以前、あるテレビ番組で、人類学者、霊長類学者である山極寿一京都大学総長が、<人と動物を分けるもの>として、次のように語られていた覚えがある。人類は、家族を持ち、一緒に「食べ物を別け合い、向かいあって食べる」という。ひとが人となるというのは、自身の生物的進化と合わせて、食べ物を別け合う家族の階層を持ったからのようだ。
個人がいて、男女(雌雄)の関係があって、家族がいて、共同体ができる。これら階層を、ひとりの人間の中で同時に合わせ持つのが人なのだろう。いずれかの階層が巨大化して膨らめば、他の階層を圧倒し、押しつぶすことになる。ひとりの人間の中で、すべての階層をいい按配に保つのが知恵というものだろう。(ひとりの人間は、これら階層をいやでも持たざる得ないのだから)
もう一つ大事なことがある。例えば、最近つくづく実感することだが、古書店の書棚で、古人の言葉と対面できること。あるいは、普段、気にもとめずにいた、町内の伝統の祭りに出かけてみれば気付くこと。郷土に受け継がれた時間と命の存在だ。だから、時間がこれから先にもずっとつづくことを知ってしまう。(ひとりの存在は、時間の変化の中でいやでも他の人と関わりを持たざる得ないのだから)
存在の階層それ自体であれ、水平であれ、垂直であれ語るために、人は言葉を持っている。果たしてそれが幸せなことだったのか分からない。階層に関係なく同じ言葉を使ってしまうのだから。共感を求めようとして、自身の存在を忘れ、言葉に溺れ、配慮をなくすことのないように、老境に入ればこそ自覚したいものだ。