」)の最終回だが、初めて知って、初めて同敷地を訪れた次第。
最終回のテーマは、「猿に始まり狐に終わる」という、狂言に現れる生き物について、野村萬斎氏の経験に照らしながら語るかたちで進行された。
狂言の初舞台は、3,4歳ころに「靱猿(うつぼざる)」の舞台で猿の姿に扮することから始まるそうだ。今回のテーマにある、<狐に終わる>というべき演目として、「釣狐(つりぎつね)」を初めて演じた(披(ひら)いた)のが1988年とのことで、ここから真の演者としてわざを深めていくことになったという。
狂言のスタンスに、「このあたりのものでござる」という言葉があるというそうだ。人、生き物すべてに通じる考え方であり、立場(領分)という。物語が、この理(ことわり)から外れるとき、狂言は滑稽さの中に逆転や逆襲の姿が見え隠れすることになる。
(<狐>に関心あって講演会に出かけたが、とてつもなく大きな世界に出会った気がした)
(Yotubeに登録のodessanokaidanchに感謝)
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