鉱物マニアの端くれで、アマチュアの末席にずっと留まっている。少しも上達しない。けれど、山中に宝探しするようなわくわく感が忘れられず、今も続けている。といって独力で探し廻ることはない、というよりできない。ベテランについて、鉱山跡のズリ場を掘り返す。事前の鉱物産地情報が必要で、もっぱら人脈に頼っている。
その昔、石採りがどうだったか気になる。黎明の山頂に光輝を見てとか、深山の懐に雲立つ場所があってとか、鉱山の発見に神仙というか山岳信仰的なロマンを感じる。さらに、史実を知らないが、鉱山技術にキリシタンの流れがあったという噂を聞いたこともある。そんなわけで、昔に探鉱して、採鉱、精錬、流通といった鉱山経営の一大プロジェクトを遂行した「山師」について、概要だけでも知りたいと思う。
(本ブログ関連:”山師”)
国立国会図書館のデジタルコレクションに、昭和初期のものであるが、一般向けに鉱山についての基礎知識を書いたという「鉱山発見の実際知識」(東京研修社、昭和13年)が公開されている。昔は一般に、鉱山が今より身近だったのだろうか。
同「序説」に、「山師」についての紹介がある。長めの引用になるが次に書き写す(下線は追記)。この書が出た頃(昭和初期)まで、山師の名を、リスペクトされる本来の技能者としてスウィングバックが試みられたようだが・・・すでに遅すぎたのだろう。
ちなみに、青空文庫に公開されている、明治以降の書籍を<山師>で検索してみると、偏見に満ちた用法がわかる。山師が、江戸幕府と密着した利権を持っていたので維新後に蔑まされたのか、あるいは江戸時代に既にそうだったからかは知らないが。
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一、山師
鉱石及び鉱床を探索してこれを発見する事を探鉱と云ひ之をなす人を探鉱者と言ふ。而して此等鉱石と鉱床とは決してむやみに撒布されるものにあらず、此の事業に従はんと欲せば先ず充分の修養をなし能く鉱石及び鉱床の智識を得て着手すべきである。
今日にあっては山師なる名称は大に悪用され詐偽又は投機者と同一意義に使用さるゝに至った。此語は主として鉱山に用ゐられ今日の語で云へば鉱山の持主又は技師長と云ふやうな人に適用されて居た。乱世時代にあって各地の英雄が鉱山殊に金山を尊んだことは非常なものであって殆んど其價を問はざる観があった。
徳川家康の如き駿河日陰沢に於て金山を経営し且つ之を監督せるとき自ら筆を執って山例五十三条を制定して鉱業を盛んに保護奨励したものである、此山例中各所に山師なる語を用ゐて曰く「山師金掘師を野武士と称すべし」と、即ち鉱山の鉱主より鉱夫に至る迄武士を以て待遇されたるであった 曰く「山師金掘師つ儀は関所見石(みいし)と一通りして可相通事」と。鉱山関係の者は鉱石一片を持参すれば無切符で関所を通された。「山師金掘師に於ては山内諸事停止したるのなし鋪内では今日ある命ならざればなり」と規定し且つ「山師金掘師人を殺し山内に駆け込むとも留置き仔細を改如何事も山師金掘師の筋明白相立候はゞ留置相働かせ可申事」と。鉱山師坑夫等には最上権を與(あた)へ時としては殺人罪までもゆるされた又山師の座席までも規定し、「山師金掘師の筋糺は金山師正面次は銀山師次は銅山師と順列たるべし」と言ふた。右の規定を見るも分るが如く山師なるものは鉱山師に対する一つの尊称であって、鉱山家となり、又技術を指導するのであった。
されば今日にあって適当の方法により国宝たるべき金の産出に努力せんか。世の金山氏は即ち右の山師として尊敬を集むるであらう。
幕藩時代には何事でも血統を重んじるもので此探鉱者となる人でも亦一定の家筋があって。
此家には立派な鉱物標本を備え、其標本は縮緬の敷物に載せられ、桐の箱に納められ家宝として之を子孫に伝へ一子相伝として鉱石の智識を授け、常に山野を跋渉して鉱石の探索に努めた。されど惜しむべきは彼等に組織的頭脳なく、また泰西の学術を学ぶこともなかったので、只鉱石の外見上のことにて■石のこと聞き覚え之を携へて奔走したるに過ぎなかった。従って大なる収穫もなかった訳である。
此の如く無知なる探鉱者即ち無法なる探鉱をなし自ら産を失ひ又人に迷惑を掛くるに至った。従って無法なる企業者亦は投機者に山師なる悪称を與ふるに至った、今後の探鉱者は必ず基礎あり智識ある人格者でなくてはならない。
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上記引用に、山師と(新しい時代の)探鉱者が区別されている。探鉱者は、智識も格式もない・・・いってみれば産地を荒らすマニア並みの扱い。そう考えると分かる気がする。それにしても、本当の山師に一度会ってみたかった。