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2014年6月30日月曜日

買い物

古いパソコンデスクを使っているので、キーボードとマウスを一緒に並べる余裕がない。そこで、キーボードを中型サイズにしているが、使い勝手が良くない。指使いのせいか、ハングルキーボード用のシールを貼っているキーのうち、右手の「N/ㅜ」と「O/ㅐ」キーのシール文字が消えかかってきた。新しいシールに張り替えるため、新大久保に買い物に出かける。

空模様が芳しくない昼下がり、それでも街は賑わっていた。目指すショップで、シールを購入する前に、CDコーナーにあるイ・ソンヒのアルバムがきちんと陳列されているか監視?して、2階の書籍フロアに上がる。

YUBISASHIシリーズの「韓国×鉄道」(2010年、著:植村誠)を求める。豪華寝台列車(レールクルーズ)「ヘラン(해랑)」の紹介記事が載っている。小冊子なので、「簡易駅」についてまで説明はないようだが、韓国の鉄道の旅を知ることができそう。

ここまで来たのだから、新宿まで足を伸ばし紀伊国屋書店に寄る。1階にある「化石・鉱物標本の店」が拡張していた・・・いつ頃?・・・何と去年の2月からだそうだ。さて、書店に入り、4階の地学書コーナーで、次の書籍を求める。
・「鉱物コレクション」(2014年、監修青木正博):8名のコレクターが鉱物との関わりを語る。今までにない、極まれり!
・「鑛(こう)のきらめき」(2014年、秋田大学鉱業博物館解説書):秋田産を中心にしたカラー地学・鉱山図鑑。凄い!

久し振りの新宿界隈、人混みに気押しされてさっさと帰路につく。

今年もリンゴを半分食う

時の経過を、リンゴの食べ具合に例えている。1年を一個のリンゴの実とすると、今日で半分食ってしまうことになる。視覚的で、食欲と結びついている分、まことに連想しやすい。

(本ブログ関連:”林檎”)

美味いと口にしたリンゴも気付けば半分になっている。半分しか残っていないと慌てる。毎年こんな風に、そのときだけ気をやむ。そして繰り返す。

月は回り、観覧車も、そして6月も巡ってくると、懐かしいジュディ・コリンズ(Judy Collins)の「青春の光と影(Both Sides Now)」(1968年、作ジョニ・ミッチェル(Joni Mitchell))は歌う。もっとも、人生に直面しようという気迫で歌っているのだが。それにしても、「青春の光と影」とはむず痒いタイトルだこと。
この曲、最初に耳にした頃、ただ旋律を楽しんで人生なんて積読(つんどく)枕のようなもの、いずれそのとき紐解こう位いしか考えていなかった。今となっては、ため込んだものが多すぎる。

青春もリンゴのように食ってしまったが、酸っぱいほうが美味い。味覚は思い返すもの。

この「Both Sides Now」が登場する順序は次の通り。
1967年  シンガーソング・ライターのジョニ・ミッチェルがこの曲を作る。
1968年  シンガーソング・ライターのジュディ・コリンズはこの曲を採りあげてリリースする。
1969年  シンガーソング・ライターのジョニ・ミッチェルはこの曲を自分のアルバムに収録する。

(ジュディ・コリンズには、「太陽の黄金の林檎(Golden Apples of the Sun)」(1962年)がある)

2014年6月29日日曜日

日曜日の「この雨やんだら」

昼過ぎまで、真夏のように強い陽射しして、空にいくつもの白い雲が浮かんだ。昨日聴いた、イ・ソンヒの「この雨やんだら」の歌の最後にあるように、(昨夜来の)「この雨がやめば、その美しい陽射しが、私にも光を与えるよ」のごとく、晴れ晴れした気分だ。

気を好くして近所の公園をのぞけば、久し振りの晴れ間に、陽を浴びようと家族連れで賑わっていた。公園を外周する散歩道は、木陰に覆われて、その木漏れ日が叩くような錯覚すら覚えた。まさに緑陰に逍遥する。

帰路、寄り道して通りに出て見ると、なんと辺りが濡れていた。知らぬ間に雨が降ったのだ。西から北の空では、雲が外出時のように明るく照らしていたが、東から南の空には、重く鈍色の雲が幾重にも重なり泰西名画のように、まるで芝居じみて浮かんでいた。

で、写真を撮ったけれど、写り具合が口でいうほどでない。素人写真は逃がした魚のよう。(せっかく載せんと思ったのに)

そんなわけで、雲行きに怪しさを感じていたら、夕方に強雨が我が家を叩き始めた。雨具合、梅雨というより夏雨のよう。あっけらかんとしている。

2014年6月28日土曜日

イ・ソンヒの「この雨やんだら」

一日中、雨がやまない。予報では、明日に思い出すように降るやもしれないけれど、その後は曇天続きのようだ。といっても、降水確率はそれなりにある。カラッとした梅雨明けにはまだ遠い。

イ・ソンヒの歌には、雨降りに思慕するものが多い。7集所収の「この雨やんだら(이 비 그치면)」(1991年、作詞/作曲ソン・シヒョン)もそうだ。雨滴までクリスタルのように美しく繊細に響くよう。(みゆきさんなら、多分どろどろするところでしょうが・・・)
7集には、透明感溢れる珠玉の作品がある。「あなたが私を愛されるなら(그대가 나를 사랑하신다면)」、「恋文(연서)」もそうだ。

(本ブログ関連:”7集”)


この雨やんだら、あなたに行きますよ、
あなたよ少しだけ、待っててください

霧が晴れたら、私は見えるのよ、
あなたよ少しだけ、とどまってください

*濡れた顔であなたを見られません、
こんなに悲しい顔では、なおさら

この雨がやめば、その美しい陽射しが、私にも光を与えるよ、
その時は、私も笑えて、私の涙も止まるよ

(*以下、繰り返し)

(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2014年6月27日金曜日

お疲れさま(FIFAワールドカップ2014)

学生時代、僅かな経験だが、オーケストラクラブに参加した。オケラの部員は、大勢いるわけで気質も様々だが、所属した金管楽器のメンバーは、いわゆる体育会系気質の傾向があって、どちらかといえばネアカだ。練習も和気あいあい、楽器パートで一緒にする方が多かった。

部活のなかで音楽論議は無縁だった。パートをマスターするのが第一で、よくいえば謙虚だった。また、楽器置き部屋(倉庫)で赤ラベルの「ヒヒニッカ」(Hi Hi NIKKAをそう呼んでいた)を飲んで酔っぱらう方を好んだ。
そんなわけで、プロオーケストラの演奏について、おこがましいことを口にしているのを聞いたことも見たこともない。まして、指揮者の解釈について、論じるなんてそら恐ろし過ぎる。一度だけ、部員がクラシックのLPレコードを手にしているのを見たことがある。あれは、金管メンバーじゃなかったな。

今夕、FIFAワールドカップ2014に参加した日本チームが帰国した。

わたしは、サッカーについて、にわかファンを自認している。ルールもよく理解していないが、そもそもサッカー世代ではなかった。ビートルズの時もそうで、後から流入したのを、肌身に知っているように根っからのファンというには、なかなか馴染めないものだ。エルヴィスに申しわけないし、野球に済まないという思いがある。

もちろん、自然というか必然というか、女子サッカー選手の顔はわりと分かるのだが、男子の場合はそうはいかない。気分で納得し、その気になって応援しているのが現実だ。
テレビの前に坐って、横になって、或いはウトウトしながら応援したけれど、ブラジルで健闘した若い選手たちに熱い声援を送ったつもりだ。

ザッケローニ監督に、選手に、お疲れさまという言葉を素直におくりたい。

2014年6月26日木曜日

映画館

地方にいた子ども時代、映画館といえば、地元町にある2本立て日本映画専門の、いわゆる2番館というか3番館といった方がいいような、場末の臭いするものが2軒あった。たまに親に付いて行くことがあったが、あるとき怪談映画を見せられてから、二度と行くまいと決めた。

(本ブログ関連:”映画館”)

もちろん、駅近くの商店街に行けば、それなりに大きなものがあったし、隣り町に行けばさらに近代的な構えした清潔な映画館もあったけれど、ほんの数回位いしか記憶がない。当時の映画館は、大人が時間を過ごすような場所であって、子どもが楽しめる雰囲気はなかった。子ども向けを意識した、劇場用作品はそんなになかった。

子どもたちは、もっぱら、小学校の家庭科教室といって畳部屋だが、そこで坐りながら児童映画(ディズニー映画や「小鹿物語」など)を鑑賞させられた。夏休みになると、子ども映画会と銘打ったイベントがあり、夜の校庭に張られた、風に揺れる白布の大スクリーンに映し出されたものを、祭り気分で友だちと追いかけごっこしながら眺めたものだ。
ときに、新作の「ゴジラ」や「スーパージャイアンツ」などは、工場敷地に社員専用の映画館(多分公演などもしたのだろう)があって、子どもには小遣い程度で安く見せてくれた。ゴジラの恐怖はここで覚えた。

映画は、いつでも見られるものではなかったし、お金がかかるもの。それが覆されたのは、テレビの登場だった。タダで、いつでも見られるという、空前絶後の驚きだった。それまで、銀幕映画は記憶にしまい場所を決めておくようなものだったが、テレビ・ブラウン管は映像を垂れ流し、消費させるだけの装置でしかない・・・ということに、だいぶたって気付くわけだが。

見たい映画が見られないとき、レコードで我慢したという話しをしようと思ったけれど、話しが横道にそれてしまった。

2014年6月25日水曜日

イ・ソンヒの「Jへ」(30周年記念コンサート)

イ・ソンヒのデビュー30周年記念コンサート、”歌う イ・ソンヒ”は、今年4月に当初2日間であったものをファンの要望に応えて3日間に拡大して、ソウルの世宗文化会館大劇場(最大3000席)で開催された。当時、数日前に起こった海難事故があり、実施が危ぶまれたが、コンサートの規模および観客動員数から、追慕公演の形で公開されることになった。

(本ブログ関連:”30周年記念コンサート”)

コンサートの始まりに、舞台下からせり上がってくるイ・ソンヒの姿は、決して華やかではなく、むしろ抑制しているようにさえ見えた。彼女のデビュー曲である、過ぎ去ったものを追想する歌、「Jへ」(1984年)から静かに始まった。大規模な弦楽器群を背景に歌う彼女は、舞台両サイドに設けられた大型モニターに映し出された。アップした彼女の容貌は、会場の外をおもんぱかってか、あえて舞台化粧を控えたのように思えた。


J 撫でる風に、J あなた想えば
今日も静かに、あなた 偲ぶわ

J きのうの夢に、J 出会った面影
わたしの胸に、染まっているのよ

J きれいな夏の日、遠く消えたとしても
J わたしの愛は、今も変わらない

J あなたを永久(とわ)に
J あなたを愛して
J ともに歩いた、J 思い出の道

わたしは今宵も、寂しく歩くのね
寂しく歩くのね

(Youtubeに登録のangma1988に感謝)

2014年6月24日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 欲をいましめる歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/18)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第61回として、伝統芸能パンソリの中から「欲をいましめる歌」にまつわる話を紹介した。

始めに、欲の深さを示す故事とパンソリ「水宮歌수궁가)」の紹介から、次のように始まった。
・故事に「(後漢の光武帝が)隴を得て蜀を望む」がある。欲望に限りなく、満足を知らない。小さなことに満足するのも簡単でない。世に多様な欲望、食欲、性欲、睡眠欲、物欲、所有欲、名誉欲がある。最も諦めつかぬのが名誉欲(権勢欲)だ。ためにソンビ(学識者)は、官職を捨て隠遁生活することもあった。
・パンソリにも、欲に関する内容を伝える「水宮歌수궁가)」がある。兎(うさぎ)の肝を探すように命じられた亀が兎をおびき出す物語で、そのとき使った手口も名誉欲だ。陸上で猛獣に追われてばかりだが、海中では魚の頭になれるとおびき出された兎は、命を奪われそうになる。日本昔話「クラゲの骨なし」とも似て、名誉欲は捨てがたいという教訓を与える。

▼ 「兎の物語り(토끼 이야기)」を聴く。英語版パンソリ、コラボ・・・せわしい今様である。

次に、パンソリ「興甫歌(흥보가)」に登場する兄弟を通じて、欲に負ける話を、次のように紹介した。
・庶民は、暮らしの欲といっても食や生活に関する位いだが、その過剰さに不安を思ったようだ。パンソリ「興甫歌」に、欲が過ぎて身を滅ぼす兄ノルボ*(놀보)の話がある。貧しい弟の興甫(フンボ、흥보)がある日、脚を怪我した燕の傷を治す。すると燕(つばめ)が恩に報い、運んだ種から成った瓢箪(ひょうたん)の実の中から金銀財宝が出てきた。金持ちになった弟の噂を聞き、兄は自分も同じ方法で金持ちになろうとするが、怪我した燕が見当たらない。欲深い兄は燕の脚をわざわざ折った後、治療してやる。燕は兄にも瓢箪の種を運ぶが、瓢箪から老人が現れて、巾着を出して金を求める。

    (*)ノルボの漢字表記:ノル=”奴”の下に”乙”、ボ=甫 ・・・ (「パンソリ」申在孝、平凡社東洋文庫)

▼ 「興甫歌」から、”金を求める不思議な場面”を聴く。先祖なのか貧乏神なのか・・・風体怪しすぎる。

・巾着に金を詰めたら帰ると言うが、不思議なことに、どんなものでも入れる度に無くなってしまう。この巾着は、兄の限りない欲を象徴する。愚か者の兄は、自分の問題に気が付かず、繰り返瓢箪を割って、結局は一文無しになる。この話は兄個人だが、国の重役を担う者が欲に負けると大変なことになる。

最後に、欲に押され戦闘に負ける、「三国志演義(さんごくしえんぎ)」から赤壁歌について、次のように紹介された。
・三国志を基にした創作物「三国志演義」の話に、国の最高権力者となった曹操は、更に欲を出して呉を攻めようとする。しかし、水上の戦闘経験がない曹操と、そこに目を付けた諸葛亮(孔明)の策で、曹操が容易に敗れる。

▼ 「赤壁歌」から「赤壁火戦(적벽화전)」を聴く。手際のよい、めりはりの効いた調子だ。

・船は燃え、数万人に至る兵士が命を落とす。欲を捨てることの難しさが分かる。

2014年6月23日月曜日

神野美伽の「人生は水の駅/人生は簡易駅」

神野美伽には、日本語版アルバム「海峡を越えて」(1998年)があり、もう一つ韓国語版の「OVER THE SEA  해협을 넘어서」(1999年)がある。「韓国側の作曲者がメロディーを先に書き、日本の作詞家がはめ込む型で詩を作った」(小西良太郎)という合作アルバムである。
このなかで、私の好みの曲に、「人生は水の駅」がある。人生の節目節目を駅に例えるなら、その旅路は水の流れのように、或いは果てしない鉄路のようにとどまることなく遠い。ふと、はたを過ぎる駅に、どこかで見たようで、急に懐かしさがこみあがる・・・「私たちは夢の旅人」。ああ、だから演歌はたまらない。

(本ブログ関連:”神野美伽”)

日本語版「人生は水の駅」(作曲:ソン・ミンホ、作詞:荒木とよひさ

(Youtubeに登録の林義隆に感謝)

韓国語版「人生は簡易駅(인생은 간이역)」(作曲:ソン・ミンホ、訳詩:ソン・ミンホ)
この曲は、Youtubeの8分50秒から聞いてください ⇒【歌詞:No.6右端の歌詞アイコンをクリックします】

(Youtubeに登録のsaran06hyonmiに感謝)

K-Wikipediaによれば、韓国の「간이역(簡易駅)」は無人駅とは限らず、小規模・小型駅まで含むと、次のように記述している。
「利用客が少なく、効率が低く、駅長が配置されず、一般的な駅に比べて規模が小さい駅をいう。簡易駅の駅長は、近隣の普通の駅の駅長が兼任して運営する。しかし、場合によっては駅長がある普通の駅でも簡易駅と呼ばれる場合がある。場所の特殊性のため、写真作家たちの主な撮影対象になったり、多くの文学 · 音楽作品の素材になってきた。」
ちなみに、MBCドラマ「北の駅から」(1996年~1997年)の原題が「簡易駅」だそうだ。

2014年6月22日日曜日

日本で作られた漢字文字(国字)があって、その代表例に「(とうげ)」の文字が挙げられる。昨日の教室で、韓国での漢字使用が話題になったとき、同様のことがあるのか先生にうかがったところ、中国で現在使われなくなった漢字が残っているという話しは聞いたことがあるが・・・とのこと。

中里介山は、大作「大菩薩峠」の出だしに、甲州街道(本街道)に対して、(裏街道である)甲州裏街道の途中に存在する大菩薩峠について次のように記している。
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 大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂きに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分を右にとって往くこと十三里、武州青梅の宿へ出て、それから山の中を甲斐石和へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊のみこと、中世に日蓮上人の遊跡があり、降って慶応の頃、海老蔵、小団次などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
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現在では、地図を読むとき、つい鉄道や道路などで路を判断してしまうが、考えてみれば昔の東海道だって箱根の旧道を眺めれば狭くて険しいところを歩んでいたわけで、上に記されているように、「本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻った」というくだりは、その当時に戻って考えてみて、始めてうなづけることだ。

以前、高尾山頂から陣馬山に至る途中、上記にある小仏峠付近に見られる、泥岩の千枚岩(小仏層群、中生代白亜紀後期)をハイキング(今様でトレッキング)かたわら観察に行ったことがある。驚いたのは、防御的な面から要所であり、ゆえに関所が設けられていたことだ。尾根道とはいえ、見晴らしも余りよくない、昔の交通路とはこんな風だったのかと感じたものだ。

ところで、甲州裏街道(青梅街道)の最大の難所といわれた、大菩薩峠は実際に見たことはない。この峠は、地図上で大菩薩嶺の付近の或る箇所に存在する。中国では、峠を意味する文字は「嶺」だそうだが、ある一定の幅を持っていると、中里介山は「『峠』という字」の中で次のように説明している。
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 本来の漢字によれば「峠」は「嶺」である、嶺の字義に関しては「和漢三才図会」に次の如く出ている。

     按嶺山坂上登登下行之界也、与峯不同、峯如鋒尖処嶺如領腹背之界也、如高山峯一、而嶺不一。

 これによって見ると、嶺は峯ではない、山の最頂上では無く領(えり)とか肩とかいう部分に当るという意味である。恐らく、これが漢字の本意であろう。して見ると、嶺字を以て「峠」に当てるのは妥当ならずということは無いが、「峠」という字には「嶺」という字にも西洋語のパス(mountain path)とかサミット(summit)とかいう文字にも全く見られない含蓄と情味がある。
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妄想を二つ並べる。(もちろん時空を超越する語源説など語る気はないが)

中国のような広大な国がら、人が去る様は、空気遠近法のごとく霞め去るとか、あるいは大連山の肩である「嶺」の向こう側に消えるという、おおらかなイメージだろうか。それに比して、山地の多いところでは、線遠近法の「消失点」へと去るものへ情味を集中させる言葉として「峠」が作られたのではないだろうか。かぶせていえば、チャップリン映画の最後に見せる情感を残す技法のように。
韓国の歌「アリラン」に、峠を越えて行く人を想いしのぶ場面がある。峠である固有語の「コゲ(고개)」の音に、東洋的な心情から、どこか日本語の峠(とうげ)に似ている気がする。

2014年6月21日土曜日

夏至 2014

今日は「夏至」だ。一年の内で陽が一番長い。いいかえれば、これから陽が次第に短くなる訳じゃないか。そう思うと、ちょっと残念で惜しい気がする。とはいえ、まぶしい夏はまだ終わっちゃいない。太陽に焼かれて走り回る、子どもたちの楽園がこれから始まるのだから。夏至は、夏の名を付して先走りしただけのこと。この後、二十四節気の「小暑」、「大暑」が追っかけて来る。ジリジリとする夏を待とう。

せっかくの夏至なのに、今日の空模様はどんよりして陽の射す余裕はない。空気も湿気で厚く重い。2014年の夏至は、梅雨の一角を占めたに過ぎなかったようだ。

(本ブログ関連:”夏至”)

話は全然違うけれど、今日の教室で、「ボーカロイド」って何という話題があって、音声合成で作られた「初音ミク」(2007年)という仮想の少女の歌声にまで話しが広がったが・・・。
皆と同じレベルの私としては、初音ミクの歌をネットで聞いたことはあるが、率直な感想を言えば、母音を強調した、つまり日本語として言葉がはっきりする、しかして歌詞の意が通じるもので聞きたい。イメージする曲があるが、いつか記してみよう。

ちなみに、初音ミクの声質やキャラクターとしてのあの長~いヘヤスタイルから、ブルース・ウィルス主演の映画「フィフス・エレメント(The Fifth Element)」(1997年、監督リュック・ベッソン)に登場した、オペラ歌手ディーヴァ・プラヴァラグナの声と薄青緑の肢体が重なってしまうのは私だけか。

(Youtubeに登録のFrizullに感謝)

2014年6月20日金曜日

FIFAサッカー 対ギリシャ戦 引き分け

朝方、律儀にテレビを見る。十秒見たら瞼が下がるような虚ろな状態で。そのうち目が覚めたが、大きな試合のたびに思うことがある。私がこの試合を見たことで、勝ちに運気が向くのか、それとも逆か。大それた天運を持ち合わせている訳ではないのに、なぜかフッと浮かぶ。

地球の裏側で、選手の皆さんが頑張っているのをボンヤリ見ているのは失礼かなと、部屋を片付け始める。そういえば、中学生の頃、定期試験があるたびに、準備の最初にしたのが部屋の片づけだった。緊張感が高まると、身のまわりを整理をするという性分のようだ。

結果は、引き分けだったが、相変わらずルールがよく分からない。勝ち点1がどう有効なのか、テレビの解説を聞いてみよう。といって、毎回聞いては忘れるのだが。

次回、対戦相手はコロンビアで、25日5時に試合開始だそうだ。早い!

(付記)
現在行なわれている試合を「グループリーグ」(8グループ、4チーム/グループ)といい、各グループ中の上位2チームが、次の「決勝トーナメント」に進むことになる。「リーグ戦 ⇒ トーナメント戦」・・・なるほど。
グループリーグの上位2チームの選出の基準がいくつもあって・・・むつかしい。

2014年6月19日木曜日

紫陽花の花

梅雨の時期、近所を巡ると、よその垣根越しに紫陽花(アジサイ)の花がのぞく。大方の紫陽花は、青、青紫、赤紫の色をしたものが多く、それぞれの色ごとに咲いている。土壌のpHによって、酸性(青)←(>Alイオン>)→アルカリ性(赤)と変化するからだそうだ(←まるでリトマス紙の逆だ!)。中には一ヶ所で、青色と赤紫色が同居しているものものもあるが、これはどうしたことだろう。

紫陽花の原種は、「ガクアジサイ」という日本原産だそうだ。モンスーン地域に住む日本人にとって、農作と密接な慈雨とはいえ梅雨の長雨に濡れる紫陽花が、急に身近に感じる。

ある駐車場に、通り道との仕切りが腰丈ほどの高さのため、その内側にずらりと並んだ白い紫陽花の花が見える。実に壮観なのだ。一般に、紫陽花の花の咲き始めの頃は白っぽく、次第に色付くそうだが、ここの花は全て白く花を膨らませて咲いている。

ところで、紫陽花の花は、本来の花弁ではなく「萼(がく)」だそうだ。雄しべと雌しべが退化したというが、花弁は一体どこへ行ったのか。どうやら本来の花弁は、花弁に見える萼の中心に小さく咲いているようだ。それにしても、何でこんなことをしたのだろう。

もしかしたら、梅雨の長雨に打たれても、萼の方が本来の花弁より材質的に強く、虫たちを引き付けるためにも、強靭に花の形を擬したのだろう。遺伝子をつなげるため、モンスーンの気候に適応した戦略の一つだったのではないだろうか。

2014年6月18日水曜日

夜中に、灯りをつけずに洗面所でうがいをしていたとき、別室からの薄明かりに照らされた私の顔が、目の前の鏡に映っているのを見て、一瞬、「あれっ、親父が・・・」と息つまるように驚いた。暗い中、不安のせいか、誰なのかとめぐらしたとき、真っ先に親父の顔が思い浮んだからだ。

歳をとると、自分の体形が、つくづく似ていくのを感じていたが、顔つきまでもがこれほど近づくのかとあらためて思った。洗面所の少ない明かりに、陰影に刻まれて顔つきがはっきりする。目元や口元の相似具合にあらためて親子を感じる。

あるとき、夢で、渋谷駅前の広い交差点を渡ろうとしていたとき、すれ違う大勢の人込みの中から、「やぁ」という呼び声が聞こえた。そして、手を上げながら寄ってくる、働き盛りの頃の親父がいた。
以前、昔流行った長いコートを着てカメラに向かって笑っている、親父の白黒写真を見たことがある。今の私より、ずっと若い姿だ。そんな雰囲気のまま、夢の中に現れた親父と、懐かしい思いをしながら交差点でしばらく立ち話した。

夢は、そんな私たちの姿を、画面を引くようにして人込みの中にかき消してしまった。一体何を話したのだろう。覚えていないのだ。ただ、随分前に亡くなった親父にも、溌剌として元気に働いていた時代があったのだと、当たり前ながら思った。

2014年6月17日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 韓服

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/11)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第60回として、民族衣装、とりわけ女性の「韓服(한복)」にまつわる話を紹介した。

始めに、「春香伝」の情景から、韓服のイメージを次のように紹介された。
・昔、韓服姿で、人の丈よりも長いブランコ(그네)に乗る風習があった。「春香伝춘향전)」は、このブランコから恋が始まる。

(本ブログ関連:”春香伝”)

・ある端午の節句の朝、南原(남원)地域の官職の息子、李夢龍(이몽룡)は、ある晴れた日、広寒楼(광한루)に出かけた。ここが春香伝の舞台となる楼閣だ。華やかな花吹雪の間を、何かが行き来する。ブランコに乗る妓生の娘春香(춘향)の姿だ。雪のように舞う花びら、そして杏子の花が春香の服に触れながら落ちる。春香がまるで踊っているように見えた。二人は互いの運命を感じ、恋がここから始まる。春香伝は、今もパンソリ、小説、映画などで広く親しまれている。

▼ パンソリ春香歌から「春香鞦韆(춘향 추천)」を聴く。鞦韆(ブランコ)は揺れているのか・・・随分と力が入っているような。

次に、韓服チマチョゴリ(치마 저고리)の歴史について、次のように解説された。
・チマチョゴリで知られる韓服のチマはスカート、チョゴリは上着を指す。韓服は、全て同じようなデザインに見えるが、流行に敏感だ。素材、チマの幅や、チョゴリや腕の長さ、チマとチョゴリの色合いなど多様な組合わせがある。高句麗壁画の中の民族衣装は、現在の韓服とデザインが違う。上着のチョゴリが尻を隠すほど長く、結びひもの代わりに帯のようなもので固定させていた。若干変化はあったものの、朝鮮初期まで続いたようだ。今知る韓服は朝鮮中期、後期になってから出来あがった。

▼ 界面(계면)篇數大葉(편수대엽)、「モシルル(모시를)」を聴く。女性が、細やかに紡いだ麻糸でゆっくりと織るよう。

最後に、韓服チマチョゴリのデザインの変遷について、次のように説明された。
・朝鮮中期、韓服デザインも変わる。チョゴリは短く、裾の周りはラウンド型になった。襟や袖、首や脇の部分には違う色の生地を当ててポイントを与えた。朝鮮後期になると、チョゴリは胸元よりも短くなり、袖は上着を切らないと脱げないほど幅が狭くなる。この流行を主導したのは、男性の目を引き付けようとした妓生だ。すぐに両斑(上流階級)にも広がるが、学識者(ソンビ)の李徳懋(이덕무)は、流行の批判を「青荘館全書」に残した。他方、男性の中には自分の妻にも勧めたという記録も残っている。

▼ 西道地方(平安道、黄海道)の「西道アリラン(서도아리랑)」演奏を聴く。どうしてもソ連風に聞こえてしまう。

2014年6月16日月曜日

イ・ソンヒの「思い出のページをめくれば」

イ・ソンヒが、SBSの番組「ヒーリングキャンプ」(4/14)に出演したとき、彼女の6集所収の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」(1990年、作詞・作曲ソン・シヒョン)を歌う様子をYoutubeで見ることができる。魂を込めるように歌うイ・ソンヒを見つめる、若い歌手ペク・チヨンとイ・スンギの姿がそこにある。歌手として聞き、聴衆として酔い、アーティストとしてリスペクトしていることを想像する。そして、圧倒的な歌唱力を持ち、よき師としてのイ・ソンヒを見ることができる。

(本ブログ関連:”思い出のページをめくれば”) ← この曲は、彼女の音楽上の重要な変曲点となる。


ゆらぐる、思い出のページをめくれば
ああ、遂に果たせなかった悔しさと侘しい贖罪が

*むかしのことのように、ぼんやりとかすむ窓枠の塵(ちり)のように
ああ、胸に積もるよ、今は遠ざかったあなたの微笑みのように

雨風がなくても春は来て夏は行く
ああ、あなたよ・・・涙がなくても、花は咲き葉はやがて散る

ああ、わたしに残った懐かしい、歳月を浮かべて、眠りにつくよ、夢を見るよ
眠りにつくよ、夢を・・・見るよ・・・


(Youtubeに登録のSBS NOWに感謝)

2014年6月15日日曜日

ホキ美術館

FIFAワールドカップ「日本対コートジボワール戦」がおこなわれている丁度そのとき、有楽町マリオンにいた。実は朝日ホールで、日本では珍しい写実画専門の美術館である「ホキ美術館」の紹介を兼ねて、四人の画家たちの作品投影と、写実画家としての”本音”トークを聴く機会があった。

以前、クロッキー帳に、絵画集や雑誌写真などから、自分好みのものを毎日鉛筆で描き続けたことがある。15冊ほどになったけれど、転居したタイミングで、その習慣が薄れてしまった。今は、それをときたま懐かしく見ることがある。

(本ブログ関連:”絵画”)

素人がする模写の真似事だったが、丁寧に観察すればするほど、一日では描ききれない。そして、書き始めて気付いたことがある。北方ルネッサンス絵画に見られる、例えば聖母子像の聖母の衣装の襞などは、それ自体に意味があるように巧みに陰影をもって折れている。その執拗さを、たしかホイジンガだったか指摘していたと思うが、空間をそのままに何もないことへの恐怖があるという、ゴシック的な執拗さだ。

まあ、そんな大それた意識があった分けではないけれど、空間を細密に描く写実の世界に触れてみたかった。幸い、講演会場から、千葉の土気にある美術館までバスで運んでくれたのだ。

ホキ美術館は、スマートで近代的な佇まいをした個人美術館である。洒落た建築物の中に、講演会に出席された以外の画家たちの作品も多数展示されていて、十分に時間をかけて鑑賞できた。

作品の一つ一つ、作者の筆致が感じられ、題材を包む空気まで伝わってくるような気がした。一体どんな絵の具と筆を使い、どのような筆使いなのだろう。特に、展示作品のなかで、森本介という画家の、セピア色の絵に吸い込まれた。穏やかな世界が描かれた、(キャンバス自体が東日本大震災を経験したという)少女像の≪未来≫は、光が時間が未来へ流れていくことを気付かせるようだ。見えるものを見えるまま素直に、画家の視線に沿って、描かれた世界に心安らぐ気がする。画家の視線に遊ばせてもらった気がする。

電車で行くには大変かもしれないが、この美術館へまた行きたいと思っている。

2014年6月14日土曜日

にわかファンの困惑

FIFAワールドカップが盛りあがれば盛りあがるほど、にわかファンにとって困惑が深まるばかり。日本チームの試合が明日に迫り、そんなとき、ワールドカップに関心があるかと問われると声がますます小さくなる。

今日もそうだ。関心の程度を小声で「ムニャムニャ」とうつむきながら応えた・・・でも、人並みにテレビ観戦はするつもりだが、明日の日本チームの試合開始時刻、10時には都心にいる予定。実はサッカーとは関係のないイベントに出かけるのだ・・・。

サッカー中継のせいではないが、最近夜更かしが過ぎて、睡眠時間がうまく調整できないで困っている。なあに、10時の試合にうたた寝することはないだろう・・・携帯ラジオでも持って行こうか。

ところで世間に騒がれているけれど、サッカーよりも関心がもっと遠くて、ファンでもないのだが、あの有名な歌(「ありのまま(Let It Go)」)について思うことがある。

(正しい歌詞)  ありのままで空へ風に乗って/ありのままで飛び出してみるの
(聞き間違え)  アリのママで空へ風に乗って/アリのママで飛び出してみるの

もしかしたら、小さなこどもたちの中に、「アリ(蟻)のママ(お母さん)で」って聞き間違えている子もいるのではないかと楽しい想像をしたりする。「ねえ、なぜ蟻さんなの? ママなの?」なんてね。

(追記)
今日、トルコ旅行の土産を息子からもらった。父の日を兼ねてのことだろう。きっと。

2014年6月13日金曜日

コレクション(続)

コレクションといっても、いつの間にか手元に残り、処分しないまま置いておけば、それは立派なコレクションだ。なぜなら、捨てる意志がなかったし、目の前から消えるのが心底寂しかったからだろう。やがて離れがたく、いつの間にか傍らに鎮座する。
いっそ、コレクション自身が口をきいて減らず口でも散々叩き、不快にでもしてくれたら決心がついただろうに。

(本ブログ関連:”コレクション”、””)

題名が「野川」というだけで、図書館で借りた古井由吉の小説に、コレクターの老人が問わず語りするところがある。実は、主人公が友人からもらった掌サイズの土製の小さな馬埴輪を、どうしたものかと思案しているとき思い出したことだ。
その老人は、焼き物趣味でかなり集めていたが、ほとんど他人に譲り渡し、今ではわずかなものが残っているだけ。老人と残った焼物の、奇妙で珍妙なやり取りを次のように記している。
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~(老人の)今残っているのは大した値打ちの物でもない。あの世まで持っていく了見もさらにないが、なにせ手前の手垢が染みついて、人手に渡すのも気がひける。~
~さらに、(主人公の)私をからかったか、(老人が)焼き物と押し問答を交わす、と話した。私の覚えているかぎり、おおよそこうである。
---俺が死んでも、お前らは残る。
---それは、わたしらはもともと、死んでますから。
---何を言う。俺よりは生きるって顔をとうにしてるぞ。そう思ってるんだろう。
---わたしらは物を思いません。
---思おうと思うまいと、何にしても絶対優位にはあるな。しらばっくれるな。
---叩き壊したらどうですか。
---そんなことしてやったら、よけいに死なくならあ、お前らは。
---いっそ早く人手に渡したら。わたしらは構いません。
---その、構いませんてのが、気に入らねぇ。他人に呉れたって、この手が覚えてら。知っているか、人は最後に手にだけになって絶えるんだ。
---思わなくなれば済むことです。わたしらみたいに。
---アハハハ、語るに落ちたァ。やっぱり、俺の済むのを待ってやがら。楽しいだろう。
一人で埒もない憎まれ口を叩いて、手前で眺めていたって楽しいぐらいなもんだ、と老人は笑って話しを切り上げたが、しばらく両手をひらいて見つめていた。その手が私の眼には妙に大きく、いかつく映った。
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コレクションと不即不離の関係で、憎まれ口をききながら対話する。物の中に何かを見出したのか。原始的な観察か、それとも即物的な欲望か。
個人的なコレクションは、手垢が染みこんでしか価値が実感できないのだろう。相手を選び、手離してこそ賢明かもしれない。

(追記)
そうそう、昼頃に随分固い雨音と思ったら、ヒョウ(雹)が降った。前回はいつだったかな、珍しいことだ。

2014年6月12日木曜日

コレクション

昔、子どもの頃に、切手コレクションが流行った。今では、切手収集はブームとしてすたれているようだ。いっとき熱中するも、関心が長続きしないのが、子どもの趣味である。
そういえば、切手帳という冊子に、収集した切手をそれなりに収めたが、随分昔、わが子に与えたけれど、その後、趣味を継承?しているという音沙汰もない。時代の向きが変わったのだろう。

実は、今までに集めたもので、場所をとっているものがある。鉱物採集した未整理の標本(石片とでも言った方がよい)である。産地ごと明記した袋に、いずれ整理するのが楽しみと思って、一切放り込んでいるが溜まる一方だ。この際、採集を中断して整理にとりかかったほうが良いのかもしれない。

日本を代表する、名だたるアマチュア採集家の標本は、亡くなった後、その標本の素晴らしさからしかるべき場所(格式ある標本館、博物館など)に常設として継承、保管されている。それに近い、大ベテランの方の物もしかるべく収まっているようで、博物館などで特別展示されているのを見かけることがある。どれも見栄えする大きな結晶で、そんな標本と出会うとため息ばかり出る。

ところで、末席にいて気分だけ味わっているような、私のようなものの収集品は、結論から言うと、いずれゴミになるだろう。庭の隅にでも・・・なんてことに。

一般マニアのコレクションは、標本ケースに収めて標本ラベルが付されたとしても、一代限りだろう。それでいいのかもしれない。趣味は個人的なものだから。

鉱物趣味の会などで、生きているうちに自分のコレクションを会員に配布しようとする方がいる。それをうれしくもらっている会員が、配布する会員と歳の差が大きくはないのが現実だ。

(付記)
明日からFIFAワールドカップが始まるけれど、ゴールの瞬間しか分からぬにわかファンは、また他人に聞かねばならないことがある。選手の名前と布陣、試合のルール、そしてワールドカップの勝ち抜きのルールだ。

2014年6月11日水曜日

イ・ソンヒの「本当に悪い」

一日中、雨降りにうんざりする。昼間少し薄らいだが、夜には又しっかりと間断なく降り続く。こうなると詩情もわかない。豊作へ結びくのか心配になる。
気象解説では、エルニーニョが発生したようで、偏西風が南北に大きく蛇行して、結果として梅雨前線が動きを封じられて、いつまでも降っているというのだ。

こんな天気だからこそ、イ・ソンヒらしさが溢れる、彼女の14集所収の「本当に悪い(참 나쁘다)」(2009年、作詞・作曲イ・ソンヒ)を聴いてみよう。こころ揺れるまま、雨に打たれながら街に出る・・・そんな場面でも、彼女の歌声になれば、雨も決して悪くはないような気がしてくる。(この歌、ブログに記すのも3回目になる)

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「本当に悪い」”)

立ち直れない思いを抱いて
街に出て見たわ
あのたくさんの人たちの中で
私は何度も泣きそうなの

そのまま、この雨の中に
しばらくの間、立っていたわ
貴方に会いたい思いで・・・

本当に悪い・・・貴方、この思い知らないで
どうして無視して遠ざかっていくの
ただ私だけを愛した人の思い
こんなにまで苦しめるの

本当に悪い・・・私をここに一人にして置いて
あなたは、ただ私が近づいて来るのを望んでいるの
その思いにも愛があるのなら
どうか近づいて

そのまま、雨の中に
しばらくの間、立っていたわ
貴方に会いたい思いで・・・

本当に悪い・・・あなた、この思い知らないで
どうして無視して遠ざかっていくの
ただ私だけを愛した人の思い
こんなにまで苦しめるの・・・

本当に悪い・・・ここに私は一人にして置いて
あなたは、ただ私が近づいて来るのを望んでいるの
その思いにも愛があるのなら
どうか近づいて、どうか・・・近づいて

(Youtubeに登録のYuan-Chen Yangに感謝)

2014年6月10日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 珍島シッキムクッ

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第59回として、亡くなった者の恨を晴らす儀式「珍島シッキムクッ(진도 씻김굿)」にまつわる話を紹介した。

(本ブログ関連:”巫俗音楽”)

まず、全羅南道の珍島に伝わるお払い「珍島シッキムクッ」の紹介から、次のように始まった。
・珍島は、毎年春に海が大きく割れることで知られ、昔ながらの素朴な風景が残る。4月の珍島沖事故で多数の犠牲が出たが、珍島には亡者を慰める儀式が古来伝わっている。
・命のあるものは、いつか亡くなる。死に対する儀式は、人間としての重要な基準のひとつだ。地域、文化ごと異なる儀式の一つに「祭儀(クッ、굿)」がある。「巫女/巫堂(ムーダン、무당))」が激しい歌舞の中で神にお告げを行う。珍島の「シッキムクッ」は、亡者の恨を晴らし、あの世への道が平穏であるよう願う。「洗い(シッキム、씻김)」は恨を水で洗い流す意だ。珍島シッキムクッは、音楽、踊り、歌が調和した、亡者のための儀式であり、生きる人々全ての命のために行う。

▼ 「珍島シッキムクッ」の中から「シッキム(씻김)」を聴く。巫女の声と太鼓の、人と自然の始原の響きを聞くよう。

次に、水と宗教の関係に見られるものが、シッキムクッにもあると、次のように説明された。
・水は、洗い流す意がある。朝早く家族の健康と幸せのため、水を汲みその前で祈る母親の姿を昔はよく見かけた。仏教や巫俗と同様、キリスト教も洗礼という水の重要な儀式がある。イスラム教は祈る前に、必ず顔と手足を水で洗う。水で体を洗うだけでなく、心と魂を清める。古い自分を捨て新しい存在へ生まれ変わる意があるのだろう。
・水は、新しい世界に進む意もある。東西の神話で、あの世は舟に乗って川を渡る所とされる。古代エジプトと同様、シッキムクッでは、亡者の姿を象徴する巫具「ヨンドン(영돈)」を、水でよく洗い流す。巫女があの世を象徴する細長い白布を敷き、「般若竜舟(バンヤヨンソン、반야용선)」という船を置き、あの世へ道案内する。また、あの世に進むための道を整える儀式「道磨き(キルダックム、길닦음)」もある。

▼ 「珍島シッキムクッ」の中から「キルダックム」を聴く。シッキムと比べて何となく習合の歴史を感じる・・・。

最後に、シッキムクッの存在の意義について、次のように解説された。
・情けを表す表現に、「憎い情、愛しい情」がある。愛しい人は言うまでもなく、嫌いな人も憎んでいるうちに情け深くなるのが人の心だという意だ。残された者の心を慰めることもシッキムクッの意義である。この儀式が行われる間、巫女は歌と踊りで人々の心を揺さぶる。巫女が亡くなった者に代わって話をすると、それを聞く者は涙を流しながら挨拶をし、お互いに恨を晴らすのだ。

▼ 「魂のためのカデンツァ」(アンサンブル・シナウィ)を聴く。現代人の感性に合ったイメージなのだろう、たぶん・・・今様である。

2014年6月9日月曜日

東京国際ミネラルフェア2014

何年振りだろうか、しばらく遠のいていた、「東京国際ミネラルフェア」に出かけた。新宿の小田急第一生命ビルの地階を主会場にして、世界各国(150社以上)の専門業者が鉱物、化石、宝飾素材など展示即売するフェアだ。

今回の第27回フェアは、特別展「ザ・シーラカンス」にシーラカンス及び関連の化石、実物大模型など展示され、公式ガイドブックには、その生態と化石について詳細が語られている。(化石マニアにはたまらないことだろう)
鉱物マニアにとって、何より素晴らしいのは、鉱物図鑑に載っている美しい鉱物結晶と、ここで出会えることだ。それらの産地は日本よりも海外が圧倒的多く、フェア出展者の半数が海外からというのも、むべなるかなだ。

今日の梅雨の蒸し暑さのせいか、それとも運動不足で水ぶくれのせいか、汗が止まらない。タオル地のハンカチがしとしとになってしまったほどだ。何かいいもの(標本)はないかと会場を2周した。

展示ブースには、アマチュア団体のものがあって、次のものを手に入れた。
・東京側団体のブース: 標本「自然鉄」(群馬県下仁田上蒔田)を求めた。
標本断面に、鉄の薄い脈状の筋が見える。綺麗に磨くと、もっとはっきりするといわれた。以前、この産地に団体で出かけたことがある。そのとき、岩の表面にぽつぽつ小さな突起があるもの探せということで採集した。展示品の中から、いくつか金属鉱物を示していただいたが、採集経験のある産地だけに、この自然鉄を選んだ次第。
・京都側団体のブース: 書籍「必携 鉱物鑑定図鑑」(藤原卓編著)を求めた。
サブタイトルに「楽しみながら学ぶ 鉱物の見方・見分け方」とある。何よりうれしいのは、書名の通り、鉱物鑑定、すなわち<同定ポイント>が各鉱物ごとに掲載されていることだ。結晶の形状、劈開(へきかい)の有無、希塩酸に溶けるかなど様々な観点でポイントを示してくれる。そして、<間違いやすい鉱物>に比較点があるなんて、まさに鉱物採集に焦点を当てた、今までにないユニークさを持っている。

(付記1)
鉱物に興味を持ち始めた頃、といっても随分と遅咲きだったが、一体何から・・・と手探りしていたときに出会ったのが、このフェアだった。当初、毎年通っていたが、恩知らずの私は財布と相談しているうちに次第に縁遠くなった。一つに、採集の味を覚えたからかもしれない。たぶん、永遠に手に届かぬ海外産の鉱物より、身近に手元に感じられる国内産に関心が移ったせいもある。

(付記2)
フェアの帰り道、地下道にある書店ブックファーストでDVD「大統領の理髪師(原題:孝子洞 理髮師、효자동 이발사)」(2004年、主演 ソン・ガンホ他)を購入。

イ・ソンヒの「たぶん」

イ・ソンヒのデビュー(1984年)は、女性を前面に出した歌謡と違って、新しさと同時に健全さをもって、特に若い女子高生に受け入れられたという。彼女のファッション・スタイルからして、他の女性歌手とは一線を画した。それゆえ、愛を愛として世界を作り始めた女子高生にとっては、最も身近な存在となりえた。同時に、若い彼女たちの心中に、当然ながら女性の感性があるわけで、見えないところで、或いはそう思い込んだところで、琴線に触れたのだろう。

イ・ソンヒとファンの間は、一つの合わせ鏡であり、イ・ソンヒの経験とファンの成長も連動する。しかして、ファンは最初の出会いを大切にし、イ・ソンヒはそれに応えて歌い続ける。

イ・ソンヒの12集「My Life + Best」(2001年)所収の「たぶん・・・(아마...)」は、(表面で理解しようとする)男には分かるようで分からない、(内面でこそ理解する)女性特有の心理を歌っているようだ、たぶん。しかも、美しい旋律と歌唱にのせて。

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その人の話し、しましょうか。 悲しい私の愛、聞き入れることができますか。
馬鹿でしょ、言葉ひとつできず、一人で胸を痛めるなんて。 私のそばにいても、
分かってください。 そんな気持ち、彼を見るたび、いいえ、私余計なこといい始めたようです。

*もう、その人には、命のような、そんな大事なものがあるのでしょう。
永遠に、私は堪えられない話をできないんです。 愛するという言葉は、たぶん・・・

なぜか、涙が止まりません。 つまらないでしょう。 私の気持ち分からなくて。
あなたがくれたハンカチに、涙とともに滲み出た言葉、それはあなたなのに。
本当に分からないのですか。 私のこんな気持ちを、いいえ、余計なこといい始めたようです。

*(繰り返し)

*(繰り返し)


(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2014年6月8日日曜日

砂金でも採りに行こうか

何年前のことか、荒川上流で「砂金」一粒を採って以来、暑い夏は川水に足をひたして、冷たい鉱物採集と銘打ち実行しているが、ずっと運に見放されている。今年も、砂金でも(葡萄樹下キツネの心境で)採りに行こうか。

(本ブログ関連:”砂金”)

休日を楽しむ砂金採りには、「選鉱(パンニング)」の道具に、皿に似たものが一般に使われる。底の浅いフライパンのようなパンニング皿に、砂金が混じった川砂を入れて、流水にさらしながら揺すり、不要な砂礫を次々と洗い流す。最後に、パンニング皿の底に張り付くように、比重の大きな金の粒が残っている・・・筈なのだが、ここのところずっと見当たらない。

手頃なパンニング皿は、プラスチック製(黒や深緑色)が多い。中には金属製のものもあって、金属光沢に砂金が紛らわしくないように、高熱に焼き錆を入れて茶褐色にする。

日本では古来、木製の椀を使ったようだ。金粒が見やすいように黒漆を塗ったというが、現物を見たことがない。椀を使って選鉱するので、「椀かけ」という。
実際に、黒漆のお椀を使って、神業のようパンニングする現場を見たことがある。このときは、粒の細かい砂に混じった砂金を取り出したわけだが。

昔、日本の金山から金(「山金」)を採取する場合、金鉱脈の岩を砕き、焼いて小さくし、更に臼でひいてから、パンニングしたようだ。一方、山からこぼれ落ちた微細な金が、川の流れの中で自然に凝集?した砂金は、手間がいらずにいきなりパンニングできる。

砂金は、川岸の雑草の根の下に溜まるという。こうなると、金には生命に感応する霊力でもあるかのような気がしてくる。まさに、採れない言い訳に都合よく、神頼みでもある。

「夜中に気を望みて、金山を知る」に、あやかりたい。

2014年6月7日土曜日

雨に唄えば

雨、雨、雨、一日中雨だった。おまけに、ひんやり冷える。梅雨は苦手だ。先日の夏もどきのうだる暑さは一体なんだったのだ。

帰宅して、カバンがじっとり濡れているのを見ると、雨はお洒落じゃない。雨降りに傘をささない国もあるそうだが、きっと雨上がりに空気がカラッと爽やかなのだろう。しとしと降り続くモンスーン気候とは違った異国の話だ。

映画「雨に唄えば(Singin' in the Rain)」(1952年)の名場面では、雨の夜、彼女を送った帰り道、脈ありと主人公が小躍りする、ミュージカル特有の歌と踊りが演じられる。雨は、どうやら人を上気させ、狂わせる。
でも、「雨に唄えば」って、登場人物の男女を入れ替えたらどうなるのだろう。デートの帰りに、女性がこんな風に雨道を飛び跳ねるとは思えない。やっぱり、男は調子者、小さな子どものときからそうだった。

雨音を聞いていると、ふと時間の経過を忘れる。主客が入り乱れる夢想の世界に通じる。雨は、一瞬の夢を見せ、雨だれに魂を吸い込んでいく。特に、深夜の雨に奇妙な胸騒ぎを覚える。

2014年6月6日金曜日

芒種2014

苗床への種まきは、実際には終わっている頃だが、今日は、二十四節気の種まくころの「芒種(ぼうしゅ)」だ。

(本ブログ関連:”芒種”)

といっても、実際に米の種まきを見たことがない。そのとき、種の形はどんなものなのなのだろうか。籾殻(もみがら)を付けたままなのだろうか。
ネットに紹介されているいくつかの写真では、殻付きのようだ。やっぱり、そうなんだな。

イネの発芽映画がYoutubeにある。芒は見られないが、毛を持つ籾殻に覆われたイネの種子が水分を含んで膨らみ、芽を出す様子は感動的だ。微速度撮影のおかげで、まるで地を這うように動いて見える。養分を探して地中に根を張る様から、米一粒ごとの命を感じる。
(Youtubeの登録者shaoyanglinに感謝)

子どものころ、久し振りに田舎から来てくれた祖母から、食事の終わりに茶碗に米一粒残さぬよう注意された。そして、学生時代の夏休み、祖母の家を訪れて、祖母と私二人で一時を過ごしたことがある。あるとき、飯を食べようとしたら、米びつの米が変色していた。けれど、祖母は大丈夫と水で洗って食べたのだ。さすがに、食べられないといったけれど、申し訳ない気持ちでいっぱいだったのを覚えている。

今日の雨は、米の収穫につながるありがたい慈雨だろうけれど、長梅雨の話しがあり、冷夏予想もあるようで心配だ。

2014年6月5日木曜日

梅雨入り2014

今日から、当地(関東・甲信地区)は梅雨入り。夕方に動きの遅い前線がやって来て、雨音を絶やさない。梅雨の雨は、米にとって恵みの雨であり、慈雨であるから、わがままはいえないが、ちょっと気が重い。

古い歌謡に、喫茶店の窓辺に坐った若い二人が、窓ガラスを濡らす雨雫を見ながら・・・なんてものがあるけれど・・・ああ、古いなあ。おじさんには、カビの方が心配なのだ。

気象庁の「昭和26年(1951年)以降の梅雨入りと梅雨明け(確定値):関東甲信」から、早くても7月初旬頃まで梅雨が続くことだろう。これから50日間ほどだ。
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   年       梅雨入り      梅雨明け
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2010年  6月13日ごろ  7月17日ごろ
2011年  5月27日ごろ  7月09日ごろ
2012年  6月09日ごろ  7月25日ごろ
2013年  6月10日ごろ  7月06日ごろ
2014年  6月05日ごろ
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平   年   6月 8日ごろ  7月21日ごろ
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(本ブログ関連:”梅雨入り”、””)

【多摩の代官】世襲代官と土豪的農民の郷村支配

地元公民館で、江戸時代初めの多摩地区(武蔵)を治めた代官による自治機構を解説する、法政大学大学院の馬場憲一教授の第3回目講演「世襲代官と土豪的農民の郷村支配」を聴講した。

(本ブログ関連:”多摩地区(武蔵)を治めた代官”)

江戸時代初期、1600年代後半までの身分構成について、第1回は代官頭の大久保長安を、第2回は代官頭配下の世襲代官である十八代官(高室一族)が紹介された。今回の第3回は、世襲代官と農民の間をつなぐ土豪的農民の存在について、次のように語られた。

江戸初期までは、勘定頭(代官頭)>世襲代官(十八代官)>土豪的農民>小農民という、土地に結びつく支配構成がされていた。その後、徳川の中央集権化に伴い1600年代末に至ると、世襲代官と土豪的農民による村落支配は終焉を迎えた。
  -→ 世襲代官は、吏僚代官という任地を変わる役人変わる。
  -→ 土豪的農民は、村役人という名主・組頭に変わる。

(感想)
北条一族の末裔が、関東地の農村に入り農民化したという話しがある。それを出自とした、土豪的農民へと実力を蓄えたのだろうか。そして、彼らを使って支配した、世襲代官は武田家の末裔が多かったことから、中央集権化をすすめる幕府としては、過去の力を嫌ったと考えられる。

支配するものと支配されるものの間には、過去の関係が一時期温存される。早急に新しい支配体制を確立するためには、都合がよかったに違いない。けれど結局、それは喉に刺さった小骨となる。徳川幕府は、用意周到にそれらを抜き去ったのだろう。

2014年6月4日水曜日

イ・ソンヒの「雨降る街に立って」

まるで真夏を思わせる強い陽射しは、何かの景気づけだったのか。一年の折り返しに近づいたこのところ、垣根越しの紫陽花に目が向くようになった。通過点である梅雨は、都市生活者の勝手な思いだが、避けられない。玄関の傘は、減ることなく溜まり続けている。

東京の天気は、今日から下り坂で、早ければ平年(6月8日)より数日早く梅雨入りする可能性があるという。すでに、沖縄と奄美は先月中に、九州と四国は今月初に梅雨入りした。(気象庁:平成26年の梅雨入りと梅雨明け(速報値))

地方平成26年平年差昨年差平年昨年
沖縄5月5日ごろ4日早い5日早い5月 9日ごろ5月10日ごろ
奄美5月11日ごろ同じ1日遅い5月11日ごろ5月10日ごろ
九州南部6月2日ごろ2日遅い6日遅い5月31日ごろ5月27日ごろ
九州北部6月2日ごろ3日早い6日遅い6月 5日ごろ5月27日ごろ
四国6月3日ごろ2日早い7日遅い6月 5日ごろ5月27日ごろ

じめじめ湿気の多い時期、屋内にいると除湿機を動員する。正直、苦手なのだ。でも、そぼ降るなか、自然の景観には詩情がある。そして、そこへ織り込む想いは独特である。

途切れぬ雨に打たれながら、悲しみを癒し、流そうとする、イ・ソンヒの9集所収の「雨降る街に立って(비오는 거리에 서서)」(1994年、作詞・作曲イ・スンジン)を聴いてみよう。雨音と遠雷から曲は静かに始まる。

(本ブログ関連:”雨降る街に立って”)
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雨降る街に立って、あなたを待っているのね
行き交うたくさんの人たちの中で、私は立ち続けるのね
降る雨の中で、たたずんであなたを待っているけれど
どこにも見つからないあなたは、雨に濡れた私の心が分かるの

雨降る街に立って、あなたを思っているけれど
みすぼらしい私の姿は、私にも、どうしょうもできないの
消えていく、あなたの悲しい後ろ姿のように一人でここに

雨降る街に立って、あなたを待っているのね
暗い夜は更けていくのに、あなたは見えないのね
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(Youtubeに登録のRuby Kangに感謝)

2014年6月3日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 柳

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(5/28)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第58回として、川の岸辺に立つ、愛と別れのシンボルとされる「柳(버들)」にまつわる話を紹介した。

始めに、中国の前漢時代に異国に嫁いだ宮女の王昭君(왕소군)を思いうたった詩の紹介から、次のように始まった。
・中国唐代の詩人東方虬(동방규)には、異国に嫁いだ宮女王昭君を思いながらうたった詩がある。
     胡地無花草   花が咲かないあの地には
     春來不似春   春が来ても春の空気が漂わない
     ・・・             ・・・
春が来ても春らしくない重苦しい気持ちを表している。若い命が一瞬に去った、沈没事故のあった今春がそんな季節であったかも知れない。その春も過ぎ去り夏が近づいている。

▼ 京畿地域の民謡「楊柳歌- 柳の歌(양류가-버들노래)」を聴く。春の風、鳥、蝶・・・穏やかに、今様である。

次に、旅の別れを惜しみ、再会を象徴する「柳」について、次のように説明された。
・昔、道路が不整備のため、主に船を利用した。荷物を多く持って遠く旅するならなお更で、船場は往来の人々で混み合った。去る者、残る者、またいつ会えるのか分からなかったため、別れが辛かった。
・柳の枝は折って土に植えると根を下ろすため、旅立つ者は、川辺の柳の枝を折り植えて、自分と思って欲しいと言った。冬が過ぎて春になり、凍り付いた川が融けると船が出港する。旅人が増え、柳の枝を折る人が多くなると、この季節には川辺の柳の枝が尽きた。柳は、愛と別れのシンボルになった。柳を見つめながら、旅立った者を愛しく思い涙した人もいたことだろう。

▼ 女性歌曲「柳」を聴く。長い呼吸で歌う・・・とても洗練された雰囲気。

最後に、高麗の太祖王権(태조왕건)と柳の葉を浮かべた水や、娘の出会いの逸話を、次のように紹介された。
・太祖王権がまだ将軍のとき、喉が渇き、井戸にいた娘に水を一杯求めた。娘は水を汲み、器に柳の葉を浮かせた。急いで飲むと喉につかえるため、葉を吹きゆっくり飲むの意があった。その後、王権が高麗建国後、この娘は王妃になった。
・昔、貧しい中、一人娘ヌンソを育てた父が兵役に行くことになり、娘を(忠清南道)天安(천안)の或る宿に任せることになった。父親は柳の枝を植えて、「この木から葉っぱが出てくる頃にはまた会える」と言った。後日、ヌンソは美しい娘に育ち、(学識ある者)ソンビと巡り合う。彼は、国の役人になる試験を受けるため向かっていた。彼が試験に合格して戻ったとき、柳の下でヌンソと再会した。このときの歌を「天安三叉路(천안 삼거리)」という。天安地域にある三叉路という歌だ。後に、父親とも再会する。

▼ 「天安三叉路(천안도 삼거리)」を聴く。三南大路の分岐点・・・別れの道、出会いの道、曲調は明るい。

2014年6月2日月曜日

(資料)K-POP Archive 1984年 : イ・ソンヒの誕生

「K-POP Archive」は、20世紀(1907年)以降の韓国歌謡界の動向を記している。特に、1980年代以降については、その内容が、評論もまじえた年代記風になっており、鳥瞰に最適である。
といっても、イ・ソンヒに関わるところを見つ続けているわけだが、彼女が登場した1984年について、「Year1984. 新しい英雄キム・スチョル、イ・ソンヒの誕生」*の文に、次のように解説している。(抜粋)
(*)KMDC ARCHIVE:「時代別大衆音楽史」1980年代
    ー https://www.k-pop.or.kr/history/history/1980

1984年を、歌王チョー・ヨンピルに迫る若い才能が生まれた年と記している。まさにイ・ソンヒを象徴する、歌謡界の水準が向上した年であった。

(本ブログ関連:”1984年”)
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・・・、(1984年)7月29日開かれた第5回「江辺歌謡祭」を通じて登場したイ・ソンヒは、大賞曲「Jへ」でこの年のシンデレラになった本来、「4幕5場」という混成デュエットの一員で歌謡祭に参加したイ・ソンヒは、圧倒的な歌唱力でチームの大賞を導いた歌謡祭後、足早くソロでデビューした彼女は、結局「Jへ」一曲でMBC「10代歌手歌謡祭」の3冠王(10代歌手賞、女新人歌手賞、最高人気歌謡賞)になる。男性の新人のうちでは、ハンサムな容貌に独特の唱法が印象的だったボリビア僑胞(海外在住韓国人)歌手イム・ビョンス(임병수)が注目された。特に、彼の独特のバイブレーションは、「ヤギ唱法」という新造語まで作り出した。

この年、男性歌手のうちユン・スイル(윤수일)の活躍も眩しかった。年初「アパート」の熱気を下半期、軽快なロック ナンバー「美しくて」に継続した。彼は、当時我が国では試みたことがない、いわゆるシティ・ロック音楽で自分だけの牙城を構築した。
女性新人歌手のうちには、たとえイ・ソンヒの突風で色があせたのだが、清純で可愛いイメージのチェ・ヘヨン(최혜영)も人気であった。1月1日「若さの行進]」をデビュー舞台で活動を始めた彼女は、「それは人生」で一気にスターダムに上がった。もし、イ・ソンヒが登場しなかったら、彼女の新人歌手賞受賞は当然の結果だっただろう。
最後に、1984年歌謡界で表面的には眺望されなかった最も大きい変化であり特徴は、歌手の上向き平準化現象だ。すなわち、全般的に歌手の水準が向上したのだ。例えば、以前には誰もチョー・ヨンピルの牙城に届かなかった。大衆的な人気だけでなく音楽的にもそうだった。それだけ、チョー・ヨンピルは先んじていた。だが、この年を基点にして、チョー・ヨンピルとはまた他の、個性と音楽性を持つ歌手が、次から次へ登場し始めた

それと共に歌謡界は、また他のルネサンスを迎える準備をしていた。
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(Youtubeに登録のwindmillsofmusic、soya iに感謝)

2014年6月1日日曜日

ポピーの花

何だ、夏じゃないか、陽射しと熱気に押しつぶされそう。通り道の路面、栗林の白い穂(花)、小学校の垣根、そこらじゅう眩しくて目がパチパチする。のんびり、日曜の昼を、コンビニでペットボトルの飲料水と新聞の朝刊を買って、小金井公園に出かけた。

公園の散歩道は、木立に覆われて、木漏れ日が風に揺れる。深く緑陰の空気を満喫することができる。並木道の南側には広い原っぱがあって、休日を楽しむ家族連れでにぎわっていた。元気な子どもたちの遊び声、叫び声がこちらにも届く。

この「子どもの広場」に、ちょっとした花畑があって、赤い花が咲いているのが目に付く。いつもは、コスモスの花を咲かせたりする場所だが・・・と思いながら寄って見た。

どうやらポピーの花だ。一見、華奢な感じがするが、すっと伸びた茎の上で揺れる赤い花弁の様は、怪しさを秘めているよう。というのも、花びらの落ちた後の姿に、危険なイメージをしてしまうからだ。ポピーは、ケシ科の花である。
するりとして、赤い花弁だけが目に焼きつく、その立ち居に、どこか曼珠沙華の影に通じるものがある。

ところで、今日は気象記念日だそうだ。気象庁発表の今年の「第139回気象記念日について」に、「気象記念日は、気象庁の前身である東京気象台が明治8年(1875年)6月1日に設立されたことを記念し、昭和17年(1942年)に制定されました。」と付記されている。
東京は、今日も真夏日で、今年の最高の気温を更新したのだろうか。・・・都心の最高気温は、33.1℃(昨日31.6℃)だったそうだ。

(雑談)なぜなぜ3回

問題分析、つまり、何でこんなことになっちゃったのだろうという、問題の根本要因を見つけ出す作業がある。これを、「なぜなぜ分析」と呼ぶが、経験上「なぜなぜ3回」といったりした。つまり、要因を自分の目で気付くために、「なぜ?」を3回は繰り返さないと・・・というわけだ。

「なぜ?」を3回繰り返すと、分析したつもりでも言い訳だったり、表面的な現象だったりしたものから、自分で確認する、つまり自分で取り組める処まで、真の要因を探し出すことができるようになる。3回ではダメなのだろうか、その後、6回などと言ったりしていたが。

自分の水準で考えることがミソで、それゆえ組織として全員で、問題に取り組むことができるわけで、その結果、問題解決への道筋を作る大きな力になる。多分、その力が、高度経済成長を押し上げたことだろう。

自分で考えるリテラシー上で、なぜなぜ3回や、なぜなぜ6回するけれど、世の中の全てに、そんなリテラシーが揃っているわけではない。そこで、世界共通の標準化された(基本的な)管理の仕組みが登場した。それは、ひとことでいえば、仕事のプロセスの節目、節目でチェックしなさい、その運用を組織として健全に廻しているか管理しなさいという、チェックする側の責務が明確にされた。だから、組織を運用して廻す側である、マネジメント側にとっての(責任)システムでもある。

全員が自分の立場で分析するという「なぜなぜ3回」があり、その結果、問題解決まで含めて、組織が健全に廻るためにマネジメントこそしっかりしなくちゃならないよ、ということになる。