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2025年5月25日日曜日

(江戸東京博物館コレクション)江戸東京のくらしと食べ物

昨深夜の雨は早朝に止み、路地に微かな雨跡を残すのみになった。そういえば、きょうは日曜日、小金井公園の賑わいを見てみようと昼(12時ころ)に出かけた。

公園東側から入り、学生たちがテニスコートの全面でラリー練習しているのを脇に見て過ぎ、「ゆりのき広場」でサッカーなどで遊ぶたくさんの親子連れを眺めて通り抜け、「こども広場」で遊具を使って楽しむ子どもたちの大声を耳にして、「江戸東京たてもの園」にたどり着いた。

「東京都江戸東京博物館」の分館である江戸東京たてもの園で、「江戸東京博物館コレクション ~ 江戸東京のくらしと食べ物 ~」(3/20~6/15)の特別展が開催されている。江戸期の武蔵野新田開発後の食生活が見られるかもと期待して出かけた。実際は、江戸市中の食文化に関する文献の展示といったところが中心で、WWⅡ後の生活(闇市・食器具)まで展示された。
そんなわけで、武蔵野(および葛西)と江戸との関係を示すのは、次図のみである。展示解説冊子に、次のように記している。
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大消費地であった江戸には、その周辺の村落から水路や陸路を経て、その地域でとれた商品作物が送られてきた。
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武蔵野から江戸に陸路で穀類(大麦・小麦・栗など)、および小麦・蕎麦は水車で加工してにしたものが運ばれたようだ。(ちなみに、は葛西方面から送られている)


上記の通り、江戸の食文化に関連する文献・書籍が精緻に造本されていることに驚く。よくぞここまでと思うほど、まるで活版印刷のごとく刷られている。「食文化」について、江戸独自の美味礼讃の書もあったろうと思うが、今回は西洋料理との関係で語られているようだ。

江戸のランキングで見る人気料理(写真左)、豆腐百珍(写真右)
・「日用倹約料理仕方各力番付」:日常の倹約料理の番付として、【精進方】 大関「はちはいどうふ」、【魚類方】 大関「めざしいわし」がある(相撲番付と同様、定期的に変わる)
・百珍物の先駆けとなった「豆腐百珍」(醒狂道人何必醇 著、天明2年(1782年)5月)

2024年7月2日火曜日

うどん

きょうは、香川県の製麺事業協同組合が定めた「うどんの日」(1980年:昭和55年)という。「うどん」は、スーパーなどで買ってん、めんを自宅でゆでて食するだけでなく、駅前や駅中の立ち喰い「そば・うどん屋」、チェーン店の「うどん屋」で気軽に食べられる・・・おじさんを超えた国民食である。海外の映画で、場面作りに「うどん食」があるので、世界食になるのもそんなに遠くないかもしれない。

(本ブログ関連:”うどん”)

映画「ブレードランナー」の屋台(サイバーパンクのある意味象徴的な場面)
(Youtubeに登録の 佐藤大輔 氏に感謝)

(本ブログ関連:”ブレードランナー”)

以前、地元の市民講座で、江戸時代の「武蔵野新田」の主要な作物は、段丘上の乾燥した農地ゆえ「麦作」*と聞いた。「水田」は、武蔵野段丘の下側、国分寺崖線から浸み出る湧水を利用できる一部の地しかなかったという。
(*)https://kodaira-tourism.com/tamarokuto/18820/

(本ブログ関連:”小金井の新田開発”)

それを聞いて、ならば日常は「うどん」を食していたのだろうと勝手に想像した。講演の後、講師の方に確認したところ、「うどん」は「ハレ」のときに食べるものであると教えられた。その後、当時の日常は「石臼で大麦をこまかく砕いたひき割り麦や、押し麦にウルチの陸稲をまぜたメシと味噌汁、漬物、煮物が日常食であった」と知った。

「うどん」が、どれほど貴重なものだったかという理解に届かぬほど、今の私たちは豊富な食物を享受している。
さらに、郷土の人びとが厳しい食事をしていたなかで、今に命を伝えてくれたことに感謝をせずにはいられない。

参考
(もしかしたら同様のQ/Aをしたかもしれないが)、江戸時代の武蔵野新田に生きた農民たちの食事を、生成AIの「ChatGPT」、「Gemini」に問うてみたのが次の通り。

■ ChatGPT
Q,日本の江戸時代に、水田がなくて稲作が不適なため麦作中心だった「武蔵野新田」の農民は、日頃どんな食事をしていたのでしょうか?
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A,江戸時代の武蔵野新田の農民たちが日常的に摂っていた食事については、以下のような特徴があります。

主食
    ・麦(小麦・大麦):武蔵野新田では稲作が難しいため、主食として麦が中心でした。麦飯(大麦と米を混ぜたもの)や麦粥が一般的でした。
    ・雑穀:ヒエ、アワ、キビなどの雑穀も食べられていました。
副食
    ・野菜:畑で栽培された大根、カブ、カボチャ、ナス、キュウリ、ネギなどの野菜を食べていました。また、野草や山菜も重要な食材でした。
    ・豆類:大豆、小豆、エンドウ豆などがよく食べられ、豆腐や味噌、納豆などに加工されていました。
    ・魚介類:内陸部であるため新鮮な魚介類は少なく、干物や塩漬けなどの保存食として利用されていました。
    ・動物性食品:家畜や鶏の卵、狩猟で得た動物の肉(野鳥や小動物)も食されましたが、量は限られていました。
調味料
    ・味噌:大豆を使った味噌は一般的な調味料であり、汁物や煮物に使われました。
    ・醤油:味噌と同様に、江戸時代には既に醤油も広く使われていました。
    ・塩:保存のためや味付けのために塩が重要でした。
食事の例
    ・朝食:麦飯、味噌汁、漬物
    ・昼食:残り物や簡単な野菜料理
    ・夕食:麦飯、野菜の煮物や炒め物、豆腐や納豆、時には魚の干物

このように、武蔵野新田の農民たちは地元で入手できる食材を工夫して利用し、栄養バランスを取って生活していました。
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■ Gemini
Q.江戸時代、水田がなく白米が手に入らない、麦作中心の「武蔵野新田」の農民は、日頃どんな食事をしていたのでしょうか?
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A.江戸時代、武蔵野新田の農民の食事:麦作中心の食卓
江戸時代の武蔵野新田は、水田がなく白米が手に入りにくい地域でした。そのため、農民の食事は麦を主食とした質素なものだったと言えるでしょう。

主食
    ・麦飯: 麦を炊いた麦飯が主食でした。白米に比べると栄養価が低く、消化も悪いものでした。
    ・麦粥: 麦を煮込んだ麦粥も主食として食べられました。
    ・雑穀粥: 稗、粟、黍などの雑穀を麦と一緒に煮込んだ雑穀粥も食べられていました。
おかず
    ・野菜: 大根、カブ、ネギ、ゴボウ、ニンジンなどの野菜を自家菜園で栽培し、漬物、煮物、汁物にしていました。
    ・きのこ: 山に入ってきのこを採ってきて、煮物や汁物にしていました。
    ・豆類: 大豆、小豆、えんどう豆などの豆類を栽培し、味噌、醤油、豆腐、納豆などの加工食品を作っていました。
    ・保存食: 漬け物、干し物、味噌、醤油などを保存食として常備していました。
肉・魚
    ・肉: 馬肉やイノシシ肉などの野生動物の肉を狩猟で獲ることが稀にありました。
    ・魚: 川魚を釣ったり、干物や塩漬けにして保存したりしていました。
その他
    ・ドングリ: 凶作の年には、ドングリを拾って粉にして餅や団子を作ることがありました。
調味料
    ・味噌: 大豆を塩こうじで発酵させた味噌は、汁物や煮物の味付けに使われていました。
    ・醤油: 大豆と小麦を塩こうじで発酵させた醤油は、貴重な調味料でした。
    ・塩: 海水から塩を採って、料理の味付けに使っていました。
飲み物
    ・水: 水を主な飲み物としていました。
    ・麦茶: 麦を炒って麦茶を作っていました。
    ・甘酒: 米麹を発酵させた甘酒を飲むこともありました。
白米
    白米は貴重なものだったため、正月など特別な日のみに食べる「祝飯(いわいい)」として扱われていました。

麦作以外の収入
農業以外にも、薪炭の販売、機織り、日雇い労働などを行い、収入を得ていました。

まとめ
江戸時代、水田がなく白米が手に入らない、麦作中心の武蔵野新田の農民の食事は、現代の食卓から見ると質素なものだったと言えるでしょう。しかし、限られた食材を工夫して、栄養バランスを考えながら食事を作っていたことが窺えます。

参考資料
・東北大学附属図書館企画展トップページ / 第4部資料一覧
    https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/sp/r3/part2.html
・江戸時代の食事情/江戸庶民のおかず|日本食文化の醤油を知る
    http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/edo-reference15c.html
・武蔵野新田の歴史:
    https://www.city.musashino.lg.jp/
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映画「ブラックレイン」の屋台
(Youtubeに登録のMovieclips に感謝)

2023年3月14日火曜日

はったい粉、こうせん、麦こがし

先日(3/12)、地方産物店で(商品名)「麦こうせん」を見つけた。千葉県産とのこと、1袋100gしかないので2袋購入した。他にも他県のポンカンも買ったわけだが、レジで「これ(麦こうせん)って、どうやって食べるのですか」と聞かれたので、「砂糖を入れて、お湯をそそぐだけなんですよ」と応えた。いたってシンプルな作り方だ。

レジの若い女性が「そういえば、お婆さんが食べていた」というので、私は「子どものころ食べたもんですよ」と付け加えた。麦こうせんは、今となっては知っているようで知られぬ食べ物になったのかもしれない。店を出ながら、お湯を注ぐとチョコレート色に変わり、麦の香ばしい香りがしてくると心の中で補足した。

子どものころ、「麦こうせん(麦香煎)」と言ったことはなく、「はったい粉(糗粉)」*と呼んでいた。他にオーソドックスな「麦焦がし(むぎこがし)」の名称もあるが、いずれもしっくりこないけど・・・口にすれば同じ懐かしさに包まれる。
(*)糗粉の「糗」: 焼かれた小麦、米など(Wilitionary

舌触りに「落雁(らくがん)」を思い出すが、対してこちらは超日常のおやつである。また、「日本はったい粉協会」**のサイトに、徳川家康の好物だったとの解説もある。
(**) https://hattaiko.com/rekishi/

むかしは、はったい粉がいつでも食べられた。お湯加減が微妙で、パサパサになったり、ドロドロになったりする。親に作ってもらうと丁度よい、だから懐かしいのだ。それを思い出して求めたわけだが、今回はパサパサして粉っぽくなった。でも、この味に浸って一口ごとに、ああこれこれと心地よい。

2019年4月19日金曜日

脱穀「棒打ち唄(麦打ち唄)」

歯科治療を済ませて外に出れば、あまりの天気の良さに誘われて公園散歩に足が向く。途中、「ソメイヨシノ(染井吉野)」が咲き誇った歩道を、今は代わりに「ヤエザクラ(八重桜)」が満開。今年、ソメイヨシノは咲き始めてすぐに寒さが続いたせいか長持ちした。おかげで、小学校の卒業式にも入学式にも間に合ったのは幸いだ。

公園の明るい原っぱで、大勢の幼稚園児か保育園児か、親と一緒に手をつないでアーチをつくり、そこを次々に親子が輪くぐり抜ける、まるで入れ子のような遊びをしていた。
(駐車場に、彼らを乗せて来たのだろう大型バスが数台並んでいた)

「ハナモモ」や「ベニバナ」の木が、白色、桃色、紅色に花を咲かせ、まるで春を手に取ることができるよう目の前で繚乱していた。

園内の施設「たてもの園」で、郷土の歴史と民俗について展示があったので覗いて見ることにした。気を引いたものは、小麦の脱穀農機具の陳列だ。もちろん、現在、この地域で麦作を見ることはない。それでも伝統として、「棒打ち唄(麦打ち唄)」の民謡が保存されていて、次に記す詞で歌う労働作業の映像が紹介されていた。(「むしろ(筵)」の上に置かれた)麦穂を打って実を取り出す脱穀作業のとき使う、「くるり棒(唐棹)」を降りおろしながら歌う様子がわかる。歌には次の特徴がある。
・野外での脱穀(棒打ち)のためか空模様が気にかかる
・民謡の定番といえる、年頃の娘を語る。

(本ブログ関連:”麦打唄 ”)

「棒打ち唄」(立川市砂川地区伝承民謡保存会)
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ホイホイホイ
大岳山の黒雲が
ホイホイホイ
あの雲がかかれば雨かあられか
ホイホイホイホイホイ

砂川の宿は長い宿
ホイホイホイ
長いとて物干し竿にゃなるまい
ホイホイホイホイホイ

お前さんはいくつなんの年
ホイホイホイ
十と六ささぎの年でまり頃
ホイホイホイホイホイ

十七つれて瓜山へ
ホイホイホイ
瓜の葉を寝ござに瓜を枕に
ホイホイホイホイホイ

十時のお茶にゃ何が良い
ホイホイホイ
芋で良しさつまで良し焼き餅ならなお良し
ホイホイホイホイホイ

あの山影で鳴く鳥は
ホイホイホイ
声も良し音も良し山の響きで
ホイホイホイホイホイ
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(参考1) Youtubeに多摩地域(清瀬、谷保)の「棒打ち唄」が登録されている。

(参考2) 岩波文庫の「日本の民謡集」に所収の「武蔵野麦打唄」
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[甲]〽十七八の 麦打は(ホイ ホイ ホイ)
[乙]〽くるり棒が 折れるか芒(のげ)が 折れるか(ホイ ホイ ホイ)
お天道さまの申し子は 百日の 日照りに笠もかぶらず
目出度やこれの麦打ちは 日和よく 風出て芒を立てたや
牡丹餅はやる世の中に 俺(おら)がでは 碾割花(かきわりばな)の焼餅
大嶽山の黒雲 あの雲が かかれば雨か嵐か
十七八はねむいもの 朝おきて 米とぎ桶を枕に
皆若い衆 江戸々々と 江戸だとて 枯れ木に花は咲くまい
お江戸に三日居て見たい 上様の 御用の水を汲みたい
今日の麦はこれ限り 明日は又 どなたの麦を打つやら
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2018年11月8日木曜日

Yiddish語 2018秋-6

ネットで話題になったことだが、或る作家が、昔の農民(百姓)がどんなものを食べていたかを記した内容について、学校の歴史教師が批判したという。外野から見て気になったのは、その教師が、学校が在る地元の郷土史を普段参照しているのだろうかということだ。

私の記憶では、学校の歴史授業で郷土史を語ってくれた教師はいなかった。自分たちの先祖の生活に戻って過去の一端を探れば、歴史が身近になったのではと大変惜しまれる。その上で、歴史教育家たちの作った教科書に戻って語れば、歴史が具体的になった気がするのだが。

江戸時代に開発されたこの地は、乾いた台地上にあり、小麦、野菜くらいしか作れず、水田は台地の下を流れる小川を囲むわずかな場所にしかなかったという。そんなわけで、生活は苦しく、日常の食事は雑穀が主体だった(うどんはハレの日ぐらい)。それは、明治大正期ころまで及んだという。
当然、江戸の時代に、長男以外に土地は相続されず、次男三男は家付きのまま一生独身で過ごすか、江戸の町に出るしかない。才能のある者は、運がよければどこかの農家の養子になって跡を継ぐことができた。

(本ブログ関連:”小麦”)

私たちは運がいい、そんな過去から生まれ残ったものであり、今この世界の中で驚くほど豊に暮らしている。私たちが口にする正義が、どんなに運のよいものか。

おっとと、今日のイディッシュ語の授業について記すはずだったのに・・・前段が長過ぎたようで。

(本ブログ関連:”Yiddish語 2018秋”)

授業の前半は、慎重な女性とお気楽な男性の会話。内容を噛み砕くように、ゆっくりイディッシュ語のみのスタイルで解説いただく。せっかくのストーリー、先生の筆力でユダヤジョークらしい風味が増しているというのに・・・その面白さに、直ぐに気付けぬ残念さ。

後半は、児童向け教材「דער אָנהײבער(The Beginner)」の中から、男の子が、我がまま半分に、お母さんへ食べ物ねだりするといった内容。登場する男の子と女の子、どちらが年上なのやら、教科書のあちこちの場面で、二転三転するのが面白い。

そんなわけで、頭の中は柔軟体操になってしまい、帰りの地下鉄で転寝し放題だった。

2012年4月28日土曜日

ミュージアムトーク「小麦と武蔵野のくらし」

江戸東京たてもの園で開催中の「小麦と武蔵野のくらし - 人が集まればうどん -」展(4/21~7/8)に、学芸員によるミュージアムトークを聴きに行く。

展示室の個々の展示品について、親しみやすく解説(ミュージアムトーク)していただいた。民族植物学という分野を専攻されているそうだ。初めて聞いた学問分野だが、農耕民族の日本人にとって馴染みやすそうな気がする。
(インターネットで学術誌(概要)を見ると・・・研究者はやっぱりすごいなと感心するばかり。)

さて先日(4/21)のブログで、展示解説書によって触れたので、今回は追記だけにする。
・多摩川上水からの分流水は、飲料水などに使われたもので農耕用ではない。
 → ご近所にも、南北に続く幅2m程度の極端に狭い路地があって、これがどうやら水路跡のようだ。
・嫁入りで婿の家に入る際に、2本の麦藁をタイマツとして地面に押したて、その間を通り抜けるという民俗行事が清瀬市にあった。余談として、もし嫁が狐なら尻尾を出すだろうという言い伝えがあったそうだ。
 → 狐?ということで、「僕の彼女は九尾狐<クミホ>」を思い出した。
・麦藁は盆の迎え火にも使われ、人の人生と密接に関わっているとのこと。
・江戸時代からの貯穀という(大量の穀物の貯蔵)制度があって、特にその共同性を評価されていた。
 → 指摘されたように、最近の自然の驚異を目の当たりにすると十分に納得できる。
・昔、米は貴重品で、米>>>(うどん)>>麦・雑穀、の順のようたった。(聞いたイメージで!)

展示解説書を見ながらもう一度展示品を見てみようかな。

そうそう、展示室外の廊下に置かれたディスプレイで、麦打ちの記録映像が上映されていた。貴重な映像だけに、是非とも映像所有部門にてYoutubeなどに登録・公開していただければと願う。

(付記)
小金井公園に向かう道に、ハナミズキの並木道がある。白い花が春の暖かい陽射しをうけて華やいで見えた。途中に法政大学工学部小金井キャンパスがあって、通りから見える施設の2階にスエヒロののぼりが立っている。部外者でも食事できる。

2012年4月21日土曜日

(資料)小麦と武蔵野のくらし

小金井公園にある「江戸たてもの園」で、開園20周年記念特別展として「小麦と武蔵野のくらし」展が今日から始まった。水利の乏しい武蔵野台地で、新田開発した人々の糧でもあった小麦が、どのように栽培され、食されたかが紹介される。昭和期以降の展示が中心で、写真や農機具を通して人々の生活がうかがえる。

以前、地元公民館主催の郷土の歴史散歩シリーズに参加して、江戸期以来の人々の暮らし振りを聞いたことがある。昔の人々が、決して豊かとはいえない、(現在と比べれば)むしろ粗食と思える食事をしていたことを知った。

「小麦と武蔵野のくらし」展では、日常の食事について、次のように記している。

・水が乏しかった武蔵野台地の中央部では、乾燥した畑で栽培ができる麦と雑穀、そしてサツマイモが作物の中心であった。天候にあまり左右されずに収穫できるこれらの作物と、陸稲、根菜類が合わせて栽培された。 人々は季節に応じて、耕地を空かすことなく輪作を行った。

・収穫された小麦で作った手打ちうどんは、ご馳走として、家々の年中行事や冠婚葬祭の席にかかせないものでした。皆で一緒にうどんを打ち、食べることで家族や地域のつながりを深めていったのです。
→(実は、うどんを常食していた時代があったと誤解したことがある・・・ハレの食べ物だったのだ。)

・麦飯
石臼で大麦をこまかく砕いたひき割り麦や、押し麦にウルチの陸稲をまぜたメシと味噌汁、漬物、煮物が日常食であった

・北多摩の作物と食べ方
武蔵野台地では、かつて大麦・小麦・雑穀・陸稲・サツマイモを主食とした。大麦をほぼ毎食食べ、陸稲のウルチマイを混ぜて炊飯した。大正時代までは雑穀のウルチアワをメシにして食べることもあった。
陸稲のモチゴメはモチにし、雑穀のモチ性のものと混ぜてついた。家によっては正月にモチを一石くらいつき、切ってから水をはった樽に保存し、初夏頃までチャガシにしたり、麦作で忙しい時の昼飯にした。小麦はうどん、まんじゅうにし、寒い夜などは汁にいれてスイトンにして食べた。自家用の醤油のもろみにもした。

・昭和20年代頃は朝・昼・晩に大麦に陸稲のウルチマイをまぜたメシ、10時と15時にはサツマイモや正月についてモチを水に漬けて保存した水モチなどをチャガシとして食した。
→(昭和20年代とは戦後の食料事情の悪い頃のことか? 農村と都市部では大差があったと聞くが・・・)

(本ブログ関連:"小金井雑記"、"小金井雑記"、"小金井雑記"、"小金井の今昔")

2009年9月9日水曜日

小金井雑記

この地のむかし、「うどん」麦飯が主食だったと聞いたが、岩波文庫の「日本の民謡集」に「武蔵野麦打唄」が載っている。解説に「小麦の生産で知られる武蔵野台地一帯に歌われる麦の穂打ち唄」とある。

[甲]〽十七八の 麦打は(ホイ ホイ ホイ)
[乙]〽くるり棒が 折れるか芒(のげ)が 折れるか(ホイ ホイ ホイ)
お天道さまの申し子は 百日の 日照りに笠もかぶらず
目出度やこれの麦打ちは 日和よく 風出て芒を立てたや
牡丹餅はやる世の中に 俺(おら)がでは 碾割花(かきわりばな)の焼餅
大嶽山の黒雲 あの雲が かかれば雨か嵐か
十七八はねむいもの 朝おきて 米とぎ桶を枕に
皆若い衆 江戸々々と 江戸だとて 枯れ木に花は咲くまい
お江戸に三日居て見たい 上様の 御用の水を汲みたい
今日の麦はこれ限り 明日は又 どなたの麦を打つやら

(注)「芒」は「イネ科の植物の花の外殻にある針のような突起」。(広辞苑)

日々労働に追われる、親の田畑を継ぐあてもない二男三男の悲哀が含まれているのだろうか。
土地柄、若者たちは江戸四宿のひとつの(内藤)新宿へ行きたかったようだ。

(追記)9/12の「小金井の今昔」に参加して一部確認したことを9/12に追記載。