大学生の夏休みに、田舎でひとり暮らしの祖母を訪ねたことがある。家の周りに水田が広がっていた。大方の土地は地元農家に貸していたが、歳をとって自家栽培の小耕地の世話も難しくなっていた。孫たちに、機会があれば来させて、自分たちの家系について話して聞かせたかったようだ。
実は、いずれ必要な葬儀の祭壇に置く写真を撮って欲しいということもあった。和服に正装した祖母とセンチメンタルな思い入れもなく、少し笑いを交えながらフィルムに収めた。いい写真が出来上がることに専心した。
庭に古い祠や土蔵があった。祠には、祖母にとって最大のプライドになる、先祖の象徴ともいうべき女性が祭られていた。また土蔵の二階には、明治の時代に、祖父が学生(高校生レベルだろうか)のころに使ったという古い教科書があった。数学の本を興味深く開くと、当り前のことだが今と時代と差を感じないものだった。(ちなみに、私は数Ⅲを学んだ世代である)
数日過ごしたとき、電気釜に残ったご飯が古くなっていた。私は、新しいご飯を食べたいといった。祖母は私に新しい飯を炊いてくれたが、自分は古くなったものを洗えば大丈夫といって、そちらを食べたのだ。
農家にとって、米、ご飯がどんなに大切なものか、東京に戻って思い返すたび深く感じるようになった。今もその思いは変わらない。