遠くで花火の音がする。随分乾いた響きだ。十数分間のこと、大きな祭りではないのかもしれない。それでも、あのドンと突き抜けるような振動に、しばらく耳をそばだてる。
(本ブログ関連:”花火”)
子どもの頃の花火の思い出は、父が働いた会社の工場敷地で行なわれた夏の行事だ。夜の薄暗がりの中、ずっと低いところから見上げた空に、四方に広がり走る光の粒と、地響きのような揺すぶる音。遠くから眺めたはずなのに、記憶の花火は、私の周りを光で覆った。
やがて、花火が天空に炸裂して光の粒が散り、消滅するさまを鑑賞できるようになる。興奮とその余韻、静かに終わりゆく夏に、秋の涼しさが呼びさまされるような気配すらする。
海外での「日本デイ」のイベントに、花火を打ち上げる光景をYoutubeで見ることがある。ヨーロッパでのこと、観客の歓声から、どんな花火のスタイルに関心があるか分かる。空間、余白を残すことの少ない彼らの感覚からだろうか、光が点で消滅するよりも、筋を残しつつ消える方が好まれるようだ。自然体験や幼い頃の思い出など重なって表象されるだろう美意識の違いかと思ったりする。