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2013年12月31日火曜日

2013年にさようなら

さて今年もあと数時間でおしまいだ。あっという間の1年だった。

こんな年の暮れ方も珍しい・・・惜しむ間もなく、ざるから漏れるように時が過ぎた。

ここで1曲、イ・ソンヒの「惜別の情(석별의 정)」、つまり「蛍の光」を聴きたいたいところだが、残念ながら単独で2013年の最後を飾るに相応しいYoutube映像が見当たらない。・・・昨年版のものはあるのだが。

そんなわけで、軽快にポール・モーリヤ(Paul Mauriat)編曲の「蛍の光(AULD LANG SYNE)」を聴きながら今年を仕舞いましょう。(Youtubeに登録のufrp136に感謝)

来年もよい年でありますように。

KBS WORLD「国楽の世界へ」 クリスマス

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/25)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第37回として、「クリスマス(크리스마스)」にまつわる話を紹介した。

まず、イエスの「5つのパンと2匹の魚」の奇跡の紹介から次のように始まった。(聖書に基づき改編)
・イエスを慕い従った人々に、夕暮れに与える食べ物が全くなく困った時、弟子はわずかに残ったパンを5つと魚を2匹差し出した。イエスはこれを裂いて5千を超える人々に与え満腹にした。このイエスの奇跡は、小さくとも、自ら所有するものを人々に喜んで差し出す行為に、尊い価値を知らせた。独占する心を、喜んで分け与える心に変えること、それがイエスの奇跡だった。

▼ パンソリ「イエス伝」中の「イエスが馬小屋で誕生する題目」を聴く。こんな・・・布教の巧みさを考える。

次に、韓国のキリスト教の広まりについて次のように解説された。
・1549年、ザビエルが日本にカトリックを布教した。文禄・慶長の役(1592年~1598年)の際、西洋のセスペデス(Sespedes)神父が、日本から朝鮮に入った記録があるが、戦乱中の宣教活動は限定的だった。1631年、中国へ朝貢の使節を通じて、カトリックが本格的に伝来した。カトリックはまず学問として西学(서학)の名で広まる。当初、友好的だったが、その後百年余りの間、迫害を受け数多くの殉教者も出したが、現在数多い信者がイエスの生き方とその教えに感化されることとなった。

▼ 「ホワイトクリスマス」を聴く。伽耶琴(カヤグム)による演奏・・・国楽から洋楽へ、いいかもしれない。

最後に、シルクロードを経由したキリスト教の話が次にように説明された。
・シルクロードの繁栄を狙っていた唐代の首都、長安には世界から人々が訪れ賑わっていた。その中で、景教というキリスト教一派が仏教に負けずに栄えていた。景教はトルコの宣教師ネストリウスから広まったもので、シルクロードを通じて中国に伝わったもので、ユーラシア大陸を行き来した躍動的な動きが感じられる。

▼ 「あなたは愛されるために生まれてきた人(당신은 사랑받기 위해 태어난 사람)」を聴く。二弦の擦弦楽器、奚琴(해금:ヘグム)による演奏・・・美しい調べする、今様である。

2013年12月30日月曜日

丸いこと

内部で回転運動をすると不思議なことに安定感が増す。といってもジャイロ効果のことだが、回転の進行は同じでも、直径の両端から向かいあって見ると、反対方向に走っているように見える。一見、互いに運動を打ち消すようで、そのことが安定をもたらすといっても・・・。

その安定感には、大勢を決める重力が関わるだろうと思っても関係ない。宇宙船のなかで実験してみせてくれる映像がYoutubeにある。どんな道具を使うのかと思ったら、なんとCDプレイヤーのスイッチを入れてCDディスクを回転させて、ジャイロ効果を見せるのだ・・・あら不思議。

(Youtubeに登録のPlasma Benに感謝)

丸い回転運動は互いに中心を引っ張り合うように、反対に走ればよい。ものごといずれに片寄っても按配よくない。回転エネルギーさえ保てば円運動はうまくいく。

そういえば、マンホールの蓋が円板なのは、それ以外の形状では、傾き具合で蓋が穴に落ちてしまう危険性があるからだ。円板の蓋なら、マンホールの穴に落ちない・・・という、まっとうな仕組みになっている。円板は回転してもじっとしても安定する。

ところが、丸い球体は転がすとどこへ進むのか分からない・・・野球、ゴルフ、ボーリング、はてはサッカーなどスポーツや娯楽に最適だ。丸が3次元に変わると、いろいろな要素が加わって、コントロールがむつかしくなる。それもいいものだ。

よく人は「丸くなれ」というが、2次元を選ぶか、3次元を選ぶか・・・私は、3次元球体も捨てがたい。その場合、でんと座っているために人は「角張れ」とでもいうのだろうか。

2013年12月29日日曜日

チョー・ヨンピルの「Hello」

以前、NHKのテレビ番組で、チョー・ヨンピル(趙容弼、조용필、1950年3月21日~)が充電のため、発声を磨くために山深くこもって、パンソリを参考に血の滲む修練をしたという伝説を聞かされて以来、一層トロット、国楽寄りのイメージを強くしてしまった。実は彼が、ロックを含めて幅広いカテゴリーを持っていることから、韓国の人気歌手のトップを走るのはいうまでもないことに気付く。

11月7日に東京国際フォーラムで、「歌王」チョー・ヨンピルの15年振りの日本公演があったけれど、行けずに残念なことをした。

ところで、イ・ソンヒのコンサートに招かれた、彼女の愛弟子のイ・スンギが、チョー・ヨンピルの「旅に出よう(여행을 떠나요)」を歌ったのを見たことがある。若々しさに溢れた歌は、まさに若い歌手に引き継がれてこそ輝きが増すと思った。

今なお、チョー・ヨンピルの活力は衰えることなく、むしろその正統な底力を発揮するように新しいアルバムをリリースして、存在の堅固さを証明したようだ。最新のアルバム19集「Hello」(2013年)の「Hello」も、ロックの響きに、若さだけでなく懐かしさも同居する。多分、それがヒットした最大の理由だろうけれど。

Youtubeで「Hello」を聴いてみよう。

2013年12月28日土曜日

今年最初の火の用心

冬に入って、寒さはますます厳しい。夜も深まった9時過ぎに、今年最初の火の用心の拍子木を打つ音が家の前を通り過ぎた。「火の用心」の掛け声は聞こえなかったが、拍子木の乾いたカン、カン(カチ、カチ)という音が聞こえてくる。

昨年も、12月26日の夜に、その年最初の火の用心の音を聞いている。一体、どんな方々が廻っているのだろうか。感謝の気持ちがして、寒い冬の夜もなんだか暖かくなる。

(本ブログ関連:”火の用心”)

町内会で火の用心の行事をしている事例を、Youtubeに登録されている映像で見ることができる・・・本来、昔から伝わる風習であるが、わが町ではここ数年のことだ。

(Youtubeに登録のchiikifureaiに感謝)

(追記)
そういえば、今日は今年最後のごみ収集日で、出し忘れのないよう用意した。けれど少量で、まあいいかと出しそこなった別種の分別ごみが残っている・・・一緒に年越しだ。

2013年12月27日金曜日

2013:7080世代が最も好きな曲

朝鮮日報(chosun.com)は、”1970年代と80年代に20代を過ごした世代”つまり中高年世代に人気のある曲について、記事「チョー・ヨンピル『その冬の喫茶店』、7080世代が挙げた最高人気歌謡」(12/27、パク・ジョングォン記者)で、次のように紹介した。(キム・キョウル記者)
ちなみに、イ・ソンヒは彼女のデビュー曲でもある「Jへ」で、歌謡部門のチョー・ヨンピルに次いで2位をキープしている。

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・7080世代が最も好む曲であるABBAの「ダンシング・クイーン(Dancing Queen)」(1976年)とチョー・ヨンピルの「その冬の喫茶店(그 겨울의 찻집)」(1985年)が選ばれた。

・KBSハッピーFM(106.1MHz)「イム・ペクチョンのラジオ7080」は、3周年を迎えて、特集「7080世代が好むポップ、歌謡ベスト100」を選定して、2014年1月1日放送する。

・「イム・ベクチョンのラジオ7080」は、2013年の1年の間の聴取者がリクエストした曲と、12月中に7080のポップ・歌謡を推薦された、ポップ50曲、歌謡50曲を選定した。調査の結果、7080世代が好むポップ1位にはアバ(ABBA)の「ダンシング クイーン」が選ばれた。歌謡1位にはチョー・ヨンピルの「その冬の喫茶店」が挙げられた。

・7080世代が好むポップ順位では、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が2位、ビートルズの「イエスタディ」が3位、ライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディ(Unchained Melody)」が4位、アーハの「テークオンミー(Take On Me)」が5位をそれぞれ占めた。歌謡順位ではイ・ソンヒの「Jへ」が2位、イヨン(이용)の「忘れられた季節(잊혀진 계절)」が3位、ナミ(나미)の「悲しい縁(슬픈 인연)」が4位、チョン・ヨンノク(전영록)の「折鶴(종이학)」が5位にそれぞれランクされた。

・聴取者が直接挙げた7080名曲は「イム・ベクチョンのラジオ7080」で、3周年特集として2014年1月1日から5日まで、昼12時10分から2時まで放送される。また、歌手イ・チヒョン(이치현)、イヨン、キム・モッキョン(김목경)、五本指のイ・ドゥホン(다섯 손가락의 이두헌)、ナム・グンオクプン(남궁옥분)などがスタジオに直接出演してギターライブをプレゼントする。
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2013年12月26日木曜日

お御籤

神社にお参りすれば、境内の社務所に「お御籤」(おみくじ)が置かれているものだ。神殿に向かってした(家族や他者も含めて幅広い)願いが成就するかどうかは別にして、個人的な運勢、吉凶を占う意味でお御籤を求めることになる。
わたしは、占いを信じないからではなく、ちょっと先の運命が見えてしまうことに躊躇して、今までにお御籤を手にしたことがない・・・少々臆病なのかもしれない。

神社とは別に、子どもの頃に、デパートの屋上などで小鳥(ヤマガラ)がお御籤を引く芸があって、自分から親に頼んでお御籤を引いてもらうこともなく、観客の大人たちの隙間から覗くだけだった。それに、昔の喫茶店にあったものだが、テーブルの上に灰皿代わりのお御籤器があって、その安直さ加減に、いったい誰が求めるのだろうと不思議に思ったものだ。

中華菓子に、お御籤を埋め込んだものがある。フォーチューンクッキーという。これは以前食べたことがあるが、菓子の中から出てきたものは英語綴りのもので、いかにも輸出菓子らしく拍子抜けした記憶がある。
この菓子の名が、AKB48の歌の題名に使われている。「恋するフォーチューンクッキー」(作詞:秋元康、作曲:伊藤心太郎、編曲:武藤星児、2013年8月21日、AKB48メジャー32作目シングル)だ。それにしても、歌詞中の英語風は、「Yeah!、カモン ベイビー、Hey!、リアクション、オーベイビー」などと古色して・・・。「恋するフォーチューンクッキー!」と繰り返されるたびにどこか懐かしい、戦略的な旋律が耳に残る。

そんなわけで、実は今日初めてAKB48の「恋するフォーチューンクッキー」をYoutubeでフルで聴いた。おじさんたちにも十分聞き入れるようだ。

2013年12月25日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 冬至

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/18)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第36回として、「冬至(동지)」にまつわる話を紹介した。

まず、冬至を題材にした黄真伊(ファンジニ、황진이)の作品の紹介から次のように始まった。
・最近、季節の変化が極端になった。韓国では、春と秋が短く、暑い夏、極寒の冬がすぐにやってくる。今年も晩秋すでに氷点下の気温となり寒さも厳しい。今月22日(日)は冬至で、一年の最も夜が長い日だ。
朝鮮時代の時調(시조)に、冬至を題材とした、妓生(기생)の黄真伊(1506年?~1567年?)の感性豊かな作品「冬月漫長夜」がある。
「冬至の長い夜を少し切り取って、布団の下にしまっておいて、恋しいあの方がいらっしゃる夜に広げたいものだ。(截取冬之夜半強 春風被裡屈幡倉 有燈無月郎來夕 曲曲鋪舒寸寸長)

平時調「冬至月(동짓달)」を聴く。楽に合わせて長々と歌う、詩吟のソフトなイメージで、管の音に似て・・・。

次に、冬至と小豆粥の関係について次のように説明された。
・小豆は、その赤い色が幽霊を追払うと考えられ、良悪につけて、小豆粥、あんこ餅などを作り厄除けした。
・冬至の小豆粥は、小豆をつぶした汁に米を入れて粥のように茹で、そこに餅米を丸めた団子の白玉(セアルシム、새알심)を入れる。冬至に、白玉を歳の数だけ食べる。小豆粥ができると、まず霊廟(사당)に供えて、冬至の祭祀を行なう。次に各部屋、甕、納屋などに一杯ずつ置き、粥が冷めたら家族でこれを頂く。また人々の出入りする玄関やドア近くで小豆粥を撒いて厄除けする風習がある。
・冬至は、陽暦の12月22日、陰暦では毎年その日が変わるため、陰暦11月初旬の場合は子冬至(애동지)、中旬の場合は中冬至(중동지)、下旬の場合は遅冬至(늦동지)と呼ぶ。子冬至に小豆粥を食べると子どもに害があるとされ、代わりにあんこ餅を食べる。中冬至では小豆粥、あんこ餅のどちらを食べても良く、遅冬至では小豆粥を必ず食べなくてはならないとされた。
・夜が最も長い冬至を過ぎれば、これから日が長くなる。

▼ パンソリ「水宮歌(수궁가)」から「果課天辺(고고천변)」を聴く。跳ねるようにリズミカルだが・・・

最後に、冬至に対する古来の考え方について次のように解説された。
・冬至は、古代西洋では、太陽が死から復活する日と考えられ、クリスマスもこうした考え方と関連があるとも言われる。さらに中国では、冬至を新年の初めと捉え、その風習が現在に伝わり、「小さな正月」とも呼ぶ。
・冬至の日が、寒いほど次の年は豊作になるという信仰から、寒く雪が降り積もる天気が好ましいとされる。冬至は、これから厳しくなる寒さに備えて、隣り同士が支えあう期間ともいえる。昔の人々にとって、寒くて厳しい季節にも、未来へ希望をもって過ごす考え方があったのだろう。

▼ 「密陽アリラン(밀양아리랑)」を聴く。ジャズ風味を効かせた演奏だが、歌詞があれば最後に冬至、師走が・・・。

2013年12月24日火曜日

イ・ソンヒの「ラスト・クリスマス」

先日のテレビ番組の中で、世代別にクリスマスに聞きたい曲アンケートで、山下達郎の「クリスマス・イブ」(1983年)は当然として、40代以上の世代は、ワムの「ラスト・クリスマス(Last Christmas)」(1984年)を、若い世代は、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス(All I Want for Christmas Is You)」(1994年)を上位に選んだ・・・ような(記憶違いがあるかもしれないが)気がする。

イ・ソンヒの特別アルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」(1988年)に所収の「ラスト・クリスマス」は、ワムの「ラスト・クリスマス」をカバーしたものだ。ワムの場合、去年の失恋のクリスマスから今年、そして来年へと想いを語るが、イ・ソンヒの場合、「ラスト・クリスマス」は一つの記号として、まるで今を祝うよう・・・賛歌に通じる。当時、テレビから流れてきたワムの歌は、ハレの音楽記号だったのだ。

(本ブログ関連:”冬の日のものがたり”)

 
(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

2013年12月23日月曜日

イ・ソンヒのエピソード

以下は、RigVeda Wiki(β)のイ・ソンヒの項に掲載されたエピソードであるが、イ・ソンヒの自伝などで照合しない限り、記述者の主観も混在している可能性がある。(抜粋)

・1991年、民主自由党(民自党)*所属で、ソウル市議会市会議員に当選して活動したりした。しかし、1年3ヶ月目に所属党に失望感を感じたすえ、民自党を離党して民主党**に入党し、野党議員で最後まで活動し、その後、政治とは距離を置いている。後日、「膝打ち道士」***での発言には「ボランティア」に関心があって出馬したことで、歳費も受けなかったという。

(*) 民主自由党: 慶尚道を支持基盤とする保守系政党
(**) 民主党: 全羅道を支持基盤とする進歩系政党
(***) 「膝打ち道士」: ゲストを迎えて進める談笑番組

・イ・ソンヒの父は、仏教音楽の梵唄*の奏者であり、母は父の弟子であった。寺で居住するようにしたので、幼い時のイ・ソンヒは、父が僧侶という誤解と、寺で生きるという冷やかしをたくさん受けねばならなかった。本来この世界で、師匠と弟子の間に異性関係が続くのはダブー視される暗黙的ルールがあったし、婚姻届をするまで迂余曲折が多かったという。それでイ・ソンヒは、幼い時期の両親の職業や名前を何となくおおっぴらに挙げるできなかったし、親戚も対外的に分からない振りをして生きなければならなかったという。このような複雑な家庭事情で、かなり不安定な青少年期を送ったようだ。
・インターネットがなかった時期、口コミでデマが広がった両親世代は、イ・ソンヒの良くない噂をほとんど聞いて知っている方だ。主に家庭の事情で派生したデマだったという。

(*) 梵唄: 仏教音楽の「ぼんばい」(범패)

・90年代半ばに、ミュージックビデオ*撮影中、金属でできた電灯が傾き倒れて(彼女の)頭を直撃したせいで、途方もなく大きな手術をして、全治6週以上の大事故にあった。このために、活動復帰もキャンセルされ、本人にとって最大の暗黒史だ。これを、演芸関連番組で、イ・ソンヒが電灯に頭があたる場面をそのまま放送して、とんでもない非難を聞くことにさえなった。

(*) 本ブログ関連:”イ・ソンヒの「見知らぬ海辺で」”

90年代後半には、従軍慰安婦の老女を称える歌を歌って、歌の題名*にチョセンピ(조센삐:朝鮮女性を卑下する名称)が入ったと、どんな老人となろうと慰安婦の老女を卑下すると言って告訴されたりもした。

(*) 題名:1992年、すなわち90年代初めに、8集収録の「あるおばあちゃんの極楽(어느 할머니의 극락)」があるが・・・朝鮮女(조센삐)は削除されている。(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

以下、ネット情報(「再麦笛雑談」)によれば、
・・・「チョセンピ」の一部の音から悪寒を連想させるという。
・・・告訴の経緯について、告訴を受けた側が納得と合点のいかぬまま対応を急いだようだ。

2013年12月22日日曜日

冬至2013、小来川鉱山、引田鉱山、そして初雪

冬至の今日、鉱物採集に行った。午前中は、栃木県日光市小来川(おころがわ)にある、銅鉱山の小来川鉱山にラング石など二次鉱物を探した。過去、2006年、2007年、2011年に訪問している。
午後は、栃木県鹿沼市引田にある、引田鉱山に日本式双晶(水晶)を妄想して採集に行った。こちらは、初めての訪問である。

冬至の早朝、寒中に始発電車を待つ。まだ暗い。途中、乗り換えた電車は車庫から出たばかりだろうか、冷え切ったままだ。待ち合わせ駅で、お世話になるH氏の車に乗って現地に向かう。この頃になると、空に明るさが増してきた。

【 小来川鉱山 】
前回の採集で体力の衰えが実証されて不安だった。しかし、麓からゆっくり沢伝いに採集しながら登ったおかげで、気ぜわしさもなくて済んだ。到達地は前回同様、トロッコ2台が転がっている場所だ。到達地に至るまでに、私の今年の初雪を経験した。収穫は到達地よりも、沢の方が多かった。
帰路は、沢の斜面にある道を下った。おかげで楽ちんだった・・・前回もこの道を下っていたら、小学生ハンターの背を追うこともなかったろうに。
成果は次の通り。
- 孔雀石、ブロシャン銅鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、白鉄鉱+閃亜鉛鉱、含銅アロフェン、ラング石?、銅藍?

(本ブログ関連:”小来川鉱山・久良沢鉱山、初雪も”)


【 引田鉱山 】
引田鉱山近くの路上に車を停めて昼食をとる。鉱山は意外な場所にあり、裏山であり裏庭といった景観だ。日本式双晶を期待したが、甘くはなかった。一面に枯葉が敷きつまっていて、貪欲さに乏しいため、一部顔を出したものだけ採集した。
成果は次の通り。
- 白鉄鉱+黄鉄鉱、水晶+黄鉄鉱、赤鉄鉱or赤銅鉱


地元駅に着いたときには既に暗くなっていた。冬至は昼が短い。

2013年12月21日土曜日

なぜか深夜に地震がつづく

今日の日付に変わったばかりの深夜に、テレビで「タモリ倶楽部」(今回のテーマは、雑草の不条理なネーミングについての話など)を視聴して、しばらくしてのこと・・・地震が来たのだ。気象庁の発表では、当地は震度2だが、体感は短時間だったとはいえ、震度2強≒震度3近く感じた。

気象庁の地震情報は次の通り。
「平成25年12月21日01時15分 気象庁発表: 21日01時10分頃地震がありました。震源地は茨城県南部(北緯36.0度、東経140.2度)で、震源の深さは約70km、地震の規模(マグニチュード)は5.3と推定されます。」

最近、地震が週末・日曜の日付に変わった深夜に、「茨城県南部」または「千葉県北西部」を震源として襲ってくる。今回の震源地は、またしても「茨城県南部」なのだ・・・気になってしょうがない。

(付記)
先日(12/19)、政府の中央防災災会議が「首都直下地震対策検討ワーキンググループ最終報告の概要」を発表して、「区部直下のM7クラスの地震 【都心南部直下地震(Mw7.3)】 (30年間に70%の確率で発生)」による被害想定したばかり・・・。

2013年12月20日金曜日

東京に初雪が降ったそうだ

今日は、晴れ間もあれば、しとしと雨もあり、おまけに(東京都心の大手町では)初雪まで、一日せわしかった。といっても、初雪は、ちょびっと降っただけで、当地には気配もなかったけれど。

今日降ったものに、「ひょう(雹)」、「あられ(霰)」、「みぞれ(霙)」もあったようだ。

TBS Newsの報道「全国的に大気不安定、東京では初雪・ひょうも」(12/20)は次のように報じている。(抜粋)
「20日の昼過ぎに東京では、ひょうが降りました。さらに、都心では平年よりも早い初雪も観測しました。・・・」

Wikipediaの説明
・「雹(ひょう)とは、積乱雲から降る直径5mm以上の氷の粒のこと。直径5mm未満のものは霰(あられ)と呼ばれ区別される。」・・・つまり、「ひょう」と「あられ」は氷であって、雪ではない。
・「霙(みぞれ)とは、雨と雪が混ざって降る気象現象である。・・・雨が雪に変わるときや、その逆のときによく見られる。」・・・というわけで、「みぞれ」は雪の前兆でもあり、その中に(雪の)結晶があれば、雪と判定できる。

都心で積雪が観測されたようではなく、今日の「みぞれ」に、どうやら雪の結晶が存在して「初雪」と認定されたようだ。

(追記)
東京都心の観測場所は、今年まで、気象庁舎のある大手町だ。来年の「2014年からは北の丸公園での観測データが、『東京』の気象記録として発表されることになる。」(日テレニュース24、「『東京』の気象観測地点、50年ぶり移転へ」(12/20)抜粋)とのこと。

2013年12月19日木曜日

2013年を輝かせた歌手

韓国ギャラップは、恒例の、その年に輝いた歌手人気度調査である「2013年今年を輝かせた歌手と歌謡」(12/19)の結果を次のように発表した。第1位に歌王チョー・ヨンピルの新たなチャレンジによる復帰が最大の話題だ。そして相変わらず強さを誇るトロットクイーンのチャン・ユンジョンは第3位と上位を堅持している。

ところで、世代別に見ると30代を汽水にして老若の傾向が見られる。つまり40代からは、おじさん・おばさんの世界である・・・よ。それに、10代に人気の歌手の名はほぼ知らない。

(本ブログ関連:ギャラップ調査、”2009年”、”2010年”、”2011年”、”2012年”)


▶2013年を輝かせた歌手-最近7年間の推移(3人まで自由回答、単位:%)

2008年 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年
1位

2


3


4


5
WonderGirls
(22.2)
BIGBANG
(21.2)

チャン・ユンジョン
(9.9)

少女時代
(7.8)
イ・ヒョリ
(6.5)
少女時代
(29.8)
BIGBANG
(21.1)
2PM
(12.5)
WonderGirls
(10.4)

チャン・ユンジョン
(9.6)
少女時代
(31.5)
2PM
(12.5)

チャン・ユンジョン
(11.6)
テジナ
(8.4)
KARA
(7.7)
少女時代
(26.1)
BIGBANG
(8.2)

チャン・ユンジョン
(6.9)
キム・ボムス
(6.3)

IU
(6.0)
サイ
(24.4)

少女時代
(19.8)
BIGBANG
(9.5)
IU
(6.9)

チャン・ユンジョン
(6.6)
チョー・ヨンピル
(17.6)
サイ
(11.7)
チャン・ユンジョン
(8.8)
EXO
(8.4)
少女時代
(8.3)


▶2013年を輝かせた歌手-年齢別(上位5位、3人まで自由回答、単位:%)

10 20 30 40 50代
1

2位

3位

4位

5位
EXO
(27.4)
Crayon POP
(12.3)

GD/
BIGBANG
(11.9)
A pink
Girl's Day
BEAST
(11.4)
SISTER
(12.5)
EXO
(11.5)

IU
(11.1)
GD/
BIGBANG
(9.9)

少女時代
(9.7)
チョー・ヨンピル
(14.7)

サイ
(12.9)

少女時代
(12.0)
SISTER
(10.6)

IU
(10.0)
チョー・ヨンピル
(29.6)

サイ
(17.4)

チャン・ユンジョン
(12.4)

イ・スンチョル
(10.6)

IU
(7.9)
チョー・ヨンピル
(31.2)

チャン・ユンジョン
(20.0)

サイ
(12.9)
テジナ
(9.1)
イ・スンチョル
(5.9)

【調査の概要】
・調査期間: 2013年(1次)7月18日~8月5日、(2次)9月25日~10月15日、 (3次)11月1~18日
・サンプリング:ステップ2段層化集落地域無作為抽出-標本ポイント内の性/年齢別の割り当て抽出
    →(参考) 韓国ギャラップ・オムニバス調査の標本設計報告書
・応答方式: 面接調査員インタビュー
・調査対象: 全 ​​国(済州を除く)満13歳以上の男女4,263人
・標本誤差: ±1.5%ポイント(95%信頼水準)
・依頼先: 韓国ギャラップ独自の調査

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「8.夜の舞台時代の警備員の話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第8回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、デビュー初期の待遇や環境の変化への戸惑いと驚き、いわゆる夜営業(ステージのある店)に出演する際に直面したそして軋轢をガードした警備員の存在などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[8] 夜の舞台時代の警備員の話
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1985年2月、私は初めて第一アルバムを世の中に出した。1集に収録されたすべての曲は、全てソン・ジュホ氏が作曲した歌だ。高校時代、チャン・ウクチョ音楽室での出会いが縁だった。

<少女の祈り(소녀와 기도)>と<女心(여심)>をそれぞれ(レコード)裏表面のタイトル曲として載せた1集アルバムはあきれるほどとても売れた。ソウルでは「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」と「葛藤(갈등)」が人気であり、地方では「また咲く愛のために(다시 필 사랑위해)」、「光の子ら(빛의 자손들)」、「愛の約束(사랑의 약속)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが強い勢いを見せた。(レコード)盤一つで、何と六曲もヒットしたのだ。ファンは、レコードの入手が難しいと不平を言うほどであった。

ただ一つ、今でも予測するのが難しいのは、特定の歌に対するファンの反応だ。作曲家や歌手が(レコードの)A、B面の頭の曲なら明らかに最も自信がある歌であるのに間違いないはずなのに、ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだったりする。6集アルバム中の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」もやはりタイトル曲ではないのだから。

とにかく、1集の大ヒットは、私を「マイカー族」の隊列に立たせた。今でも忘れることはできない、私の一番の車、(現代製の)白色のポニー2。

私は、レコードがよく売れて、自家用車を運転する厳然とした歌手だった。歌が下手な歌手は、もう歌手ではない。私はデビュー直後から、そうそうたる先輩歌手を追いかけて行くのではなく、「正面対決」を繰り広げて、私の道を歩んできたと思う。

歌唱力を評価する基準は、他の人の歌をどれくらい上手く歌うかにかかっていると私は信じる

私は、デビュー当初や今も、放送に出演して他の歌手の曲をたくさん歌う方だ。私の歌があまり多くなかった新人時代には、70年代のフォークソングと先輩歌手の歌をたくさん歌った。チョー・ヨンピル、キム・スヒ、ユン・シネ、キム・ヨンジャさんなど当時最高歌手と舞台に一緒に立って、内心競争的に相手の方の歌を熱唱したその時の経験が、今日の私に多いに役に立ったと思う。

私も自分の声が高いと感じている。キー(Key)がハイ(high)なため、私は歌わねばならない相手歌手の歌が低音を中心にしている場合には、ちょっと苦労しなければならなかった。寝る間を惜しんで、歌詞を諳んじて、私の声をその歌手の声に合わせて・・・

先に話したように、デビュー初め、私はしばらく夜営業の所(キャバレー・酒場など)に出演した時期があった。ところで、行く所ごとに、どこでどのように聞いてきたのか、青少年のファンたちまで未成年者の立入禁止場所である酒場の中に入ってこようと出入口前でもめごとをしたりした。また、客は、客なのに「いくら芸能人でも『ちっちゃな』学生がこのように出てはいけないよ」と、隙さえあれば意見しようとした。

「いや、私も法的には完全な成人なのに、なんでこのように・・・」 しかし、何となく「突っ張って」自然に夜営業の所には往来を控えるようになった。

(この)夜営業の出演と関連して、ほとんど伝説的な話で、チェ・ヒジュン先輩が酔客から白のスーツに酒とおつまみの洗礼を受けた時、気まずくなった雰囲気を淡々として余有ある態度で、それ以上悪化させなかったという話がある。

反面、ある女性歌手は、意地悪な客にあらゆる悪口を浴びせまくることによって、禍を自ら招いたという話も聞いた。

私は、幸い酒に酔った客に辱めに会ったことが一度もなかった。恐らく、放送などを通して映った幼いイメージのおかげでないかと思う。その上、私は舞台の上に釘付けされたように、本来の場所で歌を歌うスタイルでない。客席と客席の間、テーブルとテーブルの間の通路をうんと歩き回る方だった。できるだけ多くの人々と握手もしながら・・・

荒いことで有名な永登浦地域の夜営業で2ヶ月間歌を歌う時、私はウェイターから感謝の言葉をしばしば聞いた。普段あまり目立たないが、円形舞台の周囲にはウェイターの「きらりと光る」視線がある。舞台上の芸能人が、警備員の役割まで兼ねているのだ。

ところが、私が出演してからは、荒い客よりネクタイ姿の会社員が多くなって仕事をするのがはるかに楽というのだった。あたかも「剣道館」や(学級委員の中から選ばれる)「善導部長」になったように、得意になった瞬間だった。

そのようなある日、舞台下に降りて握手するのを楽しむどころか、絶対に夜営業には途絶する事件が起きた。

ある夜の舞台だったか、「あ、昔よ」を歌っている時だった。

その日に限って、客席には荒っぽい男が多かった。突然どこかで何かが壊れる音が聞こえたのに続き、舞台の下が騒がしかった。 私を「警備」していた方々と、頭を剃ってズボンの胴には刃物までさげた、ある輩と喧嘩が起こったのだ。

事件の発端はこうだ。

歌手が舞台上で歌っていたら、握手するつもりで舞台の真ん前に出てくる客がいる。数ある中には、握手すると歌手を舞台の下に引っ張るやっかいな人もいる。それで、舞台周りには客を「装った」歌手のマネジャーや警備員が常に緊張の中で待機している場合が多い。

その日も、舞台上にぴたっと寄り添い座って「万が一の事態」に備えていた私の警備員(私が属したプロダクションの職員)を、その不良たちが、熱心な「イ・ソンヒ ファン」と誤認して、不正をはたらいたのだ。私に会わせてくれといって.。

歌っている私に向かって、彼らは「ソンヒよ、後で・・・」、何とかしてと、とても近い仲であるかのようにほらを吹いたし、これに対していきり立った私の「保護者」たちと言い争いを繰り広げることになったのだ。

今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。

当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。

話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。

なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。

実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。

私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。

怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。

だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。

しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。
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2013年12月18日水曜日

氷雨、雪?

今日は一日中冷える。すっかり冬の厳しさだ。夕方、外を見れば、夜道は氷雨に濡れて街灯に照りかえっている。

朝からテレビの天気予報は、今夕、東京地方に初雪が降るだろうと報じたが、19:30現在、雪の気配はない。しかし、廊下や床板の冷えは厳しい。このまま続くと、まさに厳冬だ。

この寒さに、冬真っ只中を感じるが、東北、北海道の積雪の冬景色とは比べようもない。春遠からじというほど冬でもない。

ところで、モンゴロイドがシベリア、ベーリング海峡、アラスカを経由してアメリカ大陸に移動したとき、シベリヤ少数民族イヌイットの祖先は、なぜあの雪原に残ったのだろうか。人類の大移動に取り残されたのか、追いやられたのか、あるいは自らの意志で選択したのだろうか。

2013年12月17日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 逐鬼

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/11)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第35回として、”鬼払い”の「逐鬼(축귀)」にまつわる話を紹介した。

まず、(異人、あるいは巫俗信仰とつながるという)処容(처용)の説話から次のように始まった。
新羅(356年~935年)の憲康王(헌강왕)は、879年のある日、蔚山の開雲浦(울산 개운포)を訪れた。突然、空に雲が陰り、深い霧がたちこめ、天地は真っ暗になった。天の様を伺った臣下が「東海の竜王(용왕)の仕業ですので、何か早めに手を打たなければなりません。」と進言した。王は竜のため寺を立てるよう命じた。
・王の恩恵に感謝した竜王は、7人の息子を連れて現れ、王の功績を称える舞を舞った。7人の息子の一人、処容は、憲康王に従い官職に就く。そして美しい妻も娶り、夜には通りで歌や踊りを楽しんだ。ある日、家に帰ったところ、伝染病の疫神(역신)が妻と寝ているのを目撃した。疫神を懲らしめるのではなく、状況を歌詞に込めて歌い踊った。疫神は、処容の大胆さと寛大さに驚き、跪き侘びて、今後現れぬと誓った。以来、人々は鬼払いの神として処容の顔の絵を門に貼った。

▼「処容歌(처용가)」を聴く。明るい月夜に遊ぶ・・・鄕歌(향가)の流れを汲むという・・・現代曲風、今様である。

・宮中にも処容の噂は広がり、祝い事や大晦日などに彼の舞を舞って様々な鬼払いをしたという。

次に、巫俗信仰などに見る鬼払いについて次のように説明があった。
・昔の人々は、出来事は全て神や鬼と関連すると考えた。良いことは先祖の助けと感謝し、悪いことは鬼の仕業と考えた。自然に対する理解は別にして、道理に逆らうことなく、自然と共に生きる慎み深さが感じられる。鬼払いは、一年の終わりや、災いがあったときなどに行なった。命に関わる重要なときは(巫俗信仰の)「クッ(굿)」の祓いが多いが、さほど重大でないときは盲人や僧侶などを呼んで経を上げたりした。

▼西道(서도)地方で盲人僧が読んだ「罷経(파경)」を聴く。飾りのない素朴な感じする祈りの歌だ。

最後に、固有の鬼である独脚鬼(トケビ、도깨비)について次のように解説された。
・未婚の男女、男やもめ、寡婦などの霊や、かんばつや長雨の被害を受けて亡くなった人たちの霊など、様々な霊を列挙し、わずかばかりの慰霊の儀式を行って、彼らの世界へ帰るようにする。
・霊の中に、独脚があり、人間の魂や幽霊と違い、日常に使用しては捨てる火箸や箒、古くなった家具などが変化したものとされる。いたずらな性格で、人を見ると相撲をしようとせがんだり、災難を起こしたりするが、共に仲良く過ごせば金銀財宝をもたらすという。韓国では、「独脚のいたずらのようだ」といった慣用句もある。隣さんのような存在と捉えた昔の人々の優しい心遣いが感じられる。

▼「山独脚鬼(산도깨비)」を聴く。独脚鬼とばったり出会って・・・今様ながらどこか長閑な感じする。(この曲、中学教科書にも載ったという)

2013年12月16日月曜日

イ・ソンヒのトートバッグ

久し振りに友人に会って、彼の仕事がら得意の技術で作ってくれたトートバッグをいただいた。イ・ソンヒがマイクを片手に前かがみして歌っている写真がプリントされているのだ。しかも、小型のファスナー付きの袋(ポーチ?)までセットにして・・・。

(イ・ソンヒさんの熱狂的ファンであるチョン・イェジンさんのブログにある左の写真がプリントされている)

感謝、感謝・・・おじさんとしては・・・以前にも作ってもらった、イ・ソンヒのコンサートポスター写真がプリントされたTシャツと同様、(使うには勿体無く、着るには気恥ずかしく自信もないので)大事に宝物としてしまっておこう。あらためて感謝。感謝。

(本ブログ関連:”夏至2013”、”ライアテア・ヘルム”)

2013年12月15日日曜日

イ・ソンヒの「なぜ私だけ」

イ・ソンヒの6集所収の、「いつか言葉を失いました  笑うことさえ去ってしまい」から始まる、「なぜ私だけ(왜 나만)」(1990年、チョ・ハムン作詞・作曲)は、離別の痛みが癒されぬ歌だ。途中、叫ぶように悲嘆し苦悩の淵をさ迷い、最後に「これが私の行く道なら、どうすればよいですか」と弱さを歌う。旋律の巧みさに聴いてしまう歌でもある。

(本ブログ関連:”なぜ私だけ”)

ところで、中島みゆきの「時代」(1975年、中島みゆき作詞・作曲)も、「今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて / もう二度と笑顔にはなれそうもないけど」と始まるが、いつかの出逢いを信じて歩き出すという、彼女らしい達観と太さがある。聴くというよりも歌いたくなる歌だ。

イ・ソンヒの30周年に、彼女のバックグラウンドを活かした、地に太く逞しい曲が登場することをどこかで期待している。

2013年12月14日土曜日

繰言

流行は、雑誌(紙)、ラジオやテレビ(無線)、インターネットなど媒体が進化して、消費の時差をなくしてきた。新しい流行が発生するさまを、まるで傍で見るようになってきたのだろう。それでも、流行の発信地は、あまり変わってないようだが。

昔、母親から聞いたことで、昭和の始めころ、東京のファッションが九州に届くのに1ヶ月ほどかかったという。私が子どもの頃は、アメリカのポップが日本に流行るのにやっぱり時差があった・・・それがどれくらいかというと音楽事情をよく知るわけがなく何ともいえないが1ヶ月くらいだっただろうか。ラジオから流れる、ビルボードやキャッシュボックスの最新順位に耳を傾けてはメモをした・・・子どもの間では、曲名だけでも十分知った振りができたわけで。

ところで歳を重ねると、流行に目が向かなくなり、時間差も気にしなくなる。例えば「ことしの流行語」も、いわれれてみれば、そんなものがあったねと振り返る程度。大晦日の晩の番組「紅白歌合戦」も同様なわけで・・・初めて聞くものが増えてくる。

流行に敏感でなくなる・・・だから、歳をとるという実感は、流行り廃りよりも変わらぬものに、受け継がれるものに関心が向くことから気付く。昔から、年寄りが古典を読めといったのもよくわかる・・・解説、評論本でなくて、原典(原本じゃないよ)を読まなくちゃ・・・こういうのを、老いの繰言という。

2013年12月13日金曜日

来年(2014年)、イ・ソンヒのデビュー30周年

1984年7月29日、MBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」にデビューして以降、節々にコンサートを重ねてきたイ・ソンヒは、来年30周年を迎える。

彼女の公式ホームページには、30周年の節目である来年7月29日を特記しているが、この日に記念コンサートが開かれるのではないかと期待する。

現在、彼女が27歳のときに語った自伝的な記事を本ブログに掲載させていただいていおり、まさに上記の江辺歌謡祭に遭遇した際の彼女の心境、スタイル、家族、および人間関係など知ることができる。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー”)

ともあれ、いまだに彼女の人気の強さに驚くと同時に、来年2014年には、前回2011年のときと同様、その姿をコンサート舞台でまた見たく待ち遠しい。

2013年12月12日木曜日

(資料)イ・ソンヒの過去の日本公演と日本語曲

イ・ソンヒは日本で少なくとも二度公演している。彼女の公式ホームページから次のように知ることができる。

大阪花博覧会(正式名称「国際花と緑の博覧会」、1990年4月1日~9月30日)で、5月22日に催された「韓国の日記念行事」に出演。

・東京の水道橋にある「韓国YMCAスペースワイ文化センター」で、1995年5月8日~6月6日に催された「YMCAチャリティー基金コンサート(正式名称「韓国大衆文化芸能祭」?)」の5月28日、29日両日に出演。

なお、イ・ソンヒは日本語CDを一度出しているようだ。ポニーキャニオンより1993年5月21日に発売されたもので、小型CD版に「空がくれたもの」と「見せたいけしき」の2曲(作詞:夏目純、作曲:都志見隆、編曲:萩田光雄)が収録されている。残念ながら、現在ネット上で聴くことができなくなってしまった。

KBS Worldの「Artist Search」でイ・ソンヒについて紹介している文中に、「90年まで、イ・ソンヒはヒットを出し続け、順風満帆な歌手活動を送る。このころ、香港で英語盤アルバム『Where The Love Falls...』を、日本ではシングルを発表し、海外進出を試みる。」がある。

90年代前半にどのように<日本進出>が企画され、なぜ果たせなかったのか知りたいところだ。

2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使ったその上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった父が近づいて来たのだ叔父と叔母も一緒に

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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2013年12月10日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 ソウル

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第34回として、「古都」を語源とするといわれる「ソウル(서울)」にまつわる話を紹介した。

はじめに、韓国の人口・経済の規模について次のような紹介から始まった。
・世界237カ国(世界銀行統計では229カ国)中、韓国は面積で100位に入らないが、人口4900万人で25位、GDP(国内総生産、2012年基準)1兆1600億ウォン超で15位。朝鮮戦争(韓国戦争)休戦から今年60周年を迎え、現在、首都ソウルは千万人超で世界都市中で10位以内に入る。同時に、山と川に囲まれた自然の恵みのあふれる都市でもある。

▼ 短歌단가)の「鎮国名山(진국명산)」を聴く。四囲を指し示すように歌うのだろう・・・力強い。

・短歌はパンソリを歌う前に、歌い手が喉の緊張をほぐす意味で歌う短い歌だ。「鎭國名山」は、ソウルの地について風水の視点で歌った珍しい一曲で、歌詞は全て漢文調のため、韓国人でも理解が難しいと言われる。

「景福宮の後ろに、高く切り立つように険しい峰が、ハスの花のように天に向かってそびえ立ち、三角山(サムガクサン、삼각산)となる。南側には蠶頭峰(チャムドゥボン、잠두봉:現在の龍山(ヨンサン、용산))がある。駱山(ナクサン、낙산)と仁王山(インワンサン、인왕산)はそれぞれ、左の青龍、右に白虎となって、聖なる気運を発し、それが空中に滲み出しながら宮殿へと集まっている。そのため、優れた人物が多く輩出されるのである。」

▼ 正歌の歌曲の「編数大葉(편수대엽) 鎭國名山」を聴く。こちらはゆるりとして・・・雅(みやび)である。

次にソウルの名の語源について次のように解説された。
・「ソウル」は、古都を指す普通名詞だったという。語源に諸説あって、古代の「ソド」と関連があるというのが有力な説だ。「ソド」は、出入りが厳しく制限されていた神聖な地域を指す言葉で、「ソッデ」という棒を立てて印とした。「ソド」、「ソッデ」が変化し、「ソウル」となったという。語源的「神の土地」の意を持つことになり、韓国歌中に「神様のご加護によってわが国は万代にわたって栄えよう」という一節がある。公式的には、
- 1896年、独立新聞に「ソウル」の言葉が初めて使用され、
- 1946年8月15日、ソウル市憲章が発表され、「ソウル」の名称となった。

▼ 京畿民謡「漢江水打令(한강수타령)」を聴く。水流が速いのか、愛も少々せっかちなのか・・・楽し気だ。

(付記)
K-Wikipediaにあるように、一般に「ソウル」の語源といわれる「新羅系の固有語であったソラボル(서라벌)」と、上記の解説はつながるのだろうか。

2013年12月9日月曜日

うたた寝

このところ連日、夕食後にストーブにあたりながらテレビを見ていると、いつのまにか寝入っている。小一時間もすると目覚めて、またやってしまったと溜め息をつく。

この「うたた寝」は「寝」と書き、随分と寝相が悪い。「夢うつつ」という古い心的な振る舞いである「うつろ」につながるなら理解できるが、どうやらそうでもないらしい。

そんなわけで、見ていたテレビ番組の視聴は中途半端に終わるが、問題はその後の寝つきの悪さだ。それじゃあ、まるで子どもの問題のようで・・・。それに、風邪でも引いてしまっては元も子もない。

ところで、このブログのヘッダーのデザインを変えてみたが、つたなさに自信がない。見慣れればと・・・しばらく、これでやっていこう。

2013年12月8日日曜日

キム・ポムニョンの「冬雨は降って」

イ・ソンヒが2011年5月のコンサート「五月の陽射し」で、ゲスト出演したキム・ポムニョン(김범룡、金範龍, 1960年6月3日~)と一緒に彼の歌「冬雨は降って(겨울비는 내리고)」(1985年)を歌う映像がある。80年代をテーマに、同時代をともに駆けた、キム・ポムニョンと歌いつぐ趣向の一場面である。

キム・ポリョンは、イ・ソンヒの例えば5集(1989年)に収録の「貴方よ(그대여)」、「炎のように(불꽃처럼)」の作詞、作曲をしている。

(本ブログ関連:”キム・ポムニョン”)


(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2013年12月7日土曜日

ユンノリ

先日(11/23)、新宿の職安通りにある韓国民芸品ショップに韓国語教室の仲間と一緒に寄ったとき求めた、韓国の正月遊び「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を、今日の教室で試した。

蒲鉾の断面に似た、同サイズの棒(ユッ)4本を投げて、棒の平らな面の数だけ盤面(駒版)に記された経路(正方形と対角線)上の点を駒を進める<双六遊び(ノリ)>だ。チーム同士で競い合うことができる。

今日は基本的な駒の進め方を確認したが、進んだ点に自分(チーム)の駒がある場合は合体したり、相手(チーム)の駒がある場合は盤から外したりと・・・いろいろな要素もあるようだ。

ところで、イ・ソンヒの思い出に、小学校(国民学校)時代に、祖父が「クヌギの木で手作りで『ユッ』も切ってくれた」というのがある。彼女をひたすら愛してくれた祖父の思い出は、祖父との懐かしく温かい思い出を持つものに共感できる。


(追記)
NHKの「地球ドラマチック『古代マヤ文字を解読せよ』」を見ながら・・・せっかくの番組なのに寝入ってしまった。今度はしっかり見るので再放送を頼みます。

2013年12月6日金曜日

青空文庫と電子書籍リーダー

電子書籍といっても、最近の書店に並んでいる新刊本の類ではなく、青空文庫に登録されている著作権切れであるが名著として知られる書籍(夏目漱石や折口信夫など)を、小型の電子書籍リーダーで読んでみたい。

青空文庫に登録されている書籍ファイル(XHTML、TEXTなど)を取り込むとき、縦書き表示に変換するため、①アプリを事前にインストールしておく必要がある。そのうえ、②縦書き表示するための処理も必要で一発変換できないようだ。

他に、Web上の縦書き表示ツールで読む方法もあるが、それは携帯PC・パッドの世界(無線)での話で、電子書籍リーダーとは違う。

要は、XHTML、TEXT、PDFなどの書籍ファイルを入れたら、何の処理もなくすぐに縦書き表示してくれる電子書籍リーダーはないだろうか。文庫本のサイズと重さの電子書籍リーダーが一番好ましい。

2013年12月5日木曜日

宵の明星

帰宅途中、南西の空を眺めれば、三日月を追うように輝く星がある、金星だ。微かに明かりが残っている夜空にコントラストを強くして、月に負けずくっきり光っている。

こうやって金星を見るのは久しい。天の動きは地の動き、時が過ぎるのを思うとき、存在の小ささに気付く。といって、「寒さい、寒い」と小言して歩くのが精一杯かな。

金星が一番光度を増すのは、明後日7日(土)だそうだ。天気は次第に崩れて、雨ほどではないが、週末の夜は曇りとのこと。寒さも厳しくなるようだ。

イ・ソンヒが歌う童謡に「星を見ながら月を見ながら(별보며 달보며)」がある。高くて青い空の国お星さまの国に、永遠の笑いの国お月さまの国に住んでみたらと・・・夕べの空を眺める童たちは、子どもながらに、憂いを含めて夢が膨らむ。

(Youtubeに登録の Knightmareに感謝)

2013年12月4日水曜日

めでたい

めでたいことがあって、めでたい、めでたい。

祝いの歌を探したら、沖縄民謡に「めでたい節」があって、「めでたい めでたい すりすりめでたい めでたい めでたい」のお囃子に、なんだか南の暖かい風に酔ってしまいそうな気がする。めでたいと思うほどに、ますますめでたくなるよ。

人生一度限りという言葉、この歳になってようやく納得するが、どうやら遅きに過ぎる。でも時間のある限り大事にしたい。だから、人生を2度生きるようにすればいいのだ・・・Ampliat aetatis spatium sibi vir bonus; hoc est Vivere bis, vita posse priore frui(善き人は自分の生涯の期間を拡大する; 過ぎ去りし生涯を満足に楽しみうること、これは二度生くるなり)・・・人生満足するといわれても、どうすればいいのかな?

そういえば、サービスの定義に「生産=消費」がある。人生の瞬間(生産=消費)を満足できるように生きよ!というわけ。満足できる生き方を選択する、無理はしないけどチャレンジはしよう。そしてエンジョイしよう。

とりあえず、今宵はめでたい。明日もめでたい。(独りごと)

2013年12月3日火曜日

流行語大賞2013

今年の流行語大賞が決まった。昨日のORICONSTYLEの記事「【2013新語・流行語】年間大賞は史上最多4つ 『じぇじぇじぇ』『倍返し』など本命勢揃い」(12/2)は次のように報じている。(抜粋)
予想した言葉「今でしょ」だけでなく、他に3語も加えて、計4語が大賞という大判振る舞いとなった。

(本ブログ関連:”2013年流行語大賞ノミネート”)
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・その年話題となった新語・流行語を決定する年末恒例の『2013 ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)が2日発表され、
- 予備校講師・林修氏の「今でしょ!」、
- NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」、
- TBS系連続ドラマ『半沢直樹』の「倍返し」、
- 東京五輪招致のプレゼンテーションで滝川クリステルが日本をPRする際に使用した「お・も・て・な・し」
が年間大賞に選ばれた。1984年に創設され、今年30回を迎える同賞において、史上最多となる4つの“言葉”が大賞に選ばれた。

・・・・また、選考員特別賞として「被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう」が選ばれた。
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KBS WORLD「国楽の世界へ」 伽椰琴

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/27)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第33回として、日本の琴に似た弦楽器「伽椰琴」にまつわる話を紹介した。

まず、弦楽器「伽椰琴(カヤグム、가야금)」の歴史から次のように紹介された。
・世界には多種の、世代、ジャンル、あるいは宗教によっても、それぞれに音楽がある。一国の王ならば、国民固有の音楽に対するプライドを願ったかもしれない。伽耶(3世紀~6世紀中頃)末期の王、嘉悉(カシル、가실、?~?)は、(韓国)史上、最初に音楽の力で民を治めることに注目した。この王の下に誕生したのが弦楽器の「伽椰琴」だ。

▼ 「霊山会相」中の「上霊山(상령산)」を聴く。18世紀以降の両班の風流音楽らしく揺ったり流れる。

次に、伽椰琴の創生に関わる嘉悉王と于勒(ウルグ、우륵)の話題を次のように説明された。
・伽椰琴は改良され、様々な音楽に広く使われたが、「上霊山」の演奏に使われた伽椰琴は、「正楽伽椰琴」と呼ばれ、1500年ほど前に誕生した当時の形を維持しているという。

(注)伽椰琴には、正楽演奏の「正楽伽椰琴」と、民俗楽演奏の「散調伽椰琴」の二種類がある。

・伽椰琴の創始者は、于勒が有名。(「三国史記」に、楽器作成者は嘉悉王とされている)
・伽椰琴の、半円形の上面は「空」を、平らな下面は「地面」を、弦の支えは12ヶ月を表し、奏でる音が自然に溶け込むよう考えられている。楽器が出来た後、嘉悉王から、「各国に方言があるように、音楽もひとつである必要は無い。お前が伽耶という国にふさわしい音楽をつくるのだ」と命ぜられた于勒は、伽耶国の地方名を曲名とし、全12曲を作曲した。最初の曲は「ハガラド(하가라도、現在の金海市地域,)」、2番目の曲は「サンガラド(상가라도、現在の高霊地域)」となっている。

▼ ファン・ビョンギ作曲の「加羅都(カラド、가라도)」(1963年)の第1章を聴く。古趣ただよう・・・透明感のある今様である。

最後に、伽耶から新羅に投じた于勒と、新羅王の真興(ジンフン、진흥、534年~576年)との交流を次の通り解説された。
・于勒が12曲を完成させてすぐ、伽耶は新羅に滅ぼされる。于勒は、国の危険を察し、伽椰琴と作曲した音楽を持って新羅に投降した。新羅の真興は、于勒を歓迎し、自国の若者たちを于勒の元へ派遣し、そのメロディーを学ばせた。于勒の音楽をマスターした若者たちは、さらに思いを込めた編曲と演奏をした。この事を耳にした于勒は、初めは怒りを示したが、若者たちの演奏を聞き、涙を流し感嘆したという。
・また王も、こうした新しい音楽を好んで演奏させた。それに対し家臣たちは、 滅んだ国の音楽は、わが国をも滅ぼすと揃って抗議したが、王は、国が滅んだのは王の責任であり、音楽には何の罪もないと主張し、伽耶伝来の音楽を、新羅のものとして演奏を指示した。伽椰琴が現在までに伝えられたのは、その価値を見抜いた真興王のおかげだとも言える。

▼ ファン・イジョン作曲の「于勒の舞(우륵의 춤)」の中から第1楽章を聴く。軽やかな・・・今様である。

2013年12月2日月曜日

ウィンター・ワンダーランド

子ども時代、温暖地帯にある当時の家の造りは、今様に密封型ではなかった。ガラス窓と廊下の更に内側に障子で仕切った畳部屋があった。冬の夜になれば、木製の雨戸を閉めるのは必須だった。微かに隙間風がしみ込む部屋を暖めるのに火鉢を置いたりしたが、どれほどの暖房効果があっただろうか。けれど家族が集まれば、それだけで暖かく、交わす言葉にいっそう温もることができた。

今は、建物の構造が変わったし、暖房装置も石油やガスや電気を使うようになって、昔とは考えられない環境になっている。そんな変化の時代をまたいできたからか、懐旧も含めて、古い冬の歌に温もりを覚えるのかもしれない。

それは、興味しんしん眺めては触ろうとするたび親にたしなめられた、テーブルの上のいただき物のようなものだった。ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日~1977年10月14日)が歌う、「Winter Wonderland」(Richard B. Smith作詞、Felix Bernard作曲、1934年)はそんな歌だった。ワンダーランドの響きは、不思議というより、次々に素晴らしいものが飛び込んでくる憧れと期待の世界でもあったのだ。


(Youtubeに登録のChristmasTimeTVに感謝)

2013年12月1日日曜日

残った林檎は12分の1

今年、残り2ヶ月しかない11月にならんとしたとき、それを林檎の実にたとえて、6分の1しか残っていないと嘆息した。今日から12月、最早12分の1を切るに至った。6分の1と12分の1では、見た目にも、気分も大違いだ。

(本ブログ関連:”残った林檎は6分の1”)

12月になると、今年のカレンダーはますます存在感が薄れて身の軽さに揺れる。来年のカレンダーは、秘かに虎視眈々とその座を狙っている。私も移り気なのか、今年のカレンダーには目もくれない・・・そんなことはないけれど、壁に掛かっている余命1ヶ月のカレンダーの心境を思うと、最後まで見届けてやろうと思う。

一足速く、この冬まだ見ぬ雪景色を、イ・ソンヒの「雪が降る(눈이내리네)」を聴きながら楽しもう。

(Youtubeに登録のYoungbum Kim·に感謝)

これは、アダモ(Salvatore Adamo)の「雪が降る(Tombe la neige)」(1963年)のカバーであり、イ・ソンヒのアルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」 (1988年)に収録されている。

(本ブログ関連:”雪が降る”)