昔、汽車が出るとき、窓を開けて見送る人たちと別れを惜しんだ。岸壁の船出と心情的に通じる光景だ。去る人と残る人の影を心に焼き付けるようにして、汽車は次第に離れていく。映画なら遠近法の消失点に消えるまで。
有無をいわせず、汽車は時間通りに発(た)つ。まるで馬車を牽引する馬のように機関車はいななき、スピードをあげる。短編・戯曲作家にとってクレーンが時代の響きであったように、詩人に機関車は赤い火を吐く鋼鉄の馬であった。かつて新しかった、そんなものへのイメージをいまだに共有する人々にとって、汽車は特別なものだ。
(本ブログ関連:”汽車”、”ひまわり”)
ところが新幹線の窓は固定して開かない。最近は通勤電車まで(一部の窓は開くそうだが)。窓を通じて、互いにジェスチャーで伝えるしかない。だから、テレビニュースでは、車窓を境におどける子どもたちや、孫との別れが切ない祖父母の姿が報じられる。でも、交通網の発達のおかげで、いつでも会えるようになった。本当に最近のことだ。
少し以前、汽車に乗るのに決意が必要なこともあった。運命の境界になることも。曲そのものがドラマチックな、「汽車は八時に出る(Το τρένο φεύγει στις οχτώ)」(作曲:Mikis Theodorakis、作詞:Manos Eleftheriou)は、余韻が残る。何度か本ブログで聴いてきたが、今回は、マリア・ディミトリアディの歌だ。(昔のギリシャは極めて政治的な時代があった)
(Youtubeに登録のΈνας αγέραςに感謝)