近所を散策すると、不思議なことに、あちこちの民家に小さな稲荷を目にする。ある民家は塀の中に道路と平行に区画された柵の中に、しっかりした造りの鳥居と稲荷堂が建っている。また、ある民家の稲荷は道路と直角にじかに参ることができる、こじんまりした鳥居と稲荷堂が置かれている。不思議なものもある。ある民家は低い柵の中に、腰高の赤い鳥居だけあがあって稲荷堂はない。
(本ブログ関連:”稲荷”)
江戸期、稲荷信仰は商人に受け入れられた。人々の祈り場であったのだろう。近くに、江戸の記録を持つ昔ながらの稲荷神社がある。数多くの鳥居が並び、それなりに大きな境内と稲荷堂が立つ。この辺りは江戸期に新田開発された農業地帯だった。
近所の民家に稲荷をしっかり探せば、さらに見つかるだろう。昔の新田(麦や陸稲など)地帯の農家が稲荷を持っていたのだろうか。あるいは、江戸というより、以降の宅地化のなか、飛び地のようにできた新造の住宅がそれを据えたのだろうか。
ところで、人々は、狐の持つ力にあやかりたい。稲にかかわる農業の神の使いとして。あるいは、夜に狐火を灯す不可思議さに。あるいは、狐の憑依という最も原始的、心的な霊力に感応したいという欲求があったのだろうか。誰にも、決して他人にいえないものがあるものだ。
狐のずる賢さに都会人は共感するかもしれない。しかし、昔は新田開発のもと農民による共同体であり、狐の裏をかくような豹変さは不適だったはず。それなのに、現在、民家に古ぼけた稲荷堂を多数見る。近くの稲荷はどのようないきさつがあってできたのか知りたいところだ。