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2017年5月9日火曜日

(雑談)きれいに筆記すること

テレビにマニアックな人と対談する番組があって、今回、文字フォントのマニアが登場した(「マツコの知らない世界」33:45~)*。街の看板や掲示にあふれるさまざまな書体が目に飛び込んでくるらしく、すっかりはまっているようだ。彼の薀蓄を聞きながら、そういえば、きれいに筆記することの難しさにも思いいたった次第。

(* フォントについて対談は 33:45~。5/16の20時56分まで視聴可能とのこと)

歳をとると筆力というか指使いが下手になって、もともと悪筆なのに追い討ちをかける。ノートにメモをとるとき、できるだけ小さめの文字に書いて乱れを最小にしようとしている。ところが、早く語られる内容を追いかけ急いで書き写すとき、本来の悪筆が暴露されてしまう。まさに乱筆(乱調)。

復習かたがた、ごちゃごちゃ書き連ねたノートを見直すとき、(清書に手がまわらないため)ポイント部分を筆ペンで太字にしている。乱れをできるだけ修正したいからだ。だから、整った筆致で書く人がうらやましい。どんなに早く語られる内容も、丁寧に書き留めているのを見ると感心するばかり。

昔、感熱紙型のワープロ専用機が出たとき、例にもれず購入した。最初に驚いたのは、まるで書籍と同じような文字を使えることだった。ワープロというツールのおかげで、意のままに明朝体やゴシック体で表現できるのだから。なんだか、その気になってしまった。

明朝体やゴシック体の書体でできあがったものを見ての誤解は、書くときもそうだが、読むときもそうだった。でも直ぐに、第3者の編集(内容吟味と校正)の手が加わらないものは、素人の手書きに過ぎないのに気付く。当り前のことだが。

若い人は、こんな乖離をちらりと意識したことがあるだろうか。彼らはすでに、昔のように書籍に対する信仰、権威、ありがたさ**を感じない世代かもしれないけれど。

(** 今の書籍には、ずっと昔の植字による活版印刷の重厚さはないけれど)