イ・ソンヒが多感な中学時代に経験した、ジム・リーブス、レイフ・ギャレットなどの音楽や、教師との出会いを、そして夢膨らむ高校時代に、5人組(歌)の音楽グループ結成などを知ることができた。
(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)
[5] 私はもうこれ以上内気な子どもではなかった
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▼ 1978年、私は信光女子中(신광여중)に入学した。制服を着て頭は髪を短くしたから良かったものの、ややもすれば国民学生(小学生)と間違えられるほど私は依然として小さかった。
2年生のときまでやはり1番、3年生のとき背番号は62番だった。私が突然成長したのでなく、3年生のときは背の大きさの逆順で番号を付けたためだ。
だが、声だけは誰よりも大きくて冴さえていて、音楽の時間はそれこそ「ほとんど私の独壇場」であった。
秋の運動会や遠足の道で、私は必ず招待歌手のもてなしを受けた。パティ・キムの「初虞(초우)」やジム・リーブス「(彼は)行かなければならないだろう」を好んで歌ったし、校長先生は歌が終われば私を呼んで直接飲み物をついでくださって、ほめられたりした。
(注)記事には”짐.브리스”とあるが、ジム・リーブス(Jim Reeves)の誤記と思われる。
私は音楽の教科書に入っている歌曲や民謡よりは、ラジオに流れてくる韓国歌謡により一層心が引かれた。
ラジオ歌謡に従って口ずさみながら本を読むのは何ににも変えることのできない私だけの時間、私だけの幸福だった。
中学時代に出た活字化された印刷物は、何でも片っ端から読んだ。それこそ多読雑読というほど。歌謡だけが全てだと思っていた私は、中学校2学年の時、はじめてポップ・ソングの魅力を感じることになった。
金髪をゆらゆらと垂れた美少年歌手レイフ・ギャレット(Leif Garrett)のソウル公演が契機であった。
(1980年の)ギャレットの公演には、色々な話も多かった。当時、一部の興奮した若者たちが肌着を脱ぎ捨てたり、発作を起こすまでするなど、マスコミの言うように「狂気」を見せたその現場に私もいた。
しかし、会場である南山の「崇音楽堂」に入るまで、レイフ・ギャレットがそれほども評判のいい歌手だとは、本当に知らなかった。ただし、ライブではなく、録音された曲に合わせて口を開ける(口ぱくな)誠意のない公演だったが、不自然でないほどアクティブなギャレットの舞台マナー、幻想的な光の中でさらに多くの光線を噴出した彼の容姿、そして客席の床まで振動が感じられるほど爆発的なサウンドは、私に大きな衝撃を与えた。世の中にこんな歌もあったんだ。
彼の公演以後、私の愛聴ラジオ番組の目録には、深夜のポップソング番組が追加されたことはもちろんだ。恋人に「すっぽかされた」友人の兄さんに無料でもらった、レイフ・ギャレット コンサート チケット一枚が、私を新しい音楽世界に引き込んだのだ。
中学時代の私は、永遠に忘れるができない恩師の一人に出会った。国語科目を担当しておられたヤン・ソンオク先生がまさにその方である。
授業時間ごとに、私が国語の教科書を読む姿を注意深く見守られた先生は、ある日私を教官室に呼んだ。学生が教官室に呼び出されれば十中八九「ひどい目にあう」ことが決まっているであろうために、私はいっぱい緊張した状態で教官室に入った。
だが、意外に先生は私の声がとても朗々(낭랑)として発音も正確だといって、雄弁班に加入することを薦められた。先生は、ご自宅に私を引き連れて、雄弁練習をさせるほど熱心であられた。結局、私は校内雄弁大会で優秀賞を受賞することによって、先生の愛情に少しでも恩返しをすることになった。「最優秀賞は逃したものの、2等はなんともはや」
雄弁を通じて、内省的な性格がある程度「改造された」私は、合唱団にも入ってソプラノで活動したし、学芸会の時は(児童劇の)「靴直し屋と銀行頭取」という演劇に主演で出演したりもした。私の演技がよほど実感できたのか見物にきた高校生のお姉さんたちも絶賛した。すべてにますます自信が生じた。
周辺に友人も一人、二人増えていった。学校生活も楽しいばかりだった。
行きがかりで私は指揮者として前に出た。校内合唱大会で優勝した私たちのクラスは、教育区庁大会にまで進出した。
(注)教育区庁:ソウル特别市など広域市の教育委員会下部执行機関。
ただし、ランキングに入れなかったが、世宗文化会館の舞台に立ったという事実、しかも舞台上の小さい舞台である指揮台に上って格好良くフォームをつけて指揮をしてみたという事実だけを考えても、(ランキングに入れなかったことを)うらやむことはなかった。
前述したように、中学校時代、私は片っ端から本を読んだ。特に「ロミオとジュリエット」は何度も繰り返し読んだ本だ。
そうしているうちに、孔子の「韋編三絶(一冊の書籍を繰り返し繰り返し読む)」という話そのまま、文字通り本自体がボロボロになった。ロミオとジュリエットの年齢が私とほぼ同じなので、それだけ共感の幅も大きかったようだ。
韓国近現代の名作や世界の名作という古典は、それなりの基準を持って読んだ。いくら不朽の傑作と評価される小説でも、ある程度読んでつまらなければ、二度と調べてみなかった。今でも、興味の要素が欠如した文は、めったに読まれない。だが、かなり重い主題を下地にしていても、プロットや表現、または気持ちにすっぽり入る登場人物があれば明け方まで火を灯す。
探偵小説の類いと武侠誌も私の読書履歴で絶対に欠かすことのできない本だ。ルパンは、無性に小面憎かったし、シャーロック・ホームズはとても素晴らしく感じられた。日常生活でも、あたかも探偵にでもなったように塀に背中を密着させて、左右をきょろきょろ見回しながらわけもなく敏捷なふりをしたりしたし、教室で鉛筆一本がなくなっても、犯人を捕らえるといったあらゆる推理を動員したりした。さらに、夢の中ではプロックコートにチェック柄の帽子、その上パイプまで口に咥えてワトソン博士とコーヒーを飲んだりもしたほどだった。
漫画本もたくさん見た。最も感動を覚えた漫画は「ガラスの城」だ。ありふれた文芸作品より、はるかに秀作ということを今でも信じて疑わない。「キャンディ」はそれほどであったし、「男女共学」も「アカシア」もとてもおもしろく眺めた。夜遅くまで、小説と漫画にはまってみると、中2の頃、視力が急激に落ちてメガネが必要になった。今使っているメガネも、その時の小説と漫画のお陰だ。
中学校の時は驚くべきことに、ただ一度も学校を移ったことがなかった。ときおり、信光女子中の後輩から「信光が産んだ2大スターは、ソンヒ姉さんとタレント イ・ミスク姉さんです」云々という手紙を受けるたび、はっきりした母校を持っていることをとてもに幸いに思う。
▼ 1981年3月、私は祥明女子高(상명여고)に進学した。私は、もうこれ以上内気な子どもではなかった。
歌が好きな友人たちと5人組グループを結成して、活発な演奏活動を広げることもした。
ところで面白いことに、私たちのグループの名前はなかったのだ。昨日は「アカシア」であって、今日は「クリスタル」という式で、メンバーの気分のままチーム名称を変えたりした。
私たちは、養老院や孤児院を訪ねて行って慰問公演を繰り広げたし、校内サークルであるRCT、MRA(道徳再武装運動:Moral Rearmament)、ガールスカウトなどの招待を受けて、きれいな和音を入れることもした。私たちのグループの「名声」は口から口へ広まった。
(注)RCT: サークルについて不明
そのようなある日、近隣の男子高等学校で祭りの時、特別ゲストに私たちを招待するというではないか、胸がむやみにときめいた。
当時、私たちの5人組グループ・メンバーは、私をはずしてみなスマートで美しかったが、特にピアノを担当した友人は「絶世佳人」というに値するほどの美女であった。
講堂をいっぱい埋めた丸坊主の男子学生の視線が、ピアニストに集中したことは自然の「摂理」であった。
私は歩くのが好きだった。高3の時まで地下鉄があることも分からないほどだ。バスもほとんど利用することがなかったので、バスに乗るたびに友人にバス料金を確認しなければならなかった。
登下校するたびに、必ず通り過ぎなければならない三角地(삼각지)陸軍本部近くの街路樹の道を私はとりわけ好んだ。帰宅途中に、友人とともに小道に沿って歩きながら楽しんだ「カバンかつぎ」は、今でも鮮やかに目に浮かぶ。
ジャンケンに無性に強い私なので、友人が私のカバンまで持たなければならない場合が大部分だったが、たまたま私が友人のカバンを持つことになる時は、(さらに)カバンの一つ持つことで恥ずかしい思いを受けなければならなかった。
ひとまず私は、二つのカバンを開きあけて中身をみな取り出した。それから教科書や辞書、重い参考書などをカバンの一つにまとめ入れて、こわれやすい物や軽い物などで、他のカバンの一つを満たした。
その次の段階は、「投げること」の連続だった。力いっぱい手前にバッグを投げては取り・・・
ある日のこと、通りすがりの黒人兵士の一人が痛ましく見えたのか情けないと感じたのか、つかつかと大股で近寄ってカバンの二つを持ってくれたこともあった。
1年生の2学期末から、私は絵にすっかりはまった。だいぶ素質があるように見えたのか、美術の先生は学校付近の画室を推薦してくださった。1年と一学期をさらに通ったから、かなり長い期間を染料の臭いの中で送ったわけだ。
父は、私が絵に没頭することがやはりとても不満だった。「お前はやれという勉強はしなくて、よりによって『芸人』、でなければ『金稼ぎ』か」といって、筆や染料を目につき次第なくしてしまった。
母はそれでも「あなたが、そんなにもしたいのであれば...」といいながら、父にこっそりとアトリエ(画室)の登録費や美術道具代を渡してくれたりしたが、結局父の厳しい反対で画家の夢は中途で放棄するほかなかった。
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