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2013年10月31日木曜日

残った林檎は6分の1

月の銀の林檎、太陽の黄金の林檎、永遠に摘むことはできないけれど、わが家の台所では冷蔵庫の中で冷たいリンゴが待っている。皮が硬くてちょっと酸っぱいが、サクッと丸かじりすると口中に果汁がほとばしる。

林檎一個を一年に見たてて、芯を通して縦に6等分に切ると、今年は残すところ6分の1しかないことに気付く。あっという間の一年だったな。ゆっくり賞味したろうか、がつがつ貪ったろうか・・・月や太陽に値するというのに、もったいないことをした。

今宵、たそがれにさまよう悪霊、死霊たちが一暴れするかもしれないけど、でも新しい年を迎えられるならしかたないのだが、林檎はまだ6分の1残っている。そう6分の1も残っているのだ。

リンゴをかみしめながら、イ・ソンヒの13集所収の「リンゴの木の下で(사과나무 아래서)」(2005年)を聴こう。リンゴの味は、甘いのか、酸っぱいのか、それとも苦いのか。

(本ブログ関連;”イ・ソンヒの「リンゴの木の下で」”)

(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)

なぜハロウィン

この時期、ハロウィンがメディアにとりあげられるたび、置き場がないというか落ち着き場所の定まらぬ感覚にとらわれる。人生長いと、様々な行事が次第に既定になっていくのを見てきたが、異質さに馴染むのはなかなか容易でない。若ければあっさり受容してしまうのかもしれないが。

ハロウィンは現在、あくまでも商業的なイベントを超えていない。多分、お盆のような宗教的なものと結びつくことがあるわけではないので、風習になるには時間がかかるだろう。その意味で、クリスマスは家族の結びつきを確かめる最早風習に近い。そして、義理を含めてバレンタインはハロウィンより先行している。

ハロウィンのちょっとおどろおどろした雰囲気を知ったのは、米国のブラッドベリ(Ray Bradbury, 1920年8月22日~2012年6月5日)のSFファンタジーの短編集を読んでからのことだ。その頃は、日本でのハロウィンはまだ文字の世界で語られたものだったはず。映画などで見る光景ではあったので、全く知らないわけでもなかった。

(本ブログ関連:”ハロウィン”)

だから、ハロウィンに強い拒絶感はないけれど、ちょっと気になる点がある。ハロウィンのデコレーションに使われる小物もそうだが、全体的な色彩のトーンとして、あのオレンジ色はどうだろう。日本の色使いではないと思うが。
とはいえ、わたしたちの色彩感覚もだいぶ変わってしまっている。そう、アウトドア用品やその衣料品を見れば分かるが、深緑色や青紫色などがすっかり定着してきている。アメリカ発の色彩感覚がそのままとりいれられている。

2013年10月30日水曜日

イ・ソンヒ 「朴景利 ブック・コンサート」

イ・ソンヒは、今月31日に催される「朴景利 ブック・コンサート」に出演する。ファイナンシャルニュースの記事「文学と音楽の調和... 『朴景利 ブック・コンサート』 開催」(10/29)は次のように報じている。(江原=ニュース1、クォン・ヘミン記者)

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・「土地(토지)詩朗読会」が主管し、「朴景利文学公園」が主催する、「朴景利 ブック・コンサート」が今月31日午後7時に、江原道原州市の朴景利文学公園内の野外ステージで行われる。

    (注) 朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)、作家、小説「土地(토지)」で著名。
    (資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供

・「朴景利 ブック・コンサート」は、小説家朴景利の文学を伝えたり、彼女の知己を特別ゲストとして招待して文学の世界についての話を聞いたり、音楽演奏を通じて秋の夜の叙情を感じることができる行事だ。今回のブック・コンサートには、文芸評論家チョン・ヒョンギ、小説家キム・イジョンが出演してトークイベントを行い、声楽家クォン・スンハン、テギ(태기)舞踊団の扇舞、ミカ-ウル(미가 울)民謡、フランスの詩人ロスリンの詩朗読、バク・ヨウンオのクラシックギター演奏などが用意されている。

・また、歌手イ・ソンヒ、ムン・ケジョンが歌謡舞台も披露する予定だ。朴景利文学公園の関係者は、 「文学と音楽、舞踊が融合した行事で、全国の朴景利の作品を発表し、地位を高め、秋の叙情を感じることができるだろう」と明らかにした。
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2013年10月29日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 金剛山

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/23)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第28回として、朝鮮半島の太白山脈中央に位置する金剛山(クムガンサン、금강산、最高峰毘盧峰は標高1,638m)について紹介した。

まず四季の変化と金剛山の美しさについて次のような説明から始まった。
・四季折々の変化がはっきりすると人々は自慢する。幼いころから、春夏秋冬を感じて育ったためだ。今の時期、高く、真っ青な空をながめると、風景を分かち合いたいと思う。ソウルを囲んでそびえる山々は、真っ赤に染まった紅葉が目に飛び込む。一生を終えて散り行く物悲しさも加わり、花より美しいと言えるかも知れない。
・昔から、美しい山と川を「三千里錦繡江山(삼천리금수강산)」と呼ぶ。その中で最も美しいとされるのが金剛山だ。古来、多くの詩人や画家、ソンビたちが一度は訪れるべき場所として知られる。

▼「金剛山打令(금강산타령)」を聴く。悠々とした景色を眺めてか、とてもメロディアスに聞こえる。

次に金剛山に遊んだ李穀の「東遊記(동유기)」から次のように紹介している。
・高麗時代(918年~1392年)末期、李穀(イ・ゴク、이곡、1298年~1351年)は、ある秋の日、金剛山を訪れた感動を次のように記している。

「秋にこれから金剛山を遊山にでかけようと、天磨嶺を越えて山の麓で一夜を明かし、朝早く寝床で食事をした後、山に登ると、雲と霧に覆われて薄暗かった。人々が言うところによると、『秋に金剛山に行った人が、雲と霧のため、何も見られずに戻ってくるることが多い』という。共に来た者たちは、みな真剣に黙黙と祈りつづけた。5里ほど行くと、陰った雲が徐々にうすくなり、そこから日の光が漏れ出してきた。『お辞儀峠』に差し掛かったとき、空は明るく、空気も澄み渡り、山の明るさが一段と映えて見えた。1万2000ともいわれる峰を一つ一つ数えることができそうだった。この山に来る人はすべて、必ずこの峠を経由する。峠を登りきると、人々は山を眺めようと、首を下に傾ける。自ら意識しなくとも、この峠では、お辞儀をするかのように頭を下げることになるのだ。このような理由から、この峠は『お辞儀峠』(절재)と呼ばれている」。

今はこの金剛山も人々の想像の中にしかない。

▼「金剛仙女(금강선녀)」を聴く。ちょっと、ソ連映画の音楽のよう・・・今様である。

最後に、鄭敾の「金剛全図」とそこに記された詩を次のように紹介している。
・金剛山を描写した古い絵もたくさん残り、最も有名なのが朝鮮時代の画家、鄭敾(チョン・ソン、정선、1676年~1759年)の「金剛全図」だ。ある冬の日の、寒々しい峰の連なる風景を力強く描き、一角に自ら詠んだ詩が書かれている。
・「岩山は何輪もの蓮華の花のように連なり白い光を放っている。またその横には松の木が茂り、道をつくっている。たとえ私の足で直接踏んでみることにしても、これから、またあまねく歩かなくてはならない場所だ。それなのに、どうして枕に寝転び、私の絵だけをじっと見つめているというのか。」。今はこの金剛山に冬が訪れようとしている。

    (注)「金剛全図」には、花崗岩の複雑な白い岩肌と多数の峰々が幾重にも描かれている。

▼「美しい国へ(아름다운 나라로)」を聴く。ミュージカル曲だろうか・・・今様である。

2013年10月28日月曜日

パティ・キムの引退公演

韓国歌謡のCDを集めだしたのは、秋葉原にあった研修センターの帰り道、電器店やCDショップを巡って見つけたパティ・キム(패티김、1938年2月28日~)のCDアルバムからだった。パティ・キムの歌う「マリア」の声量というべきか迫力にひかれて、彼女のシリーズはもちろん、ナフナ(羅勲児)やイ・ミジャ(李美子)、ヘウニ(혜은이)、ミン・ヘギョン(閔海景)などのCDやVHSを探した。当時、日本における代表的な韓国歌手はケイ・ウンスク(桂銀淑)だった。彼女の韓国歌謡からトロットを含めて様々な曲目を知った。

韓国専門書店にも足を運んで店主から情報を得たり、新大久保というよりはそれ以前のこと、新宿職安通りに面した「コリアプラザ」のCDの山をなめた。その頃やっと、イ・ソンヒのCDと出逢うことができた。もちろん、イ・ソンヒについては、CDだけでなく、LPレコードを探しにソウル地下街にある中古LPショップに出かけたことはいうまでもない。

ところで、そのパティ・キムが引退を発表したのは、昨年の2月15日のことだったが、ついに今月の26日に引退公演を迎えた。連合ニュースの記事「パティ・キム、55年の歌人生終了... "本当に恵まれた"」(10/26、イ・テス記者)は、「26日午後、松坡区芳夷洞オリンピック公園体操競技場で開かれた、公式引退公演『グッバイ パティ - パティ・キム 彼女が歌う最後の歌』」を次のように報じている。(抜粋)

(本ブログ関連:”パティ・キム”)

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「長年いつも拍手で私を愛してくださりありがとうございます。私は今、舞台を去りますが、みなさんのそばにいつも私の歌があるよう願います。」

歌手パティ・キム(75)は「ありがとうございます。グッバイ!」という挨拶を最後にマイクを置いて舞台を去った。55年の舞台人生の幕を下ろす瞬間だった。

後輩歌手のヤン・ヒウン(楊姬銀)、イ・ソンヒ、イン・スニ、イ・ウンミなどと孫たちは、先輩であり祖母である彼女に花束を渡して祝福し、客席は手を振って最後の挨拶を送った。
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パティ・キムを日本人歌手にあてはめれば、雪村いずみに当たるのではないだろうか。ともに、時代とジャンル、それにスケールの大きさが重なる大歌手だ。

最後にパティ・キムについて、彼女と吉屋潤(길옥윤)との、出会いと「別離」を知らぬ人はいない。

2013年10月27日日曜日

調布飛行場巡り

秋の陽を受けようと、野川の岸辺を巡り、緑陰の野川公園を抜けて、あわただしさもほどほどに落ち着いてのんびりとした調布飛行場に行く。

旅客ターミナルを見て驚いた。南の島のつながりを感じさせるローカル色が残っていたあのモルタル作りのターミナルが、大きなガラス張りの建物に変わっていたのだ。今年の4月にリニューアルしたとのこと。最近も飛行場近くに何度か訪れたことがあるのに気付かなかった。都下のローカル飛行場(都営コミューター空港)といえども、大きな施設ゆえ・・・と言い訳する。いやあ本当に知らなかった。

以前のようにロビーは狭くて暗くないので、旅行者の動きに慌しさがなくゆったりして見える。そんなわけで、ピカピカのロビーの座席に座って、わたしも旅する気分を味わって、ロビー脇に置かれた観光リーフレットをのぞきながら、新島へちょっと行ってきますという具合だ。
新島の有名な、こうが石で作った緑色のガラス細工写真を見ると、まるで橄欖(かんらん)石の緑色を思いだす。そのまま飛んで行ってみたい気になる。

しばらくの間、いただいたメールの返信など作成して、ターミナルの雰囲気にひたった後、場所を変えて南側にあるプロペラカフェの建物に足を運ぶ。こちらは家族連れで満員状態。プロペラカフェに隣接した格納庫を覗くと、次のような飛行機(ほかにも多数配置されている)が並んでいた。
・JA3187 : 高翼単発セスナ150(写真上部に翼のみ見える、見学用仕切り内側に配置の中古機のよう)
・JA9664 : ヘリコプター、アグスタA109AⅡ、ほか

ところで、カフェの席待ちリストに署名したが、あまりの混み具合に結局辞退した。帰り道は、風が吹き始めたようで、陽も西に傾きひんやりとしてきた。滑走路北側には相変わらずドルニエ機が翼を休めていた。

(本ブログ関連:”調布飛行場”)

管制塔とターミナル
プロペラカフェから覗いた航空機

2013年10月26日土曜日

地震、台風、そして感謝会

地震、雷、火事、親父・・・のことではない。

今日の日付に変わった深夜2時10分頃、緩やかな揺れが始まった。いつまでも続く振動が次第に強度を増していくのではないかと不安が走る。深夜のテレビ討論番組を見ていたが、画面に地震速報のテロップが流れない・・・急いで他局を見ると、福島県沖に地震が発生したと表示していた。

気象庁の地震情報は、「福島県沖(牡鹿半島の東南東290km付近)で、震源の深さは約10km、地震の規模はM7.1と推定」とのこと。気象庁によればわが家の震度は「2」だが、不安感を含めると「3」ぐらい・・・だ。

しかも、テレビは繰り返し「津波の注意」を報じた。討論番組のテーマと心配が重なる。

一方、その襲来を恐れていた台風27号は、思いの他平穏であった。進路は当初の予想より南側にずれたような気がする。

過ぎてしまえばホッとする。何事もなかったように終わるが、そんな自分自身に不思議を感じる。恐怖に敏感でも忘れることは速い。地震も台風すら忘れがちだ。

ところで今晩、久し振りに都心に出た。

お世話になった先生を囲んで感謝会を開いた。こちらは、わたしたちの興味と関心を集中的に導いていただいただけに、すぐにご恩を忘れるようなことではない。教えていただいたことを大切に守って、今の高揚を忘れずに更に前に進みたいと思う。
ご指導いただいたL先生と、お礼の会の音頭をとっていただいたK氏に感謝。

2013年10月25日金曜日

歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せる女性歌手

JKSTARS.COMの記事(10/24)は、昨年10月に調査した、若い世代が「歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せる女性歌手」として選んだ中に、歌手イ・ソンヒの名をあげている。
記事は、関心となる歌手を見つめる、若い2030世代(20~30代)と中年の4050世代(40~50代)ファン層の見方(世代観)について解説している・・・のだが、ここではイ・ソンヒにかかわる部分だけ焦点を合わせ抜粋する。感謝。

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メンズウェアの代表ブランド第一毛織ギャラクシーが、「世代を越えて世代に(Generation to Generation)」との変わらぬ価値を伝える「タイムレス・クラシック」キャンペーンを展開して、昨年10月の世論調査専門機関のOPENSURVEYを通じて、「世代を超えても変わらない価値」について調査した内容によれば、4050世代に最も愛される女性アイドルグループはシスターだった。

また、2030世代は「歳月が流れても変わらない実力を誇る歌手は誰ですか?」という質問に、女性歌手ではイン・スニ(인순이)、イ・ソンヒ(이선희)、イ・ウンミ(이은미)を選択し、男性歌手ではイジョク、ユン・ミンス、キム・ゴンモを選んだ。

この調査は、(2012年)10月4日から5日まで、(韓国)国内に居住している、2030〜4050世代の500人を対象に実行された。

「おじさんファン」、 「おばさんファン」などはもう知らない単語ではない。4050世代は、積極的にアイドル文化を享​​受しており、逆に2030世代は、これまで活発に活動している中堅歌手たちの音楽に触れ、親の世代が感じる香りに共感する。音楽を通して世代間のギャップが狭くなっているのである。

一方、2030世代は「歳月が流れても変わらぬ歌唱力と高い音楽的完成度を見せて依然として実力を誇っている女性歌手は?」という質問で、
・1位(36%)に、イン・スニを挙げた。
・2位(23.5%)は、小さな体躯でほとばしるエネルギーと歳月を重ねる声色のイ・ソンヒが占めており、
・3位(19%)は、「私は歌手だ」などで完成度の高い歌唱力で大衆に感動を与えるイ・ウンミが選ばれた。
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(Youtubeに登録のBong Jae Kim、doll4021に感謝)

2013年10月24日木曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「3.宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第3回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの幼い頃の祖父も含めての家族愛や、「音域の広い」彼女の声が「父から受け継いだ」と語る影響について・・・知りたかったことだ。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[3] 宗教家である父と、自然とともに過ごした幼い子供
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私が三歳になった年である1966年、両親は私を連れて忠南(忠清南道)の保寧からソウルに移住した。初めての定着地は城北区三仙洞だった。

当時、父は大韓仏教「一乗宗(일승종)」の宗会議員と同時に、仏教音楽「梵唄(범패)」の伝授者であった。

    (注) ネット上で、イ・ソンヒの父親の所属宗派を「太古宗태고종)」と記されることがあるが、この記事から(当時)「一乗宗」が正しいようだ。なお、「一乗宗」の正式な成立は1969年とされ、この年に大法院裁定により韓国仏教の最大宗派となる「曹渓宗(조계종)」と「太古宗」が正式に分離している。
    (注) イ・ソンヒの家族が保寧から転居したソウルの城北区内に「一乗宗」の一乗寺がある。
    (注) 一乗宗の「主な宗団機構は宗正の下、宗務全般を掌握する総務院、糾正(きゅうせい)機関である監察院、議決機関である宗議会などがある。」
    (注)「梵唄」については、「太古宗」との関連がネット上で話題にされることが多い。

父の身分が僧侶だったために、所属寺院が変わるたび、わが家は引越し荷物を荷造りしなければならなかった。

そうするうちに、私は仕方なく国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。友人とちょっと付き合うだけで、校歌を覚え歌うことができるようになると、私はまた間違いなく見知らぬ学教に転校しなければならなかった。私も知らぬうちに性格は内省的に沈んでいった。

ときおり近所の子供たちとケンカをすると、その悪童たちが必ず私の父をあげつらった。「僧(중)」がどうしたといいながら。朴景利(パク・キョンニ、박경리、1926年~2008年)先生の小説「土地(토지)」で、年齢の幼いキルサン(길상)が悪童に「僧」と冷やかし受ける気持ちを十分に理解することができた。

    (注) 韓国仏教における妻帯の問題は、歴史上の課題でもあった。⇒ ”韓国仏教

自然に私と同じ年頃の子供たちと一緒に過ごす時間が減り、周りの山、木、花、鳥そして風と親しくなった。

(ちなみに)ネパールに「導師」が多いのは、両親が仕事に出て行った後、一人で自然に接して成長した子供たちが多くてとか? とにかく私は木と草に群がる虫たちと話をして育った。

もちろん幼い時からひたすら叙情的で思索的だったことは決してない。森の古木の木の上に綱をぶら下げてターザン遊びをして時間の経つことが分からなかったし、休みになれば田舎の祖父の家に行って明け方から川岸のフナを(網で)すくいてあげた。また、真夜中に近所の野菜畑を堀り散らしに行くマクワウリとスイカ荒らしで、蚊に刺されていることも分からなかった。

ソウルではひょろひょろしっぱなしの私だったが、田舎に行ったら全身に力が湧き、敏捷で活き活きするようになった。

ソウルでも、やはり父について移動も何度もしたが、行く所ごとに常に鬱蒼とした森があった。父の勤め先(?)である寺はたいてい山の中にあるのだから。

ところで日曜日になると、悪い鳥捕りたちが空気銃をかついで「私の森の中」に狩猟にきたりした。
彼らが去った後、かわいそうにも死んだ鳥が数匹ずつ散在していた。
私は、目に映りしだい死んだ鳥のために墓を作った。墓の上に小さな木の枝で十字架を作ってさした。

ところが、まさにその木製の十字架のために、寺にいらした僧侶たちにひどい目にあったことがある。仏さまを祀った寺院のあごの下に、どうしてあえて十字架を差し込むことができるかということだった。そこまで考えが及ぶことができなかったことではないが、さりとて私の腕前で「卍」の字形を作ることは到底できなかった

私の子供時代の思い出は、祖父と父から始まる。

私の考え方や価値観に大きな影響を与えた宗教家としての父、そして特に私だけを心からも愛してくれた私の祖父。

懐かしさは、明け方の山腹を取り囲んで染み入る雲であり、灰色がかった舗道の上に溶けて落ちる白い雪であり、激しい風の末に立っている弱い木の枝だ。

会いたくて懐かしい祖父. その祖父は私が中学校2年の時に亡くなった。だが、あなたのその実直だった姿はまだ私の両目に浮かぶ。

祖父は田舎に住んでいたが、いつもソウルの我が家に来てくれて何月も留まったりした。そのたびに、祖父は古物の自転車を引いて下校時間の2時間前から校門の前で私を待ってくださった。

自転車の後ろの席に座って帰宅する気持ちは喜びそのものであった。祖父は明け方のたび、私を連れて泉(薬水)の汲み場に行った。昔も今も、明け方の静かな泉には騒々しいちびっ子の出入りは禁忌視されているけれど、私だけ祖父の「こね」のおかげで、近所の老人たちが掌握していた泉でも自由にできた。

休みのたびに田舎の祖父の家に行けば、祖父は一日中私の手を握って、野原で山で、歩きながら無数の昔話を聞かせてくださった。

田舎の家の裏庭にある竹で「洞箫(퉁소)」(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで「ユッ」(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。

    (注) ユッは、ユンノリ(윷놀이)遊びに使う。

祖父と私が散歩に出て行くたびに、祖母は袋いっぱいニンニクとネギを満たして祖父に渡したりした。祖父はそんな生ニンニクとネギが好きだった。

あちこち歩き回って脚を休ませようとすれば、祖父と私はニンニクとネギを食べた。口の中がとてもヒリヒリしたら、地面の穀物の穂を拾ってモグモグ食べながら。

考えてみれば、何の科学的根拠もないが、その時そんなにたくさん食べた生ニンニクが私の大きく高い声(高声)の源泉ではないだろうか・・・。

祖父は当時、日毎に変化した時代の潮流とは塀を築いた方だと父はいった。

伽耶琴(カヤグム)と唱を楽しんだ、常に高尚な人(ソンビ)としての風流が好きな方だった。また、外来の文物に対してはほとんど本能に近い警戒心を抱いておられたので、父を新式の学校に送るのは不合理な話だったようだ。

新しい学問に接する道が塞がってしまった父はそれでも何かを学ばなければならないと決心し、ある日さっさと単身寺に入られた。山寺で仏教思想の奥深さ(玄妙)に夢中になった父は永遠に仏と共に生きていく心を決めたという。

父の仏心は家族には薄情と感じられるほど敬虔だった。そのせいで母は家と寺の間を上がり下りするのに、気苦労、体の苦労が非常に激しかった。

父の仏心は、ある夏の日、土砂降りのようにあふれた豪雨で水騒動が起きた時、そしていつだったか、私の不注意で山火事を起こした時に如実にあらわれた。

国民学校の低学年の時だったと記憶している。だから70年代初期ぐらいだ。あまりにも引越しをたびたびすると町の名前もぼうっとする。三仙洞か敦岩洞か、もしかしたら論硯洞か新林洞なのかも分からない。

とにかくその時も、父は家の後方にある山中の寺にいたし、私たちの住居は山麓にあった。

その年の夏、数日をおいて空があいたように豪雨が降った。寺は高い山中にあるのでこれといった水害にあうわけはないが、ふもとにあった我が家は途方もない水騒動を体験しなければならなかった。

谷川があふれると、いつのまにか真っ赤な黄土水が家の前の梨畑を襲って中庭に迫った。母はあわてて木板などをごちゃごちゃ集めてイカダに似たものを作った。私と弟はあたかも渡し舟に乗っているような気分で、恐ろしさはおろかかえって楽しいだけだった。

その瞬間、寺から息を切らして走って降りてきた父が庭に入った。子供の目にも父の顔に心の余裕がない表情を読むことができた。「ああ、母と私たちが心配になって来たんだな。」

ところがそうでなかった。父は部屋に入るやいなや祭器、蓮の提灯、窓戸紙など寺で使う物を取りまとめ始めた。薄情だった。母性愛と父情の間にはそのように大きい差があるのだろうか?

その夏の水騒動に続き、その年の晩秋には「火事騒ぎ」があった。

深い山中の寺刹も人の住む所だと、毎日毎日ゴミがでた。ゴミを一度に捨てに下山することはできないことなので、たいてい寺近くの空地でゴミを燃やしてしまったりした。

今考えれば、乾いた落葉の覆いかぶさった山中で火をつけることがどれくらい危険千万なことなのか、めまいがするが、とにかく出たその日のゴミの山に燃料を入れて火をつけると、火は風に乗って広がり山の3分の1ほどを焼いてしまった。山火事はたまたま降った雨で消えた。

火が広がる兆しが見えるやいなや、私は遁走を決めた。突然怖くなったためだ。怒られるのが恐ろしくて家にも入れぬまま、夜12時まで雨が降る晩の秋山の中で寒さに震えた。

家で私を探しに出た気配も全くなかった。結局、寒さと腹ペコということと山の獣の鳴き声にこれ以上持ちこたえることができなくて家に入った。

父は鞭を持って私を待っていた。翌日、明け方まで私は涙がにじむように鞭で打たれたし、一場の訓戒(その場だけの戒め)を聞き終えた後、はじめて母の懐で寝つくことができた。

幼い時の父は、私に常に「恐ろしい人」だったが、音域の広い私の声は父から受け継いだようだ。

今でも父の声は素晴らしい「響き」を持っている。朝早く、目覚ましの音には起きられないでも、父の咳は家族全員を起こすほどで、たまに友人の方々を連れて家に来られる時も、「ここが我が家です」という声が家まで聞こえてくる。強いてベルを押す必要がないのだ。
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2013年10月23日水曜日

霜降 2013

今日は、二十四節気の「霜降(そうこう)」。牛肉の「霜降り」とは関係ない。曇天とはいえ、まだ夏の余韻が残っており、おまけに台風の運ぶ南からの暖湿(壇蜜ではない)のせいで、まだまだ霜や木枯らしが訪れる景色ではない。

(本ブログ関連:”霜降”)

それよりも台風の方が気掛かりだ。台風27号、28号と次々押し寄せてくる。27号が28号をはじく形になったが、その27号の影響が心配だ。

しかも、この27号と28号の互いの干渉によって、予想外の動きも考えられるという記事がネット上に見受けられたが・・・。

ということで今週は、空模様が次第によろしくない。といって、早めにやっておくこともないけれど。

2013年10月22日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 稲刈り

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/16)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第27回として、稲刈り(벼베기)について紹介した。(先々週10/9は「ハングルの日」特別番組のため休止している)

まず、「米」に対する思いや共感の言葉の紹介から次のように始まった。
・咸敏復(ハム・ミンボク:함민복、1962年~)の詩「肯定的な飯(긍정적인 밥)」の初めに、「詩、一遍に三万ウォンでは/余りにも少ないのではと思いながらも/米二升だと考えたら/すぐに温かい飯となる」とある。農作業を経験したり、親の農作業姿を見たりすれば、この一節に共感できるのではないだろうか。
・昔の人は「飯が天(밥이 하늘입니다)」と考え、米を収穫するまで八十八の手が掛かると言われた。現代は技術が発達して、米はもちろん他の穀物も大量生産が可能となったが、生産者の思いは今も変わらないだろう。

▼南道民謡の「農夫の歌(농부가)」を聴く。ネットに朝鮮時代の歌とも・・・どこか洗練された歌い方・・・現地録音盤を聴きたいけれど贅沢かな。

次に米作りについて次のように解説された。
・米一粒の重さは、0.2ミリグラムほど。この一粒を作るために、農夫は春から秋まで休みなく働く。空から眩(まばゆ)い太陽の光と恵みの雨が、地には様々な微生物が、米作りを助ける。米一粒が農民の重みであり、宇宙の重みであるという言葉が、決して誇張されたものでないと感じ取れる。
・今この時期、稲刈りが最終段階に入ったところだ。例年に増して暑い夏、それだけに穀物の成長も良かった。実りを収穫する農民は、働く体は辛くとも、心はこの上ない幸せを感じているだろう。
・最近は収穫作業も機械化し、稲刈りから脱穀までその場で行うが、昔は人手で、鎌を使って一つ一つ稲を刈り取った。短時間に刈り取るためには、村中が一斉に駆けつけて働かなければならない。大勢の村人が集まって働くとき、農作業の合間に取る間食を女性が中心に準備し、子供もマッコリ運びにかり出されたという。

▼全羅北道金堤郡の「稲刈り唄(벼 베는 소리)」を聴く。いいなあ、汗臭いフレーズの繰り返しに一気に引き込まれる・・・こうでなくては。

最後に、のんびりした時代の農村風景が語られた。
・村中総出で刈り取った稲は3、4日間、田んぼの上に広げて乾燥した。さらに藁一束ずつまとめ、立てた状態で10日ほど乾かした後、庭に運んで脱穀作業を行った。一年の農作業の集大成が、無防備に田畑に広げられていたわけだが、昔は稲が盗まれる事件はなかった。農家の実りは、いつの時代でも喜ばしいものと言える。(今はいろいろやかっかいなこともあるようだが)

▼「告祀徳談(고사덕담)」を聴く。なんだか楽しくなる、めでたい・・・体も揺れるよ。

2013年10月21日月曜日

イ・ソンヒの「クデヨ(貴方よ)」

聞くたびに心地よい歌がある。イ・ソンヒの5集所収の「クデヨ(貴方よ、그대여)」(キム・ポムニョン作詞/作曲)もそうで、このブログに何度も記してきた。
この詞に、「貴方(그대)」と「あなた(당신)」があって、文字で情感を区別したけれど・・・。

(本ブログ関連:”クデヨ”)

貴方よ  貴方よ  わたしの手を支えてください
今日もわたしの心は  さまよっています
月明かりのない夜を  歩いています
雨降る道を  歩いています
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ  貴方はいったいどこで何をされてますか

貴方よ  貴方よ  わたしの気持ちをわかってください
今日もわたしの心は  あなたしかない
星明かりのない夜を  覚えていますか
その時のその思い出を  覚えていますか
あなたの愛が必要です
あなたの愛を待ちます
貴方よ  貴方はいったいどこで何をされてますか

(Youtubeに登録のkoreanballadsに感謝)

2013年10月20日日曜日

今日は一日中雨

今日は朝からしとしと雨が降り、こういう雨を「地雨」といっていいのだろうか。歳時記には、この言葉が載っていないけれど、季節の要素はないのだろうか。

この雨の中、隣り街に出かけた。晴耕雨読?の結果を試しに行ったわけだが、はたして慈雨となるのか、涙雨となるのか。

雨といえば、おじさんには、八代亜紀の「雨の慕情」、イ・ウンハ(イ・ウナ、이은하)の「春雨(봄비)」なんかいいんだけどねえ・・・。

小雨の降り続く帰り道に、小さな駅前食堂で「カツどん」を食ったが、果たして効果があるだろうか、間に合っただろうか。

(Youtubeに登録のColumbiaMusicJp、류명진 류に感謝)

2013年10月19日土曜日

一日分の野菜

どういうということもない話・・・一日分の野菜を盛った「野菜たっぷりちゃんぽん」なるものを食った。

隣町での用事が済んで帰り道、ちょいと寄ってみようかと思い、寒空のした足を向けた。ちゃんぽん一杯で一日分の野菜が摂れるなら、それにこしたことはない。ところが、運ばれてきたものを見て驚いた・・・それが凄いのなんのって、けたたましい量の野菜が盛られていて、その下に麺が沈んでいたのだ。しばらくは野菜を掻き分けて、どんぶりの奥底から探し出すようにして麺を食った。

注文を聞きに来た店員さんから「餃子もいかがですか」といわれたが頼まなくてよかった。胃袋にそんな余裕はない。汗をかき、時間をかけて腹をさすりながら食った。最後の頃にはちゃんぽんを食ったのか、ちゃんぽん味がする野菜を食ったのかわからなくなった。

野菜を摂取するのはいいことだ。けれど、一日分を一度に食べるのはきつい(当たり前だ!)。いいことだからといって、無茶はいけない・・・ものごとにはほどほどがある(当たり前だ!)。反省。

2013年10月18日金曜日

女性審査委員の不在

Kstyleの記事「『SUPER STAR K5』に続き『K-POPスター3』まで、女性審査委員の不在・・・“その理由は?”」(10/9、キム・ギョンミン記者)は、韓国のオーディション番組における女性(歌手)審査員不在の現状を報じている。ここでは、唯一女性審査員としてイ・ソンヒおいてほかに人材がいないという点について語られた部分だけ記す。

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・・・このようにオーディション番組の審査委員から女性歌手たちが外される理由は何だろうか? 放送関係者は、審査委員として出演できるような音楽的なキャリアはもちろん、知名度とバラエティセンスを兼ね備えた女性歌手の不在を理由に挙げている。

実際、最初に女性審査委員を投入した「SUPER STAR K」は新しいシーズンが始まる度に出演歌手たちの審査委員資格議論が起こった。参加者の音楽的な実力を評価できるような歌手が審査委員を務めているのかという問題だった。

女性審査委員を投入して唯一審査委員資格議論とならなかったのは、MBC「偉大なる誕生」のイ・ソンヒぐらいであった。女性歌手を代表する知名度を持つシンガーソングライターが韓国の音楽業界にはあまりいないというのが現実である。

・・・
しかし女性歌手がオーディション番組から排除された2013年の音楽業界はもちろん、最近デビューした女性歌手の場合、芸能事務所で徹底的に作り上げられる現在の音楽業界を見れば、今後数十年は審査委員を務められるような女性歌手が現れるのは期待しにくいというのが韓国音楽業界の大きな問題である。
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(本ブログ関連:”シンガーソングライター”)

2013年10月17日木曜日

石への幻想

石の不思議さを古来ひとびとはどう幻視したり幻想したのだろう。もしかしたら、新しい見方なのかもしれない・・・ということ。

実は、中国東晋時代の「捜神記」(竹田晃訳、平凡社東洋文庫)に、古代の人の石に対する想像力が、動物や人間などに対するよりも意外に乏しいように見受けた。もしかしたら、石の伝承に対して選者(干宝)があまり関心がなかったともいえるけれど。

だから、石の中から笑い声が聞こえたり、石が馬に変化(へんげ)するというような不可思議さを感じる(「奇談の時代」(百目鬼恭三郎、朝日新聞社))には、石の持つ抽象性を咀嚼したうえで、時代を経て可能なのかもしれない。石の隙間から雲が湧き出たり、その姿からひとを虜にする審美を気付くまでには、幾重に重ねた物語つくりの力が必要なのだろう。

しかし石を見る目も、分類と細分化、つまり博物学的な知の独占を経て固められてしまったため、今となってはその隙間に幻想の入り込む余地もなく、むしろ宇宙への想像に向けられる。

2013年10月16日水曜日

台風26号

台風26号は、太平洋上エネルギーを満喫しながら、好き放題に強風と強雨を撒き散らして関東に接近した。薄明かりの朝方5時過ぎに雨脚はいっそう強まり、ときどき唸り声あげて家を揺らす。

気象庁は警戒呼びかけのため、新たに「これまでに経験のない~」という表現を使うようになり、天候の脅威が深まるなか、今回「10年に1度の~」という強烈な但し書きがつけられた。気象表現が強まれば強まるほど、庶民には自然への無力さが増す。とはいえ、テレビの現場レポートは冷静である。

地元地域について、Weathernews(06:38現在)は次のように解説している。
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大雨のピークは7時頃までですが、外出危険な暴風のピークは10時頃まで。雨が止んだ後も昼前まで外出は控えて下さい。また、朝は交通機関に大きな影響が出る見込みです。
※増水した河川や用水路は大変危険です。近づかないようにして下さい。
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前回の台風20号(9/6)のときも強烈だったことを思い出す。20号の強風が夜闇に襲った不気味さと比べて、今回は朝方明るくなる中でのこと、ちょっと気分が違ってきて、余裕が出るのは不思議だ。

さて、この程度で? 7時頃にピークを迎えるのならばいいのだが。
・・・どうやら、このままでおさまりそうだ。(07:00)
・・・おやおや、07:10頃から上空でしきりに風が唸り、吹き寄せる。このまましばらく様子見だな。
・・・昼前に、いつもと変わらぬ空模様に戻った。

(追記)
KBS WORLDが毎週放送する「国楽の世界へ」を聴取して、その内容と感想を週遅れで記しているが、先週(10/9)は「ハングルの日」記念番組のため休止した。

(追記)
伊豆七島(伊豆諸島)最大の島である大島に、前線停滞による集中豪雨の結果、多数の犠牲者が出た。

2013年10月15日火曜日

台風26号接近

昼過ぎ小雨がぱらつき、夕方には本格的な雨に変わった。雨脚はまだ穏やかだが、この後台風26号の強風・強雨が関東地方を襲う予想。その規模は、10年に1度の勢力とのこと。雨戸を閉めて台風に備える・・・それしか打つ手がないのだ。

TBSニュースは次のように報じている。(10/15、13:05)

首都圏を「10年に1度」の勢力の台風が襲うおそれ
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台風26号について気象庁が記者会見を開き、台風が(明日)16日朝、関東地方に最も接近すると予想される点について、首都圏を「10年に1度」の勢力の台風が襲うおそれがあるとして、厳重な警戒を呼びかけました。

「(関東に接近する台風では)ここ10年くらいで最も中心気圧が低いこれほどの台風は久しぶりなので警戒が必要」(気象庁予報部予報課 内田裕之主任予報官)

気象庁は、台風26号が16日朝、中心気圧が960ヘクトパスカルと非常に低い状態で関東地方に接近すると予想されることについて、2004年10月に東海地方や関東地方などに大きな被害をもたらした台風22号を例に、「首都圏を『10年に1度』の勢力の台風が襲うおそれがある」と表現して、厳重な警戒を呼びかけました。
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不気味さがます。刻々と迫る台風襲来、待つのはいやなものだ・・・悪い想像が働いてしまう。

2013年10月14日月曜日

体育の日2013

今日は祝日「体育の日」だ。久し振りに小金井公園を散策する。公園広場には、おさなごを相手にする若い家族連れが多い。陽射しも暖かくよい、小さな子どもたちのはしゃぎ声は更によい。

1964年の「東京オリンピック」開催日が10月10日だったことから「体育の日」として祝日となったが、前週末土曜日から3連休になるよう、10月の第2月曜日を祝日とした「ハッピーマンデー制度」(2000年)のおかげで、今年は今日がその祝日になった。(Wikipediaより)

(本ブログ関連:”1964年”)

で、体育の日にちなんで何かしたかというと・・・公園をぐるりと回っただけ。公園内の「江戸東京たてもの園」に寄って、同収蔵品による「武蔵野の歴史と民俗」展を見学する。正直、常設に近いもので、すでに何度見たことのある展示物だが、ちょっと気になったものがある。

観音塚古墳(東京都大田区)出土の水晶製切子玉(きりこぎょく)、碧玉製管玉および丸玉だ。特に硬度7の水晶を、縦長に中央を膨らませるように面切りした形に磨き上げている切子玉に興味を引いた。鉱物採集で、石英を叩くとき、その硬さに閉口するのに、水晶を面加工するなんてどれほど手間取ったことだろう。その時代、石職人がいて(儀式や埋葬品などの)宝石の加工も手がけていたのだろう。

そんなわけで「体育の日」の今日のんびりと、体を使わすに過ごした。

2013年10月13日日曜日

イ・ソンヒ「あなたが私を愛されるなら」

イ・ソンヒの7集に所収の「あなたが私を愛されるなら(그대가 나를 사랑하신다면)」(1991年)は、美しい旋律に載せて呪文のように、もしそうならばと仮定を繰り返す・・・そうなればよいのに。でも恋の歌としては想い続けるしかない、その方が押し寄せる情感が広がる。

彼女が、2011年2月3日のカーネギーホールのコンサート曲目に選んだように、この曲は元気溌剌とした少女から、しっとりとした女性をイメージさせる変曲点となるべきものだった。

(本ブログ関連:”カーネギーホール”)

(Youtubeに登録の여행 숲속に感謝)

2013年10月12日土曜日

10月の真夏日(更新)

昼間、ジャケットの下を半袖シャツにして外出の暑さをしのいだが、額にじわじわ汗が滲んだ。しかし天気予報の通り、夕方には横風が地面を這うように吹いてきて、秋の深まりを思い知らされる。

天頂に雲一点ないのに、陽の沈んだ後わずかに明かりを残した西の空に、灰色の雲がうねうね横たわり、まるで連山のような雲間から巨人が覗き見しているようだ。暑い夏の終日なら、そんな気にはならなかっただろうけど、秋風の後ろに冬の到来を思うと、自然の振る舞いに既に負けていることに気付く。

ところで、昨日(10/11)都心の最遅「真夏日」を更新したばかりというのに、今日再更新したと時事通信(時事ドットコム)の記事「真夏日、最も遅い記録更新=東京都心で31.3度-気象庁」(10/12)は次のように報じている。
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・北海道付近の低気圧に向かって、南から暖かい空気が流入した影響で、12日も関東地方で気温が上がり、東京都心では最高気温31.3度を観測した。1875年の統計開始以来、最も遅い真夏日となり、11日に更新したばかりの記録を塗り替えた。
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暑いのはうんざり、けれど涼しいのはさびしい、そして寒いのはもっといやだ。今も外では、風が吹き止まずにいるよ。

(本ブログ関連:”10月の真夏日”)

2013年10月11日金曜日

10月の真夏日

秋分の日(9/23)は遠に過ぎたというのに、今日の暑さは秋であることを忘れさせる。温暖化が進んでいるとはいっても、秋となればヒンヤリすることもあって、一度はストーブをつけたというのに、季節がすっかり逆戻りしたよう。

朝からじわじわ暑さが増して、熱気のこもった2階から1階へ退散し扇風機をまわす。クーラーをいれるほどではないが、外出すれば長袖シャツの袖口がピッタリはりつく。額の汗は止まらない・・・これでは夏じゃないか。

読売新聞の記事「都心で最も遅い真夏日…1875年統計開始から」(10/11)によれば、今日は都心の観測史上最も遅い真夏日になったという。
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・日本列島は11日、太平洋高気圧に覆われて各地で気温が上昇し、東京都心は午後1時過ぎ、30.0度を観測した。
気象庁によると、東京都心では1875年(明治8年)の統計開始から最も遅い真夏日となった。

・これまでに東京都心で真夏日が最も遅かったのは、1915年に31.3度を観測した10月9日だった。
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そんなわけで暑い一日だった。夜になっても、熱気が部屋に残っている。外は、きっと落ち着きのない秋の夜空なんだろうな。

2013年10月10日木曜日

イ・ソンヒの「天使は泣かない」

木管の序奏で始まる、イ・ソンヒの4集所収「天使は泣かない(천사는 울지 않아요)」(ソン・シヒョン作詞作曲、1988年)は、端正に4拍子をきざみつつ、次第に高揚するように歌う。女学生ファンの心理に応えた、愛への興味と同時に健全さを併せ持つ。天使に託して、夜から朝への転換、そして永遠をめざすとても前向きな響きがする。

このアルバムが発表された年は、ソウルオリンピックが開催され、ひとびとは明るい朝陽を浴びていたことだろう。

ちなみに、同アルバムには、彼女の代表曲となる「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」(ソン・シヒョン作詞、キム・ミンジョン作曲)が収められている。ともに、無垢な想いを感じさせる歌である。


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2013年10月9日水曜日

記憶力

今に始まったわけではないが、つまり最初からよかったわけではないのだが、歳とともに記憶力が後ずさりする。歳は増えても記憶力は減るだけ。

最近のタレントさんは、例えばAKBについて誰一人わからない。そんなとき、名前さえ知れば、画像検索とYoutubeで情報を得ることができる。テレビで以前見かけたのなら記憶をよびさませるし、初めてならこういうイメージなんだなとわかる。

ところで、歌手は歌詞をどうやって覚えているのだろう。スタジオなら、譜面台やプロンプター、あるいは手書きカンペのようなもので見ることができるだろうけれど。
ライブの場合、しかも持ち歌でないものを歌うときはどうだろう。ステージの前縁にディスプレイが数台斜めに置かれているのを見るが役立てているのだろうか。・・・歌手に、一言のもとに否定される顰蹙もので、失礼なものいいかもしれないけれど。

実は、イ・ソンヒが「島の赤んぼう(섬집아기)」をテレビのトーク番組で歌っていたが、そのときの歌詞が微妙に違っていて笑いをとっていた。こんなふうに記憶違いも笑って済ませればいいのだが。

2013年10月8日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 世宗

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/2)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第26回として、朝鮮時代の王であった世宗(세종)大王について紹介した。

まず、世宗大王の人物について次のような説明から始まった。
・ソウルの光化門広場に世宗大王の銅像がある。朝鮮時代第4代の王である世宗大王(1397年5月7日~1450年5月18日)は、1443年ハングル(한글)を考案し、その3年後ハングル作成の目的と原理を記載した「訓民正音(훈민정음)」を公布した。当時朝鮮国内で中国の漢字(漢文)が使用されていた中で、同書にハングル創作の理由を次のように記されている。
「わが国の語音は中国とは異なり、漢字と噛み合っていないので、愚かな民たちは言いたいことがあっても書き表せずに終わることが多い。予(世宗)はそれを哀れに思い、新たに28文字を制定した。人々が簡単に学習でき、また日々の用に便利なようにさせることを願ってのことである。」(Wikipedia:訓民正音

▼「国文余興(국문뒤풀이)」を聴く。「ハングルを学ぶ過程を歌にしたもの・・・ハングルの並びが歌詞となっている」そうだ。・・・国楽のどこに位置づけられるのかな、のどかでのんびりと聞こえる。

次にハングル文字の原理と作品について次のように解説された。
・ハングル文字は唯一、創設者と、その日時、原理まで明らかにされていて、訓民正音の解例本はユネスコ世界記録遺産に登録された。そのハングル文字の原理は、民のために作られたために、5つの基本子音と3つの基本母音の組み合わせからなる理解しやすく、記号のようだが、簡単、かつ科学的な原理が元になっている。
世宗大王は(命じて)、朝鮮建国を綴った(ハングル文献の)楽章、叙事詩である「龍飛御天歌(용비어천가)」や、釈迦の教えをまとめた「月印千江之曲(월인천강지곡)」など、様々な文学作品を残した。「龍飛御天歌」はその歌詞が音楽として現代まで残されていつ。

▼管弦合奏の「與民樂(여민락)を聴く。荘厳な響きがする・・・それにしても洗練されている。

最後に、世宗大王にかかわるイベントについて次のように紹介された。
・世宗大王は音楽の分野にも多くの関心を寄せた。当時、政治と音楽には密着な関係があると考えられた。世宗大王が直接、木の棒で地面に印を付けながら作曲したといわれる「宗廟祭礼楽」は、現在も毎年5月の第一日曜日に、宗廟祭礼を行う際に演奏されており、ユネスコ人類の無形文化にも登録されている。
10月9日は「ハングルの日」で、今年から再び祝日とされた。

▼「私たちが望むわが国(우리가 원하는 우리나라)」を聴く。コラボというか、ショスタコもさぞや・・・今様である。

2013年10月7日月曜日

イ・ソンヒの童謡「青い心 白い心」

イ・ソンヒの童謡集「愛唱童謡(애창동요)」(1993年:9曲+9曲)」に、「青い心 白い心(파란 마음 하얀 마음)」(魚孝善作詞、韓龍煕作曲)が収録されている。日本の唱歌にも通じる、夏と冬の季節と色合いを心に浮かべながら歌う。この歌は、日本の教科書にも載ったことがあるそうだが、現在どうなっているのだろうか。
Youtubeに、イ・ソンヒ自身の歌声が収録されたものが見つからないのは残念だ。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの童謡集”)

この曲について、東京書籍の東書WEBショップには、次のような解説がある。
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・1957年に韓国国定教科書に収録されてから子どもたちの間で広く歌われるようになった童謡です。1950年の朝鮮戦争の時期には,放送局の企画で「明るく美しい歌を歌おうキャンペーン」が繰り広げられ、その中で制定されたうちの1曲です。
清楚ですがすがしく、青く澄み切った空のように美しい気持ちを歌ったこの曲は、多くの韓国の子どもたちの間で歌われ、今日に受け継がれています。歌詞は韓国語の現地読みと日本語歌詞と両方載せています。3拍子の流れにのって明るい声で歌いましょう。隣国である韓国の童謡に親しむ意義深い曲です。    
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2013年10月6日日曜日

イ・ソンヒの「因縁」

久し振りに、イ・ソンヒの13集「四春期」(2005年)所収の「因縁(인연)」を聴いてみよう。映画「王の男(왕의 남자)」(2005年)に使われたといわれるが、実際は映画中で(サウンドトラックとして)使われたわけではないという。同映画未見のため確認したわけではないが、別にミュージックビデオ(MV)風に使われだけのようだ・・・であるから、今後も同映画の鑑賞予定を立てていない。

「因縁」のタイトルについては、他に「絆」とか「縁」などがある。すなわち、東洋の生命観である輪廻的な縁(えにし)をベースに歌っている。今は叶わぬことでも、因縁があればいずれ出逢うこともあるかもしれないという期待を・・・。

(本ブログ関連:”因縁”)

(Youtubeに登録のsoya iに感謝)

2013年10月5日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「2.私が三歳も若く生きることになった理由」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された、イ・ソンヒ27歳当時の「スター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第2回目をここに載せたい。感謝。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[2] 私が三歳も若く生きることになった理由
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小さいことは美しいんですって?
わたしは背が小さくて、
あなたはわたしを見おろしているじゃない。

まるで、小さな子どもを相手にするように、
あなたはわたしを子ども扱いする。
けれど、わたしは大人よ。

それでも、あなたの前ではどうしようもありません。
胸がドキドキするのに、
顔が赤らむのに、
何の文句を言うことができないのです。

大きくなりたいです。
あなたの心の中で。
あなたの寝ついた間に、こんなに大きくなって、

朝になったら、あなたは見つけるでしょう。
手に負えないほど大きくなってしまったわたしを。


私の自作詩「小さな不満(조그마한 불평)」の全文だ。

私は(陰暦)1964年11月11日忠清南道保寧郡珠山面篁栗里257番地に生まれた。

父(이종규、54歳)、母(최병문、.52歳)は、私が最初の子供なのでそれとなく息子であることを期待したようだ。

更に母の胎夢は唐辛子畑で草取りするものであり、父は裏山で虎が家の垣根の中に入ってくる夢を見たので、内心息子であることを確信したという。

    (参考)「(資料)胎夢

「唐辛子」は言うまでもなく、「虎」も勇敢な男児の象徴だから、息子を望んだのもそれほど無理はなかったと思う。

いずれにせよ私は女の子で世の中に出てきて、山の神を意味する虎の夢のために、私の名前には、神仙の「仙」が入るようになった。

    (参考)イ・ソンヒの漢字名は「李仙姫」である。

娘が生まれただけでも残念なのに、新生児のときの私の姿は、それこそまともに一人前に用を果たすことができるかと疑がわれほどに、「姿」が言葉にならなかったという。両親によると、頭の大きさが体の正確に2倍だった。

私の戸籍上の生年月日は、1967年3月10日である。出生届は3年も遅れたのだ。
書類上は、この世で3年の間、存在していなかった他ならぬ私であり、みれば自然に色々な憶測も多かった。

    (参考)修正届けの遅れは、後の彼女のソウル市議会議員選挙立候補で問題となった。

未熟児なのですぐに死ぬと早合点をして、最初から出生届を先送りしたとか、あるいは戸籍上には64年生まれになっているが67年生まれのふりをして通しているとか・・・。

不本意ながら、なんと三歳も若返ることができた根本的な原因は、祖母と父との間の「コミュニケーション上の錯誤」だった。

その時も今も、常に寺と家を行き来している父は、私が生まれた直後に再び入山した。寺に入った父は、祖母に出生届けを頼んだので、当然戸籍に登載(登録)されていると考えていて、祖母は、昔の田舎の老人たちが当然そうであるように、うっかり忘れていたという。

そのせいで67年に生まれた私の弟も、私の戸籍上の年齢に合わせて出生届を1年遅らせなければならなかった。

大学卒業後、繊維芸術系で働いている弟は、私のために一才ほど減ってしまったことを返って幸いに思っている。 1年の浪人の末に大学に入ったが、各種の書類上は明らかに私の年齢で入学したわけだ。
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2013年10月4日金曜日

(資料)胎夢

韓国の伝承に、婦人が受胎する前後に見る夢(胎夢、태몽)の内容によって、産まれる赤子の男女の区別ができるという。「韓国の男児選好とその問題」(李京銀、杏林大学院「大学院論文集」、2003.3 Vol.1)に、次のような紹介がある。
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・(韓国の)ある婦人が受胎する前後に、婦人自身あるいは夫人の母、姑などの親族が見る夢を胎夢という。
・夢の中でも、竜、蛇、鶴、牛、馬、亀などの動物の夢は男児を産む夢として知られ・・・その他、桃やリンゴなどの果物および花の夢は、女児を産む夢として知られている。
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イ・ソンヒの場合、母親の胎夢で「唐辛子畑」が見られたようで、男児が期待されたという。

AMAZONの商品説明に「唐辛子の意味は・・・ 韓国では昔から家を守るため、特に男児の出産を願うアイテム」なんていうのもある。

ちなみに、唐辛子の形には男児につながるイメージがちょっと浮かぶような・・・かわいらしい。

2013年10月3日木曜日

江戸の残党

岡本綺堂の「綺堂むかし語り」に十歳頃の思い出として、維新後に生きたかつての武士と思われる人物について小文がつづられている。

「市ヶ谷(いちがや)辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人」だったが身を落とし、おでんを担ぎ売りに来る男がいて、岡本綺堂の父親と挨拶するのを見たという。子どもながらに、「普通の商人(あきんど)とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。」

あるいは、「四谷伝馬町(よつやてんまちょう)の通りには幾軒の露店(よみせ)が出ていた。そのあいだに筵(むしろ)を敷いて大道(だいどう)に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻(しきり)に字を書いていた。」・・・「その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許(いくら)かの銭を置いて行ったものである。」
そして、父に渡された二十銭紙幣を、いわれるままその男の前に置いて一目散に父のもとに戻ったという。・・・「父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。」

もちろん、新政府によろしく身を寄せたものもいるだろうけれど、「明治十五、六年の頃」でも、器用に生きることのできなかったもの、心に傷を負ったままのものもいた。そして彼らは、その寿命とともに歴史に埋もれた。

2013年10月2日水曜日

イ・ソンヒ 「HIDDEN SINGER」に出演か

サムスンと名目上分離関係にる韓国代表紙「中央日報」傘下の、総合編成チャンネルテレビ局「JTBC」の番組「HIDDEN SINGER(히든싱어) シーズン2」に出演が期待される歌手に、イ・ソンヒがあげられていると、「アジア経済」(10/1)が報じた。
なお、同シーズン2の放送は、10月12日夜11時予定されている。

「HIDDEN SINGER」は、カーテン越しに隠れている本物の歌手と5人のものまねシンガーとが歌を競いあい、聴衆100人がラウンドを重ねながら歌い手を次々ふるい落していくという、生き残りゲーム的な展開だ。見たことはないけれど・・・Youtubeで「HIDDEN SINGER」と検索すれば、大体の様子が見当つく。今まで知らない面白そうな番組構成だ。

同シーズン1では、本物の歌手がそれぞれ優勝している・・・当たり前かな。

2013年10月1日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 広大

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(9/25)に、文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第25回として、大道芸人の広大(クァンデ、광대)について紹介した。

まず、広大といわれた人々の紹介から次のように始まった。
・広く大道芸人を指す広大とは、現代の西洋式サーカスのピエロが思い浮かぶが、伝統的な広大は、人々の行きかう通りで楽器を演奏したり、仮面を被って踊った男寺党牌(ナムサダンペ、남사당패)の一団や、綱渡り(チュルタギ、줄타기)を見せたり、笑い話などを聞かせた漫才師たちがいわれた。広大には、パンソリの歌い手も含まれる。朝鮮時代末期、パンソリをまとめた申在孝(신재효、1812年~1884年)は、「広大」という歌を作り、パンソリを歌う広大の条件を示し、「一に人物、二に語り、三に声、四に身振り手振りが必要」と歌っている。

▼短歌「広大歌(광대가)」を聴く。パンソリの重要なキーワードの語りが・・・でもリズムが優先する。

次にパンソリ歌い手に求められる条件を詳しく次のように説明された。
- 「一に人物」は、生まれながらの外見を指す。見目形がいいことよりも、人を相手とするため、好感が持てる顔だったり、様々なパンソリの役に当てはまる、平凡ながらも自在に表情を操れる顔が広大にふさわしい。
- 「二に語り」は、大衆を相手に話したり歌ったりするため、語り上手でなければならない。
- 「三に声」は、パンソリの歌い手としてふさわしい、完成された声を指し、自身の芸事が境地に達した広大にふさわしい声をいう。
- 「四に身振り手振り」は、場面に応じて表現豊かに演じ、登場人物になりきる広大の動きに関する条件だ。
パンソリは一人劇、一人芝居と言われる通り、歌い手にどのような姿が求められているのか想像がつく。

▼パンソリ「赤壁歌(적벽가)」の中から「長承打令(장승타령)」を聴く。随分とドラマチックに聞こえてくる。

最後に、広大の伝統と現状について次のように解説された。
・広大は、人々に笑いや余裕を与えるものの、昔は常に低い身分として差別された。自ら望んで広大になるよりは、引継がれる家業のように伝わった。冷遇された身分ながら、広大たちは練習と訓練にいそしみ、芸を磨きようやく人々の前に立ち、パンソリを伝えることができた。
現在、5大パンソリに発展したのも、こうした広大の努力があったからだ。広大の精神は、国楽が大衆の趣向に合わない現状でも、若い国楽家に伝えられている。

▼「ノモガンネ(넘어갔네)」を聴く。何気ない日常のように、甘く柔らかなフレーズが耳に残る・・・今様である。