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2015年4月25日土曜日

バナナカステラ

近所のスーパーで、菓子パンサイズの袋に入った「バナナカステラ」を見つけた。
餡入りのカステラ菓子で、外側に「BANANA」文字をレリーフして焼き上げている。シンプルな菓子名と形状から、何となく屋台菓子を思い起させる。原材料に「バナナ入り白あん」と表示されている。食べた瞬間、バナナ風味が口中に広がる。食後も風味が強烈に残る。まさに、直球勝負のBANANA味だ。

(本ブログ関連:"バナナ")

ところで菓子袋に、「Café」とféの字を強調して描かれている。バナナは鉄分(Fe)が豊富なのかと、「栄養素別食品一覧表」をネットで見たところ、そうでも・・・ないようだ。

”バナナカステラ” についてネット検索すると、関西原産で、数社で販売される当り前の菓子のようだ。どうりで、今回購入した菓子メーカーの販売部門が東京にあって、お客様相談係が大阪にあるわけだ。菓子のシンプルなデザインといい、2本入りといったことから・・・「関西菓子」を感じた次第。

感想を大阪弁で何と言ったらよいだろうか。ネットに、「『標準語→大阪弁変換』プログラム osaka.exe のJavaScriptバージョンで、テキストの文章を大阪弁に変換」するサイト(Osaka JS さくらさくらWORLD)があったので、変換させていただいた。感謝。

     「とても美味しかったです」 ⇒ 「どエライ美味しかったや」

バナナ味の巡礼はまだ続く。

2015年4月24日金曜日

星の花火

宇宙に対する関心は、星々の映像を見て楽しむ程度。「暗黒物質(dark matter)」とか、「ダークエネルギー」といった言葉にSF的なイメージを浮かべて何となくうれしくなる素人だ。

(本ブログ関連:”ダークマター”)

昔、「馬頭星雲」の不思議な似姿に息をのみ、「わし星雲」が赤ちゃん星を生み出す光景に驚嘆した。これらは写真があってのこと。特に後者の写真は、ハッブル宇宙望遠鏡のおかげだ。

宇宙は大きい。人間は宇宙の塵でできている。人はときに、宇宙の大きさに対して己の諸事の小ささを自省する。そのとき少々ストイックになるが、すぐに忘れる。ハッブルは、そんな私を呼び戻してくれる。

ハッブルが、1990年4月24日以来、宇宙の壁飾りを撮影し続けて25周年を迎えたと、東京新聞の記事「ハッブル25年祝う『星の花火』 NASAが画像公開」(4/24)は、次のように報じている。
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・【ワシントン共同】ハッブル宇宙望遠鏡の打ち上げから25年となるのを祝福し、米航空宇宙局(NASA)と欧州宇宙機関(ESA)は23日、夜空に開く花火のような星団の画像を公開した。

りゅうこつ(竜骨)座の方向にあって、地球から2万光年離れた「ウェスタールンド2(Westerlund 2)」*は、約3千の恒星が集まった天体。中心部には誕生から約200万年と比較的若く高温で巨大な星々があり、周囲のガス状物質の内部では新たな星が次々に誕生しているとみられている。

(*)「ウェスタールンド」は、スウェーデンの天文学者Bengt Westerlundの名にちなむ。

・全長約13m、重さ約11トンのハッブルは、1990年4月24日に米スペースシャトル「ディスカバリー」で地球を回る軌道に打ち上げられた。
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(Youtubeに登録のHubble Space Telescopeに感謝)

2015年4月23日木曜日

(雑談) 映画の比較

昔、VHS版「我が心のオルガン(내 마음의 풍금)」(1999年)を、あるファエで偶然入手して、言葉も分からずに見た。17歳の小学5年生の少女が、新任の男性教師に淡い恋心を持つという、寓話的な世界を描いている。1960年代の世相というより、ノスタルジックな農村風景を象徴するようだった。なにより、チョン・ドヨン전도연)演じる少女の一途さに見入ってしまったものだ。そして、思いがかなうラストに仕上げてくれた。

(本ブログ関連:”我が心のオルガン”、”チョン・ドヨン”)

「我が心のオルガン」と同じく、1960年代の江原道の田舎を舞台にするものの、ある意味、間逆な世界を描いたのが「我らの歪んだ英雄(우리들의 일그러진 영웅)」(1992年)だ。小学5年生の教室を、教師に代って、15歳の級長が暴力で規律を作り実質支配する。ソウルから来た転校生は、正義の名で抵抗するが、いつか支配を受け入れ同化し、むしろ意図的に取り入ろうとすらする。当時の世情を汲んでいるのだろうか、狭い世界に置かれた人間の本性を、根源を、小学生の世界で語っているのかもしれない。

しかし、新任教師の登場によって、この世界は崩れ、新しい正義が規範とされる。生徒たちは新しい正義に進んで同調する。

後年、新任の教師は中央の政治家へ転身し、主人公の転校生は予備校教師となる。暴力によって支配された経験は、再会した同級生たちの心に深く澱となっているように見えた。

両映画には、小学校の校舎が火事になる場面もある。何かが崩れ落ちる象徴なのだろうか。相似するものが多々あるが、「我が心のオルガン」には、もしかしたら「我らの歪んだ英雄」に対する、対照的な意図があったのではと推測してしまう。

(付記)
テレビで知ったのだが、最近の女性の仲間内で、「マウント」するという言葉があるそうだ。これは、ニホンザル社会の序列付けに使われる、「マウンティング」という社会的な動作からきたのだろう。不思議なことに、チンパンジーに分類されるボノボでは、逆の意味を持つ。
小さなケージに飼われたニワトリ集団は、「つつき」を行ない順位付けする。しかし、広い場所で放し飼いすると、その現象がなくなると読んだ記憶がある。ニワトリは、鳥類という、恐竜の現在の姿だ。他者との差異と支配関係を求める順位制は、古くからの生命の必然かもしれない。

2015年4月22日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 あの世の歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(4/15)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、死に関連する3曲を紹介した。

始めに、亡くなった人の魂を呼び込む「ペベンイ・グッ(배뱅이 굿)」について次のように紹介された。
・「ペベンイ・グッ」で有名な李殷官(이은관、1917年~2014年)名唱がいる。節句に、テレビから「ベベンイが来ました(배뱅이가 왔소이다)」の歌詞がよく聞こえてきた。ベベンイ(배뱅이)が何か分からなくても、「ベベンイ・グッ」の歌舞は広く知られた。巫堂(무당、巫女)が神にお告げする祭儀(クッ、굿)ではなく、これを素材にした伝統芸能(民俗劇)だ。パンソリと似るが、パンソリは南の地方中心である反面ペベンイ・グッは北側の黄海道中心だ
・ある名門の一人娘ペベンイが18歳の若さで亡くなる。老いた両親は、娘の魂に会いたく、国中の有名な巫堂を探してクッを行う。魂を呼び込むのは簡単でない。それを聞いた旅人が両親を騙し、魂が訪れきたように振る舞い、金を取って逃げてしまう。

▼ 「ペベンイ・グッ」から、「国中の巫堂がクッを行う場面(팔도 무당 굿하는데)」を聴く。随分賑やかな祭儀に聞こえる。

次に、「恨(ハン、한)」とクッの祭儀の関係について次のように説明された。
・人が死ぬとどうなるのか、昔から人が悩んだ問題だ。韓国では、死後、人の魂はあの世に行くと信じた。時々、子孫に会いに戻ってくるともいわれる。この世に名残惜しい人は、あの世に渡れず留まるとされ、「恨」と言う、一種の恨みがある。人を恨み、残念に思う気持、悔しさや悲しさ、これらが入れ混じった感情を指す。恨を持つ人は、自分も知らぬ内に人に害を与えることもあるため、クッを行って、恨を晴らすように誘導した。亡くなった人のための儀式だが、実は生きている人のためでもある。互いに憎しみや恨みを晴らすための装置ともいえる。

▼ 恨み、恨を歌った曲「バリアラリ(바리아라리)」を聴く。不思議な味がする演奏に載せて・・・味わい深い今様。

最後に、あの世の神「バリテギ(바리데기)」の話と「コプリ(고풀이)」の意味について次のように説明された。
・バリテギは、娘として生まれたため、王に捨てられてしまったが、王が重病にかかったとき、命がけで薬を見つけたのは、バリテギだった。薬を探しにあの世まで行ったのだ。そして、あの世を治める神となる。
・全羅道地域の「シッキム・グッ씻김굿)」儀式では、亡くなった人の恨を晴らす過程を「コプリ」という。白の長い布に、七つまたは十二の結び目をつくり、柱に固定させる。結び目は恨を意味するようで、巫女が歌を歌いながらゆっりと布を引っ張り、結び目を一つずつ解く。その様子を見ながら、その場にいる人々も恨を晴らす。

▼ 珍島の「コプリ」を聴く。始原的な響きがする・・・地元の人々の現地録音だろうか。

キム・ボエさんの言葉。明日(4/16)は、旅客船セウォル号が沈没して一年になる。「コプリ」が、わずかでも慰めになればと願う気持ちです・・・とのこと。

2015年4月21日火曜日

顔の識別(3)

ネットニュースで、ある女優さんの写真を見ていたら、別の女優さんと識別できぬことに気付いた。そんな経験を以前のブログに記したのを思い出し、見直したら、今回と同じ女優さん同士の組み合わせだった。相変わらず区別できないでいる。・・・ブログに記すことで、顔の混同を整理したつもりだったのに。

(本ブログ関連:”顔の識別”)

飛びぬけて愛らしい女優さんを区別できないのかと思うと、非常に残念で、切ないことだ。今はもう、アイドルたちの識別を遠くに諦めている、

昔、人気の映画俳優は、銀幕のスターだった。映画館に出かけて、スクリーンの上でしか会えぬ存在だった。映画館という擬似共同性にある固有の崇拝対象だった。ブロマイドという護符が売られたりした。その後、テレビ俳優が登場し、ネットに取り上げられるようになった。スターは、家に(TV)、部屋に(PC)、ポケット(携帯)に降臨した。ファンのすぐそばにまで近寄ってきたのだ。

今、3文字のアイドル集団が隆盛である。ファン心理について、2つの面で考えてみた。
① 誰もが主人公となる期待だ。ずっと昔のこと、男子向け漫画やテレビのヒーローは、孤高の人だった。それが、いつのまにか兄弟となり、戦隊となった。女子向けの場合も同様。この延長に、主人公は多数に分散・分枝した。
② 今時の空気だ。主人公が一人だと、ファン同士で取り合いになる。それをうまく避け、調和させるためにも、主人公の分散・分枝が必要だった。そんなニーズにうまく合っているように見える。

とはいえ、そのときその場で違いを求めた顔にも時代性がある。いずれ振り返って見れば、時代という同一さに気付くことだろう。こちらの場合は、識別能力の衰えだけじゃない。

2015年4月20日月曜日

穀雨2015

一日中、雨、雨、雨、そして風。今日は二十四節気の「穀雨」、春の最後にあたる。次は、夏の始まり「立夏」だ。何てこと、まだ春を満喫していないのに。これから、いかにもカラッとした夏が来るわけでもない、梅雨が待っているのだから。春を楽しんでおけばよかった。

(本ブログ関連:”穀雨”)

春はいいな・・・そういえば、先日、夜桜の話で、花見の人々を含めて美しさを歌った、与謝野晶子の「乱れ髪」(「与謝野晶子歌集」岩波文庫)の2番目にある、「清水(きよみず)へ祇園をよぎる花月夜 こよひ逢ふ人みな美くしき」があると記した。

同「乱れ髪」の1番目は、春らしい、しなやかで溌剌とした、いかにも若い女性らしさを表現している、「その子二十(はたち)櫛に流るる黒髪のおごりの春の美くしきかな」である。若さを見せつけるようでまぶしい。芽吹く力はそれだけで価値がある。

穀雨は、慈雨となるかな、若い女性が濡れていれば、そこにドラマがあるようだ。おじさんがぬれていると、濡れネズミ。

イ・ソンヒが歌ってみると

昨年の2014年8月16日(土、午後11時~)に放送された、JTBCの「HIDDEN SINGER(히든싱어)3」の中で他の歌手を交えて、イ・ソンヒがいろいろな曲を歌った様子をYoutubeで見ることができる。曲目はまだあったかもしれないけれど、次のように並べてみた。

(本ブログ関連:”HIDDEN SINGER”)

静かに、そしてじっくりと歌い聞かせるイ・ソンヒの凄さを感じるとともに、そっと差し伸べるような彼女の眼差しもいい。歌に重ねて伝えるようだ。

<焼酎一杯(소주 한잔)>임창정


<わたしを悲しませるひとたち(나를 슬프게 하는 사람들)>김경호


<DASH>백지영


<希望歌(희망가)>채규엽(蔡奎燁)・・・(ブログ「守護天使」に感謝)


<忘れないで(잊지 말아요)>백지영


(以上、Youtubeに登録のlys2187、Acaciaに感謝)

2015年4月19日日曜日

(資料) 稲荷神社の鳥居はなぜ赤いか

稲荷神社には、朱色で小柄の鳥居が連なることがある。その下を潜り抜けるうち、不思議な高揚感に気付く。辺りが朱に染まったような錯視をする。社殿に近づくとき、朱は人の心に何かを共鳴させる。それが何か分からないが、合点させる力がある。

(本ブログ関連:”稲荷”)

国立国会図書館の「レファレンス共同データベース」(島根県立図書館提供)にQAがあって、「鳥居の起源や形、色について知りたい。稲荷神社の鳥居がなぜ赤なのか等。」の質問に次のように回答している。
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資料2: 「鳥居」 川口謙二ほか著、東京美術、1987.8
・p73「鳥居の色」では、「近藤喜博氏は『稲荷信仰』という著書のなかで、「朱塗の社殿には、実は原始神の一般的属性となっていた荒振るものの性格から考えられる色釈(朱塗)によるものがすでにあったと考え」られ「そうした性格の神々の上に寺院の朱塗が荒振るものの炎の怨念に結びつき、さらにそれを助長したのだと見る」ことができると述べており、鳥居の朱色もまた、このような信仰の上に立って成立しているものと考えることができるのでは」ないかとある。

資料3: 「狐」 吉野裕子著、法政大学出版局、1980
・p117~119「稲荷と朱」のなかにp117「朱の鳥居」があり、なぜ鳥居が赤く塗られなければならないかの明確な理由づけは今日なおされていないとしながら、私見として、「狐は土徳の持主である。陰陽五行思想において、土を生じるものは火でなければならない。「火生土」「火、土を生ず」の理である。火の色はもちろん赤色である。そこで稲荷祭祀の始まる場所、つまりその入口には何を措いてもまず火気の象徴である朱の鳥居をもうけることになったと思われる」とある。
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なかなか難題なようで、起源は相当根が深いのかもしれない。土俗的で直截な、感覚的・感性的な起源を、具体的なもので知るのは容易でないようだ。

鳥居の朱色の顔料は、本来何を原料にしているのだろうか。社寺建造物美術協議会のホームページの「丹塗」のページに、「鳥居でおなじみの朱色を建造物装飾の言葉では丹塗り(にぬり)といいます。・・・鉛丹(えんたん、金属鉛を加熱し酸化させて作る赤色の顔料)の粉を膠水で溶いた丹で塗り上げます」と説明されている。

鉛丹は、wikipediaによれば、「四酸化三鉛 (Pb3O4) を主成分とする赤色の無機顔料」とのこと。

以前、本ブログで紹介したように、山師が座に坐るのに、「(「山例五十三条」には)山師の座席までも規定し、「山師金掘師の筋糺は金山師正面次は銀山師次は(・・・この間に鉛山師・・・)銅山師と順列たるべし」と言ふた」そうで、「鉛」の扱いは「銅」より重視されたようだ。

2015年4月18日土曜日

(雑談)空の女王からカードの話し

昔、中学の「技術(=職業?)・家庭」の授業で、基本投影図の3面図の書き方を教わった。教師は物静かな人で、ときどきマニアックな面を見せてくれた。あるとき、作図の延長で、黒板にゼロ戦の姿を描いたのだ。飛行機好きな子どもたちとの距離が一気に縮まったことはいうまでもない。しかし後になって気になったことだが、当時の教師間の関係は、相当憶測すべき事情があったはずだろうけど。

飛行機ファンにとって、美しい機体として忘れられないのは、以前ブログで触れた、米ノースロップ社の「タロン(Talon)」(T38練習機)だ。特に、NASAで使用の白色塗装した優雅な曲線は美の極致で、私にとって「空の女王」だった。タロンが「空の女王」と呼ばれていたとずっと思っていたのだが、ネットを見返すと見つからない・・・空の女王で検索すると、ボーイング747旅客機が出てくる(私には正直異論がある・・・けれど)。

女王といえば、客船にその名を示すものもあるが、ダムにまであるそうだ。古い週刊誌を見ていたら、いわゆるダムマニアのリストの中で、群馬県「奈良俣ダム」がダムの女王にあげられていた。裾の広いなだらかな傾斜を持つ構造は、垂直にせき止めたいわゆるダムらしい力強さとは違って、穏やかで包容力を感じさせる。そこに女性的なものが彷彿されるのだろう。

ダムの管理事務所を訪れると、「ダムカード」をくれる。以前、ダム近くで石採りしたとき、同行者が同ダム事務所からもらってきてくれたことがあった。そのとき始めて知ったことだ。

ところで、JAXAが人工衛星などの追跡と通信のための通信所や観測所を訪れると、「アンテナカード」をくれるそうだ。ダムの数より少ないが、全国に点在している。中学生だったら、高校生だったら夢もあって、こちらも!欲しくなるだろうな。
・勝浦宇宙通信所(千葉県)
・臼田宇宙空間観測所(長野県)
・増田宇宙通信所(鹿児島県)
・沖縄宇宙通信所(沖縄県)

2015年4月17日金曜日

稲荷神社、桜、鳥居、狐像

春らしい暖かな昼下がり、しばらく滞在した図書館から外へ出て驚いた。建物の周り、明るい日向が雨に濡れていたのだ。午後のひととき降るという天気予報の通りだった。

建物の中で全く気付かなかった。雨空特有の明かりを落とす気配もなかったし、窓から入る明りに変化もなかった。それほど明るい中での雨だったのだ。もしかすると、「天気雨」だったのかもしれない。

(本ブログ関連:”天気雨狐の嫁入り)”、”稲荷”)

図書館に隣接する、西陽を受けた稲荷神社の八重の桜花は、薄紅色を冴え渡らせ、赤い鳥居を引き立たせるように咲き、境内全体を覆っていた。

引き寄せられるように、稲荷神社へ行くと、神社入り口に、若者が立ち、桜花の下の光景をカメラに収めていた。さっきの雨が誘ったようだ。

西日が、境内の色彩を際立たせる。薄紅色の桜の花は、光を受けて膨らみを増し、赤い鳥居は艶ややに輝く。石の狐は、色彩に溺れることなく、何か見定めているようにさえ思えた。正直、稲荷神社の狐像と視線を合わせるのは力がいることだが。

いつも、狐像を撮るのは遠慮していた。今回、春爛漫をともにしたく、境内横手からうかがうようにして、桜、鳥居、そして狐像を合わせて撮影させていただいた。

2015年4月16日木曜日

(資料)イ・ソンヒ「因縁」 女子十二楽坊との協演

イ・ソンヒの13集に所収の名曲「因縁(인연)」(2005年)は、韓国ギャラップの調査「愛唱曲 2004-2014比較」(調査時期2014年10月2日~29日、全国満13才以上男女、1,700人面接調査)に見られるように、韓国大衆から愛唱曲として第7位の支持を集めている。様々な試行を踏まえて、東洋的感性を結晶化した曲である。

(本ブログ関連:”因縁”)

イ・ソンヒは、「因縁」を中国の伝統楽器演奏グループ「女子十二楽坊」と協演したことがある。その舞台責任者だった、「ショー演出の大物」といわれた・・・という、チン・ピルホン前KBS局長が逝去した記事があった。同氏とその他著名な芸能人と、例えば、チョー・ヨンピルとの関わりについて記事にされている。

ここでは、デイリー韓国の記事「逝去したチン・ピルホン前局長、歌手イ・ソンヒとの格別の気息『再照明』」(4/16、イシューチーム)にある、前局長とイ・ソンヒとの縁(=因縁)について記す。
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「チン・ピルホン」

「伝説の芸能PD」、チン・ピルホン前KBS局長が逝去した中、彼と歌手イ・ソンヒとの縁(=因縁)も再照明(=ものごとの価値を再び探り出す)されている。

過去、チン・ピルホンPDは、イ・ソンヒと女子十二楽坊の協演舞台の総責任を引き受けたことがある。

当時、イ・ソンヒは映画「王の男」でオリジナル・サウンド・トラック(=OST)の収録曲だった「因縁」を歌い、これに合わせて「女子十二楽坊」が中国伝統楽器の演奏をリリースした。

チンPDは、これについてある媒体とのインタビューで、「桜の花が満開の春の感じを生かすために、舞台の装飾を満開の花を象徴するデザインにした。春の陽射しのスターたちの華やかな大きな祭りになることだろう」と伝えた。

(以下ネチズンの反応について略)
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(Youtubeに登録のjaysbar4uに感謝)

2015年4月15日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 皐皐天邊ほか

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(4/8)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第100回として、パンソリ「水宮歌(수궁가)」のカメやウサギの経験にまつわる3曲を紹介した。

(本ブログ関連:”水宮歌”)

始めに、初めての経験の感動を、パンソリ「水宮歌」で、陸を初めて見た亀を元に次のように紹介された。
・旅は新しい世界を経験する期待感がある反面、金と体力を使い大変な思いをする。ちなみに経験として、リンゴをよく知るにはどうすれば良いか。美しい絵や映像を見たり、栽培法を説明した本を読むことでできるが、一口味わってこそ知ることがある。
・ウサギの肝を巡るパンソリの「水宮歌」に、カメが初めて海を出て、陸地を経験する場面がある。太陽が昇り、その日差しが静かな漁村を照らす。海中の景色しか知らないカメがどう感じたか、その感動は、人が宇宙を経験するようなものだろう。

▼ 初めて見る景色を歌う「皐皐天邊(고고천변)」をカヤグム弾き語りで聴く。軽快な伴奏・・・音楽的に継承して。

次に、誰がどこに座るか、動物たちの世界で「上座争い(상좌다툼)」する話について次のように紹介された。
・旅の魅力は、色々な人と出会えることだ。新しい景色も良いが、時がたてば感動は薄れる。でも旅先で会った人々の思い出は長く記憶に残る。
・陸に上がったカメは様々な動物と出会う。その日はちょうど年に一度の動物の祭りだった。神話の麒麟や獅子、猿、リスやウサギなどみな集まった。昔も今も、誰がどこに座るかが大事な問題だ。自分が年上だと、お互いに上座に座りたがる。年長者を高める韓国の風習が、動物にも当てはまった。

▼ 「水宮歌」から動物らの「上座争い」の歌を聴く。海であれ陸であれ、いずこも見栄の張り合いということか。正調。

最後に、違う文化の出会いを、「ウサギの物語り(토끼 이야기)」について次のように紹介された。
・違う文化圏に生まれ育った人々の出会いには色々な妨げがある。言語だけでなく文化的背景も違うからだ。会話の内容も、違う意味で解釈されることもある。前向きに考えすぎて、騙されることもあるかもしれない。
・ウサギの肝を騙し取ろうとする「水宮歌」の話。ウサギの肝を探してくるように命じられたカメは、ウサギをおびき出す。官職に就けると言われたウサギは、意気揚々海中に入るが、待っていたのは、肝を狙う兵士たちだった。王の薬にウサギの肝が必要だったのだ。ウサギは自分が騙されたのと同じように、今度は王を騙して仕返しし、やっとのことで命を救う。

▼ 出会いをサムルノリと歌で表現した「ウサギの物語り」を聴く。何ぜ・・・今様である。

(付記)
私のカウントで今回で、たしか100回目になる・・・でも、番組のリストを見ると、201回目?になるよう。どこかで大きなカウントミスをしてしまっているのか・・・今頃になっていうのも憚るが。次回から、番組回数の付記をひかえます。

2015年4月14日火曜日

(資料)岡本綺堂「中国怪奇小説集-酉陽雑爼(唐)」の九尾狐

青空文庫に岡本綺堂の「中国怪奇小説集-酉陽雑爼(唐)」に、「九尾狐」の項があって、その超越する力について次のように記している。日本の九尾狐の妖艶な化身というより、隠し持った妖気の強さを知ることになる。

(本ブログ関連:”九尾狐”)

「中国怪奇小説集」で、「酉陽雑俎」について次のように説明している。「この作者は唐の段成式であります。彼は臨淄の人で、字を柯古といい、父の文昌が校書郎を勤めていた関係で、若いときから奇編秘籍を多く読破して、博覧のきこえの高い人物でありました。官は太常外卿に至りまして、その著作は『酉陽雑爼』(正編二十巻、続集十巻)をもって知られて居ります」
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 むかしの説に、野狐の名は紫狐といい、夜陰に尾を撃つと、火を発する。怪しい事をしようとする前には、かならず髑髏をかしらに戴いて北斗星を拝し、その髑髏が墜ちなければ、化けて人となると言い伝えられている。

 劉元鼎が蔡州を治めているとき、新破の倉場に狐があばれて困るので、劉は捕吏をつかわして狐を生け捕らせ、毎日それを毬場へ放して、犬に逐わせるのを楽しみとしていた。こうして年を経るうちに、百数頭を捕殺した。

 後に一頭の疥のある狐を捕えて、例のごとく五、六頭の犬を放したが、犬はあえて追い迫らない。狐も平気で逃げようともしない。不思議に思って大将の家の猟狗を連れて来た。監軍もまた自慢の巨犬を牽いて来たが、どの犬も耳を垂れて唯その狐を取り巻いているばかりである。暫くすると、狐は跳って役所の建物に入り、さらに脱け出して城の墻に登って、その姿は見えなくなった。

 劉はその以来、狐を捕らせない事にした。道士の術のうちに天狐の法というのがある。天狐は九尾で金色で、日月宮に使役されているのであるという。
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先日のブログ((資料) 那須野の殺生石)で、古に「犬追物」という、囲いのなかで犬を射る式法の話しを記したが、その由縁は九尾狐を射落としたことにある。犬と狐が登場するのは因果かもしれない。とはいえ、狐の霊力は高く、犬を凌駕することになる。

また、物語りに「疥のある狐」が登場するが、稲荷に笠森盛稲荷がある。同稲荷は、「瘡守(かさもり)に通じて、瘡平癒から、皮膚病、梅毒に至るまで霊験ある」(Wikipedia)とのこと。近在の稲荷も、江戸期に川崎宿から参りに来たという。

極にあるものは、その対極に変身する底知れぬ霊力を宿しているのかもしれない。

2015年4月13日月曜日

キム・ヒジン「花の指輪さして」

美しいフォーク曲がある。今は、済州出身の歌手キム・ヒジンの澄んだ優しい歌声で聞くことができる。彼女と同郷の歌手ウニ(キム・ウニ)の「花の指輪さして(꽃반지 끼고)」だ。本ブログで何度か触れているが、残念ながらCDを入手できないでいる。

(本ブログ関連:”キム・ヒジン”)

花の指輪は、いつまでも遡れる言葉だ。幼い頃の花摘みであり、若い二人のぎこちない触れ合いである。イ・ソンヒの歌「You(ヨン)」にも、この言葉がある。こちらはめっぽう明るく突き抜けている。どちらであれ、大事にしたい思い出でもある。

「花の指輪さして」

思い出される その小道
あなたが 作った 花の指輪さして
優しく 手を取り 歩いた 小道が
今では 去ってしまった 美しい 思い出
(トゥルルル~ルルルル~ルルルル)

思い出される その浜辺
あなたと 二人で積んだ砂の城
波頭が寄せた その浜辺も
今では 去ってしまった 美しい 思い出
(トゥルルル~ルルルル~ルルルル)

あなたが 作った 花の指輪
さびしい 夜なら 胸に抱いて
あなたを しのぶ 昔が思い出され
あなたは 遠い 夜空の あの星
(トゥルルル~ルルルル~ルルルル)
あの 星

(Youtubeに登録のsamuel teに感謝)

(付記)
最近、どこか身近な感じする、ちょっとぽっちゃり顔の女性に人気あるようだ。日本のことだが、NTVの水卜麻美アナウンサーとか、NHK渡辺蘭気象予報士とか・・・あっ、もしかしたら私だけの見解かもしれませんが。

2015年4月12日日曜日

西王母

浮世絵に関心があるわけでなく、まして肉筆画に興味が向いたこともない。ただ、ネットのニュースで、江戸中期の浮世絵師、喜多川歌麿(宝暦3年・1753年頃~文化3年・1806年)の手になる中国の仙女「西王母」の肉筆画が発見されたそうだ。

西王母については、例によって、イ・ソンヒの名に「仙」があること→仙界→「山海経」つながりである。

(本ブログ関連:”西王母”、”山海経”)

どんな絵かとネットに探してみれば、浮世絵らしからぬ中国風の色調で、やや面長な(この辺りが浮世絵風か)若い女性のねじるような立ち姿で、いかにも中国の古い衣装を流れるような筆致で描いている。奥にある腰高な卓上に桃が置かれているようだが・・・保存状態のためか古色に滲んでいる。

女性はいい、悪の化身といえど、最後には慈母的な要素が与えられる。鬼子母神にしてしかりである。きっと、物語り作者が捨て置けず少しずつ和らげていったのだろう。桃(=命)を手にするとき、子を抱き上げるとき、生命に直接つながる力を持つだけに視線を変えてしまったようだ。

ところで、この「西王母」の絵は、美術展「肉筆浮世絵-美の競艶 ~浮世絵師が描いた江戸美人100選~」で見ることができる。

美術展巡回スケジュール
【大阪展】 2015年4月14日(火)~6月21日(日)  大阪市立美術館
【長野展】 2015年7月11日(土)~10月13日(火) 北斎館(予定)
【東京展】 2015年11月20日(金)~2016年1月17日(日) 上野の森美術館

今年遅く東京でも開かれるので行ってみたい。

2015年4月11日土曜日

バランスボール

バランスといっても綱渡りのウォーカーでもスコアカードでもない。塩化ビニール製のボールである。体操教室でよく使用しているので、わが家でも同じものを求めて使っている。

(安全のため、品質にはくれぐれもご注意を!)

教室では、固い体を延ばすように、真面目にボールを利用している。一方、家では、それを思い出したように万分の一ほど使っている。気迫不足のためか、もっぱらボールに乗って、ぼんやり体を揺ら揺らしている・・・ばかり。

でも、背筋がしゃきっとする効用に気付き、もう一つ大きなサイズのものをお願いした。今、それに乗りながら、このブログを作成しているところだ。

朝起きたばかりのテレビ視聴用(φ55cm)とパソコン作業用(φ65cm)の2種類となった・・・実は、もう一つあって、手毬サイズ(φ26cm)の小さなものだ。これは、椅子に坐るとき、腰上側の背中と、椅子の背の間に置いて、体が前屈みにならないようにしている。意識付けにけっこう最適。

そんなわけで、体幹がぐっと伸びてきたような・・・気がする。

問題は、決まった時間、決まった回数をきちんとこなすことだ。いつでもできると、置いておくだけにならないようにしたい。


(追記1)
テレビのコメンテーターが言っていた。アメリカの野球選手(二塁手)は、ゴロを低い位置ですくい上げ、体をひねって一塁に送球できる。彼らの肩甲骨が、日本人に比べて動きやすいからだというのだ。だから、アメリカ人に肩こりがない・・・だそうだ。

(追記2)
体操教室の先生の話。歳寄りの猫背は、両肩甲骨間の筋肉の衰え。肩甲骨を背骨に寄せるような運動を勧められた。生徒仲間は家でやっているかな。私は思い出したようにしている。

2015年4月10日金曜日

(資料) 那須野の殺生石

イ・ソンヒが、愛弟子イ・スンギ主演のSBSドラマ「僕のガールフレンドは九尾狐」で、テーマ曲「狐の嫁入り(여우비、天気雨)」を歌って以来、九尾狐や稲荷など狐に関する故事を巡っている。

国立国会図書館のデジタルコレクションに、大正11年出版の「奇蹟ものがたり:行脚しらべ」(物集高見(もずめ たかみ)著、雄文堂, 1922年)がある。いきなり、採集話しに始まって終わる(序文も解説もない)体裁の一般向け奇談集だ。その中で、「那須野の殺生石」があり、帝(=鳥羽上皇)を迷わした九尾狐(=玉藻前)の話が次のように語られている。
なお、著者物集高見は、東京帝大教授を退官後、「在野の学者として研究に没頭し、貧窮の中で全国を行脚して約5万冊の書物を集め、さらにその総てを読破した」(Wikipedia)とある。

(本ブログ関連:”九尾狐”、”殺生石”、”安倍晴明”、”国立国会図書館”)
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「那須野の殺生石」

久寿元年(=1154年)近衛院の御宇、仙洞に一人の美女出現し玉藻と云ふやがて后となりて帝を悩したり。宮中の御騒ぎ一方ならず、投薬看護をさをさ怠りなかりしも、御悩は日々重らせ給ふのみ。依って典薬頭を召して御尋ねありけるに、御悩は御邪気に渡らせ給ふ由申上げたり。さらば陰陽頭を召せとて安倍泰成(=安倍晴明)を呼ばれたるに、泰成は急ぎ御祈祷然るべしと言上に及びたり。何故かと公卿大臣等より御尋ねありければ、さればにて候。これは日頃御寵愛なる玉藻の所為にて候玉藻前は下野国那須野(=栃木県)に住める金毛九尾の狐にて、決して人間にあらず。此の狐昔唐土にては殷の時至の后姐巳(=だっき)となり、玄宗皇帝の時には楊貴妃となり、常に美貌を装ひ、君を迷はし徳を敗り国を傾く。今や又我が朝に渡りて君を悩まし奉るなり。ゆめ御油断あるべからずと憚る所なく申上げたれば、さらばとて泰成に太山府君奉祭御幣の役目仰せ付けられければ、勅命なれば辞むに由なく御受けせり。泰成彼の玉藻前に天神地袛の幣帛をもたせ、祭文を読み立てたれば忽ち御幣を捨て原の狐となって逃げ失せたり。これが為め、君の御悩は立所に平癒しければ御感斜ならず。泰成は世にも稀なる面目を施したり。

其の後三浦介(=義明)上総介(=広常)の両将に対し、那須野狩の院宣ありければ、勅命背き難く、那須野に行きて狩しけるが、名におふ狐の事とて、天に翔り地を走ることさながら神変なり。然し此方も亦東国屈指の名将、争で獣に引けを取るべき、遂に狐を狩取って上洛す。

院には御感の余り、那須野にて狩りし時の装束を着け、当時の有様を模し見せよとの御諚ありて、赤犬一疋出されたり。依って勅に従ひ其の射止めたる模様を御覧に入れければ、実に弓矢の秘術なりと御賞めあり、其の式法を犬追物と名け後永く行はれたり。

又此の狐腹内には金の壷あり、其の中に仏舎利ありたれば、これを院に献じ奉りたり、猶額にありたる白玉はこれを三浦介に、尾の先にありたる二つの針の中其の一つは上総介に賜ひ、狐をば宇治宝蔵に納められけり。那須の殺生石は即ち此の狐の霊を祀りたるものなり。
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上記の最後にある、後日談として、狐の「腹内には金の壷あり、其の中に仏舎利あり」、「額にありたる白玉」、「尾の先にありたる二つの針」など知らなかった。

物語は、モデルとなった皇后美福門院(藤原得子)の美貌に対する嫉妬、寵愛による権勢の確執など背景にあったといわれるが、下野国那須野が登場するのなぜだろうか。

2015年4月9日木曜日

イ・ソンヒの「共存」

イ・ソンヒにとって90年代は、国楽の伝統や同時代の音楽語法などを取り入れたりした、大衆を再獲得するための模索の時代だったという。

(本ブログ関連:”(資料)レジェンド・プロファイル16弾-イ・ソンヒ”)

とはいえ、その時代の空気を直接知らない彼方のファンにとっては、彼女の美しい旋律に接する幸いがある。イ・ソンヒの11集所収の「공존(共存)」(1998年、チョ・ウンヒ作詞、イ・ソンヒ作曲)は、今の若者の耳にどう聞こえるか知らないが、静かな感動を与えてくれる。ある意味ドラマチックである。つい彼女の人生を重ね合わせてしまう・・・考え過ぎかな。

(本ブログ関連:”共存(공존)”)


「共存(공존)」

旅は終わったの、私たちの愛も
戻るには、あまりにも遠い 道に旅立ったわ
夜空の星のように、胸に積もる
一瞬の、愛は過ぎても 思い出は残って

*私のそばに止まった風、私の中にあふれた陽射し
いつか、傍(そば)を通り過ぎていくでしょう
永遠(とは)に私は見れなくとも

一つになれなかった、世界が嫌(いや)になっても
恋しい、私の心の根は
いつも貴方に向いて深いから

(*)以下繰り返し

夜空の星のように、胸に積もる
一瞬の愛は過ぎても、思い出は残ったわ
う~ん

(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2015年4月8日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 花柳東風

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(4/1)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第99回として、春を示す歌3曲を紹介した。

始めに、春の気候は毎年似ていながら、初めて迎えるような気まぐれさがあるという詩を次のように紹介された。
・春の訪れと共に衣替えの時期、人々の服装も軽くなるが、花冷えは突然くる。大陸からの黄砂や、霧が立ち込める日もある。見当がつかぬ天気だ。そんな頃、突然花開く4月になる。中国宋代の詩*に、気まぐれな春の天気を歌ったものがある。
   岸草不知縁底緑     川沿いの草がどうして緑なのか知らない
   山花試問爲誰紅     山に咲く花は誰のために紅いのだろうか
   元造本來惟寂寞     自然を造った神はじっとしているのに
   年年多事是春風     毎年の春風は何と仰々しいのだろう

(*)「張渠(장거)」作と韓国のネットにあるが、日本のネットで見つけられない・・・。

▼ 花と柳と春風を指す演奏「花柳東風(화류동풍)」を聴く。花舞う春を描写する若いフュージョン国楽バンドの曲。

次に、別れに柳を折って渡した妓生の洪娘(홍랑)の詩について次のように紹介された。
・春に、凍り付いた地面と川が融け始めると、冬に留まっていた旅人は旅路につく。中に、別れの名残り惜しい人々もいた。芽ぐみはじめた柳の枝を折って別れの贈り物にした。船場でよく見かけるもので、折った枝がすぐ根を下ろすからだ。見送る者の心を供にさせてという意があった。
・昔、洪娘という妓生が作った、旅路につく恋人に柳を折って<窓の外に植えてください>(人爲試向庭前種)という詩が伝わっている。「柳」の字は「リュウ」と読み、留まるの「留」と同じ音読みする。旅立つ人に留まってほしい気持ちを込めて柳を送った。

▼ 京畿地域の民謡「別れの歌(이별가)」を聴く。別れの場面、随分と冷静で民謡らしさと違った趣すらする。

最後に、 京畿地域の曲、山打令(산타령)の「ノルリャン(놀량)」について次のように紹介された。
・春には、のどかな天気が気持ちを和ませる花見や遠足がある。それぞれ多様な人生があり、生き方がある。
・京畿地方に「ソンソリ(선소리)山打令」がある。「ソンソリ」は、立ったまま歌う意で、動詞の「立つ」(서다)と、「音」(소리)が一つになった言葉。「山打令」は山の打令(=音頭)。妓生が慎ましやかに座って歌うのと比べ、対照的な雰囲気で、歌い手は立ったまま小太鼓を奏したり、布を振り回して踊りながら歌う。山に行って遊ぼうという内容が多いことから「山打令」と言う。山打令は<山や川、草木が生い茂り、見ているだけでも楽しい>という歌詞の「ノルリャン」から始まる。

▼ 京畿地域の山打令から「ノルリャン」を聴く。いいな、掛け声(感嘆)も楽しそう・・・民謡らしい明るさ。

(付記)
今日は完全に冬支度に逆戻り。雨は冷たく重い・・・見た目には霙(みぞれ)と思わせた。本当の春はいつのことか・・・しばらく、ストーブから離れられない。

2015年4月7日火曜日

(雑談) デジタルなこと

デジタルについていけない。ネット上での人間関係がよく分からないためfacebookに全くノータッチだし、twitterには登録したものの囁(ささや)くこともないのでそのままだ。また、街に出てネットを覗くこともないので、スマフォもタブレットといったツールの必要性も感じない。どうしてもといえば、つまり時代に合わせるためなら、タブレットくらいだろうけど、で?何を見るのということになる。

外での通信手段はもっぱらガラケー(携帯端末)で、これで充分と思っている。そういえば、公衆電話を利用したことが最近ない。知人には、今も頑としてガラケーすら持とうとしない御仁もいるけれど。

タブレットを小学生に配る時代だそうだ。それを聞いて思い出すのは、学校で視聴覚機器とかCAIといったツールだ。いつも新しい指導方法を模索する教育者がいる。

昔、日立のBASICマスターというマイコン(=パソコン)で、カセットテープの音声とデータを同期してディスプレイを通じて学習する教育ソフトを作ったことがある。いわゆる機能試作的なものだ。感じたことがあった。それは、目の前に入ってくるまではデジタルだが、それが記憶となり定着するのは人間の頭の中の問題ということだ。

つまり、知識として実となるのは永遠の課題ということだろう。

近頃、「自炊」といって、既存の紙書籍を裁断し、スキャナーにかけpdf化する、電子書籍作りのようなことがある。Youtubeでそんな作業を紹介しているのを見ると、思い出すことがある。必要な書籍を買って「積んどく」だ。購入すれば安心というわけだ。あるいは、必要な資料を、コピー(ゼロックスすると言ったものだが)しておくと、それだけで知識化した気になる。

自炊には、積んどくやコピーに似たところがある。それより、私には書籍が裁断機にかけられる光景が耐えられない。