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2014年6月22日日曜日

日本で作られた漢字文字(国字)があって、その代表例に「(とうげ)」の文字が挙げられる。昨日の教室で、韓国での漢字使用が話題になったとき、同様のことがあるのか先生にうかがったところ、中国で現在使われなくなった漢字が残っているという話しは聞いたことがあるが・・・とのこと。

中里介山は、大作「大菩薩峠」の出だしに、甲州街道(本街道)に対して、(裏街道である)甲州裏街道の途中に存在する大菩薩峠について次のように記している。
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 大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。
 標高六千四百尺、昔、貴き聖が、この嶺の頂きに立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿おし田を実らすと申し伝えられてあります。
 江戸を出て、武州八王子の宿から小仏、笹子の険を越えて甲府へ出る、それがいわゆる甲州街道で、一方に新宿の追分を右にとって往くこと十三里、武州青梅の宿へ出て、それから山の中を甲斐石和へ出る、これがいわゆる甲州裏街道(一名は青梅街道)であります。
 青梅から十六里、その甲州裏街道第一の難所たる大菩薩峠は、記録によれば、古代に日本武尊のみこと、中世に日蓮上人の遊跡があり、降って慶応の頃、海老蔵、小団次などの役者が甲府へ乗り込む時、本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上(のぼ)り煩(わずら)う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
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現在では、地図を読むとき、つい鉄道や道路などで路を判断してしまうが、考えてみれば昔の東海道だって箱根の旧道を眺めれば狭くて険しいところを歩んでいたわけで、上に記されているように、「本街道の郡内あたりは人気が悪く、ゆすられることを怖れてワザワザこの峠へ廻った」というくだりは、その当時に戻って考えてみて、始めてうなづけることだ。

以前、高尾山頂から陣馬山に至る途中、上記にある小仏峠付近に見られる、泥岩の千枚岩(小仏層群、中生代白亜紀後期)をハイキング(今様でトレッキング)かたわら観察に行ったことがある。驚いたのは、防御的な面から要所であり、ゆえに関所が設けられていたことだ。尾根道とはいえ、見晴らしも余りよくない、昔の交通路とはこんな風だったのかと感じたものだ。

ところで、甲州裏街道(青梅街道)の最大の難所といわれた、大菩薩峠は実際に見たことはない。この峠は、地図上で大菩薩嶺の付近の或る箇所に存在する。中国では、峠を意味する文字は「嶺」だそうだが、ある一定の幅を持っていると、中里介山は「『峠』という字」の中で次のように説明している。
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 本来の漢字によれば「峠」は「嶺」である、嶺の字義に関しては「和漢三才図会」に次の如く出ている。

     按嶺山坂上登登下行之界也、与峯不同、峯如鋒尖処嶺如領腹背之界也、如高山峯一、而嶺不一。

 これによって見ると、嶺は峯ではない、山の最頂上では無く領(えり)とか肩とかいう部分に当るという意味である。恐らく、これが漢字の本意であろう。して見ると、嶺字を以て「峠」に当てるのは妥当ならずということは無いが、「峠」という字には「嶺」という字にも西洋語のパス(mountain path)とかサミット(summit)とかいう文字にも全く見られない含蓄と情味がある。
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妄想を二つ並べる。(もちろん時空を超越する語源説など語る気はないが)

中国のような広大な国がら、人が去る様は、空気遠近法のごとく霞め去るとか、あるいは大連山の肩である「嶺」の向こう側に消えるという、おおらかなイメージだろうか。それに比して、山地の多いところでは、線遠近法の「消失点」へと去るものへ情味を集中させる言葉として「峠」が作られたのではないだろうか。かぶせていえば、チャップリン映画の最後に見せる情感を残す技法のように。
韓国の歌「アリラン」に、峠を越えて行く人を想いしのぶ場面がある。峠である固有語の「コゲ(고개)」の音に、東洋的な心情から、どこか日本語の峠(とうげ)に似ている気がする。