最近、歳のせいか夢を見なくなった。夢は、昼間の緊張を解きほぐし、精神的再生のためとか、あるいは記憶のワークエリアの整理・削除のためともいわれる。夢はその意味で、昼間のルールと違った、予期しない自由な世界を繰り広げてくれる。
夢を見なくなるほどに、場面や展開を不意に変転する不思議な世界に関心が向く。若いころは、それなりにあやうい経験を楽しんだりして、そんなヒヤリ感がたまらなかった。歳をとると用心しすぎて無茶と縁遠くなる。夢がその代わりをしてくれるはずだった。
室生犀星の「ゆめの話」に、昔、ある武士が帰宅するため夜道を急いでいたところ、物陰に立つ女と出会う話がある。不審に思い、その女に近づくとするりと消える。不思議なことと思って自分の屋敷に着くと、門前にあの女がいて、急いで追うが見当たらない。門番も知らないという。
武士は、怪しさを感じながらも部屋に戻ると、先ほどの女が現れる。怪しんで肩先を斬りつけたところ、女は縁の下に逃げ去った。家中を探してみれば、板の間に女中が気絶していた。覚めた女中は、「実は先刻わたしが使いからかえると、一人の武士に途中であいました。そして御門から這入って縁側へぬけようとするところを抜き打ちに斬られたのでございます。ごらん下さいまし、このところに血がにじんでおります。」といった。しかし、門番は彼女が家を出る姿を見ていないという。
室生犀星は、女中が「夢遊病」だったのかもしれないと推測したが、これと似た伝承がある。以前(2017/6/10)ブログに記した、柳田国男の「遠野物語 」(一○○)にある、狐が夢をかすめ取る話だ。この場合、次のような展開になる。
< ある女房が、夢の中で、帰りの遅い主人を気遣って迎えに行こうかとするのを、狐の身を傭(やと)ってしまうことになる。深夜のこと、坂道で出くわした女を怪しみ、主人はそれをあやめて急いで帰れば、女房は命を取られそうな夢から覚めたばかりという。主人は元の場に戻って見れば、そこに一匹の狐が横たわっていた。>
(本ブログ関連:”遠野物語”)
柳田国男の伝承の場合、人の夢に狐が便乗したことになる。ことほど作用に、夢は誰のものでもないというか、奪われやすいようだ。私の夢を、今は誰かが(私に代わって)見ているかもしれない。