(一)
昔、CAI(コンピュータ支援教育)といって、コンピュータを介して学習する仕組みが叫ばれた。CAIは、オーディオ機器がずらりと並んだ語学のLL教室が普及し始めた頃に、追いつくように始まった。新しもの好きの教育関係者が飛びついたのはいうまでもない。
大型コンピュータの端末(TSO)で始めるには余りにコストがかかり過ぎた。せいぜい単一目的の技術研修や訓練用といった、機能検証扱いだった。それが、パソコン(当時はマイコン)が登場することで、ようやく学校教材の一部を適用できるまでになった。結局は、市販教材ソフトに見るべきものがないままに終わった。なぜなら、一般の印刷教材の穴埋め問題集でしかなかったからだ。
CAIの教育ソフトの背景を担ったのは、スモールステップで理解を重ねるプログラム学習方式だった。プログラム学習は行動理論先行で、まるで職業訓練用テキストのスタイルだった。大学教養程度の心理学や経済学をプログラム学習で学ぶ教科書が出版されたりしたが、うまくいかなかったようだ。そのことについて、触れたくないのだろうか、そんな経緯を記した関係者による文章を見かけない。
現在では、e-ラーンニングと呼んで、主にネット環境で学ぶ学習スタイルに衣がえしたようだ。個人の学習進度まで管理できて、こちらの方は、意外に企業内研修や資格取得などのための講座で、一般に余り知られてないが、使われているようだ。(かなり商用化が進んでいる)
ところで、企業内教育について、こんなことを語った本(書籍名は失念したが)を読んだことがある。企業内教育は、その到達が企業内であって、一般の教育のように枠を超える成果を求めるものではない、といった内容だった。企業内教育は、その組織に必要な技術や智識を習得するものであって、人間として成長を求めるものではないということだ。
企業内教育の期待は、敷居(閾値)が意外と低いといえる。経営の指南書も、目標が企業目的と合致して、利益の最大化を図る(効率化を重視して、のりしろをカットする)という解がある限り、ハウツーの域を出ないだろう。それに対して、子どもの教育に求められるのは、いかに大きなのりしろを作るかということだからだ。
(二)
CAIに見られるような、知識をシステマチックに吸収できるかという課題が残る。企業内研修の場合、学習者はその意識も欲求もすでに持ち合わせている。子どもの場合はそうはいかない。学校の授業は、特別な資質の子を除いて、普通の子どもには難行でしかないからだ。
システムは、学校教育で子どもたちに貢献できるだろうか。見た目に知識を増やせるかもしれないが、決定的な問題がある。それは、知識をどんなに早く視聴覚化しても、それを脳内に定着できないということだ。記憶力を高めるのに有効かもしれないが、記憶力を付けるものではない。ただし、今までなら遠に放棄したかもしれない学習を、何とか持続する支えになっている気がするが、学習の外側のツールとしての有効性に変わりない。
システムは、思考の外側のツールでしかない。
少し、道外れする。一般にシステムは、頭脳に伝えるツールとして有効だが、頭脳から出す先としては要注意が必要だ。
システムは、単純な手入力のミスで、とてつもない大きな被害をもたらすことがある。それだけではない、システムに不注意な発言を登録すると、その結果が記録され、死後も永遠に残ることだ。本人の口から語られたあかしとして、墓碑銘どころでなくなる。SNSに語ることは、ある意味覚悟がいる。
特に、Twitterでどれほど大火傷していることだろう。脳内の知恵と相談しての発言なのだろうか。脳内に届かぬままに、反射的に言葉を吐き出していないだろうか。その記録は、日記といった限られた紙資料と違い、それこそシステマチックに(縦横に)分析され、色々な情報が取られることになる。
言葉は脳内で一旦咀嚼してから出すものと、庶民は生きる知恵としてそうやって実践してきた。