ブログ本文&資料

2015年10月31日土曜日

(雑談)ハロウィンよりも、残り2ヶ月しかないこと

1年をリンゴの実に例えて、軸を中心に縦に6等分すると、5/6を食ってしまったことになる。1/6しか残っていないのだ。後、2ヶ月で今年が終わる。あっけないほどだ。

子どものころ、時間は長かった。クリスマスや正月が来るのが待ち遠しかった。夏休みに遊び飽きることもなかった。時間は無尽蔵で、やることがいっぱいあったのだ。

若者は遊び上手だ。若い女性が先を走り、それを男たちが追う。ハロウィンは、口実かもしれないがうってつけだ。その構図は変わらない。

さて、おじさんは、どうする。残り2ヶ月を酒の肴にして味わうしかない。いつのまにか時間の皿は空っぽになって、酔いが覚め、ヒンヤリするのが毎度のこと。

2015年10月30日金曜日

イ・ソンヒ「ひとしきり笑いで」

イ・ソンヒの5集所収の「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」(作詞作曲ソン・シヒョン、1989年)について、以前、「『あ!昔よ』、『美しい江山』、『ケンチャナ』などに通じる、彼女の歌の中で、何かを吹き払い、いかにも前向きな響きがする、韓国らしいトーンの強い曲である」と記した。コンサート会場で見た観客の熱狂からそう察した。

(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)

会場の反応に、ある意味、定番のような気もしたが、昨日の本ブログに紹介した、釜山日報の「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)によれば、次のように社会性を帯びているという。歌詞を見れば暗喩的である。事情についていずれ知りたいと思う。
├-----------------------------------------------------------
■ あちこちに社会性の濃い曲配置した5集 (1989年)

(5集収録の)「五月の陽射し」は、80年光州民主化運動(光州事件)の犠牲者の英霊を慰める曲であり、「ひとしきり笑いで」もまた時代の痛みが滲んでいる曲だった。直接的ではないが、歌詞の中に比喩的に隠されたメッセージは、通常の民衆歌謡に劣らず深くおぼろげだった。・・・
-----------------------------------------------------------┤

ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい

私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように

若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ

ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい

(Youtubeに登録のAlejandro Kimに感謝)

2015年10月29日木曜日

(資料) 「イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」

久し振りに、イ・ソンヒについての評論記事がネットを飾った。釜山日報(BUSAN.com)の「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)は、80年代に登場したイ・ソンヒの席捲と躍進について次にように語っている。

イ・ソンヒの4集、5集アルバムは、1988年、89年と連続リリースされた。これをリマスター版「ALL THAT MASTERPIECE LEE SUN HEE 4+5」として、2011年に再発行されている。昔からのファンの支持が、このような形に再結晶化したのだろう。本ブログで以前にも触れたが、名曲が網羅されている。記事では、ソン・シヒョンとの関わりが興味深い。

(本ブログ関連:”「ALL THAT MASTERPIECE LEE SUN HEE 4+5」”)

├-----------------------------------------------------------
1984年前半期、歌謡界最高のヒロインは、断然チェ・ヘヨン(최혜영)だった。彼女のデビューアルバム収録曲「それは人生(그것은 인생)」は、当時最高の人気曲であったし、後続曲の「水のような愛(물같은 사랑)」の人気も侮れなかった。そのままならば、年末の各種新人賞は、文字通り確実なものだった。

ちょうどその時、一瞬に地図をひっくり返してしまった問題ある、その人が忽然と登場する。彼女の名前はイ・ソン・ヒだった。 1984年夏、仁川専門大学生だったイ・ソンヒは、同じ学校のイム・ソンギュンと一緒に「4幕5場」という混成デュエットで、江辺歌謡祭に参加し、大賞を握った。受賞曲は「Jへ(J에게)」だった。その日を起点として歌謡界の人気版図は、荒波の中に巻き込まれていった。

江辺歌謡祭大賞後、ソロとして本格的な活動
84年の最高のヒット歌謡・・・各種賞獲得
ソン・シヒョンと出会って4・5集の付き合い、音楽も変化
5集には「五月の陽射し」など社会性の濃い曲

■ 歌謡界の地図塗り変えた「4幕5場」の登場 (1984年)

イム・ソンギュンの入隊のため、ソロで本格的な活動に乗り出したイ・ソンヒの人気は、想像を超越した。 「Jへ」は、KBS歌謡トップテンで5週連続1位を占めるなど、絶大な人気を得て、1984年最高のヒット曲となり、年末のKBS歌謡大賞とMBC10代歌手歌謡祭の新人賞も、当然イ・ソンヒの獲得だった。個人的な感想を言えば、当時、私は、チェ・ヘヨンと「それは人生」が好きだった。イ・ソンヒと「Jへ」の登場は、少なくとも彼女(チェ・ヘヨン)には不運だった。「Jへ」の人気がどれだけすごいといったら、しばらくして「J あなたは」という類似品が出たこともあった。 (両方の曲とも、イ・セゴン(이세건)が作詞、作曲した歌だ)

■ 1985年、正式デビューとヒットパレード (1集、2集)

「Jへ」ただ一曲で、1984年を自分の年してしまったイ・ソンヒの正規1集は、翌年の1985年の初めに出た。ここで、「ああ!昔よ(아! 옛날이여)」、「葛藤(갈등)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが相次いでヒットし、彼女は自分の人気が「Jへ」の一回で終わらないことを立証した。その年が経つ前(同1985年)に再度出した2集では、「秋の風(갈바람)」、「ケンチャナ(괜찮아)」、「そうよ過ちは私にあります(그래요 잘못은 내게 있어요)」などのヒット曲が続けて出たし、1986年出した3集でも「分かりたいです(알고 싶어요)」、「暗闇は晴れて(어둠은 걷히고)」、 「Young(영)」などが多くの愛(支持)を受けた。

(□ 1986年 3集

■ イ・ソンヒ+ソン・シヒョン(송시현)、発展の証明書 4集、そして5集 (4集:1988年)

1988年2月に出た4集は、イ・ソンヒのディスコグラフィーで非常に重要な位置を占めている。ここから彼女の音楽が意味のある変曲点を迎えたのだ。ところで、その変化の糸口を説明する名前の一つがある。まさにソン・シヒョンだ。

1987年「夢みるような世界(꿈결같은 세상)」のヒットで名前を知らせたシンガーソングライター、ソン・シヒョンはこの時からイ・ソンヒのアルバム作業に参加を始めたが、4集でLPのA面タイトル曲である「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」と、B面タイトル曲「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」を含めて、全4曲が彼の作品である。二人の出会いは成功だった。ソン・シヒョン特有の感受性と叙情性は、イ・ソンヒの声とよく調和たし、以後も、彼はしばらくの間、イ・ソンヒと共にすることになる。

4集で最も高い関心が集まった曲は、「美しい江山(아름다운 강산)」である。韓国ロックの巨人シン・ジュンヒョン(신중현)の名曲をリメイクした「美しい山河」の評価は、多少分かれてるが、概ね編曲と演奏面ではそれほど高い点数を得ることができない。しかし、この曲でさえもイ・ソンヒの歌唱力だけは、非の打ち所がない。また、それまでは大衆的にそれほど大きく知られていなかった同名曲が、イ・ソンヒのリメイクによって、多くの人々から愛(支持)されるようになったので、その功労もまた小さいということはできないだろう。個人的には、4集でユン・テヨン(윤태영)作詞、作曲の「歳月は流れても세월은 흘러도)」を最も好む。容易で平易なメロディーを持ったこの歌は、たとえ大ヒットではなかったが、ボサノバ風の洗練された編曲が直ちに耳をひきつける曲だ。

■ あちこちに社会性の濃い曲配置した5集 (1989年)

5集は、1989年に出たが、イ・ソンヒはここでまた一歩進んだ姿を見せてくれた。アルバムのあちこちに社会性の濃い曲を配置したのだ。「五月の陽射し(오월의 햇살)」は、80年光州民主化運動(光州事件)の犠牲者の英霊を慰める曲であり、「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」もまた時代の痛みが滲んでいる曲だった。直接的ではないが、歌詞の中に比喩的に隠されたメッセージは、通常の民衆歌謡に劣らず深くおぼろげだった。この他にも、5集は、(ロックバンド)「山鳴り(산울림)」のキム・チャンワン(김창완)が作った二つの曲が収録されており、目を引くのが、同年イム・ジフン(임지훈)によっても発表された「お姉ちゃん(누나야)」と、ハミングとナレーションが続く独特の雰囲気(独白調)の曲「水仙(수선화)」がそれで、キム・チャンワン特有の歌詞とイ・ソンヒの若い張りのある声が調和した「水仙」は、やや実験的な曲である。ソン・シヒョンは4集に続き、5集でも極めて重要な役割を果たしている。アルバムの代表曲である「ひとしきり笑いで」と「冬哀傷(겨울애상)」がまさに彼が作った曲である。

■ 80年代を貫いた名・歌・手  李・仙・姫(イ・ソンヒ)

最近、「私は歌手だ(나는 가수다)」に続いて「覆面歌王(복면가왕)」というTV番組が首都の話題だ。この番組に対して、好き嫌いが交錯しており、個人的には、他の長所・短所を離れて、多くの人々が、次のような点をもう一度考えてみることができようになったのは、大いに励みになる。歌手とミュージシャンは違う。したがって歌が上手なのと音楽を上手なことも全く違う次元の問題だ。もちろん、優れたソング・ライティング能力と歌唱力を兼ね備えて両方をうまくこなした場合、是非の余地はないが、天才的ソングライターだが、歌ができない人もいるだろうし、逆にソング・ライティング能力がないが、歌だけは最高に上手くすることもまたありだろう。私たちは、どちらか一方を無視したり、けなす必要なく、それぞれを認めればそれまでだ。

この大きな課題で、歌が上手ということも一つで定義されるものではないと、異議を申し立て方があることが分かる。正しい。筆者もやはり賛成する。歌手はそれ​​ぞれの個性があり、またそれぞれの歌にふさわしい声やボーカルスタイルもある。唯一の爆発的な声量を持って、高音領域でクールなシャウトを聞かせてくれることだけが歌の上手なわけではない。時には低めの口ずさむことがより優れた瞬間もある。

しかし、すべてのものを考慮しても、これだけは明らかである。イ・ソンヒは、優れた歌手であり、彼女なしでは決して80年代の歌謡を話すことができない。このシリーズを介して再び紹介されるイ・ソンヒの4集と5集は、彼女が活き活きしていた初期を過ぎて、本当によく似合う組み合わせだったソン・シヒョンと会って成し遂げられた発展的成果であり、80年代を貫いた彼女の明確な足跡を確認する、最も明澄な(明るく澄みわたった)証明書だ。
-----------------------------------------------------------┤

2015年10月28日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 祝福(祭祀)

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/21)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<祝福>(祭祀)にかかわる3曲を紹介した。

始めに、旧暦10月の儀式と、崔南善최남선)の著「朝鮮常識問答(조선상식문답)」について次のよう紹介された。
・旧暦10月を、一年で最も優れた上の月の意で「上月(상 달)」と言う。今年の旧暦は、一年13ヶ月で閏月がある。今、旧暦9月だが、いつもなら10月が始まる頃。新年を迎える正月でもないのに、10月をなぜ上月と言うのか、崔南善(1890年4月26日~1957年10月10日)の著「朝鮮常識問答」に記載がある。この時期、一年の農作業が終わり、新しい穀物や果物を収穫したことを、天と先祖に感謝の儀式を捧げる。10月は神と人間が共に楽しむ月、最も良い月とされた。高句麗の儀式「東盟(동맹)」や半島南部の部族馬韓の祭天儀式も全て10月に行われた。

▼ 「パン」=ある場面、「ノリ」=遊びの意による、演奏「パンノリ(판노리)」を聴く。賑やかな味付けした今様である。

次に、民間レベルでの村祭り「洞祭(동제)」や、家ごとの祭祀「告祀(고사)」の風習について次のように紹介された。
・朝鮮時代、収穫の秋に国家レベルの祭天儀式はなかったが、民間レベルで「洞祭」と呼ぶ村祭りがあった。これ以外に、家ごとに「告祀」と呼ぶ祭祀があり、面白い風習もあった。告祀を行った夜中、子供たちが温かい小豆をのせた餅「蒸し餅(시루떡)」を籠に入れ家々を訪ねた。餅の種類も多種多様で、そば粉やもち米で作った餅、かぼちゃを入れた餅もあり、食べ比べる楽しみもあった。告祀の祭祀は、先祖に捧げる「祭祀(제사)」や、巫女の巫堂(무당)が捧げる「クッ(굿)」の祭祀と少し違う。告祀はその他の神々に捧げるものだ。また、クッと目的が似ているが規模が違う。クッは、巫堂が演奏に合わせて大規模に歌い踊る。半面、告祀は家族単位で捧げ、時に経を唱える盲人や僧侶を招くこともあり、比較的こじんまりしたものだ。

▼ 告祀の祭祀で行なう、祝福を願う経の意の歌「祝願経(축원경)」を聴く。のりの良い四方めでたい曲。いつ頃の作品だろう。

最後に、告祀の祭祀で、家に関わる(八百万の神のような)神々について次のように紹介された。
・告祀の祭祀を行うとき、「祝願経」や、家庭の平安を祈る「安宅経(안택경)」などを唱える。また、様々な悪鬼を追い払う「罷経(파경)」のようなものもある。神にはそれぞれレベルがあり、待遇の仕方が少し違った。家の敷地を守る土主神(터주신)、家の守護神(성주신)があり、主に台所を守る神(조왕신)には、供え物と共に礼をする。また、庭を意味する庭神(마당신)、門を守る門神(문신)、お手洗いを守る神(측신)は、場所ごとに留まり、不運が入らぬように守る神だ。これらの神には礼をせず、ただ供え物を用意した。告祀の祭祀は、家を守るため、家を持たぬ人はできなかった。

▼ バラジ=若い8人による「バラジ(바라지)の祝願」の演奏を聴く。珍島をオリジナルにした響きだそうだ。今様な洗練した音色だ。

2015年10月27日火曜日

月がとっても青いから

今晩、帰り道がとても明るかった。たなびく雲はくっきりと白く、天頂の満月は雲間から煌々と照らす。星の瞬きのない紺青色の更にその奥は深い。

月明かりに、高揚するのはなぜだろうか。青い光に照らされて、風を受けた帆のように気分がはためく。清清しくそよぐ風。空は大きく広がり、月明かりが充満するようだ。

そんな気分に浸っていると、おじさんに浮かんできたのは、昔の歌謡曲。曲調から、まるで戦前の歌のようだが、気分は戦後だ。菅原都々子(すがわらつづこ、1927年8月5日~)の歌「月がとっても青いから」(1955年、作詞清水みのる、作曲陸奥明)だ。

時代が鷹揚だったとはいえないけれど、古い調子に、新しい二人連れが公然と味付けしている。不安と確信が揺り戻る当時の青春だ。すれ違いはしたくないといった心意気だろうか。子どもの私には、わけもわからず、なんとも古めかしく聞こえたけれど。

(Youtubeに登録のBEGA1947に感謝)

2015年10月26日月曜日

(雑談)ハロウィン

今月末(31日)に、毎年賑やかになってきた「ハロウィン」行事がある。ハロウィンについては、SFファンタジー小説の世界で知ったのが最初だ。それが、こんなに普及するとは想像しなかった。

(本ブログ関連:”ハロウィン”)

ここ数年、人通りの多い街角で、魔法使い・魔女、精霊・妖精、吸血鬼、お姫様などの衣装を着た(着せられた)子どもたちの姿を目にする。それも、集団ではしゃぎ、若い母親が周りを囲んで写真を撮る。子どもたちは、少々戸惑いがあるようで、辺りをぐるぐる走り回る。よく見れば、父親の影がない。どこか照れが漂っているように見える。

この行事について、おもしろい記事がある。京都新聞の「ハロウィーン、実は欧州では低調 『日本人はまだまだ』」(10/25)によると、(英米中心で)ヨーロッパ本土では関心が乏しいようだ。日本で、ディズニーランドから火がついたというのも分かる気がする。ムードとして、若い女性が先を走り、若い男が後を追うという構図が主流かもしれない。

商業的な感のする風景に少々違和感があったが、子どもたちの光景を目にするようになると、彼らが楽しければ良いのではないかと思うようになった。だから、行き場の定まらぬ行事に終わるのでなく、しっかり土地(子どもたちの地元)に根付くようになればと願う。

家庭で楽しむように定着した、「クリスマス」行事の例もあるのだから。

2015年10月25日日曜日

万珠鉱山、富井鉱山

昨日、本ブログに記したように、栃木県の万珠(まんじゅ)鉱山へ鉱物採集に出かけた。

昨夜来の寒風が収まらぬ夜明け前、 始発電車にのる。考えてみれば冬のようなもの。乗り換え電車の酔客は、ヒーターが入ってないか座席下に手をかざし確認する。往路の途中ようやく東の空に明かりがさしてきた。待ち合わせ駅で、H氏の車に同乗させていただき、採集地へ向かう。

【万珠鉱山】
当初の目的地だった万珠鉱山については、ネットの随所に産地情報が掲載されている。情報を参考に山林と沢・泥道を進むも、最終地点にあるべき坑口が見つけらない。辺りを探しても、紫水晶の気配も全くない。表面採集に徹しているため、ほうほうの体で撤退する。(同行のH氏によれば、以前来たときと、ネット情報の道筋が違うという・・・)

・採集鉱物 : 水晶(微小群晶)、緑水晶、玉髄、赤鉄鉱


【富井鉱山】
万珠鉱山の惨敗を挽回すべく、富井鉱山へ移動。採集開始前、駐車中で昼食していたとき、同好の士に出会う。後で、貴重な標本をいただくことになる。
さて、採集の方ははかどらない。陽が傾くと、寒風が気になる。帰り仕度をしていたとき、同好の士と石談義を咲かせる。鉱物趣味の或る会を案内する。

・採集鉱物 : 閃亜鉛鉱、黄鉄鉱、赤鉄鉱、白鉄鉱、石英(紫色、紫水晶の破片?)


今日は風があり、簡易ヤッケで防寒するも、着れば着たで汗をかく、少々やっかいであった。それより、「紫水晶」は何処。

(本ブログ関連:”紫水晶”)

(追記)
北風の強さに身を屈めたが、気象庁の発表で、都心に「木枯らし1号」が吹いた。

2015年10月24日土曜日

霜降2015

今日は、二十四節気の「霜降(そうこう)」だ。文字面から連想して、牛の霜降り肉で「すき焼き」でもと思ったが・・・まっ、ハンバーグの載ったカレーライスと安上がりにした。

霜が降る「霜降」と関係ないけれど、先日のテレビに怪元気なスポーツおじさんが登場して、筋肉を連呼していた。そんなわけで、私も最近、肉を意識した食事にしているが、適切な運動を伴わなければ健康も増進しない。

ところで、午前中、近隣の駅ビルにある有名書店に、ラジオ講座のテキストを気分転換ついでに求めに行った。大きな書店にもかかわらず売り切れだった。他に駅前の小さな書店も同様だった。のんびり時を過ごして地元駅に帰って、駅のかたわらにある書店に行けば、何と置いてあるではないか。遠出の必要がなかった次第。

(付記)
明日は、少し遠出の予定。栃木県塩谷郡塩谷町にある、万珠(まんじゅ)鉱山へ鉱物採集に行く。元は金山だったそうだが、現在は紫水晶で有名だ。けれど、ネットで見る限り、余り芳しくない。けれど、期待と欲望は大きい。

以前、富井鉱山で会った元鉱山関係者から偶然入手した紫水晶(上品で優美な藤紫色)が忘れられないのだろうか、お誘いいただいたH氏は紫水晶を求めて産地を巡っているよう。

(本ブログ関連:”富井鉱山”)

2015年10月23日金曜日

(資料) 岡本綺堂「中国怪奇小説集-樹を伐る狐」

狐について話を探している。これまで、狐と人の積極的な結びつきを見てきた。習俗のなかに共生する関係だ。宗教的であったり、民俗行事である。ある意味、精神的な領域に展開される。

(本ブログ関連:””)

狐と人の関係が奇伝となると、それだけで済まない。狐に化かされるおかしさを超えて、逆襲の凄味もある。岡本綺堂の「中国怪奇小説集」にある「樹を伐る狐」(青空文庫)の次の一文は、調子にのった狐が、樹上すなわち上位の知恵から蹴散らされる話しだ。

一気呵成もよいが、単純に繰り返しては足をすくわれる。見透かされ一網打尽となる。

├-----------------------------------------------------------
・鄭(てい)村の鉄李(てつり)という男は狐を捕るのを商売にしていた。大定の末年のある夜、かれは一羽の鴿(はと)を餌として、古い墓の下に網を張り、自分はかたわらの大樹の上に攀じ登ってうかがっていると、夜の二更(にこう、午後九時~十一時)とおぼしき頃に、狐の群れがここへ集まって来た。かれらは人のような声をなして、樹の上の鉄を罵った。

・「鉄の野郎め、貴様は鴿一羽を餌にして、おれたちを釣り寄せるつもりか。貴様の親子はなんという奴らだ。まじめな百姓わざも出来ないで、明けても暮れても殺生ばかりしていやあがる。おれたちの六親眷族はみんな貴様たちの手にかかって死んだのだ。しかし今夜こそは貴様の天命も尽きたぞ。さあ、その樹の上から降りて来い。降りて来ないと、その樹を挽き倒すぞ」

・なにを言やあがると、鉄も最初は多寡をくくっていたが、狐らはほんとうに樹を伐るつもりであるらしく、のこぎりで幹を伐るような音がきこえはじめた。そうして、釜の火を焚け、油を沸かせと罵り合う声もきこえた。かれらは鉄をひきおとして油煎りにする計画であることが判ったので、彼も俄かに怖ろしくなったが、今更どうすることも出来ない。

・「ともかくも樹にしっかりとかじり付いているよりほかはない。万一この樹が倒されたら、腰につけている斧で手当り次第に叩っ斬ってやろう」と、彼は度胸を据えていた。

・幸いに何事もないうちに夜が明けかかったので、狐らはみな立ち去った。鉄もほっとして樹を降りると、幹にはのこぎりの痕らしいものも見えなかった。ただそこらに牛の肋骨あばらぼねが五、六枚落ちているのを見ると、かれらはこの骨をもってのこぎりの音を聞かせたらしい。

・「畜生め。おれを化かして嚇かしゃあがったな。今にみろ」

・かれは爆発薬を竹に巻き、別に火を入れた罐を用意して、今夜も同じところへ行くと、やはり二更に近づいた頃に、狐の群れが又あつまって来て樹の上にいる彼を罵った。それを黙って聴きながら、鉄は爆薬に火を移して投げ付けると、凄まじい爆音と共に火薬が破裂したので、狐らはおどろいて逃げ散るはずみに、我から網にかかるものが多かった。鉄は斧をもって片端から撲なぐり殺した。
-----------------------------------------------------------┤

2015年10月22日木曜日

イ・ソンヒ「分かりたいです」

久し振りに風を感じた。といって、風音が轟くほどではない。街路樹の小枝が揺れて、思わずひんやり身にしみるといったところだ。

この時期になると、日めくりカレンダーが日ごと剥がすたび、薄くなってゆらゆら揺れる始末。一年もあっけなく終いに入ろうとしている。舞う落ち葉のように、時間が随分軽くなった気がする。あとは駆け足だ。

そんな月明りの夜道、周りを見回して思わず口ずさむのが、イ・ソンヒの3集収録曲「分かりたいです(알고 싶어요)」(作詞ヤン・インジャ、作曲キム・ヒガプ、1986年)だ。いえいえ、おじさんは、おじさんの気分でハミングするだけです。

イ・ソンヒさんのコンサートは、来年あるかな、多分再来年には・・・。分かりたくもあり、知りたくもあり。

(本ブログ関連:”分かりたいです”)


月明りの夜、あなたは、誰を想いますか
夢路で、あなたは、何を見ますか

深い夜、一人醒めて、涙流しませんか
時に日記に、私のことも、記しませんか

私と逢って幸せでしたか、私の愛を信じますか
あなたを想えば、全て気掛かりです
               ____

一日中、私の想い、どれほど重ねますか
私本当に、あなたの、心に入りますか

雀のように、騒いでも、今でもかわいいですか
忙しいとき、電話しても、私の声嬉しいですか

私はとても綺麗ですか、心から私を愛してますか
本当に分かりたいです、話ししてください


(Youtubeに登録のhyunmi kimに感謝)

2015年10月21日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 秋の風景

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/14)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<秋の風景>にかかわる3曲を紹介した。

始めに、映画「トンマッコルへようこそ(웰컴 투 동막골)」(2005年)を通して人の幸せについて次のように紹介された。
朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日休戦)のただ中、トンマッコルという村を舞台にした映画「トンマッコルへようこそ」*がある。トンマッコルの人々と、南北の兵士および米兵を交えたストーリーだ。敵対する兵士たちが、村の人々と共に過ごす中、互いを理解しあうようになる。印象に残るシーンに、ある兵士が村長に、どうすれば村人をうまくまとめられるのか尋ねた。すると、村長はさっぱりと、「十分に食べさせれば良い」と答えた。単純ながら、その通りかも知れない。昔の人々は、国と民が平和で豊作になることを最も重視した。これこそが理想であった。収穫真っ盛りな秋の風景を見ると、心の中も豊かに満たされる。

(* カン・ヘジョンの役回りと演技がなければ、この映画が成立しなかったという意味で、主演というべきだろう)

▼ 豊かな歌の意の「豊登歌(풍등가)」を聴く。農業報国をおおらかに歌う。

次に、自然がもたらす豊穣への感謝と、「稲刈りの歌(벼베는소리)」について次のように説明された。
・「豊登歌」は、1930年代に崔貞植(최정식)が作った曲だ。それほど古い曲でないが、ソウル地域の民俗歌<雑歌(잡가)>で、国の平安と、農民の豊作を喜ぶ内容だ。雑歌で最も知られるものを12の雑歌に分類するが、ここには含まれない。田の歌や畑を耕す歌もある。特に、様々な種類の豆を蒔いて、豆の名をひとつひとつ親しげに呼び上げる。種蒔き、施肥、夏が過ぎて実る。努力しただけ実を結ぶ自然に頭が下がった。
・収穫した米を背中に背負って村まで運ぶときに歌った「稲刈りの歌」がある。

▼ 全羅北道沃溝(옥구)の「稲刈りの歌」を聴く。肥沃な土地に生まれた物語りを語るように、素朴な歌が始まる。

最後に、労働と報酬が調和する、のどかな場面を次のように紹介された。
・最近、一部を除いて機械で稲刈りする。中には、村人が集まり、直接田植と収穫をする、昔の農作を受け継ぎ試みる地域もある。重い米を運んで、体に良い馳走を食べたくなる、早く鶏を捕まえよう、という歌もある。雇われた者が主人に、鶏肉の馳走を求める。主人にしても、一年間食べられる米を収穫したので、鶏肉くらい馳走しても良いと思った。周りで見物する子供たちも、久々に鶏肉のスープを味わえる日だ。

▼ 演奏「野原で(들판에서)」を聴く。叙情的、田園風景を描く。今様である。

2015年10月20日火曜日

ヒョードルのリング曲

中学生の頃、時代の風潮だったのだろうか、いわゆる<うたごえ運動>が教室にまで浸透して、「ステンカラージンの歌」などロシア民謡を歌わされた。指導する者(教師)たちにとっては、使命感に心酔したのだろうが、白紙のまま受けとめる子どもたちにすれば、何とも距離感のつかめぬものだった。

だから、後に<うたごえ>とは無縁のかたちで知った、同じくステンカーラージンの名を持つ歌「(邦題)ステンカラージンの夢(Ой, то не вечер)」は新鮮だった。運命と直面し予期するという思惟的なこの歌には、歌う者、聴く者に預ける何かがあった。歌とはそういうものだと知った。

この歌をYoutubeで検索すると、いかに多くロシアで歌われているかが分かる。少し感傷的かもしれないが。

ところで、プロレスといえば、力道山豊登遠藤以来何も知らないが、わが子が一時期熱狂していたので、そばで見ていたとき、渋い仕事師といった印象を受けたのが、PRIDEのエメリヤーエンコ・ヒョードルだった。テレビで見る彼は、冷静にして沈着寡黙、相手をじわじわと仕留ていくといった雰囲気がした。リングテーマ曲が、「ステンカラージンの夢」というのは、何とも泣かせるではないか。

いったん、引退を発表したヒョードルは、今年の大晦日に復帰するという(東京スポーツ)。

(Youtubeに登録のColdbergに感謝)

2015年10月19日月曜日

(資料)「稲荷信仰から見える江戸」

先日、NHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」で、「聖なるキツネと神秘の鳥居 ~伏見稲荷大社の不思議な世界~」をテーマにした回を視聴した。(京都の)伏見稲荷大社にある、赤い千本鳥居に始まりに、稲荷信仰について紹介された。

稲荷信仰は、農業、特に稲荷⇒稲⇒害獣であるネズミ退治につながるキツネを稲荷神の使いとするといわれる。それが、江戸時代に、大きく社数を増やし、民間・大衆の身近な信仰対象となった。番組では、当時、三越百貨店の前身である越後屋三井呉服店が三囲神社(みめぐりじんじゃ)を守護社と定めたことから、稲荷神社と商業の強い関係に触れている。

農業、商業以外にも、稲荷神社と関係深いものがある。江戸期に新田地帯だった地元にある、稲荷神社は疱瘡治癒の効用もあって、遠く川崎宿からも参詣があったという。また不思議なことに、近所のある道筋に、民家の軒先に稲荷の小さな祠が続けて点在するところがある。

(本ブログ関連:”稲荷”)

そこで、江戸時代に、なぜ稲荷神社が爆発的に広がったのか、病気(治癒)との関係はどうだったのか知りたいところ、ネットに次のような(「火事」と「疫病」に着目した)論文が掲載されているのを知った。

稲荷信仰から見える江戸」(湯浅徳子、指導教員 山室恭子)で、平成19年(2007年)度の修士論文のようだ。大名屋敷の稲荷、廓の中の稲荷、人足寄場の稲荷など、いろいろな階層に信仰されたこと。修験の祈祷と結びついたことなど、興味深い話がある。いかに庶民のよすがとなったかを教えてくれる。

資料として、「疫病」部分について抜粋させていただきます。感謝。
├-----------------------------------------------------------
出発点
なぜ江戸で稲荷がもてはやされ、流行り神となったのか

背景
・日本の民俗信仰のなかでも代表的な信仰のひとつが稲荷信仰である。稲荷はさまざまな神社仏閣の中でも群をぬいて数が多い。全国の神社総数が約 8 万社あるうち、およそ 3 万社が稲荷であるという。これに個人宅の屋敷稲荷まで加えると、おびただしい数となる。稲荷信仰は江戸時代のそれも江戸という都市で突如爆発的な隆盛を見せるという特異な特徴を有する。

目的
・そこで、本研究では稲荷信仰が隆盛するに至った理由を、江戸の都市災害である「火事」と「疫病」との関連に焦点を当て、稲荷信仰から見える江戸の一特性について明らかにしていく

まとめ
4.3 病気治癒と稲荷まとめ

・大名屋敷、廓、町中、塀の中という江戸の様々な場所にまつられる稲荷を見てきた。パターンごとに分類しつつ、具体例を検証していくことで、人々が病気治癒を期待し、真剣に信仰している様子が浮かび上がってきた。

・まず、稲荷には一般に開放されている「参詣できる稲荷」と、閉ざされた環境にある「私的な稲荷」があった。そして、私的な稲荷である大名屋敷の稲荷が「麻疹」に効験があるとされ、一般に開放された事例を確認した。それは、町人が大名屋敷という特権的空間に入ることで非日常的な荘厳さを体感し、利益を感じさせるものであった。また、大名が地方にもつ領地にあった稲荷を勧請していることから、遠路からきた稲荷ということで、ありがたみがあり、さらに切手を手に入れて平日に参詣することは他の町人と差別化をはかれ、より心願成就への期待が持てるものだった。つまり江戸の人々は信仰にプレミア感を求め、参詣のハードルが高いほど病気に効果があると信じたい心理があったのである。

 ・次に、廓の中にも稲荷が確認された江戸の男女構成比の不均等という地域的特性から、吉原や、岡場所が繁盛し、梅毒等の性病が猛威をふるうことになった。廓の中でも稲荷は求められ、遊女から信仰されたのである。また、梅毒に特化した瘡守稲荷も数多く存在した。そして梅毒が皮膚に瘡を発生させることから「疱瘡」につながり、疱瘡の患者の信仰も集めた

・大名屋敷や廓は江戸に特徴的な空間であり、そこでもまつられた稲荷は時に流行神となり信仰を集めた。そして、それらの稲荷に結びつく病気は難治なものが多かった。このような特徴的な空間にまつられた稲荷と、病気にまつわる流行神的稲荷出現の状況は、江戸人の病気治癒への強い思いが噴き出したかのような様相を呈していると言えよう。

・町中の稲荷は、人々が手軽に参詣できるため重宝されていた。ここに修験が居住する稲荷を確認した。奉行所から快く思われないのを承知で、追放された修験を神職に復帰させていた事例から、修験に信頼を寄せる町人の姿を見てとれた。修験の果たした役割は祈祷である。祈祷の病気治癒は江戸で広く受け入れられ、人々は祈祷で病苦を忍んだのである。

・最後に人足寄場という特殊な空間で稲荷を見た。「塀の中」で暮らす人足たちが稲荷を勧請することを強く望んだという事が確認された。寄場という病人が多い、劣悪な衛生環境で彼らが求めたのは、医師でも薬でもなく、ほかならぬ稲荷であった

・なすすべのない病気に対して人々ができることといえば仏に治癒を祈ることである。江戸は医師や薬も数多くあったが、当時の医療の未発達な部分とそれを補完する神仏の効験で、人々は病気と対峙してきたのだ。医療と宗教が切り離されるのは、病中の祈祷禁止等の法律が成立する明治に入ってからである。つまり江戸時代は病気治癒のための祈祷が熱心に行われた最後の時代だったのである。
-----------------------------------------------------------┤

2015年10月18日日曜日

イ・ソンヒ「バラ」

バラの季節だ。バラは、園芸として難しいようで、近所の民家に花壇を成しているのを見かけることはない。ときたま、垣根や柵に枝を延ばしているものもあるが、丁寧に手入れをしているようにはみえない。

昔、行ったことのある植物園のバラ園を見てしまうと、その圧巻に勝るものはない。教室へ行く途中、あるスクールと道路を挟んだ真向かいに、鉄網塀越し一面にバラが咲いている施設がある。明るい時間に通りかかるたび、一度は覗いてみたいと思っていた。ネットで調べて驚いた。何と、そこは墓地だった。バラに覆われて、外から一見、バラ園にしか思えなかった。

しかしながら、バラ、とりわけ赤いバラは情熱的だ。妖艶であり誘惑的である。バラの赤は、ときめく胸を流れる血潮であり、ほとばしる溶岩である。そして、女性の唇である。男は、心情をバラに託し、その香気に酔い、虜になる。

(本ブログ関連:”バラ(장미)”)

あなたにバラを渡す
その赤い香気、あなたに伝える
私を忘れて眠る夜に
あなたの部屋いっぱいに、バラの花の香気が広がるまで

私たちの愛で生きよう
短い生涯を、夢見るようにしよう
二度と来ないこの瞬間に
愛する時間は、あまりあるではないか

一瞬としても、およばぬとしても
その喜びにひたってみるべきでないか
生きてみて、胸がときめく
時が多くないことを、よく知っているから

その先が痛みだとしても
両の手を広げて、あなたを抱こう
愛しよう
生きてみて
私たち二つの心、熱くなろう


あなたに口づけしたい
ああ、その唇はどれほどうっとりするだろうか
太陽の下、柔らかな花びら
さらに赤く染まっていくのね

愛と憎しみの両方を持って
風の最後にあなたのすべてを預けて
大きくなっていくあなたの熱望は
遥かその昔の、草原を描いているのか

その先が痛みだとしても
美しく咲いたのね
風に触れて
花びらが散るとても
そのこころは、熱く咲いて散る

(Youtubeに登録のMusic maniaに感謝)

2015年10月17日土曜日

イ・ソンヒとイ・スンギの「Jへ」デュエット

SBS歌謡ショー、「イ・ソンヒと友人達(이선희와 친구들)」(2004年8月21日)で、イ・ソンヒと愛弟子イ・スンギが、彼女のデビュー曲「Jへ」をデュエットする場面がある。この年の同月、イ・ソンヒは、8月26日~28日に世宗文化会館大劇場で「Jへ 20年 イ・ソンヒ コンサート」を開いている。この放送の直後である。一方、放送少し前の6月25日に、イ・スンギは1集アルバムでデビューしている。

(本ブログ関連:”「イ・ソンヒと友人達」(1)(2)”、”イ・スンギ”、”Jへ”)

イ・ソンヒとイ・スンギの「Jへ」のデュエット映像は様々あるが、次の映像は爽やかな師弟関係の始まりを示している。イ・ソンヒの眼差しから穏やかさと、すこぶる清潔感を、イ・スンギからは初々しさ(当時17歳)が感じられる。特に、イ・ソンヒの、白いシャツに勿忘草色した上着がとても似合っている(ファッションについて説明できないのが残念)。

(Youtubeに登録の아카시아 Acaciaに感謝)

2015年10月16日金曜日

(雑談) 階段の蓄光シール

夜、走行する自転車のランプは、必ずしも点けっぱなしのものでなくてよいという。LEDランプのように点滅するものでも、法律上、自転車の存在を示せるなら問題ないそうだ。とはいえ、ランプを点滅する自転車と、夜道ですれ違うとき、本気度が感じられないのはどうしてだろう。

教室に通うのに自転車を利用している。日没後なので、車輪の回転を利用したLEDランプを灯しているが、実はもう一つ、点滅するLEDの懐中電灯を手首にぶらせげている。これは効果てき面、狭い路地を行き交う自動車が気付いて、ゆっくりすり抜けてくれる。光の点滅は、おもちゃの三要素(音、光、動き)のひとつであるように、人を素早く反応させる。

暗闇に光る標識(非常口照明など)は道標になる。地面にあれば、足の踏み場を示すガイドにもなる。そこで、わが家の階段に、一段一段、滑り止めを貼ると同時に、蓄光シールも貼った。陽がかげると、しばらく効果を発揮して、怪しく薄みどり色に光っている。

夜間、階段の明かりをつけっぱなしにして、光のエネルギーが蓄光シールに溜まるようにしている。階段を上がるとき、いったん明かりを消して、蓄光シールの発光を楽しんでいる。そもそも階段に照明があるのに、われながら阿呆なことをしているなと思っている。

2015年10月15日木曜日

イ・ソンヒの「夜が来れば」

イ・ソンヒの初期アルバム、4集所収の「夜が来れば(밤이 찾아 오면)」(1988年、作詞・作曲ユン・ヒジュン)は、トロット気分満開だ。それに、彼女の若さ溢れる高音を目いっぱい効かせている。いってみれば、大きな網を広げたアルバムだったのかもしれない。

なにしろ、彼女の歌唱力はトロットはもちろん、国楽(=民謡を含む伝統音楽)もカバーするのだから。この歌の歌詞に、民謡にある<西山に沈む陽>が浮かぶが、ドップリ漬かっているわけでもない。とはいえ後の8集(1992年)で、国楽、民謡と正面を切った試行が結実することになる。

(本ブログ関連:”夜が来れば”)


西山に陽(ひ)沈むよ、夜が訪ねくるよ
夜深まり行けば、寂しさがまたくるよ
*
懐かしさ 染まれば、夢も消えて
寂しさが たまれば、愛だけ待つよ

寂しさ 慰める、この私にはないのね
私は未知らぬ あなたを 待ちながら
この夜も、この夜も 寂しさを癒すよ

(*以下繰り返し)
この夜も、この夜も 寂しさを癒すよ

(Youtubeに登録のJ-GODに感謝)

2015年10月14日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 秋

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/7)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、秋にかかわる3曲を紹介した。

始めに、「興打令(흥타령)」に歌われる、秋の夜の聴くと酒について次のように紹介された。
・月明かりの美しい、菊香漂う秋の夜に、窓の外に菊を植えて、酒を醸しておくという詩が浮かぶ。酒が発酵する頃、菊の花が咲く。友が訪ねてくる前に、美味い酒を用意しておくのだ。そして、その夜、琴に似た玄琴(コムンゴ、거문고)と共に夜通し遊ぶという内容。月明かりも大変美しい季節、ロマンチックな風景が込められた歌がある。二つの地域(全羅道と慶尚道地域)で親しまれた長い歌、南道雑歌「興打令」だ。

▼ 「興打令」を聴く。人生を眺めた歌のようだが、淡々というより粘りのある歌い方だ。

次に、相性の良さを表す「琴瑟(금슬)」や「壎篪相和(훈지상와)」から、併奏(병주)曲「笙簫併奏(생소병주)」について次のように紹介された。
・歌も人も相性の良さがあるように、楽器も互いに調和するものがある。夫婦仲の睦まじさを指す「琴瑟が良い」の「琴瑟」は、琴と瑟の二つの弦楽器だ。音色が相性が良く、ひとつの言葉になった。管楽器にも似た「壎篪相和」がある。今は途絶えた土笛と竹笛の調和から、兄が土笛を吹き、弟が竹笛で答えるの意で、兄弟仲の良さを例える。二つの楽器で演奏することを「併奏」という。曲「笙簫併奏」は、「笙簧(생황)」と「短簫(단소)」の管楽器の二重奏だ。「笙簧」は、伝統楽器中、唯一和音を奏でる楽器で、竹管でできているが、金属のような響きをして、鳳凰の鳴き声に似るといわれる。「短簫」は、清く美しい、空を飛ぶような音色だ。

▼ 朝鮮時代、ソンビが楽しんだ伴奏曲を管楽器用に編曲した「笙簫併奏、水龍吟(수룡음)」を聴く。駆ける風流の如し。

最後に、歌「タルコリ(달거리(月令歌:월령가))」について次のように紹介された。
・人について知りたければ、その友人を観察するという。似た者同士交わるからだ。友は、最も分かりやすい鏡という言葉もある。愛する人がそのようであるなら、なお幸せだ。京畿地域の雑歌「タルコリ」は、1月、2月、3月・・・と、月ごとに、適切な歌詞を付けて歌う。一年12ヵ月、友、夫や妻など身近な人を恋しく思い歌う。

▼ 歌「十二雑歌」から「タルコリ」を聴く。素朴な響きするが、一年を語る、誰がどんな風に歌ったのだろうか。

2015年10月13日火曜日

さても夜道の寒さよ

久し振りの教室、今夜から後期が始まった。賽の河原の石積みか、それとも生来の怠け癖のためか、一向に進歩がないのに気付く。「どじでのろまなカメ」でも、いいことにしよう。

刺激を受けての帰り道、夜風が寒い。いつのまにこんなに冷えるようになったのだろう。気分はもう冬。おかげで、赤色に連なって点滅する道路工事のランプが、クリスマスの電飾のように見えてくる。動画にしてアップしたい気分だった。

夜分9時過ぎの気温は17℃くらい。昔の井の頭公園プールの水温だ。やっぱり冷たいか。寒さがどんどん増す。帰り道を考えて、これからは厚着が必要かもしれない。

(付記)
近所のコンビニで、飲料水「毎日の 朝バナナオレ」(エルビー)を見つけた。以前、飲んだような、そうでないような不確かだったが、購入してみた・・・やはり、去年、味見していた。
本物のバナナか使われているかどうか、私の喉は、アレルギーのイガイガで判定できる。今回もイガイガ感があったので合格。バナナ味の巡礼はまだ続く。

(本ブログ関連:”バナナ味”)

2015年10月12日月曜日

(雑談) 体育の日の昼寝

「体育の日」の祝日、穏やかな陽射しに誘われて、辺りをぐるりと散歩した。

(本ブログ関連:”体育の日 ”)

小学校の校庭で、町内会の運動会が開かれたようだ。昼ころ学校前を通ったとき、人影がまばらだった。もしかしたら、午前中に終わってしまったのかもしれない。それとも、昼休みだったのだろうか。

以前、ひまわりを咲かせて、あっというまに刈り取った畑地に、ネットを被せた畝が複数並んでいる。ネットは真っ白なものと、薄紅色のものがある。色の違いは何なのか、一体何を栽培しているのだろう。

佇んでいると、ぽかぽか陽気に昼寝したくなる。でも、昼寝は午後3時までだそうだ。「3時のおやつ」というじゃないか・・・、そのときが一番、気を抜きたくなるというに。しかも、30分以上はだめ、それ以上だと本格的な睡眠に入るそうで、20分以内が目安という。

頑張って昼寝をしなかった。けれど、夕方に転寝してしまった。とろりとまどろんだので、その時間が分からない。

2015年10月11日日曜日

金鉱の妖霊 乾麂子

鉱物採集に、大方はズリ(選鉱後の石捨て場)の斜面を漁る。体力と好奇心があれば、腰の深さまで掘り返す人もいる。そうでなければ、表面採集といいつくろって、ズリ表面を軽く掻く。私は後者である。

鉱物産地には、鉱山跡ゆえ坑口がそのままになっていることがある。ベテランは、坑道に入って探すこともあるそうだが、現地に詳しい仲間がいる場合のようだ。表面採集する者には、坑口を覗くことはあっても、中に踏み込む勇気はない。

先だって、鉱物仲間の方から聞いた話、暗闇を進んで行くと、立て坑らしいものがあって、水がたまっているような音がしたという。無茶なことをと、唖然とした。

鉱山には、女王が登場する童話の世界もあるが、実際、死と隣り合わせゆえに恐怖が勝る。岡本綺堂の「中国怪奇小説集 子不語」に、死んでいることを知らずさまよう亡者が登場する「金鉱の妖霊」がある。彼らを「乾麂子(かんきし)」という。(「青空文庫」より)

(本ブログ関連:”坑夫”)

├-----------------------------------------------------------
・乾麂子(かんきし)というのは、人ではない。人の死骸の化したるもの、すなわち前*に書いた僵尸(きょうし)のたぐいである(*「僵尸(屍体)を画く」)。雲南地方には金鉱が多い。その鉱穴に入った坑夫のうちには、土に圧されて生き埋めになって、あるいは数十年、あるいは百年、土気と金気に養われて、形骸はそのままになっている者がある。それを乾麂子と呼んで、普通にはそれを死なない者にしているが、実は死んでいるのである。

・死んでいるのか、生きているのか、甚だあいまいな乾麂子なるものは、時どきに土のなかから出てあるくと言い伝えられている。鉱内は夜のごとくに暗いので、穴に入る坑夫は額の上にともしびをつけて行くと、その光りを見てかの乾麂子の寄って来ることがある。かれらは人を見ると非常に喜んで、烟草をくれという。烟草をあたえると、立ちどころに喫ってしまって、さらに人にむかって一緒に連れ出してくれと頼むのである。その時に坑夫はこう答える。

・「われわれがここへ来たのは金銀を求めるためであるから、このまま手をむなしゅうして帰るわけにはゆかない。おまえは金の蔓のある所を知っているか」

・かれらは承知して坑夫を案内すると、果たしてそこには大いなる金銀を見いだすことが出来るのである。そこで帰るときには、こう言ってかれらを瞞のを例としている。
「われわれが先ず上がって、それからお前を籃にのせて吊りあげてやる」

・竹籃にかれらを入れて、縄をつけて中途まで吊りあげ、不意にその縄を切り放すと、かれらは土の底に墜ちて死ぬのである。ある情けぶかい男があって、瞞すのも不憫だと思って、その七、八人を穴の上まで正直に吊りあげてやると、かれらは外の風にあたるや否や、そのからだも着物も見る見る融けて水となった。その臭いは鼻を衝くばかりで、それを嗅いだ者はみな疫病にかかって死んだ。

・それに懲りて、かれらを入れた籃は必ず途中で縄を切って落すことになっている。最初から連れて行かないといえば、いつまでも付きまとって離れないので、いつもこうして瞞すのである。但しこちらが大勢で、相手が少ないときには、押えつけ縛りあげて土壁に倚りかからせ、四方から土をかけて塗り固めて、その上に燈台を置けば、ふたたび祟りをなさないと言い伝えられている。

・それと反対に、こちらが小人数で、相手が多数のときは、死ぬまでも絡み付いていられるので、よんどころなく前にいったような方法を取るのである。
-----------------------------------------------------------┤

(追記)http://open-lit.com/listbook.php?cid=4&gbid=160&start=0 より。「開放文學」に感謝。
├-----------------------------------------------------------
 乾麂子
  乾麂子,非人也,乃僵屍類也。雲南多五金礦,開礦之夫,有遇土壓不得出,或數十年,或百年,為土金氣所養,身體不壞,雖不死,其實死矣。
  凡開礦人苦地下黑如長夜,多額上點一燈,穿地而入。遇乾麂子,麂子喜甚,向人說冷求煙吃。與之煙,噓吸立盡,長跪求人帶出。挖礦者曰:「我到此為金銀而來,無空出之理。汝知金苗之處乎?」乾麂子導之,得礦,必大獲。臨出,則紿之曰:「我先出,以籃接汝出洞。」將竹籃繫繩,拉乾麂子於半空,剪斷其繩,乾麂子輒墜而死。
  有管廠人性仁慈,憐之,竟拉上乾麂子七八個。見風,衣服肌骨即化為水,其氣腥臭,聞之者盡瘟死。是以此後拉乾麂子者必斷其繩,恐受其氣而死;不拉,則又怕其纏擾無休。
  又相傳,人多乾麂子少,眾縛之使靠土壁,四面用泥封固作土墩,其上放燈台,則不復作祟;若人少乾麂子多,則被其纏死不放矣。
-----------------------------------------------------------┤

乾麂子はあわれだ。坑夫になる前身を語られず、まして地の底にいて自らの死も知らずにいる。出会った坑夫に金銀の蔓(鉱脈)を教える引きかえに地上へ上がることを願う。しかし、地上で、彼らは忌み嫌われる存在でしかない。

私は、幸いにも今までに恐怖と遭遇したことはない。ただ、山中を歩くとき、草を踏む音、靴を引きずる音、潅木をかする音、それらが微妙にずれあって、最後尾にいて、あたかも私の後にもうひとり誰かがついてきているような錯覚を覚えることがある。

2015年10月10日土曜日

イ・ソンヒの「愛が散るこの場所」

イ・ソンヒの動画は、Youtubeで見たのが最初だった。次の映像と同じものだが、少々左右が圧縮されて面長になっている。以前見たものは、自然な印象で、頬に膨らみもあり健康的で、何より、歌唱力に圧倒されたものだ。2004年、世宗文化会館での、20周年記念コンサートの姿だ。

そのとき歌われた、4集収録の「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」(1988年、作詞・作曲:ソン・シヒョン)は、若さの生硬さに磨きが加わり、美しく余韻を含んで響いた。その10年後の昨年には、円熟味を増した。

(本ブログ関連:”愛が散るこの場所”)


「愛が散るこの場所」

花びら舞い散るとき、あなた目覚めないで
あれほど美しかった、花びらだったじゃない

愛が遠のくとき、あなた黙って去るのですか
あれほど愛した思い出が、壊れるのか恐わくて

*愛が散るこの場所、思い出だけ悲しくて
あなた目覚めないで、涙見せたくないのよ

私が恋しいとき、あなた帰ってきてもいいわよ
あれほど愛した昔に、戻りたいです

(*以下繰り返し)


(Youtubeに登録のd'abord musiqueに感謝)

2015年10月9日金曜日

善意

イ・ソンヒは、善意の人である。デビュー当初、困難な状況にあっても強く生きる学生たちを支援する慈善活動を始めた根幹にある。宗教的環境に育ったことも、その背景にあるのかもしれない。

イ・ソンヒは、善意を信じるからこそ、人を信じたのかもしれない。ときに、善意を実現するために、政治の世界を往来したこともある。

イ・ソンヒは、歌手人生を切り開いてきた。善意の明かりをいったん手元に置いて、自らの道筋を照らす齢にいるのではないだろうか。

善意のくびきから、どうか自由になって欲しい。思い過ごしだろうか。

2015年10月8日木曜日

寒露、「猿に始まり狐に終わる」こと

今日は二十四節気の「寒露」。「露が冷気により凍りそうになるころ」(Wikipedia)だそうで、今朝は相当に冷え込んだ。

寒露の音から、カンロ飴や甘露煮をイメージして「甘露」が浮かんで、甘味を帯びそうな気がする。「うまい、うまい」と絶賛するのに、「甘露、甘露」と殿様が(昔の映画で)いったりもした。

ところで、地元にある武蔵野大学で、狂言師の野村萬斎氏(1966年~)を迎えて、武蔵野大学客員教授の羽田昶氏との対談を聴く公開講座があった。能楽資料センターによる連続公開講座(「けものイロイロ―― 能・狂言に見る鳥獣・霊獣」)の最終回だが、初めて知って、初めて同敷地を訪れた次第。

最終回のテーマは、「猿に始まり狐に終わる」という、狂言に現れる生き物について、野村萬斎氏の経験に照らしながら語るかたちで進行された。

狂言の初舞台は、3,4歳ころに「靱猿(うつぼざる)」の舞台で猿の姿に扮することから始まるそうだ。今回のテーマにある、<狐に終わる>というべき演目として、「釣狐(つりぎつね)」を初めて演じた(披(ひら)いた)のが1988年とのことで、ここから真の演者としてわざを深めていくことになったという。

狂言のスタンスに、「このあたりのものでござる」という言葉があるというそうだ。人、生き物すべてに通じる考え方であり、立場(領分)という。物語が、この理(ことわり)から外れるとき、狂言は滑稽さの中に逆転や逆襲の姿が見え隠れすることになる。

(<狐>に関心あって講演会に出かけたが、とてつもなく大きな世界に出会った気がした)

(Yotubeに登録のodessanokaidanchに感謝)

2015年10月7日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 風流音楽

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(9/30)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、ソンビ선비)が「風流(풍류)」を楽しむときに聞いた音楽にかかわる3曲を紹介した。

始めに、自ら「看書痴(간서치)」と称した、李徳懋이덕무、1741年~1793年) の詩について次のように紹介された。
・ソンビが風流を楽しむとき聞く音楽を、風流音楽という。朝鮮後期のソンビ李徳懋の詩に、「秋の風は心を元気にし、森を通り過ぎる風は、まるでコムンゴのように聞こえる。水鳥はひっそりと、陶淵明の詩を聞いている。彼の詩は心の中を清くし、平和で古めかしい」という内容がある。李徳懋は本を読むことが好きで、自ら「看書痴」(読書に没頭し、世事に興味ない人)と表現したほどだ。秋風を感じながら詩を謳うソンビの趣に、一度は真似てみたい、それにぴったりの音楽がある。

▼ 朝鮮後期、風流音楽の「霊山会相(영산회상)」の一曲目、大笒(テグム)演奏「上霊山(상령산)」を聴く。ゆたりと響く。

次に、洪吉周(홍길주、1786年~1841年)の「読書の5つのレベル」について次のように紹介された。
・李徳懋と同時代のソンビの洪吉周は、読書を5つのレベルに分けて記録した。① 最も高いレベルは、体を清くすること。② 古いものから学び、今直面した問題にうまく適用させること。③ 文章を磨き上げて、世の中に名を知らせること。④ 記憶力を生かし、他の人に誇示すること。⑤ 最も低いレベルでは、暇つぶしに読書をして時間を無駄にすること。昔、ソンビにとって読書は、生活そのものであり義務でもあった。早朝、読書で一日を始め、昼寝するときも本をそばに置いた。時には、友人と自然の中で、詩を作ったり、絵や音楽を楽しんだ。これを風流と言いう。

▼ 風流音楽「霊山会相」の6曲目、下絃の楽曲の意、「下絃還入(하현도드리)」演奏を聴く。風流と素朴の一体のよう。

最後に、ソンビの風流とは別の「民間風流(민간풍류)」について次のように紹介された。
・ソンビが風流を楽しむときに聞く風流音楽(または風流)という。九曲で構成される霊山会相などが代表的だ。また、庶民のパンソリが宮廷でも親しまれ、風流音楽は、地方から貴族に、そして庶民へと伝わった。このように変化した風流を、「民間風流」という。わずか数十年前まで、各地に律房(율방)という風流の室内演奏空間があった。人々が定期的に集まり、聞かせるためでなく、自分たちが好きな音楽を演奏していた。

▼ 民間風流から「クルゲヤンチョンとウチョ(글게양청, 우조)」を聴く。舞いを誘う趣がある。なるほど民間だ。

・「クルゲヤンチョン」は、ソウルの風流「ヤンチョントドゥリ」と同じ曲だが、ソウルでなく全羅道地域の律房で歌われたもの。

2015年10月6日火曜日

「ノーベル物理学賞」梶田隆章・東京大宇宙線研究所長

昨日、大村智・北里大特別栄誉教授の「ノーベル医学生理学賞」受賞に続き、今日は「ノーベル物理学賞」を梶田隆章・東京大宇宙線研究所長らが受賞した。受賞理由は、「ニュートリノが質量を持つことを示すニュートリノの振動の発見」とのこと。

「ニュートリノ」と聞いた瞬間から頭が混乱する。まして、その重要さが悲しいかな、とんと理解できないのだ。小柴昌俊・東京大学名誉教授が2002年に「ノーベル物理学賞」を受賞されたときもそうだった・・・何となく素通りしていた。

この後、「戸塚洋二・東京大特別栄誉教授」の業績、「(岐阜県・神岡鉱山にある)スーパーカミオカンデ」や「ニュートリノ振動」などのキーワードについて、テレビの解説を聞いて判ったつもりになるしかないだろう・・・けれど。

「Newton」の次号を購入して、絵解き記事を見ることにしよう。「ノーベル医学生理学賞」あり、「ノーベル物理学賞」ありで、楽しくなりそうだ。

2015年10月5日月曜日

「ノーベル医学生理学賞」大村智・北里大特別栄誉教授

今年のノーベル医学生理学賞は、日本の大村智(さとし)・北里大特別栄誉教授(80)らが受賞した。大村氏の業績は、「回虫寄生虫によって引き起こされる感染症に対する新たな治療法に関する発見」とのこと。

ノーベル賞については、いつも聞くたび初めて知ることばかりだが、今回は日本とは余り縁のない風土病の患者を救っている医薬品の研究に対してのようだ。微細な遺伝子工学が華々しい今どき、研究を理解できないがゆえに一見地味に見えるが、これからテレビの解説を聞くたびに業績の偉大さを知ることになるだろう。

ご自身の口から、「人のために(役立つ)研究をする」という、子どもたちにとっても大きな道標となる素晴らしい業績だ。


(追記1)
スポニチの記事「受賞の大村さん ノーベル財団インタビューに『私はラッキー』」(10/5)に、次のような逸話を紹介している。
├-----------------------------------------------------------
・大村さんは、放線菌の一種が「エバーメクチン」という有用物質を作ることを見つけた。大村さんは「微生物が重要だとの信念は正しかった」と感慨深げに振り返った。
・発見の現場は静岡県のゴルフ場近く。(ノーベル)財団側から経緯を聞かれると、大村さんは笑いながら「ゴルフが好きだからと思われるでしょうが、コースの芝の上ではなく、コース脇の木立でした」と答えた。
-----------------------------------------------------------┤

(追記2)
初めて社会へ出たときの経歴が、その後の研究への視点を定めたのだろうか。(Wikipediaより)
├-----------------------------------------------------------
1954年 - 山梨県立韮崎高等学校卒業後、山梨大学学芸学部自然科学科へ進学。
1958年 - 山梨大学学芸学部自然科学科卒業。大学卒業後は理科教諭として東京都立墨田工業高等学校定時制に勤務。
1963年 - 東京理科大学大学院理学研究科修士課程修了
1963年 - 山梨大学助手
1965年 - (社)北里研究所入所
・・・・・
-----------------------------------------------------------┤

(追記3)
NHKテレビによると、農家のあとを継ぐ予定だった高校時代に、盲腸で入院したとき、父親から大学への進学が許されたという。

2015年10月4日日曜日

丸木橋

先日、伊豆下田の高根山鉱山に鉱物採集に行ったとき、どうということない小川に架かった小さな橋を渡った。丸木を束ねたもので、一本橋でないにもかかわらず、丸木というだけで足が一瞬すくんだ。

昔、どこだったか、小さな沢(≒小川)だが深くえぐった急流で、そこに架かる一本の丸木橋を渡ったことがある。同行者はすいすいと渡ってしまったのについていけないのだ。丸木を見るだけで足がふらつき、途中で立ち往生するに決まっていると予感した。

付近で一本の大きな枯れ木を探し出し、それを杖代わりにして川底に突き刺し、カニの横歩きのようにすり足して、3点を支えに渡った。2速歩行を断念したのだ。帰りはどうしたかって? そう、遠回りして川筋の上流にある橋を探したわけだ。元の位置に戻るのに苦労したのはいうまでもない。果たして、同行者と落ち合えるだろうか心配した。

バランスをとるのは難しい。支点の置き場所に困るのだ。自身が支点になると思っても、足元がぐらついていたら、絶えず支点を移動させなければならない。そうなると自信もなくなる。丸木橋の上は、まさに瀬戸際で、頼りになるものは体力しかないのだから。

今日は久し振りに、地元飛行場を一周し、大きな霊園を抜けて、川辺に続く公園を巡った。これで体力がついたかどうだか。地に足がつく大事さを感じた。

2015年10月3日土曜日

イ・ソンヒの「世界中が眠りに落ちた後から」

イ・ソンヒの12集所収の「世界中が眠りに落ちた後から(온 세상 잠든 후부터)」(2001年)は、雪景色の中に終わりを告げる物語りを歌う。どこか遠くから伝わるような荘厳で、絶対的な孤独の響きがする。

「一晩中雪が降ってきました。世界中が眠りに落ちた後から/悲しい私の心もわからぬまま朝はくるでしょう。・・・」

心のままに世界があったら、留まりつづけるかもしれない。夕べがあり朝があること、四季があること、もしかしたら幸いなことかもしれませんね。

この曲を、なぜか以前のこの時期にも選んでいた、冬が来る前に。

(Youtubeに登録のCool Kidに感謝)

2015年10月2日金曜日

谷村新司のShowTime [チョー・ヨンピル編]

1984年、イ・ソンヒが「江辺歌謡音楽祭」でデビューした同じ年、谷村新司は、韓国で現在「歌王」あるいは「国民歌手」と呼ばれるチョー・ヨンピル、香港のアラン・タムの3人と共にアジアの音楽祭「PAX MUSICA」の第1回を東京で開催した。谷村新司は、盟友となったチョー・ヨンピルと久し振りにソウルで対談をしている。

(本ブログ関連:”チョー・ヨンピル”)

その内容は、東日本大震災の直後、NHK-BSの「谷村新司のShowTime [チョー・ヨンピル編]」*(2011年4月16日)で放送された。(* : ブログ「チョーヨンピルファン」に感謝)

対談を通して、チョー・ヨンピルの音楽に対する真摯な態度を知ることができる。そして、音楽家として、時代の同伴者として、その立ち位置とスケールの大きさを教えてくれる。

(Youtubeに登録のHyunWoo Yoonに感謝)

2015年10月1日木曜日

(雑談) スマートフォンと本と情報

先日、都心に映画を見に行った帰り、電車の出入り口付近に立っていると、スマートフォンを手にした客が次々乗り込んできた。驚いたことは、おじさんたちまでがだ。

混んだ車内で、スマートフォンをながめる必然性があるのだろうか、いぶかしんだ。それとも、手持ち無沙汰で、暇つぶしからだろうか。回りのみながスマートフォンを手にしている光景は少々異様だった。不思議なこと、新宿駅からがらりと客が入れ替わったのだ。今度は本や新聞を読む客が増えてきたのだ。ほっとしたのはいうまでもない。ようやく、見慣れた昔の姿に戻った。

そうはいっても、5人も集まれば4人はスマートフォン、1人はガラケー、あるいはそれも持たないといった時代だ。でも、おじさんは取り残されたといった気後れはまだない。

ところで、一般家庭の(教育関連を除く)情報・通信費用は、どれくらいかかっているのだろうか。費用対効果について、1年分集計して考える必要性があると思うのだが。

TV(NHK)新聞固定電話携帯電話(スマフォ/ガラケー)×n人インターネット回線費+・・・+書籍(週刊誌)

相当な額を使って世情を知ることになるが、そんなに賢くなったような気がしない。