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2014年6月8日日曜日

砂金でも採りに行こうか

何年前のことか、荒川上流で「砂金」一粒を採って以来、暑い夏は川水に足をひたして、冷たい鉱物採集と銘打ち実行しているが、ずっと運に見放されている。今年も、砂金でも(葡萄樹下キツネの心境で)採りに行こうか。

(本ブログ関連:”砂金”)

休日を楽しむ砂金採りには、「選鉱(パンニング)」の道具に、皿に似たものが一般に使われる。底の浅いフライパンのようなパンニング皿に、砂金が混じった川砂を入れて、流水にさらしながら揺すり、不要な砂礫を次々と洗い流す。最後に、パンニング皿の底に張り付くように、比重の大きな金の粒が残っている・・・筈なのだが、ここのところずっと見当たらない。

手頃なパンニング皿は、プラスチック製(黒や深緑色)が多い。中には金属製のものもあって、金属光沢に砂金が紛らわしくないように、高熱に焼き錆を入れて茶褐色にする。

日本では古来、木製の椀を使ったようだ。金粒が見やすいように黒漆を塗ったというが、現物を見たことがない。椀を使って選鉱するので、「椀かけ」という。
実際に、黒漆のお椀を使って、神業のようパンニングする現場を見たことがある。このときは、粒の細かい砂に混じった砂金を取り出したわけだが。

昔、日本の金山から金(「山金」)を採取する場合、金鉱脈の岩を砕き、焼いて小さくし、更に臼でひいてから、パンニングしたようだ。一方、山からこぼれ落ちた微細な金が、川の流れの中で自然に凝集?した砂金は、手間がいらずにいきなりパンニングできる。

砂金は、川岸の雑草の根の下に溜まるという。こうなると、金には生命に感応する霊力でもあるかのような気がしてくる。まさに、採れない言い訳に都合よく、神頼みでもある。

「夜中に気を望みて、金山を知る」に、あやかりたい。