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2025年8月28日木曜日

「醒睡笑」: 躻(うつけ)2

東洋文庫「醒睡笑」(安楽庵策伝* 集、 鈴木棠三 訳、平凡社)の「 躻(うつけ)」の項に、阿呆ばなしを満載している。

(本ブログ関連:”醒睡笑”、”阿呆”、”阿呆船”)

次の話は、重力を利用して、臼(うす)の中の米を杵(きね)で搗(つ)く作業の途中、ふと思いついたが、吟味不足のまま、すぐに披瀝してしまう「うつけ」がいる。粗忽さに通じる。

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ちっと、たくらだ(ばか)があって、人に向かって、「おれは日本一のことをたくみ出した」と吹聴する。「どんな事を」とたずねると、「されば。臼(うす)で米を搗(つ)くさまを見るに、下へ下る杵(きね)は役に立つが、上へあがる杵は無駄になっている。所詮、上にも臼をかいさま(さかさま)に吊って、それに米をいれて搗けば、上下両方の米がいちどに搗けて、杵の上げ下げがそつになるまい、と思案した」という。そのことばの終わらぬうちに、「その吊り下げる臼に米を入れるにはどうする」と問いつめると、「まことに、その思案はしなかった」。
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どこの国でもありそうな物語だ。ヘルムの村の長老が「夏が暑い」わけを、冬の寒さから紐解く滑稽話がある。一見もっともらしい可笑しさがある。(2021年12月7日火曜日に記載)

(本ブログ関連:”ヘルム”)

2025年6月28日土曜日

「醒睡笑」: 躻(うつけ)

今朝は目覚めが悪く、早朝の野鳥観察(探鳥会)参加を怠けてしまった。掛け時計の針がスローモーションのように進んでいくのを見ながら、ずるずると過ごすうち、集合時刻に間に合わなくなった。

昼に隣り街に出かけた帰り道、古本屋に寄って、平凡社の東洋文庫「醒睡笑」(安楽庵策伝* 集、 鈴木棠三 訳)を手にした。戦国時代の笑い話集で、いってみればポテトチップスを食べる感覚で読めばよい・・・つぎつぎ美味い話が飛び込んでくるのだ。編者の策伝は仏僧なれど、笑い話は宗教臭くない、それが良い。喫茶店でしばらく読んで賞味した。
(*)安楽庵策伝:天文23年(1554年)~ 寛永19年(1642年)

第二章の中の「躻(うつけ)」<愚か者の笑い・・・ばか、まぬけ、「躻」の字は、体の中に大切なものがあるべきなのに、それがないという国字> に、面白い阿保話があって、次のようなものがある。
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ある男が銭を隠すため地面に埋める時、「必ず人の目には蛇に見えて、わが見る時ばかり銭になれよ」と言っているのを、内の者が聞いていて、後で銭を掘り出し、代わりに蛇を入れておいた。例の亭主が後で掘ってみたら蛇が出て来たので、「やれ、おれじゃ。やれ、見忘れたか」と幾度も名のったのは、なかなかの聞き事だった。
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他にこんな話がある。男たちが三人集まって語り合った。しっかり者の家内について、唯一の欠点は怒ったときに亭主の頭を叩くことだと、二人とも同じことを口にした。三人目の男が「お前たちは日本一の躻(うつけ)者じゃ」といって、自分ならこうすると秘訣を得意気に披瀝した・・・「履物をはかずに逃げるがよい」と。

(本ブログ関連:”阿呆”、”阿呆船”、”ヘルム”)

まあ云ってみれば、落語の原点であって、オチがある。そのためには、躻(うつけ)者=阿呆が必要のようだ。

(本ブログ関連:”落語”)

2025年4月1日火曜日

エイプリルフールと洒落と粋(いき)

きょうの4月1日は「エイプリルフール(四月馬鹿)」。しかし一日中雨で寒く、四月馬鹿の名にふさわしい陽気さはない。

(本ブログ関連:”エイプリルフール”、”馬鹿・阿呆”)

エイプリルフールには「洒落」があったはず。わたしの感覚だが、最近それが世間に通じてないような気がする。そもそも外来のイベントだし、それを受け入れる余裕もない。みなが白けた時世だからだろうか。

さらに困るのは、虚実ない交ぜになったエイプリルフールかもしれない。一方から見れば事実になり、他方から見れば嘘(悪意がこもったフェイク)になる。判別できてこそ、洒落と笑い飛ばせるのだが。

日本人の洒落の伝統について、Googleの生成AI「Gemini」に以下のようにたずねてみた。
ー 洒落のめすは、ハイカラにいえば「(いき)」に通じる。それも忘れられて久しい。

■ Gemini
Q.「洒落」という文化は、日本ではいつごろ誕生(発展)したのでしょうか?
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A.「洒落(しゃれ)」の文化は、日本の歴史の中で様々な形で発展してきましたが、特に江戸時代に花開いたと言えるでしょう。

江戸時代の「洒落」
・庶民の娯楽としての発展:
    ー 江戸時代には、庶民の間にユーモアや言葉遊びを交えた文化が広まりました。
    ー 落語や川柳といった娯楽が発展し、日常会話や文章の中にも「洒落」が取り入れられるようになりました。
・「粋(いき)」との関連:
    ー 江戸の「粋」という美意識は、「洒落」と深く結びついていました
    ー 「粋」とは、洗練されたセンスやユーモアを意味し、「洒落」はその表現手段の一つとして重要視されました。
・文化的な背景:
    ー 江戸時代の文化は、庶民の生活や価値観を反映しており、その中で「洒落」は人々のコミュニケーションや娯楽に欠かせない要素となりました。
    ー 着物の柄である江戸小紋などは、幕府の規制の中、庶民が「洒落」を表現した文化と言えます。

「洒落」の源流
言葉遊びの起源は古く、人類が言葉を使い始めた頃から存在していたと考えられます。
・日本においても、古くから和歌や狂言など、言葉を使った芸術が存在し、それらの中に「洒落」の要素が見られます。

現代への影響
・江戸時代の「洒落」の文化は、現代の日本のユーモアや言葉遊びにも影響を与えています。
テレビのお笑い番組や漫画、アニメなど、様々な形で「洒落」の精神が受け継がれています。

このように、「洒落」は、日本の文化の中で長い時間をかけて育まれ、現代においても重要な役割を果たしています。
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(追記)
Geminiに、「」文化が廃(すた)れたのではとたずねたところ、次のような回答があった。(抜粋)
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「粋」が廃れたと感じる人がいるのも事実です。その理由としては、以下のようなものが考えられます。
・情報過多:  情報が溢れる現代社会では、本質を見抜く力が鈍くなりがちです。
・効率重視:  効率や合理性が重視される現代社会では、遊び心や余裕が失われがちです。
・個人主義:  個人主義が浸透する現代社会では、相手を思いやる気持ちが希薄になりがちです。
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2023年12月12日火曜日

子どもの風景

昼、家を出るとき、朝方止んだ雨の湿りがまだ路面に残っているのに気づいた。それでも、きょうは晴れて思いのほか暖かく、最高気温は 17.8℃(13:51)だった。

街の飯屋で昼食を済ませたあとの帰り道、愉快な光景と出合った。下校時の小学低学年の子どもたちが、いろいろなグループになって、はしゃぎながら帰っていたのだ。

女の子たちは、互いの顔を見合わせて楽し気に会話をしながら歩いている。一方、男の子たちは例によって、てんでバラバラだ・・・、そんな中に、二人の男の子が、今朝雨だったので持参した透明のビニール傘を広げて、遊び道具にしていた。歩道にしゃがみこんで、街路樹の根元にある土をつまんでは、互いに相手の傘にかけ合っていたのだ。

透明なビニール傘の中から、かけられた泥がずり落ちる様を見るのがたまらないらしい。こんな喜びを、女の子は気付くことはないだろう。

(本ブログ関連:”ちいさな男の子は阿呆である”)

2023年12月11日月曜日

BIRDER 12月号

見たい映画があるが、きょうは近隣街の大型書店へ寄った。野鳥観察専門誌の「BIRDER」1月号が数日後(12月15日)に発売されるので、その前に12月号を購入しなければと出かけた。

最近、遠出から離れている。公開版の自然観察会(野鳥観察)が先日(12/9)実施されたが、足腰の按配がよくなくて欠席した。そこで観察会欠席を埋め合わせたく、野鳥雑誌を求めた次第。

BIRDER 12月号の特集は「辞書や図鑑が教えない 『鳥の名前』の秘密」で、きれいな写真や図版と一緒に楽しむことができる。そののっけに、漫画「和名って誰がつけたの」(漫画 一日一種)があって、鳥学会に「アホウドリ」が訪れて自分の名前「阿呆鳥」が不満で改名したいと申し出る。(結局、飛ぶのが上手い自信から、考えついた名前が・・・)

(本ブログ関連:”アホウドリ”、”阿呆”)

また、「鳥の名前 雑学」(柴田圭秀)では、一番長い和名を紹介している。それによると、「タイセイヨウシンリンケンバネハチドリ(大西洋森林剣羽蜂鳥)」(IOC World Bird List*)だそうだ。
(*)IOC World Bird List:
    - https://www.worldbirdnames.org/new/

<長い>ことについて、市民体操教室の余興で、グループ分けして、長い言葉(単語)をたくさんメモして、その文字数の多さを競う遊びがあった。体力以外に、脳活性の鍛錬?にもなるからだろう。
昔読んだ本に、英語で一番長い単語の例として、英国の駅名があったような**.....
(**)GoogleのSearch Labs:
イギリスのウェールズ(アングルシー島)にある「Llanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwyllllantysiliogogogoch」(58文字)***で、駅名としては世界最長、地名としても世界で2番目とのこと。
(***)駅名(町名)にちなんだ歌がYoutubeにある:
    - https://www.youtube.com/watch?v=1BXKsQ2nbno

あらためてネットで「英語で一番長い単語」と検索すると、<タンパク質名>とか、<火山灰による肺疾患名>とかいろいろ出てくる・・・あまりに長いので、コピペもできない。

2021年12月7日火曜日

大雪2021

きょうは、二十四節気の「大雪(たいせつ)」。大雪(おおゆき)のイメージがするが、それより「木枯らし」(風速8m以上の北風で、10月半ば~11月末までの間に限る)すら吹いてない。早朝の冷え込みに身が凍みるようになったものの、降雪の気配もまったくない。

(本ブログ関連:”大雪(たいせつ)”)

さて、冬はなぜ寒いのだろう。夏が暑いのに対して・・・。

以前、ブログ(2017年5月22日)に記したが、むかしの東欧にユダヤ人の村「ヘルム」があって、長老が <夏は暑く、冬が寒い分け> を講釈する滑稽話しがある。落語の粗忽長屋の話しと思って聞けばうなづける。
(イディッシュ語作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)に所収の短編「ヘルムの長老とゲネンデルの鍵」より)


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(ヘルムの村の大長老グロナムが言った)
「ゆうべはまんじりともできなんだ - 夏がどうして暑いのか、そのわけを考えあぐんでな。やっと答えは出たが」
「して、どんな」と長老連が声をそろえた。
「つまり、冬のあいだ、村じゅうが暖炉をたく、するとその熱がヘルムぜんたいにたまる、おかげで夏は暑い、こういうわけじゃ」
長老連はうなずいた、ただぼんくらレキッシュだけは別で、こう聞きかえした。
「なら、冬が寒いわけは?」
「わかり切っとる」とグロナムは答えた。「夏場は暖炉に火をくべない、だからせっかくの暑さも冬まで残らん、ただそれだけのことよ」
長老連はグロナムのどえらい知恵をほめそやした。
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ところで、シンガーの児童書・絵本に「ヘルムのあんぽん譚(たん)」(関憲治訳、篠崎書林)があって、上記ヘルム(ここでは町だが)の統治者としてグローナムが登場する。物語は長老と取り巻きたちのそそっかしくて滑稽な語りが展開するが、顛末がいささか生々しい。ヘルムと他所の争いごとに、政治風刺を効かせ過ぎて児童書の枠を超えているように感じられる。せっかくの挿絵(ユーリ・シュレビッツ画)が、ストーリーに引きずられてしまい、勿体ないことになっている。

やっぱり、ヘルムの場所は日々の生活で精いっぱいな住民が織りなす、ときに素っ頓狂でお間抜けな阿呆村でいつづけて欲しい。そこに私たちを見つけてしまうのだから。

2021年5月23日日曜日

(資料)ユダヤのユーモア: Wikipediaより

いままでWikipediaをいろいろ参照したつもりでいたが、イディッシュのユーモアがこんなに豊富にあるなんて知らなかった。東欧ユダヤの自虐ネタは、(宗教上の)自信の裏返しなのか、(現実下の)諦念なのかいつも気になる。ともあれ諸事笑い飛ばす気概は、かれらの底力に違いない。

(本ブログ関連:”阿呆”)

ユダヤのユーモア: Wikipediaより

■Jewish humor
https://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_humor

(本ブログ関連:”ユダヤジョーク”)

■Jewish humor > ヘルム(東欧ユダヤのユーモア)
https://en.wikipedia.org/wiki/Jewish_humor#Che%C5%82m

(本ブログ関連:”ヘルム”)

2021年4月29日木曜日

アホウドリ

探鳥会のベテランの方からいただいた大部の鳥専門誌「BIRDER」のバックナンバーを順に見ていたら、2016年4月号に、外洋性の海鳥「アホウドリ」についての観察記があった。「ぶらり鳥見 散歩道」の連載があって、まさに春の4月にふさわしい「アホウドリが身近に感じる極上の船旅 (八丈島航路)」(筆者 ♪鳥くん)といったタイトルだ。

筆者は、伊豆七島南端の島である八丈島行きの客船「さるびあ丸」に乗船して、オープンデッキから洋上を飛翔するアホウドリをウォッチングする予定だった。しかし海が荒れて三宅島辺りで引き返すことになる。ようやく大島近くに戻ったころになってアホウドリをゆっくり観察できた。なのでいささか乗船記でもあるようだ。

ところで「アホウドリ」の表記に<阿保鳥>と<信天翁>があって、その由来について「野鳥の名前 名前の由来と語源」(著:安部直哉、写真:叶内拓哉、ヤマケイ文庫)は次のように紹介されている。
・<阿保鳥>について、知られたことだが飛翔の力が秀でているものの、脚が短いため地上での歩行動作が鈍いことから、上質の羽毛採取を目的に簡単にあやめられてきた。
・<信天翁>の方は、「天を信じ、天に身をまかせている翁」といった一見立派に聞こえるが、結局は「鈍で阿保な鳥」の暗喩といわれているという。

アホウドリは、そんなわけで分が悪いけれど、私は<阿呆>が好きだ。だからブログに阿保なことを記し続けている。

(本ブログ関連:”阿呆”)

以前も、アホウドリの<阿呆>さに触れた。ボードレールの詩集「惡の華」(訳:堀口大学、新潮文庫)には「信天翁(あほうどり)」の詩があって、それはまあ意地の悪い表現で書き連ねられている。(抜粋)
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   しばしばよ、なぐさめに、船人(ふなびと)ら、
   信天翁を生捕(いけど)るよ、
   潮路(しおじ)の船に追いすがる
   のどけき旅の道づれの海の巨鳥(おおどり)。

   青ぞらの王者の鳥も
   いま甲板(かんぱん)に据(す)えられて、
   恥さらす姿も哀れ、両脇(りょうわき)に、
   白妙(しろたえ)の両の翼(つばさ)の、邪魔げなる、櫂(かい)と似たりな。
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また、アホウドリの学名Phoebastria albatrusから、アルバトロスの名を持つ*。アルバトロスに阿呆の意はなく、むしろ漢字の信天翁の字面に近い印象がある。白髪の預言者なのかもしれない。また、ゴルフ用語にアルバトロスがあって、パーより3打数すくなくカップに入れることで、優れた飛翔力が要る**。
(*)野鳥の学名入門(菊池秀樹氏): http://yacho.org/cbird/pages/4_kazakiri/binomina.htm
(**)鎌倉パブリックゴルフ場: https://kamakura-pg.com/blog_meaning-of-the-albatross/


(余談)
● ところで子どものころ、ご多分にもれず飛行機ファンだった私は、雑誌「航空ファン」に連載された第一次大戦中のドイツの撃墜王、リヒトホーフェンの活躍を読んだ。貴族出身の彼は、乗機アルバトロスの複葉機を赤く塗装させた。それは、日本の戦国武将が<緋威の鎧(ひおどしのよろい)>をまとい存在を誇示したのに通じる気がする。


● 中島みゆきの歌に「あほう鳥」がある。歌詞はいかにも、あんちゃんとその女といった人物模様だが、次のような対の表現が面白い。(以下抜粋)
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   あたしは とても おつむが軽い
   あんたは とても 心が軽い
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余談の余談になってしまうが、彼女の「歌姫」にも印象深い対表現がある。
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    男はいつも 嘘がうまいね
    女よりも子供よりも 嘘がうまいね
    女はいつも 嘘が好きだね
    昨日よりも明日よりも 嘘が好きだね
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2020年8月6日木曜日

おかしな主人公たちの住む町

世の中には色んな阿呆がいる。わたしもその一人で気持ちがよく通じる。もし阿呆たちがそろったらどうなるだろう。収拾の付かないことばかりかもしれないが、意外とよく事が済むかもしれない。

イディッシュ語を少しかじったとき、語学テキストに閑話休題として小話が用意されていた。ストーリーの舞台に「ヘルム」の町(村)が出てくる。当然ながら、架空の町(村)で、ポーランドにあるという。まさにイディッシュの息づかいを感じる気がする。以来、彼らの粗忽さに落語と似た親近感を感じている。

(本ブログ関連:”阿呆”、”ヘルム”)

イディッシュ語作家でもあるアイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)の訳者解説に、同書で話題にしたポーランドのユダヤ人が住む町「ヘルム」の他に、おかしな主人公たちのいる民話の町として次が紹介されていて、以前このブログの「おバカな村」にも記した。
・イギリス「ゴタム」
・オランダ「カンペン」
・イタリア「クネオ」
・ドイツ「シュリートブルク」など

ところで、ドイツにはシュリートブルクの他に「シルダ」というおバカな町があるという。

アンソロジー「日本の名随筆40 愚」(山田風太郎選)に収載の、北杜夫の「阿保について」(「マンボウ人間博物館」の第一話)に、児童文学者のケストナーが記した、<賢人が出張して阿保ばかりが残った*ドイツ中世の「シルダ」の町>について紹介している。
(*)阿保ばかりが残ったのか、賢い者が戻ってきて阿呆の振りをしているだけなのか諸説あるようだ。

■ まず、北杜夫の「阿保」の定義が面白い。精神科医の作家なればこその紹介だが、孫引きする。
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ドイツの誇る精神科医、故ホルスト・ガイヤー博士に、『愚鈍について』という著作がある。彼は白痴患者の専門家であった。その一説、
勤勉は阿呆の埋め合わせにはならない。勤勉な阿呆ほど、はた迷惑なものはない。
・・・・
そもそも世に名高きシルダ人の愚行を記さぬ法はなかろう。シルダ人は、ドイツ中世の伝説の一つで、『ティル・オイレンシュピーゲルのいたずら』と共に、双璧をなしている。いろんな作家がシルダ人の愚行について、童話や小説を書いているが、ケストナーのものがいちばん面白いようだ。
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というわけで、ケストナーの「シルダの町の人びと」が少し触れられている。一匹の海老(ザリガニ)が巻き起こす騒動が面白い。

■ ちくま文庫「ケストナーの『ほらふき男爵』」(池内紀、泉千穂子訳)に所収の「シルダの町の人びと、ザリガニを裁判にかける」は、次のように書かれている。
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ある日、町にやってきたザリガニが、はさみを持っていることから仕立て屋に違いないと町長が結論を出す。さっそく布を切らせてみるとズタズタになる。そこからドタバタが始まり、結果、ザリガニは裁判にかけられる。裁判長は「溺死させるのがよろしい」と死刑を宣告する。
シルダの町の人びとは刑の執行を見守った。「かわいそうだがしかたない。法は曲げられぬ」と。
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こんな具合で、ザリガニは溺死の刑に処せられた。

■ そういえば、上記のシンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」にもこんな話がある(「ヘルムのとんちきまぬけな鯉」)。
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ヘルムの長老から大とんまな男へ贈られた鯉が、ぴしゃりと跳ねて男のお顔を叩いた。罰を与えようといろいろ算段したあげく、結局、溺死の刑に処すことになった。
鯉を湖に投げ込む処刑を見ながら、ヘルムの市民は歓声を挙げた。「卑怯きわまる鯉はおぼれてくたばれ!」と。
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ちなみに、ユダヤ料理の一品に使われる「ゲフィルテ」は、鯉のすり身団子だ。瓶詰から取り出してそのまま食べればさっぱりした味わいだ。わたしは、うどんと一緒に煮こんだりした。少々甘みが出てくるが、ふうふういいながら食うのも美味いものだ。

(本ブログ関連:”ゲフィルテ”)


(参考1)
学問的なことは全く不案内だが、ヘルマン・バウジンガー「ドイツ人はどこまでドイツ的?(2)― 国民性をめぐるステレオタイプ・イメージの虚実と因由 ―」(河野眞訳、愛知大学 言語と文化 No. 21)の翻訳に「シルダ」の町について次のような<訳注>がある。
https://taweb.aichi-u.ac.jp/tgoken/bulletin/pdfs/NO21/04KonoS.pdf
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p.68  シルダ(Schilda):シルダは,架空の都市の名前で,民衆本に頻繁に現れ,その市民はいたずら好きな主人公や,また主人公にからかわれる馬鹿な民衆でもあった。シルダの元になった町としては,ザクセンの「シルダウ (Schildau)」 やブランデンブルクの「シルダ (Schilda)」 などが挙がられる。
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(参考2)
学問的なことは全く不案内だが、「論説 《世間》は日本社会の特異性か?  - 欧文の翻訳における《世間》の用例に即した検証 -」(河野眞)も参考に記す。
https://aichiu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=9219&file_id=22&file_no=1

2019年4月28日日曜日

平成最後の空気「空気の缶詰」

ネットニュースを見ていたら、可笑しくて嬉しくなる話が載っていた。何でも、岐阜県関市の平成(へなり)地区にある「元号橋」上で、まさに手作りの「平成の空気」の缶詰を製造し、4/22以降、地元「道の駅 平成」で販売したそうだ。価格は、ほぼ缶詰の原材料費とのこと。もともと「平成(へなり)」の名を持つ場所だっただけに、元号が「令和」に変わる前に、「平成」のイメージを残すことに意味があったようだ。意外と楽しい広報戦略だ。

ところで、空気の話題といえば、かつて「ハレー彗星」が地球に接近したとき、その尾のために地球の空気がなくなり、人類が絶滅するかもしれないという騒ぎがあったそうだ。人はなぜか終末論が好きで、そんな騒動が何度も繰り返される(キリスト教的世界観の臭いがしないわけではないが)。

子どものころ読んだ児童書の挿絵に、生き残る手段を少しでも確保しようと、空気を詰め込んだ自転車チューブを何本も肩にかついでいる子が描かれていた。貧富の差を見せ付けるような滑稽譚、あるいは、ものごとを真剣に考えているようで何処か底が抜けている阿呆話だ。小さな田舎を舞台にして可能なことだが。

(本ブログ関連:”阿呆”)

幸い、今回の「平成の空気」の缶詰は平和であった時代の象徴だ。「令和の空気」も美味しく吸えることを願っている。

2019年4月21日日曜日

(雑談)信天翁

阿呆と呼ばれてもどこか愛嬌があり、日常を達者に過ごしている。そのくせ抜け目なく、ある意味しっかり者である。ときに道化て笑わせることもあるが、トリックスターのように人を驚かす力を秘めている。そんな生き方も悪くないと思う。

(本ブログ関連:”阿呆”)

けれど、それも機転の効く知恵があるときのはなし。羽を広げて、見下げるように悠々と青空を滑空する「信天翁(アホウドリ)」も、船乗りに捕まれば甲板をよたよた歩き回るだけ。その差があまりに情けない。

そんな「信天翁」を、< 詩人(うたびと)も、哀れ似たり、罵詈満つる俗世の地に下り立てば、巨人の翼、人の世の航路の邪魔よ > とあっさり断じたボードレールは、「悪の華」(堀口大學訳)に所収の「信天翁」で、詩人の言葉巧みさを「巨人の翼」と呼んだものだ。

昔、テレビの討論番組で、ある論者が「わたしは、俯瞰してものを見るのが好きだ」といっていた。それを聞いて、どうか地上に降りてみなと話してくれないだろうかと思ったりした。

2019年3月24日日曜日

痴愚神礼讃

ひとは名誉や名声を競い合うけど、阿呆を競い合うことはない。阿呆は互いに、お前こそ阿呆だというけれど、俺こそ阿呆だとはいわない。周りから見れば同じ阿呆なのだが・・・、阿呆がそういうのだから間違いない。

マトリョーシカ人形のように阿呆はきりがない。だったら、阿呆と互いに承知すれば通じ合うのに、そうならないのが惜しい。

昨日のブログに「阿呆船」から探したが、今日はエラスムスの1511年に刊行した「痴愚神礼讃(Encomium Moriae)」(二宮敬訳)から抜き出してみよう。女神がいうには・・・。

(本ブログ関連:”痴愚神礼讃”、”阿呆船”)

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28  さて今度は、さまざまな技芸のお話をしましょう。このうえもなく優れているように思われる多くの知識を、いったいどうして人間は考え出したり、あとへ伝えたりしたのでしょうかしら? 名誉欲からでないとしたらばね。実際、阿呆の骨頂たる人間どもは、徹夜を重ね汗水流したあげくの果てに、名声という世のなかでもまさにいちばん空しいものを手に入れたつもりになっていたわけなのですよ。皆さんだってやはり、この痴愚の女神のおかげで、人生のあらゆる貴重な利便の余慶にあずかっていらっしゃるのですし、さらに、これはなによりも楽しいことですが、皆さんは他人の阿呆さを利用していらっしゃるのです。
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2019年3月23日土曜日

明け暮れ阿呆

何かよいものはないか、何処かにあるに違いないと探し回り、とどのつまりはたまらない。それもそのはず、安い麻袋に放り込んだが、袋の底が破れていて、何もかも漏れ落とし、軽いのは力が付いたからと勘違いして、後ろを確かめることもしない。

そんな「明け暮れ阿呆」について語る詩がある。S.ブラントが1494年に著した風刺詩集の「阿呆船(Das Narrenschiff )」(尾崎盛景訳)に次のように語られている。(エラスムスの「痴愚神礼讃」(1511年)とともに気休めに活用する)

(本ブログ関連:”阿呆船”)

いろいろよいこと聞きながら
少しも知恵が増しもせず、
何でもかんでも聞きたがり、
ちっともそれでよくならず、
見るもの何でも欲しがって、
いつになってもかっこ鳥。
新しいものならとびついて、
そのすぐ後で熱がさめ、
またほかのものに手をのばす、
阿呆の持病じゃなかろうか。
・・・

この阿呆船には、いずれも阿呆がちりばめられ、もしもそこから漏れているなら名乗り出よとのこと。いやはや、どれもこれもわが身に立ち返ることしきり。阿呆さ加減を思い知ることになる。

2019年3月14日木曜日

ヘルム

イディッシュの小話に、お馬鹿(阿呆、あんぽんたん)な人々が登場する街(町、村)がある。賢人(町の指導者、宗教的な指導者)といわれる人も、粗忽な者もみなどこかおかしい。大真面目に頓珍漢なのだ。

(本ブログ関連:”ヘルム”(架空の阿呆村))

そんな、お馬鹿な場所の代表が「ヘルム(כעלעם[khelem])」だ。ポーランド語で「ヘウム(Chełm)」と呼ばれる(「L」の文字に斜め線(ストローク)を付けて[w]と発音)そうだ。ポーランド東部の国境沿いにあり、ウクライナに程近い。Wikipediaで歴史をたどれば複雑で、庶民はあっちに属したり、こっちに属したり大変だ。(一方、目鼻のきく知識人(インテリ)は、先読みの嗅覚が鋭く、融通がきき逃げるのも庶民より早い。それを「亡命」と呼ぶ)

ユダヤ人庶民は、そんな目の廻る場所を笑いの場に変えたようだ。お馬鹿なユダヤ人の住む架空の場所「ヘルム」として登場する。(「ヘウムの賢いユダヤ人」Wikipedia)

以前、イディッシュ語の授業で、ポーランドに永く住んだクラスメイトが、テキストに出てくるヘルムの町について、たしかにポーランドに存在するが、そんな理解をしたことはないと怪訝な顔をされた。笑いの場所「ヘルム」は、特定の街をターゲットにしたというより、落語の「長屋」と同様な、ユダヤ人の仮の舞台なのだろう。

「ヘルム」の人々は善良である。ただ融通がきかないだけである。

2019年3月8日金曜日

ビデオ漫画「お馬鹿村」

お馬鹿な生き方をしてみたいけど、実際は難しい。地は阿呆なのに、そのまま振る舞える場所もないし、時は遠に失した。何処かにないか、イデッシュの民話に出て来る「ヘルム」のような町もいい。日本じゃ、それに例える場所を知らない・・・、舞台は見せてくれるが、吉本新喜劇の「なんばグランド花月劇場」、むかしの浅草なら「デン助劇場」。ここは芸達者なつわものの仮の世界。

(本ブログ関連:”ヘルム”(架空の阿呆村))

世界の誰れもが求めている、そんな場所はないものか。「お馬鹿村」に言葉は要らない、見りゃ分かる。次は、ロシア - ウクライナの スケッチコメディのテレビシリーズ(Calambur)だそうだがよく知りません。花の香りはよいけれど堆肥は臭い・・・飛んできた魚が生臭いという熊なんて。一方、釣った魚がどこかへ飛んでったようで・・・酒臭い同士はどうってことないのに・・・。続編をお楽しみということで・・・。


(Youtubeに登録のFool's Villageに感謝)

2018年7月26日木曜日

春期イディッシュ語 2018-15th (終業)

今日、「イディッシュ語教室」の春期間コースが終業した。とはいえ、夏休みコース、秋期間コースが控えているので休むことはできない。

最終日らしく、授業は今までと違ってチャレンジングなものだった。基本テキストの新たな章(過去形)から読み物を2つ選び出し、輪読・読解するというのだ。事前に下読みしていないと手に負えないのに、他の出席者はそれを難なくこなした。凄い!

(本ブログ関連:”春期イディッシュ語 2018”)

先生のイディッシュ語話者との経験で聞き知ったまざまな情報をまじえて進められた。
① 基本テキスト「Colloquial Yiddish」
  次の2つの読み物について、先生の基本的な解説の後、輪読する。
  ・対話編:(仮題)「!אױ װײ! איך האָב פֿאַרגעסן אָנצינדן דעם אױװן
                 (何てこと、オーブンに火をつけるのを忘れてた)
  ・読み物:「הערשעלע גײט אין קרעטשמע
                (ヘルシェレが居酒屋へ行く)*
② 「イディッシュ語-英語」辞書の紹介
   ・ケンタッキー大学版のネット辞書:
      https://www.cs.uky.edu/~raphael/yiddish/dictionary.cgi


(*)ヘルシェレ(Hershel of Ostropol): Wikipediaに、この人物と上記の読み物と思われる小話「My Father」が紹介されている。実在の人だそうだが、<貧乏を逆手に取った> 小話が面白い。ただし、テキストとWikipediaに相違はあるけど。
実在の人物だそうで、阿呆村「ヘルム」の住民のことでもないようだが、どこからどこまでが実像なのか気になる。

(本ブログ関連:”ヘルム”)

ところで、できもしない脅かしをして、ことを済まそうとするのは、「玄関をお借りしたい」と狂言切腹しようとする話とどこか似た感じがする。(映画「切腹」:時代劇感想文集に感謝)

2018年5月1日火曜日

(資料)シュメンドリク

阿呆村の「ヘルム」につながるだろう。見たまま、羅列しただけの未整理資料。


「阿呆村(Village of Idiots)」
劇作家ジョン・ラザルス(John Lazarus)が脚色したユダヤ民話をもとにした、(お馬鹿な主人公)シュメンドリク(Shmendrik)の物語を伝える短編アニメである。

落語の「粗忽長屋」を思い出させる「入れ子構造」のような展開。


(Youtubeに登録のAnimation and Cartoon Videosに感謝)


「故郷」から遠く離れて : イディッシュ演劇がニューヨークで手探りしたもの
小倉直子(首都大学東京)
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・イディッシュ演劇は、1876年、アブラハム・ゴールドファーデンのふとした思いつきからルーマニアのヤーシという町に生まれたと言われている。ゴールドファーデンは、それ以前からもイディッシュ語による詩作に励んでいたが、・・・

・”イディッシュ演劇の父” ゴールドファーデンは、ユダヤの伝統や伝説を戯曲化し続けた。あるいは、西欧演劇のプロットもユダヤ風に仕立て直した。例えば、東欧. ユダヤ社会に根付いていた道化師(バトフン)をモチーフに喜劇を描いたり(『シュメンドリク (SHMENDRIK)』) ・・・
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
ユダヤ演劇
ゴールドフェドン Goldfaden,Abraham
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[生]1840.7.12. ウクライナ
[没]1908.1.9. ニューヨーク
・ユダヤ系劇作家。ウクライナに生れ,ユダヤ人の生活を描いた約 400編の劇やミュージカルを発表するとともに,俳優や劇団を育成,イディシュ演劇 (→ユダヤ演劇 ) の創始者となる。 1887年アメリカに渡る。『戦うダビデ』 (1904) はアメリカにおける最初のヘブライ語劇。代表作は『シュラミート』 Shulamit (1880) 。
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
ユダヤ演劇
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・1876年にイディッシュ演劇の父とよばれるアブラハム・ゴールドファーデン(1840―1908)がルーマニアのヤーシに最初のイディッシュ劇場を開設した。彼は俳優・演出家であったが、『魔女』や『スラミート』のような劇も書き、とくにミュージカル風な上演様式を確立した。第二のイディッシュ劇場は、現在のリトアニア共和国のビリニュスに、ゴールドファーデン一座の俳優だったイスラエル・グラードナーが作家ヨセフ・ラタイナー(1853―1935)の協力を得てほぼ同時代に設立したものである。
・しかしアレクサンドル2世暗殺後1883年にロシアではイディッシュ演劇が禁止されたので、ゴールドファーデンはじめ多くの人々がアメリカに亡命し、東欧ユダヤ人の運命を扱う作品を上演した。
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2018年4月30日月曜日

ヘルムの住民が愚か者たちであるわけ

「イディッシュ語教室」のテキストに、気真面目で可笑しく、そして怪しくてこっけいなイディッシュのひとびとが住む「ヘルム(Khelem、כעלעם)」の町(村)が登場する(Village of Idiots)。ポーランドに「ヘルム市」(昔、ユダヤ人コミュニティが隆盛を誇った時期もあったようだ・・・)が実在するそうだが、関連付けを素人耳に聞いたことはない。寓話の「ヘルム」は、あくまでも架空の共同体で、いってみれば、落語に描かれる長屋のようなものだろう。ヘルムには、長老と呼ばれる賢人から下々まで。落語には、大家さんから熊さん八さんまで多彩である。そして、それぞれにへまをやる。

(本ブログ関連:”ヘルム”(架空の阿呆村))

イディッシュ民話の宝箱である、ベアトリス・ヴァインライヒ(Beatrice  Weinreich)著の「イディッシュの民話(Yiddish Folktales)」(秦剛平訳、青土社)に、「 ヘルムの住民が愚か者たちであるわけ 」を次のように短く説明している。
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ある日のこと、一年サイクルのトーラーの朗読がはじまろうとしていたとき、新任のバール コイレ(=トーラーの読師)がヘルムの街にやって来た。そのバール コイレ学究肌ではなく、
「ブレイシェス、ボロ・エロヒーム・ハショマイーム(はじめに、神は天を造った)」読むべき箇所を、
「ブレイシェス、ボロ・エロヒーム・エス・・・ハショイティーム(はじめに、神は愚か者を造った」)と読んでしまった。
それ以来、よきにつけあしきにつけ、ヘルムの住民は愚か者と見なされるようになった。
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ヘブライ語の理解がないので、「読師」が誤読した面白さを間接的に知るわけで、ここに引用しながら意気があがらない。

2018年4月26日木曜日

春期イディッシュ語 2018-4th

中学時代、学校の図書館に《 聞き書きの日本の民話集 》がずらりと並んでいた。それぞれの民話に共通するものがあるのではないかと読み比べたりしたが、無力の子どもには、まとめる力などなくあっさり挫折した。けれど民話には、集団が育み受け継いだ独特な知恵があると今でも思っている。

(本ブログ関連:”遠野物語”)

古いイディッシュ(東欧ユダヤ人)の伝承(民話、小話)をもっと知りたい。庶民は、現実の厳しい生活を受け止め、苦境を切り抜けてきたわけで、それを面白おかしく笑い飛ばす軽妙さを持っているはず。そんな庶民のたくましさを、今日の「イディッシュ語教室」でも教えていただいた。イディッシュのひとびとへ、ちょっとだけ近づいた気がした。

今回は、前回(4/19)とつながりを持たせて理解を深めた。(前回欠席者への配慮もあってでしょうか)

① テキスト「Colloquial Yiddish」所収のイディッシュ民話(小話)から。
次の民話(小話)をグループに分かれてロールプレイした。
  ①-1.前回に引き続き「7と7は11זיבן און זיבן איז עלף)」から。
  ①-2.以前学習の「二人のヘルムの住人(イディッシュ)と椅子צװײ כעלעמער ייִדן און אַ בענקל)」から。

(本ブログ関連:”ヘルム(架空の阿呆村)”)

② イディッシュの歌から。
  ②-1.「Yome Yome(יאמע יאמע)」の歌詞原文と譜面を、音楽家が手配いただき、みなで読み歌った。
  ②-2.「Sleep my child(שלאָף מײַן קינד」(ショーレム・アレイヘム詩)の紹介があった。

(Youtubeに登録のguauguau6に感謝)

③ 今回、イディッシュ語の大家上田和夫氏が、「言語学大辞典」(三省堂)に執筆された「イディッシュ語」について、若き中国語研究者が資料紹介され、先生大絶賛。


ポーランドについて造詣が深い若き中国語研究者から、「中欧 ポーランド・チェコスロバキア・ハンガリー」(沼野充義監修、新潮社)を貸してもらい・・・ゴールデンウィークの読書にさせていただく。

2018年2月9日金曜日

イディッシュの阿呆酒場 7+7=11

イディッシュ語のテキストに、毎度馴染みの「ヘルム(כעלעם)」の村(町)らしき舞台があって、そこでありそうな阿呆酒場の話がある。7+7=11 となる、例によってイディッシュらしい、視点を混乱させるひねくりジョークだ。

(本ブログ関連:”ヘルム”)

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・男が酒場で飲食して、「お勘定!」と頼んだ。
・女将(おかみ)がいうには、「肉ジャガが7グロシュ、パンも7グロシュ、合わせて11グロシュ」
・横の客(פֿרעמדער)が「そりゃ違う」、「7と7で14だろ」といった。
・女将がいうには、「いいや、これでいい。知ってるでしょ。わたしゃ、前の旦那との間に4人子どもがいる。今の旦那は4人の連れ子がいて、私との間で3人産んだ。だから、わたしゃ7人の子を産んだし、今の旦那にも7人の子がいる。けれど、わが家にゃ子が、11人いて、14人じゃない。」
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何が間違いかって?
本当は、前の旦那との間に4人、今の旦那との間に連れ子を含めて7人、合わせて11人でしかない。ところが、今の旦那との間にできた3人の子どもを、女将と今の旦那の両方の視点で見て、二重に計上していることになる。ユダヤ人はこんなだまし絵のようなジョークが好きなんだろうか。

(追記)
女将の計算を「違う」といった客は、生真面目にそういったに違いない・・・けれど、客=פֿרעמדער(foreigner)が、この酒場を知らぬ一見のよそ者だったとしたら、ちょっと面白いことになる。地元客は、女将の勘違いを以前から知っていて、知らぬ顔を決めていたのかもしれないからだ。女将、よそ者、そして地元客との関係が見えてくる。
そういえば、どこかで聞いたような勘定違い・・・落語の「時そば」を思い出す。