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2018年7月8日日曜日

(雑談)石が育つこと

先日(7/1)、ニール・セダカの歌う「バラライカを弾き鳴らそう(Tumbalalaika)」の歌詞に、若者が「雨がなくても育つものは何?」と問いかけたのに対して、女性が「雨がなくても石は育つ」と応える部分がある。他の応答もすべて ”n- ”の韻があるからとは別にして、なぜ「石」が語られたのか、石好きには興味深い。

(本ブログ関連:””、”鉱物 、・・・後は省略”)

国歌の「君が代」で、「さざれ石」(小さな石)が集まって「いわお(巌)」(大きな岩)となるという関係は、私たちに当り前であるが、砂漠の国に生まれた人にとっては、不思議に聞こえるかもしれない。わずかな平地に山が迫る日本では、岩や石が珍しくない存在だ。(東京の住民は、関東平野の広がりに慣れてしまって、実感しにくいかもしれない。余談だが、子どものころ、父親の転勤で東京に来たとき、石ころ道がなかった・・・全て舗装されていたことに驚いた・・・随分昔のことだが。)

「鉱物」が集合して「岩石」を構成するのも、ある意味「育つ」関係かもしれない。

ところで、石ころそのものが大きくなるという、伝説や信仰がある。国立国会図書館のデジタルコレクションにある「信仰民俗誌」(本山桂川著、昭和書房、昭和9年)に、「成長する石の群」の項があって、さまざまな民間伝承を例示している。
それらに共通しているのに、ある場所で入手した石を持ち帰る最中、あるいは持ち帰った後、石の重さや大きが増加するのに気付くというものだ。持ち帰るという、場所の移動(時間の経過)が重要なポイントかもしれない。

また、袂(たもと)に入れるという動作が加わることから、これらを「袂石(たもといし)」と呼ぶ範疇がある。(柳田国男の「日本の伝説」)

(本ブログ関連:”石の世界”)

石が育つには、場所を変え、時を経て成り立つ。そう考えれば、若い男女間の成就も何が必要か分かるというもの。そして、「苔のむすまで」といった永遠性がかなえられれば最高だろう。