きょう5月27日は「日本海海戦」の日で、かつて「日露戦争」(1904年:明治37年2月~1905年9月)の形勢を逆転させた、対馬東方沖海域で行われた日本海海戦(1905年:明治38年5月27日~5月28日)の勝利を記念する日である。東郷平八郎大将の指揮のもと日本海軍連合艦隊により、ロシア帝国海軍のバルチック艦隊ほぼ全艦艇を撃滅した、
以前、旅行会社の「横須賀海軍カレーツアー」に参加したとき、京急の横須賀中央駅からすぐにある岸壁に記念保存されている、連合艦隊の旗艦となった戦艦「三笠」を見学したことがある。三笠の艦橋には、東郷平八郎司令長官、秋山真之作戦参謀などが並ぶ絵画「三笠艦橋の図」(東城鉦太郎画)と同じく、主要な人物の配置を金属板で示していた。
(本ブログ関連:”横須賀”)
子どものころのテレビは、今と違って戦争の記録映画を盛んに放送したし、少年漫画の世界では、「週刊少年マガジン」に戦闘機「紫電改」のパイロットを主人公にした <漫画> が連載された。また、「文芸春秋」(1956年4月号)は、戦争体験者の率直な記憶*を掲載した(招集令状の「赤紙」を付録にしていた)。
(*)率直な記憶:
貫通銃創について<焼け火箸>で貫かれたとか、<バット>で叩かれたような激痛といった表現、および食料の不足によるひもじさ(飢餓感)などについて、肉体的な感想が主だった。後に後世代が語る、時代状況を俯瞰するような視点はなかったと記憶する。
以前のブログに転載(抜粋)したが、「文芸春秋」(2014年9月号)の対談「戦争体験は伝わるか」(哲学者木田元氏、ジャーナリスト徳岡両氏)は、戦争を語ることの難しさを示す。
中学時代の職業・家庭科の授業(男女は別授業)のとき、無駄口のない実直な教師が、設計図「三面図面」の書き方の事例として、戦闘機「零戦」を黒板に丁寧に描いて見せた。後になって考えると、当時の教職組合の思想と真っ向から反すると言われ兼ねないことだったかもしれない。
高校時代の日本史の授業のとき、急遽代講された老教師(高校生からはそう見えた)が、日露戦争の解説で、日本海海戦の「T字戦法」の航跡を黒板にダイナミックに描いて見せてくれた。
大学時代は、まるっきり別世界(別言語空間)だった。
余談だが、入学当時のころ、ある政党の青年組織は、ジーパンスタイルをブルジョワ的(プチブル)と批判していた。だが数年も経たぬうち、彼らもジーパンを履いていた。